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女たちの世話役

 トイレに駆け込んで嘔吐する。


 食い物のことしか考えられない。とにかく食いたくて仕方がない。


 溶けかけのぬらぬらとしたチョコレート、ねばねばでギトギトのヌガー、グチョグチョでベタベタの生クリーム、それら魅惑のブツを口許にたっぷり付着させたたまま、拭いもせずにああ一心不乱に貪りたい。


 だがそんな甘い誘惑に身を任せた結果が、この惨めで無様なリバースだった。


 バー・ソウエンのトイレにはどぎつい芳香剤の香りが充満していて、そこへ嘔吐物の匂いが混じると、甘ったるい生臭さがにわかに鼻先まで立ち上る。その毒々しい異臭にまたしても吐き気を催すという悪循環だった。


 なるべく音を立てないよう速やかに吐き終えると、便器の底にわだかまる嘔吐物をすぐさま流して、スプレー式の消臭剤を徹底的に噴射する。何事もなかったかのようにトイレを出た。


 仕事中は控えなければならないとわかってはいても、過食の衝動に抗えない日は多い。俺は狭いカウンターの中に滑り込むと、いつものように娼婦たちの相手をする。


 時刻は午後八時、店内にいる女たちは十人くらい。人目を避けるようにひっそりと佇むこのバーは娼婦たちの隠れ家だった。近年は政府の取り締まりも厳しくなり、摘発される店が後を立たない。


 シクロ唯一の歓楽街である光明路、その最奥部に位置するソウエンは、バーの体裁を取ったもぐりの売春斡旋所だった。ごく稀に普通のバーと勘違いして紛れ込む者もいるが、基本的には待機所として利用する女ばかりだ。


「お願いしていい?」


 カウンターの真ん中に座っていた寧々が、そう言って俺の眼前にその白い手を突き出してくる。俺は彼女の手を取って爪を磨いてやる。いつものことだった。


 ソウエン唯一の従業員として一人で店を切り盛りするのが俺の仕事だが、待機中の娼婦の時間潰しに付き合うのもその一部だった。女たちの世話役のようなものだ。


 十六歳の時に家を出て、住み込みで働き始めてから1年半ほどになる。アル中の父親には一年前にいくらか金を渡したきり会っていないし、母親はもう十一年も前に男を作って行方知れずだった。


 俺が爪磨きの合間に片手で煙草を咥えると、寧々が慣れた手つきで火を差し出してきた。


 寧々は光明路の娼婦の中でもとびきりの美女だ。憂いある眼差しといい、しなやかな身体つきといい、彼女の容姿は多くの男たちの欲求をかき立てずにはおかない。俺だって以前はそんな男たちの例に漏れず、彼女に性的な魅力を感じていたのだが、今じゃそんな感覚も失ってしまった。


 でもそれは別に彼女のせいというわけじゃない。何しろ俺は今や女全般に対して苦手意識や漠然とした嫌悪感すら抱いている。


「もうほんと毎日がいやになるわ」


 寧々の仕事や生活の愚痴を聞きながら適当に相槌を打ち、決まりきった台詞を返す。


「ねえ結己ゆうき、私の気持ち、わかるでしょう?」

「わかるよ」


 その一言で寧々は満足したようだった。今日もやり過ごせたことに安堵する。これまでに築いた関係の成せる業だが、女というのは気まぐれな生き物だから油断はできない。


 もし俺が答えを持たないような問いかけが寧々の口を飛び出したのなら、俺は彼女の期待に応えられないだろう。役不足、俺はいつもそれを恐れている。俺自身の感情や気持ちなんて誰も聞きたくないし求めてない。俺の演じる役割が必要とされなければ、俺は価値のない人間に成り下がる。


 別の娼婦がカウンターに腰掛けて、いかにも退屈しのぎといった風情で俺たちの会話に耳を傾けている。ちょうど寧々との会話が途切れたところだった。


「客からの指名、次はきっとあんただよ。俺、勘がいいんだ」


 声をかけてやると娼婦の表情が解れた。好意から言ったわけじゃない。ただのご機嫌取りだった。


 女の相手をしながら吐き気を覚えることは間々あるが、それが慢性的な過食によるものなのか、女に対する嫌悪感からなのか、自分でも判然としなかった。


「そういえば近頃、見慣れない男たちが店をうろついてるでしょう? 今までこんなことなかったわ」


 寧々がふとそんなことを口にした。この店で俺以外の男の存在はひどく目につく。店を見渡すが今は女ばかりで男の姿はない。


 娼婦のプロフィールや料金設定、システムなど必要な情報はウェブサイトに掲載していて、指名にせよフリーにせよ予約はメールもしくは店用の携帯電話に入ることになっている。客と娼婦が落ち合うのは店外と定めているから、この店に客が来るということはまずない。


「俺たちの日常はもう壊れ始めてるってことじゃねえの? 今までとは違うさ」


 毎日がいやだと言うのなら、こんな非日常はちょうど良いだろ? そんな本心は胸中に仕舞っておく。寧々の右の爪を磨き終え、左手を差し出すように促した。


()()までもう三日だものね」

「近頃は期日に備えて本土の人間が増えてきてる。どうせ何も知らない奴らがバーと間違えて紛れ込んだんだろ。今までだってたまにはあった」


 政府の取り締まりの奴らかもしれないと疑いはしたが、期日まで間もないこんな時期に動くほど向こうも暇ではないだろう。そう考えて男たちのことは放っていた。


「期日を迎える準備、お前は進んでる?」


 期日にまつわる話題は、近頃ではお決まりの世間話だ。本音を言えば興味なんて微塵もないが、このネタを振っておけばまず会話には困らない。


 寧々はおもむろにバッグから一万円札の束を取り出して、カウンターの上に置いた。ざっと見ても二、三十万はあるだろう。


「お小遣いもらったの。新しい生活の準備金に充てるか、最後に豪遊するか迷ってるわ」


 寧々は特に面白くも無さそうに言うが、これは彼女の癖だった。感情の露出が少ないのである。娼婦に相応しからぬ特徴だが、まるで人形のようなその風情に煽られる客も少なくない。


「随分と上客だな。それともまたスクープか」


 何でも寧々の知り合いにゴシップ記者がいて、情報を高額で買い取ってくれるらしいのである。寧々はそれで小遣い稼ぎをしている。全く彼女は容姿だけでなく金儲けの才能にも恵まれているのだ。


 ちなみに寧々の情報源は彼女自身を可愛がってくれる客たちだった。彼女の客には本土からわざわざやってくる物好きなエリート層が多く、寧々は彼らからこっそり情報を盗み出しては売り捌いている。その行為が彼らの社会的地位を脅かすことになったとしても、彼女の構うところではないのだろう。


「半分は情報料だけど、もう半分は彼方かなたよ」

「……は?」


 耳を疑った。彼方というのはソウエンのオーナーであり、俺の雇い主である。話を聞けば、寧々は彼方から明後日までの店番を頼まれたとのことで、これはその報酬らしいのだった。


 店番とは一体どういうことだ? それは俺の仕事なのだし、しかも寧々が渡された金というのは明らかに俺の月給を超えている。寧々が店番をしてる間、客を取れないからということなのかもしれないが、それにしても酷すぎる話だった。


 だが彼方の頭のネジの緩みぶりを考えると、この金額の差異におそらく他意はないだろう。要するに単なる気分に違いない。


 ちょうど寧々の爪を磨き終えたところだった。携帯が短い着信音を発する。店用のではなく私用の方だった。懐から取り出してディスプレイを見やれば、彼方からのメールだった。


『僕の部屋まで来て。話があるんだ』


 彼方に呼び出されるなんて初めてのことだ。あまり良い予感はしない。俺は大袈裟に紫煙を吐き出してから、すっかり短くなった煙草を灰皿に押し付ける。


「彼方が呼んでる。行ってくるよ」


 寧々が相変わらずの無表情でひらひらと手を振った。店用の携帯を彼女に預けて、従業員用の裏口へと向かう。


 正直なところ彼方とは顔を合わせたくなかっま。何しろ俺の過食癖を知る唯一の人間なのだ。


 一度だけ、自室の食べ物を切らしてしまった時に、営業時間外の誰もいないバーで冷蔵庫の中身を食い漁っているところを見られてしまったことがある。


 ひた隠しにしていた弱みを握られているようなものだ。それ以来、俺はずっと彼方を避け続けている。

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