彼女が俺を守った理由
俺とラビは裏口から店の外に出た。表で足音がしたため外の様子を窺ったところ、ちょうど遊弦の後姿が見えたのである。まだこの辺りをうろついているのだ。
裏口を出ると、目の前は隣接するアパートの通路に繋がっていた。シクロでは無数のビル群が複雑に絡み合い、独特の景観を呈している。
消失によって次々と失われる建築物を突貫で建て直していった結果、あまりに乱雑なビル群が形成されるに至ったのである。
隣り合うビルが渡り廊下や通路によって無理やりに繋げられ、その様相はまるでシクロ全体が一つの巨大な建築物のようだった。島外の人間からはまるで要塞のようだと形容されることもある。
俺は通路を歩きながら時折振り返って、ラビや後方の様子を伺った。正直なところ行き先はまだ決まっていないが、遊弦がうろつくこの辺りからは一刻も早く離れたい。
ラビは部屋の外の景色をまともに見たことがないようで、物珍しそうに周囲を眺めていた。
彼女が着ている生成り色のショートパンツから、色白の足がすらりと伸びている。足元は部屋履き用のスリッパだ。これも店にあったもので、爪先にはなんとも場違いなうさぎのぬいぐるみが設えられている。
こんなものしか店には残っていなかったのだが、それでも履かないよりはマシだった。スラムの路地をあれだけ走って怪我をしなかったのは幸運という他ない。
ちなみに下着については結局、身に着け方を説明させられた。ブラジャーのホックをはめる際のエア実演は、我ながらあまりに情けない絵面であり、記憶の奥底に封印してしまいたい。
俺は周囲の気配に注意を払いながら、これまでの出来事を頭の中に整理していく。遊弦から逃げるのに必死で、後先考えずここまで来たが、俺は自分を取り巻く状況をうまく把握できずにいたのだ。
まず、そもそもラビというのは一体何者なのだろう。彼女の持つ消失に酷似した特殊能力は全く魔法のようである。
だが厄介なことに彼女は過去の記憶をなくしているから、その生い立ちだとか二年前以上のことについてはラビ自身にとっても謎なのだ。
ラビ曰く、二年前に大樹エラルシディアの根元で目を覚まして彼方に拾われたらしいが、遊弦に言わせればそれは「彼方が連れ去った」ということになるらしい。
遊弦については、コクハツの人間である可能性が高いように思われた。彼方の私室に乗り込んできた襲撃者たちはあのバッジからしてコクハツに所属しており、遊弦は彼らを「裏切り者」と呼んでいた。何らかの理由によって仲間割れしたのだろう。
とはいえシクロの極貧地域出身の遊弦が、本土のエリート集団であるコクハツに所属しているというのも不自然な話ではある。しかし実際、特殊なケースとしてシクロ出身の人間もコクハツに所属していると聞く。とても堅気とは思えない仕事をさせられている点からしても、遊弦の場合は十分に特殊といえるかもしれない。
一方、彼方とラビについてはコクハツと何らかの関係があるのは明白だが、それ以上のことは何もわからないのが現状だった。
「お前はほんとに遊弦とかあの男たちのこと、知らないんだよな? 狙われる理由も、身に覚えはないのか?」
ラビは頷いた。
「うん全然……私、彼方以外の人と接したことがなかったし、それに彼方は外のことは何も教えてくれないの」
ラビから手がかりは引き出せそうもない。
遊弦や襲撃者たちの目的は何なのだろう? そして遊弦が襲撃者たちを裏切り者、そして金目当ての犬と称したことに鑑みると、遊弦のボスとは別の人間もラビを狙っていることになる。おそらくその人間にラビを渡せば金になるのだろう。
(……わけがわからないな)
考えてみたところで現時点ではこれ以上はわかりそうもなかった。情報が少なすぎる。
(じゃあ俺は──これからどうする?)
これ以上ラビに関わるのは危険すぎる、それは明白すぎる事実なのだ。
第一、この騒動に絡んでいるコクハツというのは科学技術庁の外局である。そんなものに首を突っ込むのはさすがにハイリスクだし、そもそもあの妙なハコによって消失させられる可能性さえあるわけである。
ラビが今まで俺にしてくれた行為を思えばこのまま見捨てる気にはなれないが、この騒動に巻き込まれるというのがどれほどの危険を伴うのか、あれだけ銃を突きつけられれば身に染みてわかるというものだった。
だが結論を出す前に、俺はどうしてもラビに確認したいことがあった。
「さっきはどうして俺を助けたんだ?」
立ち止まって問いかける。出し抜けだったが聞かずにはいられなかった。ラビはきょとんとして足を止める。
「だから、俺が消されそうになった時……」
説明するのだが、ラビは至極当たり前のことを言うように答えた。
「だって結己くんが消されたらやだよ」
「いや、そりゃ後味は悪いかもしれないけど、下手したらお前の方が……」
俺の母親だってエンだって、俺のことは助けないだろう。なぜ出会ったばかりの他人であるラビが、自分の身を呈してまで俺を助ける理由がある? どうしてもそのわけが知りたかった。
「でも、どうしてって言われても難しいよ。何か理由がいるの?」
ラビは困惑した眼差しを投げかけてくる。俺はそれ以上、何も言えなかった。やはりある意味、彼女は頭のネジがぶっ飛んでいるのだ。
それで結局、ラビを見捨てるという非情だが最も理性的な選択肢は、俺の頭の中から消えてしまった。
彼女と一緒に行く──案外呆気なく決断できたのは、ラビの愚直なまでの純真さを目の当たりにして、冷静な判断力が麻痺してしまったからと言えなくもなかったが、しかし俺の背中を後押ししたのはまた別の理由もあったのだ。
それはラビを助けるという新たな役割だった。「一緒に行こう」の先に行くために俺にはどうしてもそれが必要だったのだ。
幼い頃から母親の顔色ばかり窺って慰め役を演じてきた俺にとって、誰かに必要とされることは生きていくための免罪符に等しかったし、いつだってそれに縋ってきた。
もちろん俺が役不足となればお払い箱になるのは十分に理解している、母親が俺を捨てたのは要するにそういうことだったのだから。
俺を守ってくれたラビを見捨てるのが心苦しいというのは本心だし、放っておけないという気持ちだって勿論あった。だがそんな純粋な思いとはまた別の、劣等感ゆえに必要とされなければならないという強迫観念が、俺を過剰なまでに駆り立てている──その自覚はあった。
「ラビ、これからどうしたい?」
ラビを助けると決まれば、まずは彼女の意向を確認する必要がある。もし彼方のところへ戻りたいと言われたならなんて答えるべきだろう? そんな考えを巡らしていると、ラビは俺の目を真直ぐに見据えて答えた。
「おうちに帰る」
「……おうちって」
「楽園」
「……楽園ってなあ」
ため息を吐かずにはいられない。勘弁して欲しい。
「だから楽園っていうのはおとぎ話だろ? 現実じゃないんだから」
ラビは全く理解ができないといった表情で俺を見上げている。突然、言語がわからなくなってしまったかのような顔つきだった。
これ以上言っても無駄だと俺は判断し、楽園について言及するのを諦める。何とか言い包めなければならないが、さてどうしたものか。俺が思案し始めたその時だった。
携帯の着信音が通路中に響き渡る。俺の携帯だった。着信音のけたたましさに焦りつつ、懐から携帯を取り出すと、ディスプレイには『久遠彼方』と表示されていた。ラビが横から覗き込んできた。