一緒に行こう
「一緒に行こう」
母親はよく俺に言ったものだが、一体どこへ行くつもりだったのだろう。
「一緒に買い物に行こう」
「一緒にごはんを食べに行こう」
「こんな家なんて一緒に出て行こう」
様々な形となって幾度となく口にされたそれらの台詞は、しかし一度だって叶えられたことはなかった。本当に一度たりともなかったのだ。
例えばある夜のこと、俺は母親の仕事の帰りを待っていた。家に寄り付かなくなったアル中の父親に代わって、母親が水商売で家計を支えていた。
ちょうどその日は早番で午後十時頃には戻るからそれから外食に行くことになっていた。言い出したのは母親だった。その日は俺の五歳の誕生日だったのだ。
青白い蛍光灯の下、玄関を入ってすぐの部屋にあるダイニングテーブルを前に、幼い子どもにはいくらか背の高い椅子に腰掛けて、母親の帰りを待っていた。まだ床につかない足を時折ぶらぶらとさせてリズムを取りながら。俺の足が動くたびに床に映し出された影が繰り返し揺らぐ、その様子を今でもやたら鮮明に覚えている。
だが十時になっても母親は帰ってこない。十一時になっても、十二時を回っても現れない。それは実際いつものことだった。母親の行く先はいつでも男のところだ。
それでも今日こそは違う、本当に一緒に行けるのだと信じるしかなかった。何度裏切られても何度だって信じた。信じないことで自分を守る、そんなやり方さえ知らなかった。それにその日は俺の誕生日だ、特別な日なのだ。
結局、母親が帰ってきたのはほとんど午前様だったように記憶している。俺はいつのまにかテーブルに突っ伏して眠ってしまっていたのだが、母親は泣きはらした目をして俺に抱きついてきた。これもいつものことだった。酒と涙の混じり合った匂いがした。
母親はしょっちゅう泣きついて、もう自分には結己しかいないと言うのだが、その舌の根も乾かぬうちにまた新しい男のところへ行ってしまう。母親に男が途切れることはなかった。
母親が求めているのは俺自身ではなく、ただの慰め役なのだと俺はその頃すでに気づいていた。もっとも五歳の子どもにとってそれははっきりと説明できるものではなかったのだが。そして俺はその役割を演じる以外に、母親から必要とされる術がなかった。
それでもこの日ばかりは母親を慰めることができなかった。
「ずっと待ってたのに。うそつき」
そんな言葉が口をついて出た。普通の子どものように母親に甘えたいだけだった。母親にわかってほしかった。だが俺の言葉を聞くなり、母親の顔色が変わる。
しばらく沈黙があり、それから急に母親は息を短く吸い込むと、痙攣するように泣いた。すぐに激しい嗚咽になった。
額をテーブルに押し付けたまま母親は何度もごめんなさいと言った。だがその謝罪の中に俺への非難が混じっていることを、俺は明確に感じ取っていた。母親はそうしなければ生きていけないほど精神的な余裕を失っていた。
俺の心無い言葉に母親は呆気なく泣き崩れ、感情のコントロールを失った。母親の悲鳴のような嗚咽は俺の心の声だった。母親が俺の代わりに泣いていた。
俺はあの日以来、決して自分の本心を母親に明かそうとはしなかった。素直な感情を表現することへの罪悪感が芽生えていた。そして母親を傷つけた俺自身を責めた。俺は無力で、役不足なのだ。
──こんな家なんて一緒に出て行こう。そう何度も繰り返していた母親が結局のところ俺を置き去りにしていった理由は、俺が母親の期待に応えられなかったからに違いない。それで呆気なく捨てられた。母親を責めることができたなら、それでもまだ楽だったに違いない。だが、自己嫌悪が邪魔してできなかった。
だからつまり、母親が俺の手を引いて「一緒に行こう」と言ってくれなかったのは、俺が悪いのだ。それでも俺は、一緒に行けるはずだった場所、まだ見ぬその先にあるものを、ずっと夢見続けていた。
*
「わあああ消えない!」
街灯の点る光明路の入り組んだ路地裏を駆け抜け、俺とラビはフェンスに突き当たる。後方からは遊弦の足音が着実に迫り来ている。行く手を阻むこの金網を消失させたいが、またもラビの力が安定しない。
「結己くん消えないよ消えない! どうしようどうしよう!」
「ああもうわかったから!」
ラビは慌てふためき、さっき遊弦と対峙していた時の端然とした佇まいは見る影もない。いざという時には強いタイプなのかもしれないが、しかしそれを言うなら今だって十分に追い詰められている。
俺はフェンスの前、路地の脇に詰まれた木箱に足をかけて登る。不安定な足場だった。木箱の陰に隠れていた猫が慌てて逃げていく。
木箱の上からフェンスに片足をかけて、俺はラビに手を差し出した。木箱を踏み台にしてフェンスを乗り越えるつもりだった。
だがその時、俺の鼻っ面を光の弾丸がすり抜ける。距離にして五、六メートル、拳銃を構えた遊弦がすぐそこまで迫っていた。
遊弦がラビを「連れ帰る」と言っているからには、彼女が撃たれることはないはずだ。つまり消失の危険に晒されているのは他でもない俺なのである。
突然の発砲に体勢を崩した俺を支えたのはラビだった。俺たちはフェンスを乗り越えてまた走り始める。
空を切る音が数発、微かに耳に届き振り返ると、遊弦がフェンスに向かって拳銃を構え、金網の一部を消失させていた。遊弦は穴の開いたフェンスを潜り抜ける。
俺とラビは路地裏を左に折れて、光明路のメインストリートへ出た。