捨て去ったもの
失楽園の物語、その舞台は遥か昔のシクロだ。
俺たちが暮らすこの孤島のスラムはかつて、魔法と見紛うほどに高度な科学技術が発展し、同時に豊沃な大地にも恵まれた美しい島だった。現実からは遠く離れた夢のような世界、そんなパラレルワールドを舞台に、おとぎ話は幕を開ける。
島に住まう人々はそのテクノロジーを駆使してシクロを統治していた。シクロとは島の古語で楽園を意味するが、その名を冠するに相応しく、彼らにとってこの世界はまさに望むがままに動くものだった。何しろ彼らは光からあらゆる物質を作り出すことさえできたのである。
シクロの中心には「善悪を知る木」と呼ばれる大樹があった。その地中深く木の根に守られるようにして、一つのハコが存在していた。両腕を広げても抱えきれないほどの大きさのそれは、淡い光を放っていた。
人々はその存在を知っていたが、決して触れてはならないものとして認識していた。善悪を知らずとも、彼らがその心のうちに問えば、不思議なことにいつだって答えは用意されていた。彼らの心はどこまでも満たされ、完全な調和とともにあった。
だがある日、自らを蛇の末裔と名乗る者が、海の向こうからやってくる。彼の国では蛇とは知恵と賢さの象徴だった。
彼は地下に眠るハコを「知恵の実」と名づけ、どのような役割を担うものなのか島の人間たちに教えた。
「この実が宿す膨大な知識を手に入れれば、君たちは神のように強大な力を得ることができる。知りたいでしょう? 自分のものにしたいでしょう?」
人間たちは蛇の甘い誘惑に乗った。
だが彼らが知恵の実に触れると、知識を得られるどころかその暴走が始まった。それまで楽園を統べていたテクノロジーは、突如として人間の制御を跳ね除けたのである。
そして楽園は崩壊する。建築物は崩れ落ち、道路はひしゃげて断絶される。島を潤す豊かな自然も失われてしまった。こうしてシクロは瞬く間に無残なスラムと化す。
これが失楽園の物語、シクロの人間なら一度は聞いたことがあるおとぎ話だ。
俺がこの物語を知ったのは六歳になって間もないある夜のことだった。眠りにつく前に母親が子ども向けの本を繰りながら聞かせてくれたのだが、当時の俺はこの物語が言わんとすることを考えようともしなかった。
まだ幼かったからというのは勿論だが、それよりも大きな理由は、普段は俺を放置して恋人を取返え引返えしていた母親が、まるでふつうのお母さんのように同じ布団で過ごしてくれることが死ぬほど嬉しくて、それどころではなかったのだ。
だが翌朝、目覚めると母親が何の前触れもなく失踪していたその後も、失楽園の物語を耳にする機会は幾度となくあった。やがて俺は、あの夜だけは優しかった母親との思い出を持て余しながら、物語の意味を考えるようになる。
島の人間たちの一体何が悪くて、彼らは失楽園させられなければならなかったのだろう? もし神様がいるのならそれは随分と傲慢な存在だと感じたものだった。
だって知恵を得たいと願うことも、欲しいものに手を伸ばすことも、人間のごく自然な欲求であって、それがいけなかったと諭されたところで到底理解できるものではなかったのだ。
だが今なら──そう、あの女と同じ時間を過ごした今なら、ひとつだけわかることがある。
蛇に誘惑された時、もし彼らがその欲望と引き換えに、本当に大切なものを自ら捨て去ってしまったのなら、それはやはり間違っていたんじゃないだろうか。それはきっと失くしてはならなかったものなのだ。
──さて、失楽園の物語に続きがあることは、ごく一部の人間を除いて知られていない。それは楽園再生の物語だ。人間たちの手から失われた楽園を再び取り戻すのである。
だがこれら楽園にまつわるおとぎ話が作り話ではなく現実だなんて、一体どこの誰が信じるだろう。大人が子どもに聞かせるようなおとぎ話を現実だと信じているなんて正気じゃない。
しかし俺が出会ったあの女は、大真面目に俺に言ったのだ。「楽園に戻りたい。私が生まれた場所に帰りたい」と。
こうして楽園を巡る物語がまた幕を開ける。自ら捨て去ってしまった大切なものを、俺たちは再び手にすることができるだろうか。