透き通るもの
ここにひとつの石を溺愛する男がいた。
面白い事に、知らねばならぬ、特筆すべき何か重大な点はまだ見当たらない。
ただ、晴れの日に石をなで、雨の日に石を屋根の下へと置き、明日になれば石は相変わらず男のそばで転がっている事だろう。
男に必要なのは、生きるために食う飯でも、人として品のある風采でもなく、分かりやすく目に映ってくれる単純な石だけである。石はそばに在り続けた。
だからこそ、男は振り返るという所作を知ることができない。そも、背後という概念がなかった。しかし学習ができないという訳ではない。
そのための襖、例え頑丈な衝立が前に在ろうが、距離が何畳もあいていても、面倒くさがらずに、むしろ異常なほど丁寧に、ほぐして開ける才気があった。しかし、開けたところで興味を無くし、その先を求めようとしない。そういう意味では、男には前もなかった。
男は世界の流れゆく富やつまらない世論の話は、鋭くも退屈であり、雲をつかむような律動をしているために、嫌いではなかった。
故に、心の底から嫌悪していた。聞くという事をためらって、男は結局何も聞かずに、幾星霜と石をそばに置き続けた。
長い間に、季節の移り変わりが愛らしくなってきた頃、当たり前に運命は大口を開いた。
男の傍らに在り続けていた石が、見えなくなってしまったのだ。手当り次第に探すも、無い。もはや感触も、その相貌も、重さも希望さえも失してしまった。
一通り探してしまった後、不思議にも男は失せた石の在り処を探ろうとはしなかった。理由や、そして自分との関わり合ってきた日々も思い出すことなどなかった。
興味が無くなってしまったのだ。石は一瞬にして過去のものとなり、男に残されたものは何一つなかった。
無の日々が過ぎていった。
しかし、あまり間隔を挟まずに、空を駆け、移ろいゆく時の流れがこれほどに美しいものだという事に初めて気が付いた。
雲の中には目を疑うような純白を放つものもあるという事に初めて気が付いた。
しばらくして、男が初めて石と出会った峠を歩いているとき、何かを思い出させる、愛らしい石を見つけた。
悩んだのちに、男はそれを家に持ち帰り、ノミで己の名を刻んだ後、砕いて元の峠に撒いた。
そのせいだろうか。男の名を知らぬものは、世界に誰もいなくなってしまった。