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とある古本屋にて

作者:

.とある古本屋にて


..序


 走っていた。

 森の中。走る速度と同じ速度で後ろへと流れていっているはずの木々が、やけに視界に残る。

 もっと。もっと、もっと、もっと。

 息が弾むリズムと言葉を紡ぐリズムがシンクロする。

 もっと、速く、速く、速く、速く、速く。

 呪文のようにその言葉ばかりを唱えていた。

 速く、速く、速く、速く、速く、速く、速く、速く、速く、速く、速く、速く、速く。

 後ろを振り向いてはいけない。

 恐ろしい鉄の仮面をかぶったたくさんの追っ手の姿を見たら、足がすくんでしまうだろうから。

 あいつらに捕まったら、殺されてしまう。だから、逃げなくてはいけないのだ。

 速く、速く、速く、速く、速く、速く、速く、速く、速く、速く、速く、速く、速く。

 もっと速く、もっと遠くへ。息が切れる。既に手足に感覚はなく、棒切れを振り回しているかのようにも思える。安心できる場所などない、それでも走らなくてはいけない。

 生きたい。

 もっと生きたい。

 小さい手足を懸命に動かして、少年が祈るのはひとつだけだ。

 だって、まだ7年しか生きていないのだから。

 それでも小さい身体の限界は近く、意識が薄れる。姿勢が安定しなくなり、前のめりの身体はいつ地面に倒れ伏してもおかしくはない。

 ああ、もうダメかもしれない。

 その時、少年の目に一軒の家が飛び込んできた。

 考える力すら、もう残ってはいない。迷わずに飛び込む。

 そして、一番最初に目に入った人間にすがりついた。

「お願いします!僕を買ってください!」


..第一章


...その1

 目覚まし代わりにタイマーをセットしてあるMDコンポから、テンポの良い流行のJ-popが流れていた。ちょうど一番のサビの部分で、コマーシャルでも使われている有名なフレーズが意識の中に入ってくる。

 ……夢を見ていた、気がする。

 それはなんとも不思議な夢で、見ていると「ああ、またこの夢か」と思うのだが、目覚めると霧のように散ってしまう。

 ……忘れてはいけないような気がするのに。

 つかもうとしても、つかめない。そもそも何をつかめばいいのかすらわからないほどにあやふやなのだ。

 どこか懐かしい、けれどもやはり聞き覚えのない声が呼んでいる気がする。知らないはずなのに、何故かほっとする。

―――契約。

 男の声がそう告げた気がして……けれどもそれらは、次の瞬間にはすべて散っていってしまった。

 途端に感覚が現実に引き戻され、じめっとした暑い空気が那智の身体にまとわりつく。こうなると、もう夢は戻ってこない。

「またか」

 那智は一人呟いて、寝返りをうった。眠気はもうないが、起き上がる気もしない。朝の眩しい光が、カーテンも瞼も通り越して目を攻撃してくる。それが、もう何度見たかすら思い出せない、夢のもやもやと相まって、朝から気分は沈んでいる。

 不意にヴォーカルが声を大きくして、存在を主張し始めた。目覚まし代わりの曲が終盤にさしかかっているのだ。時計を見ると、まだ七時半。夏休みだというのにどうしてこんなに早く目覚ましがなるんだ、と文句を言いかけて、那智はそのことに気がついた。

「今日からまた、課外か」

夏休みだというのに学校に行かなければならないなんて憂鬱なことこの上ない。夏休みの初めに行われた前期課外が終わったばかりのような気がするのに、今日からはまた後期課外だ。しかも、これが終わればまもなく夏休みも終わってしまう。

 けれど、決められたものは仕方ない。那智はゆっくりと身体を起こすと、切なげに愛を叫ぶ声を指先一つで消してしまった。

着替えようと鏡を覗き込むと、そこには自分自身の姿が映る。それはもちろん毎朝見ている姿だ。身長は一七〇センチほど。けれど身体が細いせいかもっと高く思われることが多い。顔立ちはどちらかというと女顔で、可愛いなんてお世辞でも嬉しくないことを言われることもある。それは、紛れもない那智の姿。

今日の姿が昨日と同じであることを確認してから那智は着替えた。

階下に降りれば、ダイニングテーブルではがたいのいい男が朝食を取っていた。身長は一八〇センチを超え、体重も九〇キロ近くある。那智と血がつながっているとは到底思いがたいその人は、近くの医大に通う五つ年上の兄だ。

「おはよう、修にい」

挨拶をすると、彼はちらりと那智を見やって、顔をしかめた。返る言葉はない。

「あら、おはよう那智!今日は早いわね?」

「おはよう、母さん。たまには、ね」

代わりにカウンターキッチンの奥にいた母が那智に気がつき、声をかけた。那智は何事もなかったかのようにカウンターに近寄り、母がよそってくれたご飯と味噌汁を受け取る。そのまま指定席である兄の前に着けば、まだ湯気の立つ焼き鮭が用意されていた。和食を好む父に合わせた、いつもの朝ごはんだ。

「いただきます」

すると、それを見た修は箸を置いた。かれのご飯はまだ残っている。しつけに厳しい母に小さい頃から、ご飯一粒には七人の神様が宿っているのだから残してはいけない、と教わってきたはずの彼には、とても珍しいことだ。

「……気分が悪い」

修は顔をしかめた。そのまま隣の椅子においてあった鞄を手にして立ち上がってしまう。

那智はそれを黙って見つめた。黙って見つめるしか、出来なかった。

「ちょっと、修!まだご飯が残っているでしょう!」

立ち上がった彼に気がついた母が、カウンターから出てくる。たしなめる言葉にも耳を貸さず、修は那智を顎でしゃくった。

「文句なら、俺の前に顔を出したこいつに言ってくれ」

そうして、呆然と見つめる那智を笑うかのように鼻を鳴らす。

「気分が悪くて食事どころじゃあない。俺はもう行く」

「修!」

母が声を荒げる。それを背にして、修はダイニングの扉に手をかけた。そのまま出て行こうとして、不意に手を止める。

「そうだ」

そうして那智を振り返ることなく言った。

「お前、課外なんてどうせすぐに終わるんだろ?今日の三時までに俺の大学に来い」

「分かった、三時だね」

そうして部屋を出る瞬間、那智を振り返ってにらみつけた。

「逃げるなよ」

那智の返事よりも早く、拒絶のように扉が閉まる。

母のため息が落ちて、ふっと空気が和らいだ気がした。那智はようやく箸を取り、何事もなかったかのようにもう一度いただきますと言うと、ご飯をほおばった。

「ごめんなさいね、那智?」

ご飯を口いっぱいに入れた那智はしゃべることが出来ず、ただ首をかしげた。何が?とでもいうように。

「修のこと、嫌いにならないであげてね?」

答える言葉を持たない那智には、頷くのが精一杯だった。

ご飯も鮭も味噌汁も、大好きなはずなのに何故かあまりおいしいと感じない。それでもそれらの全てを胃に流し込むと、玄関のチャイムが鳴った。

「亜貴ちゃんね」

母が言うのに頷いて、那智はインターフォンを使わずに鞄を取り上げると玄関へ向かう。扉を開けると、そこには予想通り、ショートカットが良く似合う女の子が立っていた。少しきつい目が、那智を見ると丸く見開かれ、愛嬌のある顔つきになる。ずっとそうしていればいいのにという言葉は賢明にも飲み込んで、那智はおはようと挨拶した。

「おはよう、那智。珍しいのね、もう行けるの?」

それは、隣に住む幼馴染の亜貴だった。同じ高校に通う亜貴は、毎朝こうして那智を迎えに来る。もう何年も続いた習慣で、二人は登校だけでなく下校も時間を合わせている。

「まあな。俺だってたまには早起きするさ」

「いつもそうしてくれると、走らなくて済むから助かるんだけど?」

「考えておくよ」

それは、いつもと変わらない那智の朝だった。

...その2

課外が終わる頃には、もう二時を回っていた。普段が四時過ぎまでかかることを思えば確かに早いことは早いのだが、三時の約束は無謀だったかもしれない。

「間に合うかな〜」

那智は時計を見ながら呟いた。軽い鞄を持ち上げるも、決して急ぎはしない。

ここから三十分ほど電車に乗ったところにある修の大学に呼び出されるのは始めてではなかった。約束はいつも一方的で、そして大抵那智にとってあまり好ましい用事ではない。今更遅れたことへの小言が増えたところで、何か変わるわけでもなかった。

「那智〜?帰らないの?」

行きたくないと言うほどでもないのだが、なんとなく腰が重く、時計の針が動くのを眺めていると、教室の入り口から那智を呼ぶ声がした。振り向かなくても分かる、亜貴だ。

「今いく」

短く応じてクラスメイトに別れの言葉を投げかける。修のところへ行くといえば、きっと亜貴はついてくるだろう。那智としては助かるのだが、修がいい顔をしないだろうと思えば少し鞄が重くなった。

「今日、修にいのところに行くんだけど」

入り口で亜貴を促し歩き出してから告げたのは、その顔が変わるのを見たくなかったから。

「修ちゃん?」

視界の端に映る亜貴は眉間にしわを寄せて、難しい顔をしている。

「何しに行くのよ、修ちゃんのところになんか」

「知らないけど、呼びだされた」

「行くことないわ」

校門の前が分かれ道だ。いつもの通学路か、駅へ向かう道か。きっぱりと告げた亜貴は那智の手を引いていつものように帰ろうとする。那智は苦笑いを浮かべて亜貴の手を解いた。

「そういうわけにもいかないよ。亜貴がきてくれないなら、一人で行くしかないけど……」

少し弱気に言って見ると、亜貴は那智をきっと睨みあげる。身長差が十センチもあると言うのに、那智はその迫力に思わず後ずさった。

「那智を一人で修ちゃんのところに行かせるわけないじゃない!」

亜貴はそのまま、駅へと続く道を歩き始める。一人で行かずにすんだ安堵と、増える憂鬱。遅刻に亜貴。修が心底嫌なもの……そう、例えばゴキブリを見るかのような目をするのが頭によぎったが、那智にはどうすることも出来なかった。

そうして案の定、那智はその目に迎えられ修の研究室へと入った。

「何よ、その目は。わざわざ電車賃出してまで来てあげたのよ?ありがとうでしょう?」

那智の後ろにいた亜貴がその目に気づいて修をにらみ上げる。修は眉間にしわを寄せ、しばらく黙ってからどうもとつぶやいた。自分より五つも年下で、身長だって二十センチも違う少女に言いなりになっている兄の姿は、何度見てもおかしい。この兄は弟と同じ年の幼馴染をまるで自分の妹のように溺愛して止まないのだ。

「亜貴まで来ることなかったのに」

「ひどいわ修ちゃん、那智だけ呼び出して私は仲間はずれなの?」

「いや、そういうわけじゃないけど……」

修の目がこちらを向く。何でつれてきたのだ、と言わんばかりのその目に、那智は肩をすくめて答えた。那智が望む望まないに限らず、亜貴はついてきたのだろうから。

「古谷君、その子かい?」

部屋の奥の扉が開き、現れたのは白衣を着た初老の男性だった。修は丸めていた背をしゃんとのばし、その男に挨拶する。

「そうです、教授。彼が先日話した、稀な記憶喪失の子供です」

記憶喪失。

修の口から出た言葉に、那智はのどが渇くのを感じた。修が那智を大学に呼び出すのはその話でしかない、分かっていたのに今日は違うのではないかと期待してしまっていたようだ。

「古谷那智です。今日はよろしくお願いします」

何も聞かされてはいないのだが、那智は修が呼び出したわけを悟り丁寧に頭を下げた。

修が言うように、那智は記憶喪失であった。十年前、七歳の誕生日より前の記憶が一切ないのだ。

その日、那智は亜貴とともに出かけていたのだと言う。小学校に上がって、初めての夏休みの、最後の日。那智は市内の大型プールに出かけた。「宿題が終わったご褒美につれてってもらうの」、と言う幼馴染に便乗して。

事故があったのは、その帰りだった。飲酒運転をしていた車が対向車線から那智たちの車に突っ込んできたのだ。

助手席に乗っていた亜貴の母親はその事故でなくなった。那智もまた車から投げ出され全身を強打したが、かろうじて命は助かった。今、身体には事故の影響は何一つ残っていない。

そう、身体には。

 那智は、事故でそれ以前の一切の記憶を失っていた。

 自分の名前も、母親の存在も、仲のいい友達も、好きな食べ物も――あげく、この国の名前も、言葉の意味も、はしの持ち方も、服の着替え方も、排泄の仕方すらも。

 母はもう一度一から子どもを育てなおした。幸い、日常生活の能力はすぐに取り戻し、那智はすぐに学校に復帰することができた。

けれども、そのときにはもう那智は変わってしまっていた。性格、話し方、食べ物や服の好み、趣味、特技……何一つ、記憶を無くす前と同じことなどなかった。

 唯一つ、身体を除いて。

「ふうん、見た目には何も変わったところはないがね」

教授は那智をなめるように見回した。その目はいやな目だ。那智を人としてみていない目。彼にとって那智はきっと、研究の材料でしかない。

「事故で人格が入れ替わったのだろう?まあ、それはたいしたことではないが」

たいしたことではない。その一言に、那智は修の顔色が変わるのが分かった。それをあからさまな態度に出したりはしないが那智には分かる。修は怒っている。

当然だ。修は、那智の記憶を……もっと言うならば、昔の那智を取り戻すために、こんな大学にまで来てしまったのだから。

那智が事故に遭うまで、修は亜貴だけではなく、むしろ亜貴以上に弟である那智を溺愛したのだと、よく聞かされる。けれど那智が知るのは、那智を冷たい目で見下ろして、お前なんか、と繰り返す修だけ。それは記憶を失い変わってしまった那智を責める目だ。

「でも、エピソード記憶だけでなく、意味記憶まで失ってしまったことは興味深い」

教授の好奇心をむき出しにした目が痛い。

「一部、手続き記憶まで失われたようでした。例えば、トイレで排泄が出来ずに垂れ流したり、箸でを使えず手でものを食べたり……」

那智は顔に血が集まるのが分かった。それは確かに事実ではあるのだが、人に知られて楽しいことでは決してない。ましてやここには亜貴も居るのだ。

「ほう、それは珍しい!君、ちょっとそのときの事を聞いてもいいかな?どうしてトイレに行かなかった?ズボンやパンツを脱ぐことも出来なかったのか?」

「ちょっと!」

ぶしつけな質問に、声を上げたのは那智ではない。亜貴だ。

「なんてこと聞くのよ、那智の気持ちにもなって見なさいよ!」

怒りをあらわにして教授の前に迫り、那智をその背にかばう。亜貴はそのまま修に視線を向け、修をもにらみ上げた。

「修ちゃんも修ちゃんよ!何てこと言うの!信じらんない!」

にらまれた修はかがみこみ、亜貴と目の高さを合わせた。大きな背を丸める姿は少し情けない。

「こ、こら、落ち着け、亜貴。これは那智の記憶を取り戻すのに必要な……」

「言い訳しないで!那智のためなんかじゃないくせに!」

おろおろと言い募ろうとする修を一蹴して、亜貴は二人に背を向けると那智の手を引いた。

「ちょ、」

「いいから、帰るのよ!」

驚いた那智までも一喝して、亜貴はそのまま部屋の扉を開ける。

「修ちゃんなんて、だいっ嫌い!」

最後にわざわざ振り向いて言い残すと、亜貴は荒々しくドアを閉めた。

「ああもう、本当に腹が立つ!」

大学を出て帰りの電車に乗り込んでなお、亜貴はいらいらが収まらないようだった。

「那智も那智よ。何で怒らないの!?」

ついにその矛先は教授や修だけではなく、那智へまで向く。

「え、俺?」

亜貴を宥めようと必死だった那智は、とんだとばっちりに目をしばたかせた。予想外のことに、一瞬思考が停止する。

「そうよ!もっとちゃんと怒りなさいよね!」

めちゃくちゃなその注文に、那智は苦笑いしか出来なかった。怒りなさいもなにも、那智が何かを言う前に亜貴が怒ってしまったのだ。そんな暇は那智には与えられなかった。

けれども激昂した亜貴にそんな正論は通用しないだろう。だから那智は賢明にもそれを飲み込み、代わりに目を閉じた。

「いいんだよ、俺は。亜貴が怒ってくれるから」

いつだって、亜貴は那智のために本気で怒ってくれる。自分のことではあまり怒らない亜貴が、那智のことでは怒ってくれるのだ。だからこそ那智はいつでも宥める側でいられる。

「でも、修ちゃんがつけあがるのは那智のその態度のせいだわ。嫌なことは嫌って言わないと」

亜貴は納得できないようで、その言葉にはまだ苛立ちが含まれている。つけあがる、なんて滅多に言わない言葉に、那智は思わず笑ってしまった。ふっと笑いが漏れれば肩から力が抜け、初めて自分が緊張していたことを知る。

「いいんだよ、修にいの気持ちも分かるから」

ある日突然、大好きだった弟が別人に変わってしまう。修はいったいどれほど絶望したことだろう。それは、那智のことが好きであればあるほど深かったはずなのだ。例えば那智だって、亜貴がある日突然違う人になってしまったらきっと受け入れられないだろう。

「それに、那智のことを今でも思ってくれる人がいるのは、嬉しいから」

もちろんそれが自分に向いてくれたのなら、本当は一番嬉しいのだけれど。

本音は包み隠してにっこり笑って見せれば、亜貴は不満そうにはしながらもそれ以上何かを言おうとはしなかった。

亜貴の気持ちは嬉しいのだが、那智は同時に申し訳なくもあった。一番悪いのは思い出せない那智自身。それなのに、修ばかりか亜貴までが苦しんでしまうことが。


...その3

その夜は、大変だった。

大学に入り浸ることが多く、めったに那智と同じ時間に食事をしない修が、今日に限っては何故かきちんと目の前に座っていて。

その大きな体があるだけでも大きなプレッシャーだと言うのに、いちいちこちらを睨みながら食事をするのだ。

「修にい。今日は、ごめん」

耐え切れずに謝ったが、修はこちらに視線を寄越すだけで答えようとはしなかった。

「俺、また行くよ。今度は亜貴にばれないように行くから、もうちょっと遅く…」

「教授はそんなに暇じゃない」

なんとか機嫌を直してほしいと思っても見ないことまで口にしてみたのに、黙れと言わんばかりに遮られてしまってはもう那智にはなすすべはない。

「そっか、そうだよね。ごめん…」

那智にはもう、黙ってご飯を食べることしか許されていなかった。

「……ごちそうさま。ちょっと亜貴のとこ行ってくる」

そうして箸をおくなり宣言したのは、修の視線に耐え切れなくなったから。

「亜貴ちゃん?じゃあ、残りで悪いけど肉じゃがもって行ってちょうだい?」

「うん」

カウンターキッチンの奥に入っていく母の背を見ながら、那智は立ち上がった。

母と亡くなった亜貴のお母さんは、それは仲が良かったという。たまたま隣人となった彼女らは、年が近いこともあってすぐに打ち解け、それが家族単位の付き合いに発展した。

今では亜貴のお母さんはもういないが、母は何かと隣の家を気にかけている。こうしておかずをもたされるのも、初めてのことではない。

「はい。亜貴ちゃんによろしくね」

「うん、分かった」

玄関を一歩出ると、那智はようやく酸素が吸えた気がして、思わず大きく息を吸った。

「こんばんはー」

亜貴の家のチャイムを押して、反応を待つ。連絡も待ち合わせもしていないが、先ほど別れた亜貴が中にいるはずだ。

「おや、那智君。いらっしゃい」

けれど、出てきたのは亜貴のお父さんだった。眼鏡をかけたその顔は、あと十キロやせたら亜貴になるだろうと言うほど似ているのに、決定的に違うものが一つある。それは、目元。亜貴はつり目できつい印象を与えるのに対し、細められたその目は温厚さを表していた。性格は目に出るのかと思うほどだ。

「おじさん…」

いつも帰りの遅いその人がいるとは思っていなかった那智は、気まずくなって手にしたタッパーを差し出した。

「これ、母さんからです。食べてください」

「ありがとう。いつも悪いね」

おじさんはタッパーを受け取り、玄関を大きく開いた。

「亜貴ならダイニングにいるよ。今日はどうやら虫の居所が悪いようでね、私も困っていたんだ。上がっていってくれないか?」

それはおじさんの気遣いだと分かったが、亜貴の機嫌が悪くなる原因を作った者としては聞き流すわけにも行かなかった。

「ありがとうございます」

軽く会釈して中に入る。これから夕飯なのだろう、カレーの匂いがした。ご飯を食べたばかりだというのに、食欲が刺激される。

「あれ?那智」

ダイニングでばたばたと給仕をしていた亜貴は、那智に気づくと手を止めた。食卓にはカレーと、彩の鮮やかなサラダが並んでいる。

母が作る料理も好きだが、那智は亜貴の料理も好きだった。彩りや食器に、和食を得意とする母とはまた違った気遣いが見えて、面白い。

「肉じゃがをもらったから、上がってもらったんだ」

「おばさんの肉じゃが!ありがとうって、伝えてね」

それから亜貴はキッチンへと引っ込むと、肉じゃが用の皿と一緒に三つ目のカレーを持ってきた。

「食べてくでしょ?カレー、今日のは上出来だよ」

当たり前のように言う亜貴。さっき食べたいと思ったことを見透かされたようで、那智は気恥ずかしさと心地よさを感じながら頷いた。


..第二章


...その1

 逃げなきゃ。

 逃げなきゃ。

 逃げなきゃ。

 分かるのは、それだけであった。

 目の前に迫るのは、昨日まで少年の?保護?者だった人たちだ。少年の能力を気に入り、親から買い取った《・・・・・》、偉い人たち。

 彼らがなにを話しているのかは、少年には半分も理解できなかった。それでも分かることが一つだけあった。

 逃げなければ、あの恐ろしい夢が現実になる《・・・・・・・・・・・》。

 そっと、誰にも見つからずに、誰にも見つけられない場所へ。

 けれど籠の中で育った少年には、それがどんなに途方のないことか分からなかった。この広大な土地で、甚大な数の人の目を逃れると言うことが。

 当然ながら結果として彼は、大きな過ちを犯してしまった。

「…どこへ行かれるのですか、――?」

 冷たい声で名前を呼ばれたのは、その時だった。

「なぁぁちぃぃぃぃ!」

 叫ばれたその言葉が自分の名前だと気がついたのは、数分がたった後のことだった。

「くぉぉら、寝るなってのっ!!朝だ、朝!!起きろおおおおぉぉぉ!!」

 ただこの時は、耳元で大きな音を立てられる不快感に、身体が覚醒した。ぱちっ、と、そんな音が聞こえそうなくらい勢い良く目を開ける。

 すると。

「……うわっ!?」

 触れそうなくらい近くに、亜貴の顔があった。

 那智は思わず声を上げ、それから壁側へと後ずさって距離をとる。亜貴は身体を起こして手にしていたタオルケットをベッドに放り投げると、呆れたようにため息を落とした。

「おはよう、那智?」

 ゆっくりと口の端が吊り上げられた。見せ付けるようなわざとらしい笑顔だが、目が笑っていない。はっきり言って、怖い。

「お、おはよう……」

「早く準備して下りてきてね」

 こくこくと、壊れた人形のように那智が何度も頷くと、亜貴はそのまま部屋を出て行った。

 いつもと変わらない朝、だ。

 上半身を起こすと、那智は頭を振った。夢を、見ていた気がする。またいつものように後味の悪い夢。でも、どこかいつもと違う。覚えていないのはいつものことだ。けれど、那智の全身に、確かな恐怖が残っている。その恐怖で体が震えている。

 視線を落とすと、白いシーツを握り締めた手が真っ白になっていた。

 怖い。

 何が、かは分からないけれど、怖い。

 かたかたと奥歯がなった。情けない。今の那智には力はないのに《・・・・・・・・・・・・》、まだ恐怖を拭いきれない。ただの夢だと、自分自身に言い聞かせる。それでも恐怖は消えてくれない。もう何も恐れることはないはずなのに、身体が恐怖を覚えている。

 呼吸が浅いことに気がついて、那智は大きく息を吐いた。そうすれば、自然と息が入ってくる。何度か深呼吸を繰り返すと、ようやく身体のこわばりが解け……代わりに那智は一人を意識した。

 怖い。

 独りは、怖い。

 那智は慌てて着替えると、母と亜貴の待つ階下へと降りていった。



外に出ると、日差しはより厳しく感じられた。まだ朝の七時を過ぎたばかりだというのに、息が苦しいくらいの熱気を感じる。今日はいったいどれだけ暑くなるのだろうかと、クーラーのない教室を思うとうんざりとした。このままユーターンして、クーラーの効いたリビングでゲームをしていたい。亜貴の説教がついてくるだろうが、そんなものはこの暑さに比べればまだ可愛いものだ。

「ほら、急がないと遅刻よ!」

現実逃避をしながら立ち止まる那智に、亜貴は自分の腕にはまった時計を示して見せた。ここから学校までは徒歩十五分、そしてその時計は登校時間が残り二十分まで迫っていることを教えている。靴を履き替え教室まで歩く時間を考えると、確かに立ち止まっている暇はない。

二人は早足で、無言のまま歩き出した。少し急げば、まだまだ生徒の多い時間につくことが出来るだろう。

案の定、もうすぐ校門が見えるというところまで来ると、辺りには同じ制服を着た生徒たちが溢れていた。

「……あ、そういえば」

 亜貴が不意に思い出したように足を止める。喧騒で亜貴の小さい呟きを聞き逃した那智は、三歩ほど先で気がついて足を止めると亜貴を振り返った。

「ん、どうした?」

「あのね、今日……」

「おはよう、亜貴っ!!」

 亜貴が何かを言いかけたのと、通りの向こうから亜貴のクラスメイトであるさつきがこちらに手を振りながらやってくるのは同時だった。

「今日も那智君と?相変わらず、おアツイね〜っ」

「あのねえ、なんっどもいうけど、私と那智は別にそんな……」

「ああ、はいはい。付き合ってないんでしたね」

 いくら幼馴染とはいえ、この歳になって異性と毎日通学をしているのは、周りを見ても珍しいことではある。そのため、こうして那智と亜貴は幼馴染以上の関係を疑われることも多かった。単なる噂に過ぎないのだが、否定の言葉には説得力がないらしく、今でもまことしやかに語られ続けている。

 現に今も、さつきはくすくすと笑っていた。信じている様子ではない。

「ばれたくないなら、一緒に通うの止めなさいよね〜」

 もっともな指摘を受けて、那智と亜貴は互いに顔を見合わせた。ばれるもなにも、何も無いのが事実ではある。だが確かに噂されるのが嫌ならば別々に学校に行けばいいだけの話であった。けれども、それをしないのは、しないのは……

「もう十七年も一緒にいるのよ、今更避けたって仕方ないじゃない」

 亜貴は肩をすくめてため息をついた。その言い訳めいた台詞に、那智は違和感を覚える。十七年一緒にいるから、これからも一緒にいる。それは本当のことなのだろうか?本当は那智から離れたいと思っているのに、事故のことがあるから出来ないだけなのではないか?

『わたしがプールにいきたいなんていわなければ』

事故の後一度だけ、那智はそう言ってこぶしを握り締める亜貴を見たことがある。那智が目を覚ましたのは事故から三日ほどたった後で、その後しばらくは人らしい生活ができていなかったから、亜貴に再会したのは事故から半年ほどたってからだった。その頃にはもうおばさんの葬式も納骨もすっかり終わっていて、亜貴もおじさんも、もちろん那智の家でも事故のことは滅多に口に出すことがなくなっていた。良くも悪くも事故のことがすっかり薄れていたから、亜貴ももう普通に笑っていたし、記憶がない那智の面倒をよく見てくれた。

だからこそ、那智はその光景が今でも忘れられない。

おばさんの一周忌でのことだった。おばさんの記憶もなかった那智は、車での遠出に浮かれるだけで。真っ黒い窮屈な服を着せられてただ黙って座っていなくてはいけないという、拷問のような時間が待っているなんて思っていなかった那智は、耐え切れなくなってこっそり抜け出したのだ。

亜貴は、大きな石の前に立っていた。那智と同じように黒い服を着せられて、きっと亜貴も抜け出してきたのだろうと、何の気なしに近寄った。否、近寄ろうとした。

そのとき、あの呟きが落ちたのだ。

決して大きくはない、けれども強い声で。

あの時の那智には、亜貴が何を言っているのか分からなかった。けれど、今なら分かる。亜貴は事故を自分のせいだと思って、後悔していたのだと。

分かった頃には、もう長い時間がたってしまっていて。那智はあのときのことを聞くことが出来ないまま、今なお疑問を抱き続けている。

亜貴は事故の責任を感じて、自分のそばにいるだけなのではないか、と。

「つれない彼女を持つと、彼氏も大変ね?」

「……だから、彼女じゃないって」

 むしろ、つれなくされたほうが気が楽かもしれないのに。そんなことを考えてしまう那智には、苦笑いを返すことしか出来なかった。


...その2

「ぶはああっ!」

校庭の水道に頭をつっこんで汗を流していた那智は冷たい水を堪能すると頭を振って水を飛ばした。

「おわっ!飛ばすなよ、犬かお前は!」

昼休みの体育館でクラスメイトの何人かとバスケに興じていた那智は、現在クールダウンの真っ最中だ。といっても本格的にスポーツをやっているわけではないので、身体のケアというより暑さを和らげるほうが目的だったりする。こうして頭から水を被っても、すぐに乾くのが夏のいいところではあるだろう。

「蛇口をひねれば水が出るなんて、ホント、さいっこうに贅沢だよな〜」

那智はそのまま蛇口から出しっぱなしにした水をがぶがぶと飲み始める。少しぬるいが、熱い身体には十分だ。

「どこの国の人間だよ、お前は。よくそんなの飲む気になるよな……」

近くの自販機で買ったスポーツドリンクを一気に飲み干して、クラスメイトの一人、孝太が呆れたようにため息をつく。

「だって俺、水が一番好きだもん」

「せめて買った水じゃないと、俺は飲む気にならん。そんなくさい水、よく飲めるよな」

「え?これ、飲める水じゃないの?」

「いや、のめるけど。まずいだろって話だ」

「別に、泥水じゃないし……」

「だから、どこの国の人間だお前はっ!」

孝太のつっこみに首をすくめて、那智はもう一度蛇口に口を付ける。そして思う存分水を飲んでから、もう一度ぷはあっと声を上げた。

「あ?あれ、亜貴ちゃんじゃねえか?那智?」

額に張り付いた前髪をかきあげると、孝太が不意に体育館の方を指差す。つられて見れば亜貴が開けっ放しの扉から顔を出してきょろきょろとしていた。

「あ、本当だ」

那智が声を上げたのと、亜貴が那智に気がついたのはほぼ同時だ。小さくて招きされ、那智は一度孝太を振り返ってから、小走りで亜貴に近づいた。

「……え、一緒に帰れない?」

そうして告げられたのは、那智にとってとても好ましくないこと。

「うん、昨日急に生徒会の仕事が入っちゃって」

まだまだ人の多い体育館の喧騒にかき消されまいと、少し大きめの声で亜貴は告げた。

「昨日って……朝は何も言ってなかったじゃんか」

「話そうとしたら邪魔が入ったんだもん、仕方ないじゃない」

 寝耳に水の情報に、那智は頭を掻いた。一緒に帰れない、それは普通たいしたことではないのかもしれないが、那智にとっては違うのだ。

「……待ってるよ、いつもみたいに図書室かどっかで」

部活にも委員会にも所属していない那智は、亜貴が生徒会で遅くなるときには教室で誰かとしゃべっているか、もしくは下校時間ぎりぎりまで人がいる図書室で時間を潰すのが常だった。少なくとも那智の十年、亜貴と一緒に帰らなかった日などほとんどない。二人で仲良くおたふくかぜに罹り、家で寝ていた一週間くらいのものだ。もっとも登校していないのだから、下校できるはずがないのだけれども。

その、いつもと同じはずの申し出に、亜貴は何故か顔を曇らせた。

「あー、ほら、今って課外中だから、下校時刻早いんだよね。間に合わないと思うんだ〜」

それは初めて聞く拒絶の言葉で。

「……まじかよ……」

「本当にごめん、今日だけ許して!後でアイスでも届けるから!」

 深いため息をつく那智に、亜貴は片手を顔の前に立てて謝る。それから、クラスメイトを待たせているのだと言って身を翻した。

「チョコだぞ〜」

 仕方なく那智は走っていく亜貴の背中にそう声をかける。それから、重い気持ちで時計を見上げると、どんと急に肩に何かがのしかかった。

「おぶっ」

倒れこそしなかったものの、お腹から吐き出された息が声帯に引っかかって、意味を成さない声が上がる。

「あ〜あ、愛しの亜貴ちゃんに振られちゃったね〜」

 のしかかった孝太はそれには何の反応もせずに、ひょうひょうと那智の耳元で嫌なことをささやいてくれる。

「お前はほかに言うことないのか……」

 怒り半分、あきれ半分でため息が落ちる。振り解く気にもなれない。

「ため息ばっかりついてると、幸せ逃げるぞ〜」

「誰のせいだよ、誰の」

「え?亜貴ちゃん?」

 孝太はようやく離れ、かわいらしく小首を傾げてみせる。身長が一八〇を越していて横にもでかい孝太がそんなしぐさをしても、はっきり言って、気持ち悪いだけだ。

「あのなあ……」

 反論をする気も失せて、那智は肩を落とすと机へと向かった。着いてくる孝太にお前暇?と聞いてみたが、返事は良いものではなかった。彼女と待ち合わせ、だそうだ。

「お前には負けるけど、俺らもラヴラヴなんだよ〜」

 わざわざ唇をかんで発音を良くするところに、孝太の浮かれ具合が伺える。そういえば孝太は去年から片思いをしていた同級生と付き合い始めたばかりだったかと思い至った。念願が叶ったのだと思えば、この浮かれようも理解できる。

「ああ、そうですか。残念ながら俺と亜貴はラブラブでもなんでも無いので」

 水を差す気もないが、那智にはその浮かれ具合に到底ついて行けそうにもない。

「またまたぁ〜、校内一のラブラブカップルのくせに!」

聞いたことのない珍妙な言葉に、那智は思わずはあ?と素っ頓狂な声を上げてしまった。

「……なんだそれは」

「先月の新聞部の企画。お前ら毎日登下校一緒だから、いやでも一度は目に入るよな〜」

いつもは那智にもアンケートを頼む新聞部のクラスメイトが、先月に限って何も言わなかったことを思い出す。数が足りないといつも必死だったから、おかしいとは感じていたのだ。

「だから。付き合ってないって」

朝、昔のことを思い出したからだろうか。なぜかそれがひどく那智の気に障った。ため息がこらえ切れない。

「無意味なうそつくなって」

 いつもなら那智はここで説得をあきらめただろう。別に、誤解をされていて困るようなことは何一つ無いのだから。

「嘘じゃないってんだろ」

 けれど、このときはどうしても我慢できずに、苛立ちまかせにかたくなな声で否定してしまった。しまった、そう思って孝太に眼を移すと、珍しい那智の態度にきょとんと目を開いて首をかしげている。何度見ても似合わないそのしぐさに、那智はふっと気持ちが和らぐのを感じた。

「……悪い」

「いや、いいけど。……でも、ほんとに付き合ってないならなんでお前らそこまでして一緒にいるんだ?」

 孝太の声のトーンが、急に真面目になっている。さっきまで浮かれていたとは思えないほどに。

「え?」

 思いがけない問いに、那智は声を詰まらせた。予鈴のチャイムが鳴って、空白の時間が生まれる。午後の授業は何だっけ、逃避に似た思いが頭をよぎるも、孝太も動こうとはしなかった。

「いや、だって……亜貴ちゃんは遅刻してでもお前と一緒に来るし、お前は時間つぶしてでも一緒に帰るだろ?二人とも、放課後ほかのやつと遊びいくの珍しいし、行ったとしてもなんかいつの間にか駅で待ち合わせてて一緒に帰ったりするじゃん」

 そうして長いチャイムの後に、孝太は考えるようにしながらゆっくりと言葉を続けた。

「正直……付き合ってたとしても、ちょっと異常だろ、そこまでくると。付き合ってないんだとしたら、なおさら」

 異常。

 胸に、その言葉が突き刺さる。

「……おかしい、かな」

 つぶやいたのは答えでもなんでもない。ましてや答えを求めたものでもない、ただの独り言になってしまった。自分でもびっくりするくらいに力ない声に、孝太のほうが驚いたようだ。

「いや、別にそれはそれでいいと思うけど!」

 あわてたようなそれもフォローにはなっておらず、那智は心の中で肩を落とした。何か返事をしなければと思うのだが、言葉が見つからない。孝太もまた言葉を失って、重い沈黙が落ちてしまった。じりじりと頭の後ろがかゆくなる。

「まあでも、いつまでも今のままってわけにはいかないよな」

 孝太は後ろ頭をかいて、それから那智をまっすぐに見た。

「付き合ってる、付き合ってないは置いといて。那智は、亜貴ちゃんのことどう思ってるんだ?」

いつもなら避けているはずの苦手な質問。けれど、気まずい空気を変えたい気持ちもあいまっかてか、那智は自然と答えてしまっていた。

「好きだよ。俺は、亜貴が好きだ」

それは、初めて口にする思いだった。

「告白、しないのか」

「告白?」

問われて初めて那智は自分の気持ちとその行為を結びつける。もう長い間亜貴に好意を寄せていたが、那智が告白を考えたことは一度もなかった。

それは何故か。告白をしないままいるのか。

「しないよ」

考えるよりも先に言葉が出ていた。

「しなくても伝わると思うからか?だとしたら、それは間違ってると思うぞ?」

あまりに真剣に見つめられ、那智は思わず笑い出しそうになってしまうのを必死でこらえた。

「違うよ」

那智が告白しない理由は、そんなことじゃない。そんな、甘い理由じゃない。

「今はまだ、出来ないんだ」

きっと、事故に縛られたままの今告白してしまったら、亜貴は頷いてしまうから。なんと思っていても関係なく。

だから、今はまだ――那智が記憶を取り戻すまでは、亜貴にこの思いを告げることは出来ないのだ。


...その3

「……仕方ない、帰るか」

 迎えた放課後。彼女が迎えに来た孝太を見送ると、教室にはもう那智一人しか残っていなかった。一人呟くと返る声のない寂しさに押しつぶされそうになり、那智は慌てて廊下に出た。そこにはまだまばらに人がいる。少し先では女子生徒が携帯電話でしゃべっているし、窓際では見たことのあるような男子生徒が数人たむろしていた。独り、じゃない。それに少なからず安堵しながらも、那智はそわそわと視線をさまよわせた。誰か知り合いがいないかと探してしまうのは、独りでいる時の那智の癖なのだ。

「お、那智君はっけーんっ!」

 後ろから声を掛けられて振り向くと、朝も会ったさつきが立っていた。鞄を肩にかけているところを見ると、今、帰りらしい。那智は知り合いを見つけたことにほっと息をつきながら、いつものように微笑みかける。

「亜貴はもう行ったよ?一緒じゃないの?」

「ん、今日は生徒会らしい」

「いつもみたいに待ってないの?」

 肩をすくめて答えれば、きょとんと首を傾げられる。亜貴を通じて知り合っただけの女子にも把握される程に自分の行動パターンは単純なのかと、那智は少し悲しくなった。

「……下校時間に間に合わないから帰れとよ」

何となく情けなくて、答える声も小さくなる。

「へえ?……じゃあ、私と一緒に帰らない?」

「おう、帰ろう」

 並んで歩くと、さつきは亜貴とそう身長が変わらないことに気がつく。、いつもと変わらない放課後のように錯覚してしまう。

「那智君はさ、亜貴とはいつからなの?」

「付き合ってるって意味ならいつからでもないけど、いつから知り合いかって質問なら俺が生まれたときからかな。家が隣で親同士も仲良いから、0歳の頃から一緒に遊んでたよ」

「へえ、随分なるんだね!」

 まあ、記憶にはないけど、という一言は言わずにおいた。記憶喪失というのはあまり愉快な体験ではない。そして外聞の良いことでもなかった。人によっては、それだけで態度を変えてしまうほど。

「亜貴って昔からああだったの?」

 那智はこの手の質問が苦手だ。昔、と聞かれても、那智には7歳より前の記憶がない。分からないのだ。

「ん〜……そうだな。はっきり物を言うのは昔からかな。今でもさばさばしてるけど、昔はもっとえり好みが激しかったよ。嫌いな奴とは口も利かなかった」

 那智が知る亜貴の昔を思い出す。変化など意識したこともないが、昔の亜貴は今よりもっとさばさばしていたように思う。大事なものと、大事じゃないものをきっちり分けて、大事なものだけ抱え込むような。それ以外は何も要らないのだというかのように、はっきりと物の価値を分けていた、と思う。

「今よりきつかったってコト?そのころ知り合わなくて良かった〜」

「そうか?」

 きつい、という言葉は亜貴には似合わないような気がした。今でも、そして昔も。亜貴のことをそう評している人がいることは知っている。けれども那智にはその気持ちがよく分からなかった。それは、那智が常に亜貴の大事なものの側にいたからかもしれないが。

「あ、でも、俺がいじめられてるのは我慢できなかったみたいでいじめっことはよく喧嘩していたよ」

「亜貴が喧嘩?似合わないね〜。……え?てか、那智君いじめられてたの?」

「ああ、うん、小学校二年のときに少しね」

 墓穴を掘ってしまった。記憶を失ってからしばらく、那智はいじめにあっていたのだ。それは今思えば、よく知ったクラスメイトが突然知らない人に変わったことへの恐怖からきていたのだろうと理解することが出来る。けれど当時の那智にとってみれば、いきなり知らないところへ放り出され、しかも拒絶されるという二重苦であった。それで登校拒否にならなかったのはひとえに亜貴のおかげである。いじめられた那智をかばい、手を引いてくれた亜貴がいたからこそ。もっとも、いじめも三年にあがるときのクラス替えと共になくなったのだったが。

「あの頃の亜貴は頼れる姉貴分だったよ」

 いつも亜貴の後ろを歩いていた自分を思い出して、那智は思わず笑いを漏らした。今も亜貴のその本質は変わっていない。相変わらずさばさばしていて、大事でないものは平気で斬り捨てていくが、その代わりに大事なものは全力で守ろうとする。そして、あの頃よりも亜貴の大事なものは増えている気がする。

「それは、分かる気がするけどね。那智君がいじめられてたのは、意外〜」

「まあ、短い間だったけどな?」

「ふうん?今からは想像つかないね。知ってる?那智君って、女子の間でも人気なんだよ?明るくて気さくで話しやすいし、さりげない気遣いが出来るし、優しいし……」

 指折り数えようとするさつきを、那智は苦笑いで制した。褒められるのは嬉しいのだが、どうも背中が痒くなる。

「褒めても何も出ないぞ?」

「やだな、ホントだって」

「の、割にはオレ、もてたことないんですが」

 もてるどころか、告白されたことすらない。肩をすくめてアピールするも、さつきは引かなかった。

「それは、亜貴がいるからだって。毎朝毎晩当たり前のように女が一緒にいるのに、告白できる子なんかいると思う?」

「……確かに」

 不意にさつきが立ち止まった。気づけばもう分かれ道にまで来ている。ここからは独りか、そう思うと気が重くなった。ここを左に曲がれば通学路。住宅街に続くそこには、タイミングが悪いのか、人影がまるでない。まるでよくできた映画のセットのように、重い沈黙を纏った町並みが続いている。

「そういうこと。私、嘘は言わないよ?」

「悪い、疑ったわけじゃないんだけど……」

見上げられたのが気まずく、那智は言葉を濁す。もてるんだよ、なんていわれても、どんな態度を取れば良いのか、経験のない那智には分からなかった。

「分かってるよ。じゃあ、またね」

さつきはふふっと笑いを漏らすと、那智の返事も待たすに駆け出してしまう。大通りをまっすぐ進むその背に、那智は控えめにじゃあな、と声をかけた。住宅街へ続く左の道と違って、商店街や大型のショッピングモールに続くその道は、まばらにだが人がいてざわざわと賑わっている。

 那智は小さくなっていく背中を見つめながら、しばし考えた。そして、鞄を左肩に抱えなおすと、真っ直ぐ大通りを歩き始めた。

 商店街が近づくにつれ、通りは賑わいを増していった。人通りが増え、時々誰かの会話がはっきりと聞こえてくる。その喧騒が、那智には心地よかった。これで、同時に増していく暑さがなければなお良いのに、なんて口の中で呟いてみても暑さは消えてくれない。照りつける日差し、それを反射するアスファルト、商店から出されるクーラーの排気。暑いというより、もはや熱い。額を汗が伝わる感覚が耐えられず、那智は一度足を止めると袖で乱暴に額を拭った。

 その店が目に止まったのは、その時だった。

 汗を拭いたときに傾けた顔のせいで、たまたま視線が向いた横道。そこに、ひっそりと古書店が建っていた。風が吹けばぎしぎしと音を立てそうなくらい古めかしい、今ではもう見かけないような引き戸の一軒屋。横道とはいえ、大通りから十メートルも離れていないのに、それは何故か通りの喧騒とも熱気とも無関係な顔をしているように見えた。

 まるで、そこだけ世界が別であるかのように。

 那智はじっとその建物を見つめた。正確に言うならば、一度向いた視線を逸らすことが出来なかった。本に興味があるわけではない。むしろ、本は嫌いなほうだった。亜貴を待つために、放課後でも人が残る図書室に足を運ぶことはあるが、いつも勉強用の机に陣取って昼寝をしているか、宿題をするくらいだ。普段は本屋になどほとんど行かない。

 だからその本屋にも何のなじみもないはず。なのに那智は興味を引かれていた。否、正しく言うのならば、何か懐かしいと感じていた。その古い家屋に見覚えがあるわけではない。本屋に足しげく通ったこともない。それでも、何かが那智を引き寄せる。何か懐かしい声に呼ばれている、そんな気がする。

もしかしたらあそこに、なくした那智の記憶の、ヒントがあるのではないか?

ふと、そんな思いがよぎった。引き寄せられるように足が向く。

……その時。

「那智?」

 聞きなれた声が耳に鮮やかに響いた。はっと我に帰る。呼ばれたほうを向けば、そこに母親が立っていた。いつもの買い物籠を提げて、微かに眉を寄せてこちらを見ている。

「珍しいわね、独りでこんな所にいるなんて。亜貴ちゃんは一緒じゃないの?」

「ああ、生徒会だって。遅くなるから帰ってろって言われて」

「そっか、亜貴ちゃんは生徒会の副会長さんだったっけね。で、那智は何を見ていたの?」

 問われて、もう一度わき道に目を移す。そこに変わらずあの古書店はあったのだが、何故かあの懐古に似た思いは湧かなかった。

「別に、何もないよ。母さんは買い物?付き合うよ」

 さりげなく買い物籠を奪いながらいうと、母親は大人しく籠を渡しながら嬉しそうに笑った。

「あら、そう?ありがとう。じゃあまずは八百屋さんからね。今日は、那智の好きなカレーよ」


...その4

商店街から帰ると、母がご飯を準備するまでの時間、那智はリビングで宿題を広げていた。

放課後、亜貴を待つ間に勉強をしていることもあるせいか、那智の成績は悪くも無い。それに勉強は嫌いではなかった。自分が知らなかったことを知るのは単純に面白い。

特に好きなのは数学だ。数学は公式さえ分かっていれば答えが出る。正しい答えが一つある、そこが気に入っている。

反対に、国語は大嫌いであった。答えが見えないし、時には答えが無いことだってある。全部正しいだなんて甘いことが世の中にあるはずが無いのに、無限の答えがあるように見せかけるのが許せないのだ。

 人生にも、数学のように明確な公式があればいいのに。そしたら那智はあのとき《・・・・》間違えなかったかもしれないのに。

 ……あれ?あの時って、いつだ?

自分の思考が分からなくなって、ふと顔をあげると、目前に修の顔が迫っていた。

「うわ!?」

「ここ、違う」

驚きのあまり間抜けな声を上げる那智を無視しながら、修は那智が広げたノートを指す。それはちょうど今解いていて、分からなくなった数式だった。

「ここの公式が間違っている」

指された部分を見つめ、那智は消しゴムを手に取る。指摘された部分を消して、新たに思いついた公式を書き込んでから、那智は顔を上げて修を見た。

「……こう?」

声は震えていないだろうか?頬は引きつらずに、きちんと笑えているだろうか?

それは、恐怖から来る緊張ではなかった。むしろ逆だ。今までまともに口を利いてくれなかった修が、自ら那智に話しかけている。まともな会話が成立する言葉で。

「あとは自分で考えろ」

そっけなく立ち上がった修だが、そこまで見届けたところを見ると間違いではなさそうだった。

二階へ上がろうとする背中に、那智は慌てて声をかける。

「待って、修にい!ありがとう!」

すると修は立ち止まって、那智を振り返った。これもまた、なかなか無いことだ。

「そんな問題も解けない弟かと思うと情けなかっただけだ」

かけられたのが冷たい言葉でも、それだけで那智には十分だった。



「アイス、買っておいたよ〜」

 夕食後にたずねた那智を玄関で迎えた亜貴は、コンビニの袋を揺らしながら悪戯に笑った。

「おお、サンキュウ!」

 そして二人は何も言わずに、亜貴の家の庭のほうへ回る。日本家屋である亜貴の家には、庭に面した縁側があった。小さい頃からの、二人のお気に入りの場所だ。

 クーラーの効いた部屋とガラス一枚隔てた縁側に腰をかけ、亜貴と那智は無言でアイスの封を切った。クーラーも好きだが、冷たいものは暑い所で食べるからこそうまいのだと思う。那智はチョコ、亜貴はバニラ。二人で一口ずつ分け合うのも、もう何度繰り返したか知れない夏の定番だ。

「そういえば、今日の帰りはどうしたの?」

「ん〜と、さつきちゃん?ほら、朝たまに会う亜貴の友達、あの子と途中まで一緒にいて、それから商店街に行ったら母さんに会ったから一緒に買い物して帰ってきた」

「ふうん?さつきと?じゃあ独りにならなくて済んだんだね、よかった」

「は?何だそれ?」

 那智は口をつけたアイスバーを齧らずに、口を離した。歯形が残ったアイスを、汚いよ、とたしなめながら、亜貴は当たり前のように言う。

「だって那智、一人が嫌いでしょ?」

「……」

「で、静寂も嫌い。静かだとそわそわしてるもんね」

 全くその通りのことを言い当てられ、那智は返す言葉もない。けれど、それを認めるのは癪だったのでアイスを齧って気まずさを誤魔化した。

独りは嫌い、静寂は嫌い。何故か説明しろといわれても那智はきっと困ってしまうだろう。けれど独りだと怖くなって、静かだと逃げ出したくなるのだ。独りだと、静かだと、分からなくなる。この世界に自分が居てもいいのか、自分はちゃんと居るのか。何もないところに独りきりで放り出されたような心もとなさで、足が震えるのだ。

「那智さあ……」

 那智の名前を呼んでおきながら、それは独り言にも似た呟きであった。もっとも、人一人分も空かないこの距離では、相手に届けるには十分な大きさではある。ただ、その声は那智にというより亜貴自身の内側に入っていくようだと、那智が思っただけだ。

「独りが嫌なら、ずっと私と一緒にいる?」

「は?……なにそれ?」

 言わんとしていることが分からず、那智は眉をひそめて亜貴を向く。亜貴は食べ終わったアイスの棒を持ってきたコンビニの袋に詰める所だった。その表情は、いつもと変わらない微笑だ。はい、と渡された袋に那智も棒を入れる。これをそのまま亜貴が捨てるのも、いつものこと。

「だから、ホントに付き合わない?ってこと」

「誰と、誰が」

「私と那智が。何、嫌なの?」

 亜貴は心外そうに眉をひそめている。

「嫌って言うか……え?」

 那智は話についていけずに、ただ喉が渇くのを感じた。甘いものを食べたせいだろうか?急に喉が渇いて、我慢できない。

「もう。私は那智が好きだって言ってんの。はっきりしなさいよね、男なら。私のこと、好きなの?嫌いなの?」

 けれど亜貴は、そんな那智に構わずに言葉を重ねた。告白している側のはずのその表情に迷いや戸惑いはなく、それがひどく亜貴らしいと、どうでも良いことを考えてしまう。

「那智?」

 せかされて、那智は必死に頭を働かせた。質問は明確。亜貴が好きか。答えも、明確のはず。

「嫌いじゃない。いや、好きだ……」

 昼間、孝太に話したように、それは事実であった。確かに那智は、亜貴のことが好きだ。

 でも、亜貴は?亜貴が好きなのは、本当に那智なのだろうか?その声が呼ぶ名は、本当に今の那智のことを指しているのだろうか?

「けど、」

 気づけば那智は、顔を背けながら口走っていた。

「……今のままじゃ、ダメなのか?」

 亜貴がまだ真っ直ぐに那智を見詰めているのが、気配だけで分かった、お願いだから止めてほしい。それしか考えられない。

「それは、那智の好きは恋愛としての好きじゃないってこと?」

「それは違う!俺だって、亜貴のことが好きだよ。……その、ちゃんと女として」

「ふうん?……まあ、いいわ」

 ざっ、と敷石が擦れる音を立てて、亜貴が立ち上がった。パン、とジーンズのお尻の辺りを一度叩いて、那智に向き直る。

「また明日ね。この前みたいに寝坊しないでくれると起こす手間が省けて助かるけど」

「……ああ、努力はする」

「那智の?努力する?はあてになんないからな〜。ま、いいよ。寝てたら起こすまでだ」

 那智もサンダルをズ、とだらしなく鳴らして立ち上がった。告白を始めたときと同様にあっさりと話題を変えた亜貴に安堵していた。

まだ、まだ早いのだ。まだ那智は完全な那智ではない。その記憶を全て取り戻していないのだから。

「出来ればお手柔らかに頼むよ」

那智が記憶を取り戻したとき、そのときには自分から好きだと告げようと、那智はひそかに心に誓った。


..第三章


...その1

「怖い人たちが、来るよう」

 少年は朝から母親にすがり付いて泣いていた。けれど母親はまったく取り合おうとしない。怖い人なんて来ませんよ、そう繰り返して少年の背をなでるばかり。

 もうすぐ、太陽が昇りきる頃に怖い人たちが馬に乗って訪れる。そうしてその人たちは母親に光る何かを渡して、少年を馬に乗せるのだ。

 あまりの恐怖にそこで夢から覚めてしまった少年は、自分がどこに連れて行かれたのかを知らない。けれどその人たちは立派なマントをつけて、腰に剣を刺した人々で、言うことを聞かないとその剣で刺されてしまうことを那智は知っていた。

 夢で、見たから。

 もうすぐ太陽が昇りきる。馬のひづめの音が聞こえてきて、少年は肩を震わせた。逃げなきゃ、そう思って母親から離れようとする。

「どこへ行くの?」

 けれど、少年が逃げるよりも早く、母親の腕が彼を捕まえてしまっていた。

「逃げなきゃ!怖い人が来るんだよ、ママ!」

「怖い人なんか、来ませんよ」

 母親はそのまま少年を抱き上げると、暴れる彼を押さえつけて外へと歩き始めた。

 ……ひづめの音が、するほうへと。

 がたん!

 鈍い音と衝撃を身体に感じ、那智の意識は一気に覚醒した。腰から背中にかけて、痛みが走りぬける。何事かと辺りを見回せば自分が寝ているはずのベッドが視線よりも高いところにあり、そこから落ちてしまったのだと知れた。

 誰かが階段を上る音が聞こえてきて、那智はあわてて身体を起こした。立ち上がってベッドの上に戻ってしまおうと思ったのだが、背中を打った衝撃から身体が回復しておらず、身体を起こすのが精一杯だ。

「おい、母さんが心配してるぞ、何をやっている?」

 ノックもなしに顔を覗かせたのは、修だった。布団をまとわりつかせて床に座り、腰を撫でる那智を見て、即座に状況を理解したらしい彼は、鼻を鳴らす。

「落ちたのか。いくつだお前」

そうしてそのまま、修は部屋を出て行った。

階段を下りる音を聞きながら、那智はため息を漏らす。

 高校生にもなってベッドから落ちるなんて、その上それをよりにもよって修にに知られるなんて、朝からなんてついていないのだろう。せっかくの休日なのに、目覚めは最悪だ。

 床に落ちた布団を拾い上げ、那智はもう一度、深くため息をついた。

 夢を見ていた気がする。内容なんかほとんど覚えていないけれど、たぶんどこかから落とされる夢だ。そこから逃れようと必死にもがいていたら、ベッドから落ちてしまっていたのだ。

「……って、おねしょする子供と同じ言い訳じゃないか」

 布団をきれいに直して、那智は時計を見上げた。まだ八時。このままもう一度寝なおしたい時間だ。せっかくの休日なのだから、いつまでも惰眠をむさぼっていたい。

 けれど何故か、きれいに直したそのベッドに再びもぐる気にもなれないのだ。

 夢のことが頭を離れなかった。夢を見て身体が動くなんてことは初めてだ。

初めのうちは、夢を見ていた気がするというもやもやとした感覚だけ。何か忘れてはいけない夢のような気がするという、焦燥だけが残っていた。

けれど、最近はそこに恐怖が残るようになり。

今日は身体が動いた。

これは、ただの夢ではないのではないか?

例えば、そう、例えばフラッシュバックのように、那智が失った記憶が夢として現れているとしたら?

那智はふと身体が震えているのに気がついて、自分の身体を抱くように腕を絡めた。今日はベッドから落ちた衝撃ですっかり気がそれていたが、あの日から毎朝、身体に恐怖が残っている。これが自分の記憶だとしたら、全部思い出したときには一体どれだけの恐怖が襲うというのだろうか?

怖い。

でも、それ以上に知りたい。

那智は震えるこぶしをぎゅっと握り締めた。


...その2

思い出したい。

毎日夢を見るようになってからは、那智のその思いは日に日に増して行った。けれど、手がかりは夢だけ。結局ベッドから落ちたのも一度だけで、後は体に恐怖が残るばかり。夢日記にも挑戦してみたが、早々に成果が出るはずもなく、那智はだんだん手がかりが夢しかないことに焦れていった。

もっと。もっと何か、思い出す手がかりはないのか。

そう考えて、那智はあの日以来修が自分を研究室に呼んでいないことに気がついた。もともと修が暇なら頻繁に呼び出されて、忙しければほっとかれるのが常だ。愉快なことでなければ呼ばれないのはいいことであるし、気にも留めていなかったが、こうなると話は別である。

教授のあの好奇心に満ちた瞳に、ためらったのは一瞬。

「修にい、相談があるんだけど……」

話すら聞いてもらえないかもしれないと分かりながら、それでも那智は知りたいという思いを諦めることが出来なかった。

那智が自ら研究室に行きたいと、思い出したいと言うのは十年で初めてのことである。修ははじめ驚いた顔をし、そしてあの夜のように冷たくあしらったが、那智は引かなかった。しつこく食い下がれば修はようやく分かったと頷いてくれ。

次の日から那智は、修の大学に熱心に通うようになっていた。

忙しいといっていたはずの教授はいつ行っても手を止めて那智を歓迎してくれる。あれこれと聞き出されるのは正直参ったが、教授はいろいろと検査をし、次々に那智に治療法を提示してくれた。中には不快なものも混ざっていたが、那智は構わなかった。

「そんなことする必要、ないのよ。那智」

亜貴はそんな那智に顔をしかめた。最初の一回は那智の希望もあって研究室に付き合ってくれていたのだが、次から亜貴は那智の付き添いを断った。自分が行かなければ那智も諦めると思ったのかもしれない。けれど残念ながらそうはならなかった。

那智自身も不思議だったが、思い出せるかもしれないという興奮が独りの恐怖を上回っていたのだ。

そんな努力もむなしく、一向に思い出せないまま時は過ぎて。ついに明日が課外最終日、夏休みも残り数日となった日に、教授はとうとうなげやりに那智にこう尋ねた。

「何か、懐かしいと思う人や場所はないのか?」

那智の頭に浮かんだのは、亜貴が一緒に帰れないといったあの日、一度だけ見かけたあの古書店だった。



「那智、出かけるの?今日も修ちゃんのところ?」

課外も終わったというのに午前中のうちに起きて、きちんと身支度を整える那智に、母は不安そうに尋ねた。

母もまた亜貴と同じように、那智が修の研究室に出入りするのを好ましく思っていないようだった。亜貴のように直接いさめることはないが、それでも目が訴えてくる。

「いや、今日は違うよ。商店街に行ってくる」

その証拠にはっきりと否定してやれば母の目元はいつもの笑みをかたどった。

「商店街?亜貴ちゃんとデート?」

「違う。何で亜貴が出てくるんだ」

「じゃあ、ほかのお友達?誰?お母さん知ってる人かしら?」

たまに家に遊びに来ることのあるクラスメイトの名前を挙げる母を、那智は苦笑いで遮った。

「一人だよ」

「一人!?」

「そう。いってきます」

驚く母を置いて、那智は家を出る。そんなに驚かなくてもいいと思うのだが……と考え、それから日ごろの行動を振り返って思い直した。家から学校まで出すら一人で歩けない那智が商店街に一人で行こうというのだ、驚いて当たり前だろう。

 あまり行くことのない商店街を、一度きりの記憶に頼って歩く。そう簡単な作業ではないと覚悟していたのだが、それはすぐに見つかった。古めかしいその建物は、やはり通りの喧騒や熱気とは無関係な顔をしていた。通る人の目にも映っていないかのようにすら思える。

 まるで自分にしか見えていないかのようなその建物に、やはりどこか懐かしさを覚えて。那智は目が離せなくなった。

 一歩、二歩……ゆっくりと、けれども確かに近づいて、那智はその目の前までたどり着く。

いまどきは珍しい引き戸。店屋らしくそれはガラス張りで大きなものであったが、もう昼が近いというのに戸は閉まっていた。ガラスはすりガラスで、中の様子をのぞくことも出来ない。それどころか、戸をじっくり見回しても看板の類は見つからなかった。店の名前らしきものすら、どこにも見当たらない。

 閉まっているのだろうか。諦めきれず、那智は扉に手をかける。少し力を入れただけで、ガラリと音を立てて引き戸が開いた。夏とは思えないほどひんやりとした空気が中から漏れてくる。そろりと一歩踏み出してみると、その空気は汗ばんだ肌から熱を急速に奪っていった。

 クーラーではない、ように思う。それはクーラーが作る冷気というよりも高山のすがすがしさに似て、そう、本が熱を吸っているのだといわれたほうがまだしっくりくる。

 外から一台の車が近づいて遠ざかる音が聞こえ、那智は唐突に店内の静寂を意識した。

 外から聞こえる音以外、何の音も聞こえない。そのことが急に認識された。

 どうしようか。静寂にためらったのは、一瞬だけ。ガラリ、音を立てて引き戸を閉める。と、外の音がまったく聞こえなくなった。

 外の暑さとも、喧騒ともやはり無縁なそこは、まるで別世界。

 むき出しの腕が痛いくらいに刺激され、那智は思わず両腕をさするようにした。

 かすかな衣擦れの音が響いて、静寂が強調される。

 那智は静かに足を進めた。改めて見回すと、本も本棚も天井も床も壁も、そのすべてがとても古く、おそらく本来の色を失って久しいのだろうと推測できた。ところどころにほこりにまみれているものさえある。那智の背よりも高いそれらが迷路のように重なり合っていて、奥が見えなかった。

 外から見ていたときに感じた、あの懐かしさ。それをまったく感じない。少なからず落胆しながら、けれど引き返す気にもなれずにあてもなく歩いていると、背の高い本棚にまぎれて一つだけ背の低い本棚を見つけた。他の本棚とは異なるそれに強い興味を引かれ、那智は近づくと、腰の辺りにあるその頭に手を載せる。

 その瞬間、強い風が吹き抜けて那智は思わず目をつぶった。髪が後ろに流れていくのが分かる。

 それがどれだけ続いただろうか。

 やがて風が止み、那智はおそるおそる目を開ける。

「……嘘だろ……?」

 そうして、思わず呟いていた。

 そこに先ほどまで部屋中を覆っていた本棚は一つも存在しなかった。唯一つ、那智が手をかけた背の低いものを除いては。

 代わりにあったのは出口も入り口もない一続きの真っ白な内壁、同じ色の高い天井。四方にそれぞれ蒼・朱・白・黒に塗り分けられた四本の柱、中央には大きな黄色の丸テーブル。

 有り得ない。那智が目を閉じていたのはほんの数秒だ。その間一歩も動いていない。なのに、景色が一変するだなんて。

 那智は四方を見回した。そんなに広い部屋ではない。円形の作りに独特の彩色の柱。一度見たら決して忘れないような作りをしている。

那智の記憶にはこんな部屋はない、そのはずなのに、何故か懐かしい。

「いらっしゃい」

 声に驚いて振り向くと、先ほど見回したときには確かにいなかったはずの人が立っていた。

「早いお帰りだな。契約した期間はまだ残っているのに、もう諦めたか?」

 黒の長髪はテレビのCMに出れそうなくらいに細く艶があった。同じ色の瞳はまるで黒耀をはめたかのようにうつくしい。背はおそらく修ほどは高くないが、その頬から首にかけてのラインを見るだけでも無駄が一切ないことは容易に推測できた。実際、彼が着ているものは水干と呼ばれる着物で、その身体のラインを垣間見ることは出来ないのだが。

その彼がにっこりと笑うさまは優しいというより優雅で、近寄りがたい。それはまるで、――そう、それはまるで人ではないかのように。

「……?どうした、……」

 その男を観察するのに忙しかったせいか、那智はその言葉を聞き逃してしまった。なにか、大事なことを言った気がするのに。

「……え?今、何て言った?」

 けれど、那智が問い返すと男は驚いたように目を見開き、次いで顎に手を当てて考える仕草を見せた。その様もやはり美しい。隙がなさ過ぎて、人らしさが感じられない。

「そっか、思い出したわけじゃないのか。じゃ、忘れな」

「は?何を……」

 ……何を言おうとしたんだっけ。那智は急に、自分が何を考えていたのか分からなくなって、首をかしげた。何か大切なことを考えていた気がするのに。けれど、その焦燥感すら一秒もすれば失われてしまう。

 確か、今、商店街で見つけたあの本屋に入ったところで…。

「ようこそ、いらっしゃいませ」

 声をかけられて、那智は初めて《・・・》目の前に男が立っていることに気がついた。日本史の資料集や修学旅行で行った京都のお寺でしか見ないような、時代錯誤な着物を着た長身の男が、にこにこと笑いながらこちらを見ている。

「何を探してるんだ?ここでは、なんでも手に入るぜ?」

 男は涼しげな容貌に似合わない言葉遣いで、悪戯に笑った。人懐っこい、子供のような笑顔だ。

「何でも、って……本なら、ってこと?これだけ本棚があるんだもんな…」

 那智はそういって、一番近くにあった本棚に触れる。それから辺りを見回して……。

「……あれ?」

 何か違和感を覚えて、首をかしげた。

 そこにあるのは、乱雑に立てられた本棚の海。先ほどと何一つ変わらない姿のはずなのに、どこかおかしいと感じる。

 記憶に微かに引っかかる、四色の太い柱。黄色いテーブル。どこか懐かしいその風景。

 いったいこれは、何の記憶だというのだろう。

「どうかしたか?ぼんやりして」

 男はゆるりと身を翻して、古びたカウンターの奥へと歩く。そこにある木製のいすを引いて、腰をかけた。どこにも隙の無い、流れるようなそのしぐさは、その格好に良く似合って優雅だ。

「いや……なんでも、ない」

 どこか釈然としないが、まさかこれだけの本棚が一瞬で消えるなんてことがあるはずも無い。那智はばかげた考えを追い出そうと、頭を振った。

「それで?お前は何を探しにここに来たんだ?」

 カウンターの上に左手をついて、頬を載せる。黒耀のように艶やかな瞳を眇めるようにしてこちらをじっと見られれば、急に居心地が悪くなった気がした。

「あ……いや、俺、本は、読まないんだ」

 本を読まないのに古書店に来るなんて冷やかしもいいところだ。視線を本棚にさまよわせながらやっと言うと、男は不思議そうに言った。

「本?」

 それから、店内をぞんざいに眺める。

「ああ、ここは古書店だったな」

「なんだよ、それ。あんたの店だろ?」

 奇怪な独り言に、那智は思わず突っ込む。敬語が使えない気は無いが、砕けた口調になってしまうのは相手に引きずられてのことだろう。つい、責任を転嫁する。

「本を読まないのにわざわざ古書店にいらしてくださったお前に言われる筋合いは無いね」

「……まあ、確かに」

 互いに彷徨わせていた視線が、ふと絡み合う。どちらともなく笑いが漏れた。さっき感じた居心地の悪さはもう無く、妙な既視感もすっかり消えうせていた。むしろどこか懐かしくさえ感じる。

「まあ、気が向いたらまた来るといいさ。お前が嫌いな本がたくさんあるだろうがな」

やっぱりここには記憶の手がかりがあるのかもしれない。

那智ははやる気持ちを抑えながら、静かに頷いた。


...その3

「ただいま」

玄関でつぶやくように言っても返事は無かった。那智が声を潜めたのには訳がある。大学に入ってから、ほとんど家に寄り付かなかった修の靴が玄関にあったのだ。

那智は修が嫌いではなかった。むしろ、嫌われているのが悲しくなる程度には好きである。だからこそこれ以上嫌われたくないという思いが働いてしまい、つい修がいると黙って小さくなってしまう。

でも、この前は話しかけてくれたし、那智の話も聞いてくれた。

数日前のリビングでのことを思い出して、那智は微笑んだ。今日も挨拶をしてみよう、返ってくるかもしれないと思い、ダイニングを目指す。

「分かってるわ!」

母の厳しい声が聞こえてきたのは、そのときだった。母は温厚な人で、声を荒げることは滅多に無い。しつけに厳しい人ではあったが、那智や修をしかるときもその態度は柔らかかった。叱る、というよりも諭す、に近かったように思う。

だからこそ、一度怒ると怖い人でもあった。

那智はつい足音を潜めてダイニングに近づく。何があったのか確かめて、場合によってはしばらく部屋でおとなしくしていよう、そんなずる賢いことを考えた。

そしてそれがあだとなってしまう。

「あの子は、那智じゃない……!」

那智は一瞬、何が起きているのか分からなかった。

「そんなことは分かっているの。十年前のあの日から、一度もあの子を那智だと思ったことは無いわ」

そして理解すると同時に、静かに引き返した。ばれないように、息を潜めて。

部屋にたどり着いてから、ようやく那智は詰めていた息を吐いた。後ろ手に扉を閉めて、そのまま扉に寄りかかり、ずるずると座り込む。

『あの子は、那智じゃない』

母のあんな声ははじめて聞いた。あんな、絶望に満ちたような声は。

那智は長い間、母は、母だけはきちんと自分を見てくれていると信じていた。兄が那智を拒絶するのをたしなめ、その分母が受け入れてくれる。だから那智は今までこの家で過ごすことが出来た、のに。

違ったのだ。全ては那智の独りよがりだった。

『一度もあの子を那智だと思ったことは無いわ』

なんてことだろう。那智が信じていたものなんて、存在していなかったのだ。

「早く、思い出さなきゃ……」

もう那智には、それしか方法は残されていない。早く思い出して、那智は那智にならなくてはいけない。

そうすることで全てが解決するのだと、那智は信じていた。

「ちょっと、聞いてるの?」

 亜貴に目の前で手を振られて、那智ははっとした。

 夕食後の縁側。いつものように那智と亜貴は並んでアイスを食べている。

「あ、わりい。で、何だって?」

「今日はありがとう、って言ったのよ。アイスおごってもらっちゃったから」

「ああ、うん。それはこないだのお返しだ、気にすんな」

 今日食べているのは棒アイスではなく、カップのアイスだ。那智はコンビニでたまたま見つけた新商品を、亜貴はいつものバニラアイスを。ぼうっとしているうちに少し融けてしまったそれを、那智は木の使い捨てスプーンでかき混ぜた。

「なんかおいしそうね。半分こにしない?」

「いいけど、俺もう半分以上食ったぞ?」

「じゃあ、交換ね」

 亜貴は手にしていたスプーンをカップに残して、そのまま那智に差し出した。スプーンごと換えないと味が混ざりそうでいや、と何度も聞かされている那智も、大人しくスプーンごとカップを渡す。

 一口食べると、それはいつも食べるチョコアイスよりも甘いような気がした。

「うん、美味しい。那智の選ぶものには外れが無いね」

「それはどうも」

「ところで、何を考えてたの?」

アイスを食べる手を止めずに、亜貴は問う。那智もまた目の前のアイスにすっかり夢中になっていたせいで、一瞬何を言われているのかが分からなくなった。

「……さっき?」

「うん、珍しくぼうっとしてたから、どうかしたのかなって」

どちらかと言えば考え事をしていたと言うよりも、何も考えられなくてぼんやりとしていた、のほうが正しい。さっき聞いてしまった母の声がどうしても頭から離れなかった。何を信じればいいのだろう、何が信じられるのだろう。分からない、ただ身体が冷たくなっていく気がする。

だが、それを亜貴に言ってしまうわけにはいかなかった。言ってしまうのが怖かった。亜貴はどう思うのだろう、どう思っているのだろう、今の那智を。やっぱり那智ではないと言うのだろうか?だとしたら、自分はいったいなんだと言うのだ。

「いや、ちょっと今日行った本屋のこと思い出してて」

少しだけためらって、結局那智の口から出たのは全く別のことだった。

 けれど、あの古書店と店主が気になるのもまた本当だ。興味もない、行ったこともないはずなのに、何故か懐かしいあの古書店。思い出せるかもしれない、そんな期待が胸を去らない。思い出しさえすれば、那智は那智になれるのだから。

「本屋?那智が?一人で??」

 亜貴が目を丸くするのに、那智は苦笑いを返した。思い出すのは今朝の母。

「うん。商店街の古書店に、ちょっとな」

 本屋に入る日が来ようなんて、自分でも思っていなかったのだから、亜貴がそれを不思議に思うのも当然のことだ。けれど本当のことを――昔のことを思い出したいと思っているのだとは口に出せず、結果として那智は亜貴に怪訝そうに見られる。

 でも、不思議とそのいぶかしむような視線がいやではなかった。むしろそれは、亜貴が那智を理解していることの証明のようで、なんだか心地よい。

「へえ。珍しいこともあるのね。明日は雨?」

「かもな」

 憎まれ口に素直に頷いてしまうのも、なんとなく気分がいいからだろう。

「今度、亜貴も行こうぜ」

「また行く気なの?面白い本でも見つけた?」

 亜貴と一緒なら、幼い頃からずっと一緒だったという亜貴が一緒なら、きっと何か教えてくれる。それが、記憶を引き出すヒントになるのではないか?

「……いや、店主が面白くて」

 そんな本音は出せずに、那智はしばしの後に言葉を濁した。けれど、あの店主が気になっているのも決して嘘ではない。あの、黒耀の様な瞳を思い出すと、訳も無く懐かしい気持ちになる。

「ふうん。まあ、確かに興味あるわ。那智がそこまで言う本屋なんて」

 ごちそうさま、呟いて亜貴は空になったカップをコンビニの袋に突っ込む。差し出された袋に那智も食べ終わったカップを入れて、何となくスプーンを入れるのに躊躇ってしまう。指の間でそれをはさみ、上下に小刻みに揺らすと、亜貴は不思議そうにしながら袋を那智に押し付けた。

「何、ごみで遊んでるのよ?」

「別に、何となく。ところで、明日の予定は?」

名残惜しい、だなんて自分でも良く分からない感情を説明するすべはなく、那智は話をすりかえる。

「明日は何もないわ。本屋、楽しみにしてる」

那智の手でくるくると動くそれを見つめながら、亜貴は答えた。

 そして、次の日。

「……ねえ、那智?」

 那智は亜貴と商店街に来ていた。昨日那智が入った本屋に行くために。

「え?何?」

 先を行く亜貴の頭を眺めていた那智は、不意に振り返った亜貴にぶつかりそうになり、身体をそらした。けれど、反らした分だけ亜貴がずいっと迫ってくる。

「どこにあるのよ、その本屋は」

 気がつけばもう本屋のある道へと続く交差点へと入っていて。那智は昨日と同じ様に横に伸びる細い道へと目を向ける。

 けれど。

「あれ?」

 目当ての本屋が、視界に入ることは無かった。

「ここのはず、なんだけど……間違えたかな?」

 きょろきょろと辺りを見回すと、それは昨日見たのと寸分違わぬ光景に思えた。けれど、肝心の本屋はない。

「もう、昨日の今日でなんで忘れるのよ。……なんて店なの?」

「えっと……」

 店の名前を思い出そうとして、那智は思い当たるものが無いことに気がついた。知らないなんてそんな馬鹿な、とよく思い出そうとするが、そういえばあの店には看板が無かったと思い当たる。

「……しらない?」

 ひとつひとつのひらがなをゆっくりはっきりと発音して、那智は首をかしげた。

「何で疑問系なのよ!つか、知らないって何よ!?」

 案の定亜貴は怖い顔をして那智を見上げる。否、睨み上げる。

「えっと、看板が、無かった」

「はあ?じゃあ、何で本屋だって分かったのよ。あ、本が出てたから?目立つ?」

 亜貴は言うなりきょろきょろと辺りを見回し始める。那智もつられて見回したが、当然、見渡す限り店先に本が並んでいる店はどこにも無い。

「いや、本は出てなかったし、引き戸もぴっちり閉まってた」

「……はあ?」

 視線を戻した亜貴は、怪訝そうに眉根を寄せていた。

「じゃあ、何で本屋だって分かったのよ」

 問われて、初めて那智はその不自然さに気がつく。確かに昨日のあの店は、看板も出ていなければ本も出ていなかったし、ましてや店の中が覗けるようにもなっていなかった。それでどうして、那智は一見して本屋だと分かったのだろうか。

 考えても、当然答えは出ない。強いて言うとするならば、

「なんとなく?」

 と、言ったところだろうか。

那智の答えに亜貴は納得しなかったようであったが、とりあえずにらむのをやめてため息を一つ落とした。

「……まあ、いいわ。とりあえず探そっか。このあたりなんでしょう?」

 けれどその日、あの本屋が見つかることはついに無かった。


...その4

九月に入ればレポートの提出があるとかで、修は最近ほとんど家に帰ってきていない。那智もまた研究室への出入りを禁じられてしまっていた。

「何にそんなにあせっているんだ」

出入り禁止、と告げられたことに納得できず、どうしてともらした那智に、修は静かに問いかけた。記憶喪失は本来治療が難しい。教授も修も、数年単位のスパンで物事を考えていたのに対し、すぐに思い出したい那智は毎日研究室に通っていた。確かに那智も、始めのうちは乗り気だった教授が、次第に苦笑いになっていったのには気がついていた。。

十年戻らなかったものが一週間やそこらで戻るとは思えないのが、普通なのだろう。そういう意味では彼らの行動は正しい。でも、今なら。毎朝夢を見るいまなら、出来そうな気がするのだ。むしろ、今でなければいけないような気すらする。何もしていないと焦燥に掻きたてられ、走り出したくなるのだ。

不満そうに見つめる那智に、修はとにかく一ヶ月は来るなと念を押して、自室へと消えていってしまった。

となれば、那智に出来るのはあの古書店を探すことくらいだ。

亜貴と探したときは見つからなかったあの古書店のことがどうしても忘れられなかった那智は、次の日もまた、耳にイヤホンを突っ込んで、一人で商店街へと踏み入れた。確かにあったと思ったのに、何も無かったあの場所。もう一度目指して歩いてみる。

 十字路に差し掛かるたびに辺りをきょろきょろと見回しながら、那智は進んだ。

 ない。ない。……ない。

 本屋らしきものは見つからない。亜貴と探したあの日と同じだ。

 やがて那智は、一つの十字路で立ち止まった。古書店があったと記憶している場所。亜貴と探したときには、何も見つけられなかったあの場所だ。

 どくん、意味もなく心臓が高鳴った。一つ息を大きく吐く。まず向いたのは左。本屋はない。そして、那智はゆっくりと振り向いた。古書店があったはずの方へと。

「……なん、で」

 果たしてそこに、あの古ぼけた古書店があった。引き戸がぴっちり閉まり、看板も出ていない、あの日のままの古書店が。

 那智はしばらくそれを呆然と見つめた。亜貴といたあの時はどんなに探しても見つからなかった店が、あの時も確かに探したところに平然と建っている。その事実を、脳が処理しきれない。どうして、そればかりが浮かんでは消える。

どのくらいそうしていたかは分からない。何度自問を繰り返しても答えが得られないことを悟った那智は、ゆっくりと古書店に近づいた。

 引き戸に手をかける。力を入れるとぎしりと軋んで、那智は思わず手を止めた。あんなにあっさりと開いたと思ったあの日から、そう日はたっていないはずなのに、その音が那智を拒絶しているかのように思える。

 少しためらって、けれど那智は手を離すことをしなかった。出来なかった。

 思い切って力を入れると、軋んだのは一瞬だけで引き戸はあっさりと開いた。勢いあまって、叩きつけるように腕を振り切ってしまうほど。

 ばあん!

 音と同時に戻されてくる引き戸を捕まえて、那智は今度こそ慎重に戸を開けた。一歩踏み出すと、やはりそこには涼しい空気が満ちている。乱雑に積み上げられた本棚は相変わらず迷路のようになっており、入り口からは奥のカウンターを見ることは出来ない。逆に言えば、店主が居る奥のカウンターから入り口付近を見ることも出来ないわけで。

「万引き、し放題だよな……」

 那智は奥に行かずに、入り口付近の本棚を見上げた。よく見ればその大きさはばらばらだ。どれも那智の身長を越える高さではあったが、幅や奥行き、高さが全部異なっている。棚はどこもかしこもほこりを被っており、乱雑に入れられた本は倒れて表紙が破けているものや、日焼けして背表紙が見えなくなっているもの、水にでも落ちたのか、紙がふやけて蛇腹に曲がっているものまであった。まともな本はほとんど無い。

 何か手に取ってみようかと思った那智であったが、お世辞にもきれいとはいえないその様子に手を伸ばすのは止めておいた。本を一冊抜き出しただけで、虫がわらわらと飛び出してきそうだ。

 先日よりも注意深く棚を眺めながら歩く。すると、中にはきれいなものも混じっていることが分かった。奥に行くにつれそのきれいな本が増えてくる。革製のカバーがかけられたものや、ビニールがかけられたものまであった。もしかしたら、入り口付近は万引きされてもかまわないような本しか置いていないのかもしれない。

 そうして眺めながら歩いていると、ふとあることに気がついた。

 どの本にも、タイトルが書かれていないのだ。タイトルだけではない。表紙にも背表紙にも、およそ文字らしきものが一切書かれていない。文庫本も新書も、ハードカバーのどの本も、また、どんなに汚くともどんなにきれいでも、それは変わらなかった。

 不思議に思って、那智は手を伸ばす。表紙が空の青に塗りつぶされた一冊の本を取ろうとして、そして……

「わっ」

「わあああああ!?」

 後ろから不意に声をかけられ、那智は肩を跳ね上げる。心拍数が一気に上がり、小指の先まで心臓になったかのように全身が騒いだ。どくり、どくりと波打つそれを数えながら振り返る。

「よ。いらっしゃい」

 そこには、店主がいた。にこにこと顔全体で笑いながら何事も無かったかのように声をかけてくる。

「何がいらっしゃいだ!脅かすなよ!」

見知った顔にようやく安心した那智は、騒ぐ心臓をごまかすかのように声を張り上げた。

「俺は何度も声をかけたぜ?そんなもの耳にはめてるお前が悪いんだろ?」

 右手の人指し指を自分の耳元で上下させながら、店主は言った。すっかり耳になじんで、バックミュージックと化していた音楽の存在を思い出し、那智は慌てて耳からイヤホンを引き抜く。途端、割れるような耳障りな音が辺りに漏れた。

「ずいぶんうるさい音楽が好きなんだな」

 音自体はそんなに大きなものではないのだが、店主は眉をひそめて耳を塞ぐまねをする。那智はポケットから携帯を取り出すと、音を止めた。

「別に、好きってわけじゃないけど」

 なんとなく馬鹿にされたような気がして、言い訳するように言い返す。

「好きじゃないのにそんなもん聞いてられんのか、最近の若いやつらは」

「流行ってるんだよ。それに、にぎやかなのは嫌いじゃない。こんな陰気な本屋に居るあんたには分かんないだろうけどね」

 しまった、と思ったときにはもう遅い。明らかに言い過ぎてしまった。

 謝らなければ、そうは思うのだが素直にそうする気にもなれず、那智は店主を見上げる。怒っているかと思ったが、予想に反して店主はニヤニヤと笑っていた。

「陰気な本屋、ね」

 怒ってもおかしくないその言葉が、何か店主は気に入ったようだ。責めるでもなく繰り返す。

「なんだよ」

 気味が悪いくらいのその笑顔に、那智は謝ることを諦めた。相手が気にしていないなら謝る必要は無いだろう。

「いや。それで、お前はその陰気な本屋に何の用だ?」

 店主は那智に興味がなくなったかのように、身を翻した。

「いや、用ってほどの用は無いけど……」

 長い髪が揺れる背中に誘われるようにして、那智はついていく。店主が向かったのは奥のカウンターだった。店主は一度奥へと入るとパイプいすを持って出てきた。

「本も読まないのにわざわざ陰気な本屋に来てくださって、どうもありがとうございます」

 広げたそれをカウンターの前に置くとわざとらしい敬語で那智に座るように促し、自分は奥の木のいすに座る。那智が座るのを見ると、店主はくくと喉を鳴らして笑った。

「お前はほんとに暇なんだな?」

 確かに、日曜の昼間からこんなところに座り込んで話をしようなんて、暇人のすることかもしれない。

「ほっといてくれ。それに、お前お前うるさい。俺は那智」

「そうか。おれはタツミだ。よろしく、那智」

 手を差し出されて、那智は面食らった。こんな時代錯誤な着物を着ているのに、言葉遣いといい握手といい、言動はまったく格好にあっていない。

「どうした?」

 なかなか手を出そうとしない那智に、タツミは首をかしげる。

「タツミさんて、本当に日本人?日本人は滅多に握手なんてしないぜ?」

 いいながらも手を差し出すと、思ったよりも強い力で握られた。着物の太い袖で隠されていたから勝手に身体が細いと思っていたのだが、案外そうでもないのかもしれない。

「まあ日本人かといわれれば、それは違うがな」

「違うの?ずいぶん日本語上手じゃん。どこの人?」

 黒い髪とその顔立ち、何より着ている着物で勝手に日本人だと思い込んでいた那智は、まじまじとタツミを見た。いくら見ても日本人にしか見えないということは、アジア系なのだろうか。

「ここから、遠くて近いところ、かな」

けれど、返ってきたのはそんななぞなぞじみた言葉。

「なんだ、それ。……まあ、いいけど」

気にならないわけではなかったが、那智はそれ以上聞こうとは思わなかった。誰にだって暴かれたくない過去の一つや二つ、あるに決まっている。那智だってそうなのだから。

握手が終わればもうすることが無いといわんばかりに、タツミはカウンターの上の本を手に取った。ぱらぱらとめくるそれに目を落とすと、長いまつげが顔に影を作る。

「なあ、タツミってどう書くの?」

「十二支の辰と巳で、辰巳だ。」

 辰巳。頭の中で漢字を浮かべてみる。字も読み方も、初めて出会う名前だ、と思う。

「……なあ」

 なのに。

「俺、あんたと前に会ったこと、あるか?」

 何故か辰巳といると、懐かしいという感情が抑えられなかった。記憶には確かにない、けれどこの男のこのギャップを、前にも感じたことがあるように思うのだ。

「さあな?どう思うんだ?」

 辰巳は本から目も上げずに答えた。それは望んだような答えではない。イエスでもノーでも、那智が欲しいのは明確な答えだ。

「はぐらかすなよ。分からないから聞いているのに」

 重ねて問うと、辰巳は本から目を上げて那智をまっすぐに見た。

「分からないのなら、ないんじゃないか?」

 正論を説かれて、那智は言葉に詰まった。そう、覚えていないのなら無い、のだろう、普通なら。けれど那智の場合は違う。那智には空白の七年があるのだから。

「そうだけど、でも、なんか懐かしいんだよ。辰巳さんが」

「そんなことをいわれたのは初めてだな。この着物が懐かしいのだとしたら、相当な物好きが知り合いにいることになるぞ?これは水干(すいかん)といって、現代ではほとんど着られていない着物だ」

 真顔で自分の格好を見下ろす辰巳がどことなくおかしくて、那智はふっと笑いを漏らす。

「うん、大丈夫、そんな知り合いはいないから」

 とりあえずそう突っ込んで、那智は話を戻した。

「そうじゃなくて……辰巳さん自身が懐かしいんだ」

 もしも。もしも、辰巳が記憶をなくす前の那智と、知り合いだったとしたら。母親にも父親にも、ましてや亜貴にも感じなかったこの懐かしさが、記憶を取り戻す鍵になるのではないだろうかと、那智は思っていた。

「なあ、答えてくれよ。俺、辰巳さんに会ったこと、あるか?」

 黒い大きなその瞳を見つめても、答えは得られない。

「頼む、教えてくれよ。俺にはわからないんだ、記憶が無いから」

 ついに那智は、人に知られることを極端に嫌っていたその事実までもを口にしていた。けれど、そんな些細なことにはかまっていられない。思い出せるかもしれないのだ、十年失くしていたものを。

「……もし、俺が那智に会ったことがあるなら、何だっていうんだ?」

 辰巳がようやく口を開いたが、それは答えとはおよそ遠いものだった。

「辰巳さんをきっかけに、思い出せるかもしれないじゃないか」

 お願いだ、と那智は繰り返す。

「思い出したいのか?」

 辰巳はまっすぐに那智を見つめて、問うた。那智にとっては至極当たり前のことを。

「当たり前じゃないか!」

 興奮のあまり、声が大きくなってしまう。それはまるで、目前に餌をつるされた馬のように。望むものを見せられながら決して手が届かないというのは、なんとも残酷な話だ。

「どうして」

 けれど辰巳は、一向に那智に餌を与えてくれようとはしない。

「どうしてって……」

 それは、那智がここに居てもいいという証だから。

 十年前に失ってしまった、那智が那智であるという確かな証を取り戻したいから。

 そうでないと、ずっと地に足がつかないままでいるしかなくなる。自分が誰なのか、本当に『那智』なのか、一生問い続けることになる。

 その答えは声にはならず、那智はただ黙って目を伏せた。

 いけないことだろうか。ただ、ここに居てもいいのだと認めて欲しいだけなのに。

「例えば」

 辰巳は那智の答えを待たずに、言葉を続けた。

「それで今のお前が居なくなるとしても、お前は記憶を取り戻したいか?」

「今の、俺が……?」

 その、あまりに予想外な内容に、那智はただ鸚鵡返しに繰り返す。辰巳が言っていることの意味が、よく理解できなかった。

「そう。聞いたことは無いか?記憶喪失の人間が記憶を取り戻すには、二つのパターンがある」

 いやにのどが渇いて、つばを飲み下したが、そんなものは何の足しにもならなかった。

 辰巳はゆっくりと指を一本立てる。

「一つは、記憶を失っていた間のことまで、全部覚えているパターン」

 聞いたことが無いといえば、それは嘘だ。

辰巳がもう一本指を立てるのが、スローモーションのようにゆっくり見えた。

「もう一つは…」

「記憶を失っていた間のことを、全部忘れるパターン」

 にやりと、辰巳が口の端を吊り上げる。

そう、もう一つは記憶を失っていたことを忘れてしまう群。彼らの記憶は記憶を失う直前まで巻き戻されるのだという。

 那智は急に目の前が真っ暗になったように思った。明かりが消えたわけではない。消えたのは、色、だ。

「それでも、お前は思い出したいか?」

 ただ、辰巳の赤い唇が動くさまだけが、鮮明に脳裏に焼きついた。


...その5

「どうしたの?那智。帰ってきてから、ずっと上の空ね」

 ソファに座り込んで、何をするわけでもなくただ天井を見上げる那智に、母が声をかける。覗き込む顔はとても優しく、あんな言葉を吐いただなんて到底思えなかった。何かの間違いだったのではないかと、楽観的な思いが浮かぶほどには。

「母さん……」

 那智はその母の顔をじっと見つめた。そして。

「母さん、俺が……」

 そう言ったきり、言葉が続かなくなる。母は急かすこともせずに、ただ那智の言葉を待っていた。いつものように、柔らかい、包み込むような微笑を浮かべて。

 それでも。

「……なんでも、ない」

 俺が記憶を取り戻したら、嬉しい?……今の俺が消えても?

 聞きたくて聞けずに、那智はぐっとこぶしを握り締めた。見上げた天井は真っ白で、何の答えも映し出さない。

思い出したいと思っていた。思い出せば、全てが解決すると思っていた。

嫌われてしまった兄との仲も改善し。

母が自分を心から那智だと認め。

胸を張って、亜貴に告白できる。

思い出せれば。思い出して、自分が那智だと確かに証明が出来れば、それは全て叶うのだと思っていた。

けれど。

 今の那智は、事故に遭う前とは大きく異なるのだと、誰もが言う。

もし、失った記憶を取り戻すことで今の記憶がなくなるのなら。昔の那智が帰ることで、今の那智が去るのなら。

 今の自分を、那智と呼ぶことは出来ないのではないだろうか。

思い出しても、自分が那智だと証明することは出来ないのではないだろうか。

 地面が音を立てて崩れていくような、言いようのない不安が去らなかった。


気がつけば那智は、隣の家のドアベルを鳴らしていた。

コンビ二でも流れる、耳になじんだメロディーが那智の耳にも届く。

事前にメールも電話もせずに来てしまった。亜貴は居ないかもしれない。むしろ、居ないでいてくれたほうがありがたいかもしれない。

そんな複雑な思いをもてあましながら、ともすれば逃げたくなるような足を叱咤して那智は立っていた。

「はーい」

亜貴の声が聞こえる。嬉しいのかそうでないのか、自分でも良く分からない。

「あれ、那智?どうかした?」

亜貴は那智を見ると、不思議そうに首をかしげる。

「いや、用ってほどのことじゃないんだけど……」

亜貴は玄関を開けて、那智を招きいれようとする。けれど那智は足が動かなかった。

「暇なんでしょ?はいれば?」

「いや……ここでいい。聞きたいことがあっただけなんだ」

亜貴も那智の態度がおかしいことに気がついたようで、不思議そうにしながら玄関を出てくる。隔てるドアが無くなり、那智は急に心もとなくなった。

「亜貴は…」

今まで那智は、自分が記憶を取り戻せば亜貴に堂々と告白できると思っていた。那智は記憶を取り戻して初めてひとりの那智となり、亜貴と対等になることが出来る、と考えたからだ。

でもそれは、記憶を取り戻しても那智が那智のままであることが前提の話。

「俺が記憶を取り戻したら、嬉しいか?例えそれで、今の俺が消えたとしても」

顔は見られなかった。

亜貴の家の庭には、もうひまわりが枯れている。その首を折った姿が、何故か自分と被って見えた。

「それって、どういう意味……?」

問い返す亜貴の声は硬い。必死にその場にとどまっていた心が、一気に折れてしまった。

「なんでもない。忘れてくれ」

那智はそのまま、亜貴の制止も聞かずに背を向けた。


..第四章


...その1

「ナチ、ナチ……っ」

 真っ暗な闇の中、分かるのはその声だけだった。何を表すのか、まったく意味の分からない単語が、絶える事無く、繰り返し、繰り返し響いては消えていく。

「ナチ、ナチ、シイジャイヤヨ、ナチ……」

 その声は、聞いているだけで胸が締め付けられるほどに悲壮なものであった。もう止めてくれ、そう叫びだしたくなりたいくらい。うんざりするほど繰り返されるそれを遠ざけようと、自分の耳を塞ごうとする。

 ……身体が、動かない。

『魂が身体になじむまでには時間がかかる。しばらくはつらいだろうが、我慢できるね』

 誰かの声が聞こえた気がした。そうだ、身体が動くようになるまで待っていなくてはいけない。子守唄には程遠いあの声を聞きながら、死んだように眠っていることしか出来ないのだ。

 今は、まだ。

 いずれこの身体は自由に動くようになる。そうなったら、何がしたいだろうか。

 好きなことが何でも出来る国だと、あの人は言った。自分の好きなように生きることが出来る。自分の命は自分のものだ。いつ取られてしまうかと、おびえることも無いのだ。

「…エシテ、カエシテ、カエシテ…」

 遠く、遠くから、地響きのような声が聞こえてくる。

 これも我慢しなくちゃいけないと、あの人は言っていた。無視をしていればいいのだ、聞こえなくなるまで。

「カエシテ、ボクノカラダ、カエシテ…」

意味の分からない声を無視するなんてこと、これからの楽しい人生を思えばなんでもない。

「わあああああっ!」

 跳ね起きるとそこは、見慣れた部屋であった。朝の光がカーテン越しに部屋をほのかに照らしている。決して、闇の中などではない。

 その様子を見回しながら、那智は荒い息を整えようとした。けれどいくら吸っても息苦しさが抜けず、浅い息を繰り返すことしかできない。全身の血管が早鐘のように波打つのが感じられるような気がした。

『返して、僕の身体、返して』

 耳にあの幼い声が残っている。何度も何度も、飽くことなくひたすらに繰り返す声。夢の中の自分は意味が分からない言葉だと思っていたが、あれは確かに日本語だ。日本語で、那智に訴えていたのだ。返して、僕の身体、返して、と。

 どういうことだろう。

 背中を何か冷たいものが伝っていった。汗。その冷たい感覚に耐えられず握り締めたシーツもまた、冷たく湿っていた。シーツが湿るほどに全身で汗をかいているというのに、どうにも薄ら寒い。タオルケットを引き寄せて身体をすっぽり覆っても、その寒気は消えてくれなかった。

『返して、僕の身体、返して』

 あれはいったいどんな意味だろう。この身体は那智の身体ではないというのだろうか。

……いや。違う。

 自分は、那智ではないと、いうのだろうか。

 ぞくり。背中を何か冷たいものが這い上がったかのような感覚に、那智は自分の身体を抱きしめた。

 魂が身体になじむまで待たなくてはいけない、と、誰かの声が告げていた。真っ暗な闇の中で、那智の名前が響き続けていた。身体を返せと、幼い声が繰り返した。

 ……つまり。

 事故にあった那智の身体に、何か別の魂が入り込んだ、ということ、だろうか。

 そう考えれば、つじつまが合うことが多い。たとえば、まるで別人のように性格が変わってしまったこと。七年間慣れ親しんだはずのもの……家も、部屋も、人も、何一つ懐かしいとも思わなかったこと。名前を呼ばれるたびに、鏡を見るたびに覚える違和感。

 そして。

 母の漏らした、本音。

『あの子は、那智じゃない』

 いまでも鮮やかに思い出すことの出来る、絶望に満ちたその響き。

「ばかばか、しい。非現実的すぎる」

 昨日、あの店の店主に――辰巳さんに、変なことを言われたから。変なことを言われて、まるで自分が那智ではないみたいだなんて、考えたまま寝てしまったから。だから、あんな夢を見てしまったのだろう。

 わざと口に出して否定してみても、あの幼い声が頭から離れなかった。

もし。もし本当に、那智が那智ではなく、この身体をのっとったのだとしたら。

那智が修に嫌われるのは当然だということになってしまう。

修だけじゃない。亜貴も、母も。那智は彼らから大事な人を奪ったことになってしまう。

違う、違うと繰り返しつぶやきながら、寒気が去らなかった。

...その2

休みだと言うのに寝なおすことも出来ずに、階下に降りると、母に「お誕生日おめでとう!」と言われ、那智は初めて今日が自分の誕生日だと思い出した。ちっともおめでたい気分ではないが、とりあえずありがとうとだけは返しておく。

今日は、十七年前に那智が生まれた日。

そして十年前に、那智が記憶を失った日であった。

朝ごはんを食べていると、携帯が着信を告げるバイブを鳴らす。ポケットごしにその振動を足で感じながら、那智は動じることなくご飯を食べ続けた。

別に、行儀の悪さを気にしているわけではない。昨日の夜からずっと、メールも電話も出ていないのだ。

相手が亜貴だと分かっているから。

今はどうしても亜貴に会いたくなかった。あんな夢を見てしまってからは、なおさら。

まだ、あの幼い声がまとわりついている気がする。頭から振り払おうにも、耳にしがみついて離れてくれそうになかった。

どうにも気分が悪い。

こんな夢を見たのは、辰巳のせいだ。辰巳があんなことを言うから。責任を転嫁することに決めて、那智は古書店を目指す。

「どうしてくれるんだ」

迷路の奥のカウンターに座り、ぱらぱらと本をめくる辰巳にぶつけた第一声がそれだった。

「何がだ?」

辰巳は当然不思議そうに首をかしげる。

「夢を見るんだ」

那智は八つ当たりなのが分かっていながら、前回使ったままになっていたパイプ椅子にドンと座った。

「夢?どんな?」

「魂になった俺が、この身体をのっとった夢」

言葉にすると、なんて馬鹿らしい夢なのだろう。

案の定辰巳はしばらく那智を見つめた後に、盛大に噴き出した。

「そりゃなんともファンタスティックな夢だな」

口の端を吊り上げて笑いをこらえる様は、なんとも腹立たしい。那智は真剣なのだ。

「笑い事じゃない、あんたのせいなんだからな」

すねたような口ぶりになってしまったことが悔しい。

「ほう、俺のね?」

辰巳は笑うのを止めると、那智をまっすぐに見つめた。

「で?俺にどうしろっていうんだ、お前は?」

那智はその迫力に一瞬ひるむ。どうしろ、とまでは考えていなかった。ただ、後味の悪い夢を見たことを誰かのせいにして責めたかっただけなのだ。

だけど。

『あの子は、那智じゃない』

『返して、僕の身体、返して』

耳から去らない声が、那智に告げる。お前は真実を知らなければならないのだと。真実を知らないままではもういられないのだと。

辰巳が何かを知っているのだということを、那智はもう確信していた。根拠はない、けれど分かる。那智にはそれで十分だ。

「俺が居なくなってもいい、本当のことを教えてくれ!」

辰巳はそれを聞いて、ふっと不敵に笑った。

「いいぜ?」

すると途端、目も開けていられないほどの突風が吹き荒れる。そう、初めてこの古書店に来たあのときのように《・・・・・・・・・・・・・・・・・・・》。

 風がやみ、目を開けると、那智は円形の部屋の中に立っていた。見回すと、四方に四色の柱、中央に黄色い円卓が置いてある。壁は一続きになっていて、入り口も出口も見つからなかった。

「いらっしゃい、那智」

 気づくと目の前に辰巳が立っていた。ぐるり、一通り部屋を見回したときにはどこにも居なかったのに。

「どう、して……」

 疑問が多すぎて、那智の口から着いて出たのはかろうじてそれだけだった。

「ようこそ、天辰堂てんしんどうへ」

 辰巳は那智の問いかけには答えずに、口の端を吊り上げる。

「お前は全て知ってるはずだぜ?」

 辰巳は立てた指で、ゆっくりと円卓を指差す。そこには先ほどまではなかった、一冊の本が載っていた。表紙も背表紙も真っ白で、何の文字も書いていない、まっさらな本。

「覚悟が出来たら、その本を手に取りな。お前の知りたいことが、全て書いてある」

 那智は一度目を閉じる。奇妙な夢が甦った。ただ恐れていただけのそれが、本当に恐れていたとおりのものなのか、それとも違うのか。答えはあそこに綴られている。

 迷いは、もうない。那智は自分が何なのか確かめないといけない。確かめないと、何もはじめられない。一生おびえて暮らすだけなんて、嫌だ。

 静かに目を開けると、那智は円卓に手を伸ばした。

そうして本に指先が触れた瞬間、頭に直接映像が流れてきた。


...その3

 その少年は、数奇な境遇だった。

強い夢見の力を生まれながらに持った少年は、言葉を話すようになるとその力が顕になる。親の怪我を予知したり、地震や火事を言い当てたり。親はその力を恐れ、隠そうとしたが、幼い子供にそんなことは通じるはずもない。たちまち村中に噂が広がり、果ては遠く王宮にまで伝わってしまった。少年が三歳になったある日、噂を聞きつけた王の命により少年は王宮に召された。親には大量の報奨が支払われ、幼い少年は嫌がり暴れたが、兵により半ばかどわかされるにして親と引き離されてしまった。

 そしてそこから、少年の地獄のような生活が始まる。

 少年は力を持つものの、それを自由に扱う術を持ち合わせていなかった。それは気まぐれに訪れ、また気まぐれに去る。戦の戦術や敵国の動向など、王やその周りの人物が見ろというものを自由に見られるわけではなかったのだ。王は怒り、ままならない少年を厳しく罰した。毎日毎時間少しでも長く眠ることを強要され、夢を見なければ罰が待つ。そんな中でも、少年は必死に生きた。いつか、ここから解放される日がくることを信じて。

 それなのに。

 ある日、少年は自分の未来を夢見る。見てしまう。それは、自分が殺される夢だった。

 ここにいてはいけない。生きたいという、最低限の望みすら叶わない。

 少年は逃げることを決意するが、寝てすごすばかりだったせいで、体力も学力もない彼にはそれは途方もない話だった。隙を見て部屋から逃げ出し、懸命に走るも、すぐに見つかって追っ手がかかる。

 少年は、必死に走った。そして王宮を囲む森の中に、民家があるのを見つける。

 少年はぼろぼろの身体を引きずって、その民家の戸を叩いた。

「お願いします!僕を買ってください!」

 その夢見の力が売れることを知っていた少年は、必死にそう叫んだ。


その相手が、辰巳だった。

そのときの少年には分からなかったが、辰巳は人間ではなかった。

辰巳の正体、それは欲。欲の塊、欲の化身。満たされることで昇華した人間の欲を血肉としているのが辰巳なのだ。

辰巳は少年に言った。少年の魂を買おう、と。そして問うた。対価に何を望むのか、と。

少年の答えなど、考えるまでもなく決まっていた。

「生きたい!もっと、もっと自由に生きたい!」

人に生を与えるのは神の領域。本来、辰巳にどうこう出来るはずがない。

けれど、そのときの辰巳はその対価を支払うだけの力を持っていた。より効率的に、より高いエネルギーを得るために、辰巳は人の欲を満たす場所を生んでいたのだ。

それが、天辰堂。

どこにでも現れ、いかなる望みもかなう場所。

故に、辰巳は応えた。

「承知した」、と。

こうして少年と人外の間に、奇怪な取引が成立してしまったのだ。

いくら力があるとはいえ、辰巳に出来ることは限られていた。

肉体と言う器を作ることは出来ない。那智の魂を浄化して、ゼロに戻すことは出来ない。そして半永久的に魂を肉体にとどめることは出来ない。

故に辰巳は、年のころが少年と同じくらいのきれいな死体を捜し続けた。

そうして見つかった後に、少年に告げたのだ。

「タイム・リミットは十年。俺の力で魂を留めるのは、それが限界だ」

「十年だなんて、短すぎるじゃないか!」

ようやく自らの人生を歩めると思っていた少年には、それは余りにも短い時間で。当然のようにあがったのは、悲痛な抗議の声。

「だから、その先は自分の力で何とかしろ」

けれど辰巳はそんなことは意に介さずに、淡々と続けた。

「俺の、力で?」

「そう。この器はお前の魂を受け入れるのには足るだろう。けれど、死したお前の魂には本来あるべき場所……天へと、戻る力が働いてしまう。だから、ただ入れただけではそのままお前の魂は成仏する。だが、」

辰巳は一度言葉を区切る。そうして次の言葉を待つ少年に、指を三本立てて見せた。

「三つ」

少年は聞き逃すまいと、耳を澄ませる。

「三つの条件が揃えば、それを阻止することが出来る」

「三つの、条件……」

「一つは、お前自身の強い未練。もう一つは、本来その世界に属している誰かのお前に対する未練。最後に、その二人の絆。三つが揃えば、その?誰か?との絆が、お前を世界に留める楔になる」

少年はこぶしを握り締めてその話を聞いていたが、難しすぎて半分も理解できなかった。自分の幼さが悔しく、唇をかみ締めてしまう。

「簡単に言うと」

辰巳はそれには構わずに、けれどもぽんと軽く少年の頭を叩いた。

「誰かに、深く愛されろ」

「愛される…」

「そうだ」

そして、口の端を吊り上げて挑戦的に笑う。

「お前の努力しだいで、どんな人生になるかが決まるぜ?」

那智が目を開けると、辰巳があの日と同じように口の端を吊り上げていた。

思い出した。何もかもを。自分が何者か、どうしてここにいるのか。

そして、

「さて」

時が来たことも。

「約束の十年だぜ?」

そう。今日はあの事故から、ちょうど十年目。

「見つかったか?お前の魂を留めてくれるやつは」

那智の頭には、今まで出会った人たちがよぎった。

クラスメイト。孝太。修、母、亜貴。どの人も足りないだろう。那智ではない那智をとどめるには、愛が。絆が。

那智には力なく首を振ることしか出来ない。

「そうか、残念だぜ」

そして、那智は次の瞬間身体に大きな衝撃を感じ、意識を手放した。


...その4

「……まだそんなもの持っているのか」

古書店のカウンターに座った辰巳は眠りから覚めた那智を見て、呆れたようにため息をついた。その手にあるのは、真っ白な表紙の本。少年のたった七年の人生をつづった、あの本だ。

「辰巳さん」

約束の十年の間に那智は魂を引き止めるための歯止めを見つけることが出来ず、契約は成立した。すなわち辰巳は那智の魂を買い取った。那智は今、少年の姿に戻っている。

「何がそんなに面白いんだ?お前の人生だろう、そんなものに頼らなくてもお前の頭に入ってるじゃないいか?」

もっともな指摘に、那智は苦笑いを返すことしか出来なかった。確かにそうなのだ。この本を触らなくても、那智にはもう少年の人生を思い出すことが出来る。けれどだからこそこれを持っていなくてはいけないのだと、説明したらこの人は分かってくれるだろうか?

本を持っていないのに思い出したりしてしまったら、那智が那智ではないと認めることになってしまうから。決定的なその事実をそれでもまだ否定したくて、那智は何度もその本に手を伸ばす。もう終わったのに、まだ那智でありたいのだ。

あれほど焦がれたはずの失くした記憶を、那智はもう一度捨ててしまいたかった。それで何が変わるわけではないと分かっているのに。

どうして自分は那智ではないのだろう。

こうなって初めて那智は、自分が探していたものが失くした記憶ではなかったことに気がついた。那智が欲しかったのは、自分が那智であるという証明。自分が何者なのかを、那智は知りたかった。その答えを記憶に求めていただけなのだ。

「なあ、辰巳さん。聞きたいんだけど……」

けれど得られたのは、自分が那智ではないという事実だけ。少年だったことは分かったのに、一番大事なことが分からずじまいなのだ。

「俺の名前は、何?」

それはこの本にも書かれていないことだった。正確に言えば、この本を見ても分からないこと、となるのだろうが。

少年の名前が分からない。それでは何も変わらないのだ。那智が自分を那智であると思っていた頃と、何一つ。名前がなければ少年は自分にはなりえない。名乗る術がなければ、那智には自分を語ることが出来ないのだ。

「自分の名前も分からんのか、お前は?」

辰巳は面白そうに口の端を吊り上げる。ここから答えを引き出すのは難しいだろう、それでも那智は欲しいのだ。自分とは何かを知りたいのだ。

「思い出せないんだ」

那智は正直に言って、辰巳を見上げた。何度この本を触っても、自分の記憶を辿っても。だから那智は那智ではないと分かっているのに那智と名乗ることしか出来ない。

「思い出せない。一番思い出したいことなのに、どうしても少年が名乗っていた名前が……俺の名前が、思い出せないんだ」

哀願と言う言葉が似合いそうなくらいに悲壮な声を出す那智に、辰巳は口元の笑みを消した。

「お願いだ、教えてくれよ。俺の名前。俺は、本当は、何者なのか」

まっすぐに見つめる那智の瞳を見つめ返して、辰巳はしばし沈黙した。

「悪いが」

そして、かみ締めるように言う。

「俺には無理だな」

「どうして!ここでは、何でも叶うんだろう!?」

つい、声が大きくなってしまう。けれど辰巳は首を振った。その指が二本立てられる。

「お前は二つ思い違いをしている」

辰巳はそう言うと、那智に座るように促した。すっかり指定席となったパイプ椅子。焦る気持ちのせいか、動作が荒々しくなり、どかっという音が響く。

「一つ。天辰堂は欲を満たす場所。お前が本当に望むことしか、叶わない」

本当に望むことしか、叶わない。そして少年の名前を知ることは叶わない。

「それ、どういう意味?」

それではまるで、那智が本当に名前を望んでいないようではないか。

思わず辰巳をにらみつけると、辰巳は肩をすくめてから言った。

「お前が名前を望んでいないのかもしれないし、そうじゃないかもしれない」

曖昧な物言いはいつものことだ。辰巳と話して、本当に欲しいものを得ようとするには根気が要る。ここ何日かの付き合いだけでもそんなことは嫌と言うほど分かっていたのに、焦燥が消えない。

「例えば……『痩せたいけど食べたい』、そんな相反する欲を抱えた者が天辰堂に現れた場合、お前はどうなると思う?」

辰巳はのんびりとした口調で唐突に問うた。関係があるのかないのか、分からない問い方もいつものこと。回り道なのか方向転換なのかすら分からなくても、答えなくては話は進まないのだ。

「……食べても痩せられる身体になる、とか?」

ダイエットの方法として誰もが思いつくのが、食事制限だろう。だがそれにはもちろんストレスがかかる。だから、食べたいけど痩せたい、痩せたいけど食べたい、そんな相反する欲を持つことはそう不思議なことではない。天辰堂が欲を叶える場所ならその両方が満たされるのではないかと那智は考えた。

だが、辰巳はにやりと笑って首を振る。

「違うな。痩せたいと食べたいとは別の欲だ」

言わんとすることが分からず、那智は首をかしげる。痩せたいと食べたいは確かに別の欲だ、だからこそ相反するのだろう。だからなんだと言うのだ。

「天辰堂は強い欲を抱えた者の前に現れる。叶えるのは、一番強い欲だ。ここまで言えば分かるか?」

「……痩せたいと食べたい、どちらか強い欲が叶う?」

「ああ」

辰巳は満足そうに笑うが、那智には辰巳が何を言いたいのか分からない。

「それで、何が言いたいんだよ?」

「だから、お前が名前を望んでいないかもしれないし、望んでいるのかもしれないってことさ」

忘れかけていた本題を思い出して、那智はあっと声を上げた。

「もっと強い欲が、あるのかもしれないってこと?」

けれど辰巳はそれには答えずに、もう一度指を立てて見せた。明確な答えは与えずに、違う話を始めてしまう。

「もう一つ。それは、ここが天辰堂ではないということ」

そしてそれは、一つ目よりも衝撃的な内容だった。

「天辰堂じゃない?だって、ここは……」

辺りを見回す。ここは那智が辰巳と初めて会った本屋だ。確かにこの本屋を、辰巳が天辰堂だと言ったのではなかったか。

「この空間は、天辰堂ではない。天辰堂は、このカウンターの奥……あの、円柱型の空間、あそこだけだ」

入り口も出口も、およそつなぎ目のない真っ白な円形の壁。四色の柱。黄色の円卓。小さな本棚。一度だけ入ったことのある、一度見れば忘れられないあの空間を思い浮かべ、那智は小さく天辰堂、と呟いた。思えば、辰巳が『天辰堂にようこそ』と言ったのはあの空間にいた時のことだ。

「じゃあ、ここは何?」

当然浮かんだ那智の疑問に、辰巳は面白そうに口の端を吊り上げた。

「その本もここにあった本なんだぜ?」

指差したのは那智の手にあった白い本。相変わらず辰巳の物言いは回りくどくて意味が分からない。那智は指の先を追って、持った本を顔の高さにまで上げた。

「この本が、ここにあったもの……?」

だが、それが何の手がかりになるというのだろう。この本に書かれているのは少年の生涯、それだけなのだ。この空間はもちろんこの本には出てこない。

「……そういえば、俺、ここに来たのは那智になってからだ」

少年の短い生涯が幕を閉じてから、那智の身体が見つかるまで。那智は長いとも短いとも言える時間を、確かに天辰堂で過ごしていた。だがその時の天辰堂にはこんな古書店はなかった。

「そうだな。この古書店は、お前がその身体に入った時に誕生したんだから」

那智の言葉に辰巳が答えるが、それは答えには程遠い。

「……それじゃあ分からないよ」

那智は肩をすくめて降参した。辰巳はニヤニヤという笑いをちっとも隠そうとしない。

「そうか?もう少し考えてみろよ?」

辰巳は腕を伸ばして、那智が掲げた本を取り上げる。……と、その本は那智の手から離れた瞬間に霧のように散っていってしまった。

「……え?」

物理の法則を無視したその消滅劇に、那智は一瞬何も考えられなくなる。辰巳が何もなくなった手をひらひらと振って、それから那智のもう片方の手を指した。何も言えないまま向けば、そこには先ほどまで持っていた、あの本が。

「……」

まるで天秤にでもなったかのように、呆然と上げていた手を下げ、代わりに本を目の高さまで掲げる。こうして戻ってきてしまえば、さっきのあの現象は幻だったかのように思えてくる。

「まだ、わかんねーか?」

辰巳が小ばかにしたように尋ねる。まだも何も、那智には何が起こっているのかからしてさっぱり分からなかった。いったいこれだけで、何を分かれと言うのだろう。

「分かるかよ!」

不公平感にさいなまれて、つい大きな声が出る。ヒントでもあるのかと思って戻ってきた本を探っても、それは消える前と何一つ変わらない、少年の生涯を綴った本だった。

「ここはお前の能力の受け皿だよ」

そうしてたっぷりと待って、ようやく与えられた答えもまた、那智には難解なもので。

「俺の、能力の、受け皿」

かみ締めるように反芻しても、一向にその意味は分からない。

「お前の能力まで受け入れる器はさすがに見つからなかった。だから俺は、お前の先見の能力をこうやって具現化して、お前から引き離したんだ。店そのものはお前の魂の代わり。本棚は能力で、その本はお前の能力で見ることの出来る未来」

「え、でも」

砕いた説明に、ようやく那智にもその意味が分かりかける。でも。

「俺の能力って、先見じゃないの……?」

掲げた本を見る。これが那智の能力だといっても、ここに載っていたのは少年の生涯。それは、未来ではなくて過去の話だ。

「過去は、過ぎ去った未来なんだよ」

いつかは未来でであったものが過ぎ去ったもの、だから過去。

「そんなの、詭弁だっ」

過ぎ去った未来、ではなくて、過ぎ去った時間、だから過去なのではないか?

「信じないのか?まあ、それなら仕方ないが。なんにせよ、俺がその本に触れないのはわかったろう?ここは天辰堂でもないし、その本は俺の能力でもない。だから、俺はお前の望みを叶えられない。悪かったな〜」

ちっとも悪びれずに言って、辰巳は不意に立ち上がった。そのままカウンターの奥へと消えていこうとしてしまう。

追いかけても良かったのだが、那智はあの空間が苦手だった。辰巳の言うようにカウンターの奥はあの円柱型の空間に繋がっているし、そこには那智も自由に出入りすることが出来る、らしい。ただ、あの出入り口のない空間にいつの間にかいるという、なんともいえない感覚が苦手なのだ。

「あ」

きっと、あと一歩も踏み出せば天辰堂へと消えてしまうところまで歩いてから、辰巳は不意に声を上げて立ち止まった。

「ここの本、俺は触れもしないがお前なら自由に出来るはずだぜ?試しに誰かの本を探してみろよ」

「好きに、って……」

少年には確かに、とても優れた先見の能力があった。けれど少年には……那智にはそれを制御することは、出来なかったはずだ。

「肉体の枷を外れてるんだ、お前の思うままだよ。試してみると良い、俺の言ったことが本当だって分かるぜ?」

「でも、探すって言ったって、どうやって……」

辰巳は那智の言葉を最後まで聞かずに、そのまま天辰堂へと消えていってしまった。一人残された那智は、ため息を落としてから辺りを見回す。

そこには、乱雑に並べられた本棚と本の海があった。探せ、と辰巳は言ったが、この本には言葉が書かれているわけではない。表紙にも、背表紙にも、ぱらぱらとめくったその中にも、あるのは景色や絵や色といったものだけで、言葉はどこにも書かれていないのだ。

「こんな中から、どうやって……」

探せと言うのだろう。

そう、思った瞬間に、那智の目の前に三冊の本が現れていた。ついさっきまで辰巳と那智を隔てていたカウンターの上に、まるでずっとあったかのような顔をして。

「いつの間に……」

手を伸ばそうとして、そのままの形で那智は動きを止めた。

「探して、ない」

それが誰の本だか、分かってしまったのだ。

一冊は、母の本。それは、大きな山が緑で覆われた、心休まる表紙。

もう一冊は、雪山の雪解け水が川になっていく表紙……多分、修の本。

最後は、空の青に塗りつぶされた、亜貴の本。

欲しいと思った記憶もないのに、探してすら居ないのに。それが、那智の目の前に現れていた。

分かってしまう。

この本に触れれば、全てがはっきりする。彼らが、那智を……那智ではない那智を、どう思っていたのかが。知りたかったその全てが、今の那智には指先一つで分かるのだろう。

那智は伸ばした手をぎゅっと握って、胸まで引き寄せると、もう片方の手のひらでかばうように包み込んだ。

そうして、那智がそれらの本を向くことは二度となかった。


...その5

「お。客だぜ?」

不意に辰巳が言ったのは、那智がここに来てから随分経ってから、のように思えた。もっとも、この空間には時間の概念がない。肉体から離れたばかりの那智は今でも日に三度食事をし時間になれば眠っているが、時間が経てばそんなことはしなくなると辰巳は言っていた。

「初めての客だな?俺、何したらいい?」

そのとき古書店にいた那智は、カウンターの奥に座る辰巳に問う。辰巳には天辰堂の様子が見えているようだったが、那智にはまったく分からない。辰巳がニヤニヤと笑うのを、那智は眉間にしわを寄せて見守った。

「とりあえず、なんもしなくていいぜ。黙ってみてな」

そうして次の瞬間、那智は天辰堂へと移動していた。

客はどんな人だろう。円卓近くにいる人に、目を凝らす。こちらに背を向けているその人は、那智より十センチほど背の低いショートカットの女のようだ。

「いらっしゃい」

辰巳に声をかけられ、その女が振り返る。

那智は思わず声を上げそうになった。

「天辰堂へようこそ、清水亜貴さん?」

そこに立って不思議そうに目を丸くしていたのは、亜貴だったのだ。

「天辰堂?」

けれど、亜貴には那智が見えていないようだ。その目は辰巳に向いたまま、動くことがない。

「そう。望みを何でも叶えるぜ?あるんだろう、何を引き換えにしても叶えたいことが」

亜貴の望み。

那智は知らず、つばを飲み込む。

「ええ、あるわ。私の幼馴染を、返してほしい」

迷いのない瞳が望むものがどちらなのか……那智は震えるこぶしを強く握る。

「幼馴染、と」

「私の幼馴染が……古谷那智が、今、病院で昏睡状態に陥ってるの。私の望みは、彼が目を覚ますことよ」

那智の身体が、昏睡状態で眠っている?

思っても見なかった言葉に那智は思わず辰巳を見た。辰巳は言ったのだ、十年で那智の魂をとどめるものが見つからなかった場合、魂が肉体から分離する。魂は天辰堂に捕らえられ、肉体はその元の姿に……死体に戻る、と。

でも、那智の身体が死んでいないとはどういうことなのか。

辰巳は口元に笑みをはくばかりで、那智の問いには答えを与えてくれない。

「いいぜ?叶えてやる」

亜貴の顔が喜びに満ちたのは、一瞬。

「ただし」

意味ありげに言葉を切った辰巳に、亜貴は怪訝そうに眉をひそめた。

「帰ってくるのはどちらか一人だ。お前はどちらに帰ってきてほしい?」

亜貴の目が驚きに見開かれ、那智は思わず声を上げようとした。那智の身体に魂が二つ宿っていたことを、亜貴は知らない。那智が那智でなかったことを知らない亜貴に、どうしてそんなことを聞くのだと。

けれど、声は出なかった。なにか、強い力に邪魔をされている気がする。

懸命にぱくぱくと口を動かしている那智にはまったく気づかずに、亜貴はやがて辰巳を見据えた。そこに思っていたような戸惑いの色はない。

「なっちゃんは」

なっちゃん。それは聴きなれない言葉だった。那智のことなのかもしれないが、那智にはそう呼ばれた記憶がほとんどない。

「蚊の一匹も殺せないような、優しくて穏やかな子だった。喧嘩してもいっつもやられるばかりで、笑って言うのよ。殴った子の方が痛いから、いいんだって」

思いをはせるように閉じられた瞳。その口元に浮かぶ優しい笑みが、那智の心を締め付ける。

それは、那智のことではない。

七つで死んだ、本当の那智のことだ。

やはり自分は望まれないのだろう。亜貴がずっと待っていたのは那智、本当の那智が戻ることなのだ。

これ以上聞いていたくないと、耳を塞ごうとしたとき。

「でも」

開かれた瞳がまっすぐに辰巳を見据えた。

「なっちゃんは、死んだの。十年前の今日、事故に遭って」

那智の動きが、止まった。

「今はもう、私にとっての那智は十年一緒にいた彼だけなの。私が帰ってきてほしいのは…この前まで、隣にいた那智よ」

辰巳はにやりと笑う。

「…いい返事だ」

そして、那智を振り返った。

「お前はちゃんと見つけてたんじゃねーか?」


..第五章


...その1

修が家に帰ると、キッチンで何かをしていた母が出てきてダイニング・テーブルに座るように促した。厳しいまでに真剣なその表情は珍しく、修はおとなしく従う。

「那智のことなんだけど」

予想通りだと、修は思った。

那智が記憶をなくし、別人のように変わってしまってから早十年。強いて話題にすることを、お互い本音を見せることを隠してきた話題だが、もう潮時だと言うことなのだろう。

「那智が、どうかした?」

「もう、いいじゃない」

母は唐突に言った。もういいじゃない。そう、確かに修自身ももういいじゃないかと思っていた。

「あの子は十年苦しんだわ」

けれど、それは那智だけではないのだ。分かってない、子供のような衝動が沸きあがって、修は思わず声を荒げた。

「あれは那智じゃない!母さんも分かってるだろう!」

それは十年、修が隠し続けてきた思いだった。可愛い弟が事故にあったと聞かされ。三日目を覚まさなかったときは本当に肝が冷えた。ようやく目を覚ましたと思ったのに、那智は訳の分からない言葉を繰り返し、虚空を見つめるばかりで。どうしてそんなものが、あの優しかった弟だと信じられよう。那智を愛するが故に、修の絶望は深かったのだ。

けれど。それでは終わらなかった。

あの頃の那智の要素なんて何一つ持っていないそれは、けれども確かに容姿だけは那智で。

この手で傷つけているあれは那智ではないのだと、何度自分に言い聞かせてもだめだった。あれは那智の目。那智の顔。那智の声。中身はまったく違うのに、身体はまったく那智のもの。

その苦しみは今日まで続いている。

今の那智が、嫌いなわけではなかった。変わってしまっても彼の弟であることに変わりはない。けれど、一番最初にとってしまった拒絶と言う態度を改めることが出来ずにいる。

それは意地であり、また那智への思いの裏返しでもあった。

「あれを那智だと認めてしまったら、那智はどうなるんだ……!」

消えてしまうのは、耐えられない。帰ってこないのかもしれない、それでも那智があれで消されてしまうことには耐えられないのだ。

「分かってるわ!」

母が声を荒げるのは、本当に珍しいことだった。

「あの子は、那智じゃない……!」

苦しげに吐き出されるそれもまた、聴いたことのない母の本音。

「そんなことは分かっているの。十年前のあの日から、一度もあの子を那智だと思ったことは無いわ」

身体が震えているのは、言ってはいけない本音をぶつけるからだろうか。母はそこまで言うと、力なくダイニングに肘を着いて、俯いた。

「そうよ、那智じゃない。でも、確かに私の子なのよ」

それは祈りのしぐさにも似て。

「貴方の弟なのよ。違うかしら、修?」

修は思わず、その手を包むようにして握っていた。それはまだ震えている。

「ごめん、母さん」

修もまたダイニングテーブルに視線を落とした。

「怖かったんだ。あれを那智だと認めたら、那智が消えてしまう」

母も父も亜貴も、あれを那智だと呼んで。受け入れて。でもじゃあ、那智はどうなるのか。自分くらい那智を覚えていなくては、と。

でも、違ったのなら。あれを那智だと認めても那智が消えないなら。

「確かに、あの子は……那智は、俺の弟だ」

本当はずっと、そう言ってあげたかった。

ゆっくりと目を開けると、まぶしいくらい白い天井が目に入った。光が眩しくて目を開けていられず、何度か瞬きを繰り返す。

「那智……?」

それに気がついたのか、母の声がすると天井を母の顔が覆い隠した。

「那智……!」

那智を目を合わせると、母は口元を覆い隠して視界から去る。ようやく光に慣れた目で辺りを見回せば、修が安堵したようにため息をつくのが見えた。

「お帰りなさい」

そうして、亜貴が微笑むのも。

那智はそれらを見回して、帰ってきたのだと知った。

自分は帰ったのだ。那智の身体に。でも、これでよかったのだろうか?

「俺……」

長い間使っていなかったせいか、声を出そうとするとのどがひどい痛みを訴えた。それでも言わなければならないことがある。

「俺、蚊が平気でつぶせて、喧嘩したら平気で殴っちゃう方の那智だけど…」

母。修。亜貴。それぞれの顔を見て、続ける。

「帰ってきて、いいの?」

「馬鹿なこと言わないで!」

間髪入れずに答えたのは、母だった。

「帰ってきていいんじゃない。帰ってこなきゃいけないのよ!」

「お帰り、那智」

母と亜貴は、そういって両側から手を取る。そうして、修もまた。

「お帰り」

そっぽを向きながら、それでも確かにそう言って。

「ただいま」

それは涙でまともな声にはなっていなかったが、那智は何度も繰り返した。


...その2

夢を見ていた気がする。

目を覚ました那智は、身体を起こすことなく天井を見上げた。

それは、遠い異国で懸命に生きる少年の夢、ではなく。

ましてや誰かの未来を垣間見るものでもなく。

那智が自由に空を飛びまわる、ただそれだけの何の意味もない夢。

「いい夢だった!」

那智は跳ね起きると仕切り代わりのカーテンを閉め、着替える。

今日は退院の日だった。迎えには母と修が来ることになっている。

待ち遠しくまっていると、やがて病室のドアが開かれた。

「退院、おめでとう!」

にっこりと笑う母の横には、ぶきっちょ面の修。

「二度と面倒かけさすなよ」

それが修なりの気遣いだと分かった那智は、微笑んで素直に頷いた。

修との仲がすぐにどうこうとはならないだろう。それでも二人はきっと歩み寄れる。

だって、彼らにはもう時間がたっぷりとあるのだから。

 退院祝いに、と用意された豪華な夕食と、母の手作りケーキでお腹がぱんぱんに膨れた那智と亜貴は、揃って縁側に座っていた。二人でこうして過ごすのは、本当に久しぶりのことだ。

「なあ、亜貴」

 那智は咳払いを一つして、いつもより微妙に空いた距離を詰める。

「俺、亜貴が好きだ。俺と、付き合ってくれないか?」

 それは、生まれて初めての告白だった。まっすぐ前を向いたまま一息で言い切って、那智は亜貴の返事を待つ。

 亜貴の気持ちは一度聞かされていたが、那智はドキドキが収まらなかった。那智が那智ではないと知っても、亜貴は那智がいいと言ってくれるだろうか?

「私ね、なっちゃんが初恋なの」

「なっちゃん?」

 予想外のせりふに、那智は首をかしげた。

「私、幼馴染の那智のことをなっちゃんって呼んでたのよ。十年前まで」

 やっぱり、あのときの言葉は、本当の那智を指すものだったのか。

けれど那智はなっちゃんなどと呼ばれた記憶はない。そう、素直に告げると、亜貴はため息をついた。

「当たり前じゃない。呼んだことなんて、ほとんどないもの」

「どういうことだ?」

 話が見えずに眉を寄せる。思わず亜貴を見ると、亜貴もまたこちらを向いて悪戯に微笑んだ。

「私、分かってたのよ。なっちゃんが居なくなって、那智になったこと」

 思っても見なかった言葉に、那智は呆然とする。

「だから。なっちゃんが初恋で、那智は二番目。二番目に恋をした」

「亜貴……」

 亜貴が何を言おうとしてるのかが分かって、那智は思わず亜貴に手を伸ばした。いとおしい気持ちのままに抱き寄せれば、亜貴もまた大人しく身をゆだねる。

「ちゃんと、今の那智が好きだったのに、那智は信じてくれなかったね」

「ごめん、亜貴」

 微かに涙の気配が混ざる声に、那智は慌てて腕の力を強くした。隙間がないくらいぴっちりと抱き寄せる。

「私の目を見て好きだっていえたら、付き合ってあげてもいいわ」

 おどけたようにいう亜貴の声は、もうすでに湿っていた。

 今はもう少しこのままで。亜貴が顔を上げたら、今度こそ目を見て伝えよう。

 好きだ、と、ありがとうを。

亜貴のおかげで、那智はこうしてここにいることが出来るのだから。

那智が商店街でその店を探すと、見つからないかと思ったそれは案外すぐに見つかった。

古書店。那智の始まりで、そしていずれ来る終わりの場所。

迷路のような本棚をすり抜けて奥へ進むと、カウンターには辰巳が座っていた。

「よう、那智」

「久しぶり、辰巳さん」

すっかり見慣れた顔に挨拶をすると、辰巳は目を細めた。

「よかったな」

「……うん」

ここに来るのは、もう少し先の話になりそうだ。

「那智」

急に辰巳の顔が真剣になり、那智を見つめた。

「ん?何?」

「お前の、本当の名。知りたいか?」

少年の、名。

それはあの映像にも一切出てこなかったもので、不思議になって辰巳に何度聞いても教えてもらえなかったもの。

「あの時は首の皮一枚で繋がってた肉体と魂を引き裂きかねなかったから教えなかったが、今なら大丈夫だぜ?」

唐突な申し出に、那智は戸惑う。

「名は体を現す、とも言うだろ?欲しいか?お前の名が」

けれど、皮肉にもその一言で心は決まった。

「要らない」

名が体を現すというならば。

「俺は、那智だ」

それが、那智の全てだ、から。


..終


あの日、空はどんよりと曇り、大粒の涙を流していた。

それがどこの次元のいつの話であったか、辰巳は定かに思い出すことは出来ないが、あの日のことを忘れる日はもうしばらく訪れないであろう。

ばたん、と激しい音をたてて開いた扉。雨と泥にまみれた身体。そして今にも倒れ込みそうな様相で、それでも必死にしがみついてきた手の強さ。

「僕を買ってください!」

傲慢なまでのその台詞を放つ声はまだ幼く、それ故言葉には欲がなく。

それを最後に倒れてしまった、自分よりも遙かに小さく弱いそれを抱きながら、辰巳は底知れない畏れを感じた。

だから、なのかもしれない。

『いいぜ。買ってやるよ、お前が望む対価で』

聞こえていないのを承知で、そう呟いてしまったのは。


「お前はよほど雨が好きなんだな。いや、陽が嫌いなのか?」

枕元に座り込んで囁いてやれば、その老人は僅かに眉を揺らして反応をした。

「うるさいな、別に好きじゃない。どうせ俺は雨男だよ」

言い返す声には力はなく、老人は寝返りを打って手を払った。

窓の外はどんよりとした曇り空。空は大粒の涙を流している。まるで、別れを惜しむかのように。

「朝よ、起きて。那智」

部屋に入ってきた老婆が、いつものように那智を揺り起こそうとする。那智は目を開け、そして見た。年を取っても美しく、いとおしいままの妻、その肩越しにこちらを覗き込む男を。

妻は男には気付いていない。それは、男が人ならざる者である証でもあった。

『残念だが、時間切れだ。迎えに来たぜ、那智』

妻には決して聞こえないその声に、那智は静かに目を閉じる。

「ほら、那智。いい加減起きて、ご飯が冷めちゃうわ」

身体を揺さぶる妻の腕を、那智は絡めとる。そのまま抱き寄せて、細い身体を直に感じた。

「ちょ、何!?」

もう随分と長いことなかった触れ合いに、妻は困惑して腕から逃げようとする。それをありったけの力で抑えながら、那智は男を見据えた。

「ありがとう」

「え?……ねぇ、どうしたのよ、ちょっと」

男は微笑み、そして問う。

『幸せだったか?』

那智は目を閉じ、そして……

「ああ。幸せだったよ、この六十年間」

それが、最後の言葉となった。




是非、一言でも良いので何か感想を頂けたらと思います。

辛口の意見も大歓迎です。よろしくお願いします。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 記憶喪失モノも、人外的な能力モノも大好きなので、まさに好みにどストライクで読んでいて楽しかったです。 文章の運びも読みやすくて、登場人物も魅力的だと思います。良かった! [気になる点] 悪…
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