第5話 嫉妬
一也の寝顔を見ながら、紀子は完全に心を奪われていった。
一也の運転する車は、公園を離れ、広い通りに出ると、うまく渋滞を回避しながら走行した。
「ね、ちょっとそれとって」
一也の左手は、後ろの座席のCDケースを指差していた。紀子は言うとおりにケースを取ると、一也の方を見た。
「ね、開けて、中から好きなCD取って」
紀子はそおっとケースを開けると、一枚一枚アーティストを確認しながらCDを選んだ。紀子のお気に入りのアーティストが、たくさんあった。その中に、ラリー・カールトンの『スリープ・ウォーク』というアルバムを見つけて、手に取った。久しぶりに聴いてみたくなったのだ。
「これにしましょう」
紀子が、運転している一也に見える位置までCDを持ち上げると
「ああ、このCDいいよね。ラリーさんのサイン入りなんだよ」
「え?」
紀子は驚いて、CDをまじまじと眺めた。言われるまで気づかなかったが、よく見るとそこにはラリーのサインと一緒に『To Naomi』と書いてあった。
「なおみ・・さん?」
「ああ、それ、奥さんの名前だよ。一緒にライブに行った時、書いてもらったんだ」
「そうなの・・貴重な一枚ね」
「ああ、そうなんだ」
そう言いながら、オフコースのCDとラリー・カールトンのそれとをチェンジした。
(なおみさんっていうのね。・・やだな、なんだか)
瞬間に紀子は、会ったこともない「なおみさん」に嫉妬した。そして、右手を思わず運転している一也の左腕に絡ませた。急に独占したくなったのだ。びっくりした一也は、いつもの笑顔で紀子を見つめた。
「どうしたの?」
「・・・なんでもない」
そう言うと、紀子はそのまま彼の左腕をぎゅっと握り締めた。
無言でしばらく走ると、一也が言った。
「時間、何時まで大丈夫なの?」
「え?」
急に現実に引き戻された紀子は、一也の腕から右手をはずすと、時計を見た。もうすぐ5時をさしていた。そういえば、いつのまにかあたりは暗くなり始めていた。
(何時でも大丈夫よ)
そう答えたかった紀子だったが、つい口をつぐんでしまった。
「ご主人は何時に帰ってくるの?夕飯の仕度とかあるんでしょ?」
「え?あ、うん・・・」
(本当はそんな必要ないのよ・・・)
戸惑っている紀子をよそに、一也はさらっと言った。
「そろそろ会社に戻らないといけないから、最寄の駅に送るよ」
「あ、うん・・・ありがとう」
店長である彼は、仕事が忙しかった。そして、仕事熱心だった。そんなまじめなところも、彼の魅力のひとつだ。
紀子には音楽も何も聞こえなかった。もう別れなければいけない。しかも、本当のことを言えないまま。
(どうしよう、結婚してないって伝えなくちゃ)
そう思っているうちに、あっという間に駅に着いてしまった。淋しそうな紀子を見ながら、一也が言った。
「ねえ、また会ってくれるでしょ?」
「はい」
紀子は笑顔で答えた。一也も笑顔だった。
「またメールするから」
「私も。じゃ、またね」
紀子は助手席のドアを開けると、さっと降りた。名残惜しそうにドアを閉めると、運転席の彼はにっこり微笑んで左手を上げ、静かに走り去っていった。
外の空気はとても冷たくて、紀子は手に持っていたコートを急いで羽織り、マフラーを首に巻いた。静かに走り去っていく水色の車を見送りながら、紀子はなぜか涙が出そうになった。
紀子は「結婚しているというのは嘘」だということを伝えることができずに、あっさりと別れてしまった。はたして次の展開は・・?