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生きて帰った日、両親は「娘はもう死んだ」と言った

作者: 熾星
掲載日:2026/07/08



 プロローグ



 三日ぶりに家へ戻った日、埼玉県川口市にある田原家の前で、私は足を止めた。


 玄関先には白い菊が二列に並べられ、門のそばには黒と白の葬儀案内が掲げられていた。庭には見知らぬ車が何台も停まり、近所の人や親戚たちが黒い喪服姿で、声を潜めながら出入りしている。


 一瞬、家を間違えたのだと思った。


 けれど表札には、はっきりと「田原」と書かれていた。


 私は玄関の引き戸を開けた。中には線香の匂いが満ちていた。


 客間の中央には白木の祭壇が組まれ、供花、白木の位牌、焼香台がそろえられている。黒い額に入った遺影が、その真ん中に置かれていた。


 写真の中の女の子は、私が一番好きだったベージュのニットを着ていた。長い髪を肩に垂らし、穏やかに笑っている。


 けれど、その顔は私ではなかった。


 私は玄関で立ち尽くした。手足の先が冷たくなっていく。



 1.私は生きているのに、家では私の葬式が行われていた


「お父さん、お母さん……何してるの?」


 客間の泣き声が止まった。


 祭壇のそばに座っていた女性が顔を上げた。二十二年間、私が母と呼んできた人――田原美代子だった。


 目は泣き腫らしているのに、私を見ても驚いた様子はまるでない。まるで他人の葬儀に紛れ込んだ不審者でも見るような目で、じっと私を見つめていた。


「あなた、誰?」


 喉が詰まった。私は一歩、前へ出た。


「お母さん、私だよ。遥香だよ」


 母が勢いよく立ち上がった。


「祭壇に近づかないで!」


 私は止まらなかった。


 遺影の女の子は、従順そうに笑っていた。誰かが丁寧に選んだ、偽物の仮面みたいな笑顔だった。私はその写真を手に取ろうとした。


 その瞬間、横から強く突き飛ばされた。


 田原翔太が飛び込んできて、私の襟元を乱暴につかんだ。


「どこの頭のおかしい女だよ。俺の姉貴の通夜で何してんだ!」


 襟が喉に食い込んだ。私は彼の手首をつかんだ。爪が皮膚に食い込むほど、強く。


「翔太、よく見て。私だよ。あんたの姉でしょ」


 次の瞬間、頬に鋭い衝撃が走った。


 翔太に殴られたのだと気づいたときには、顔の半分がしびれていた。耳の奥で、低い音だけが鳴っている。


「俺の姉貴は一昨日死んだ。今日は通夜で、明日は葬儀と告別式だ。そのあと火葬場で骨上げして、遺骨を家に戻すんだよ。バズりたいだけの異常者が、よくそんな真似できるな」


 周りの人たちが、ひそひそと話し始めた。


「今の子は再生数のためなら何でもするのね」


「見た目は普通の学生さんみたいなのに、怖いわ」


「娘さんを亡くしたばかりの家に来て、なりすましなんて……ひどすぎる」


 私は頬を押さえたまま、ソファに座っている男を見た。


 田原修一。私の父だった。


 父は険しい顔で茶卓の上から封筒を取り、中の書類を抜き出して、私の前に放った。


「よく見ろ」


 死亡診断書だった。


 氏名、田原遥香。


 年齢、二十二歳。


 死因、急性心筋梗塞。


 署名医師、高村誠。


 病院、東都医科大学附属病院。


 その文字を見た瞬間、背筋が冷えた。


 私は東都医科大学医学部の五年生で、附属病院で臨床実習を受けている。高村誠は循環器内科の主任医師で、私の指導医の知り合いでもあった。


 病院の印影は本物に見えた。署名も本物だった。


 唇が乾く。私は顔を上げた。


「この診断書、おかしい」


 父は冷たい目で私を見た。


「俺の娘はもう死んだ。これ以上騒ぐなら、今すぐ警察を呼ぶ」


「お父さん、私が田原遥香だよ」


 母が焼香台のそばに立てかけてあった箒をつかみ、私に向かって振り下ろした。


「黙りなさい! うちの子を侮辱しないで!」


 箒が腕と肩に当たった。痛みに耐えきれず後ずさると、香炉の灰が少しこぼれ、親戚たちが慌てて供花を支えた。


 私は右手を上げ、親指と人差し指の間に残る薄い白い傷跡を見せた。


「お母さん、忘れたの? 私が六歳のとき、お母さんがリンゴを剥いていて、私の手を切ったんだよ。病院で三針縫った」


 母の動きが、一瞬だけ止まった。


 その一瞬に、私はすがった。


 やっと思い出してくれる。そう思った。


 けれど母は、箒を握る手にさらに力を込めただけだった。


「遥香の手に傷なんてない」


 胸の奥を、何かに握りつぶされたようだった。


「あるに決まってるでしょ」


「よく調べたわね。そんな作り話まで用意して」


 翔太が私の前に立った。目には嫌悪しかなかった。彼はスマホを取り出し、私の顔に向けた。


「みんな見てください。この女、死んだ俺の姉貴になりすまして、うちの通夜に乗り込んできました。この顔を見たら、近づかないでください」


 私は手でレンズを遮った。


「撮らないで!」


 翔太は鼻で笑い、私を強く押した。


 後ろへ下がった私は玄関脇の靴箱にぶつかり、後頭部を壁の角に打ちつけた。視界が暗くなる。体から力が抜けた。


 薄れていく意識の中で、父の声が聞こえた。


「外へ出せ。遥香が帰ってくる道を、この女で汚すな」


 次の瞬間、翔太に腕を引きずられ、玄関から外へ放り出された。


 閉められた扉の向こうから、低く抑えた泣き声と読経の声が聞こえた。


 彼らは、田原遥香という死者を悼んでいた。


 私はその名前を持ったまま、生きて門の外に立っていた。



 2.この世界に田原遥香はいなかった


 道端に座り込んだまま、空が暗くなるまで動けなかった。


 後頭部の痛みは鈍い痛みに変わり、頬に残る手の跡はまだ熱を持っていた。冷たい風が吹き抜けて、ようやく自分の指がずっと震えていることに気づいた。


 スマホを取り出し、最初に思い浮かんだのは警察だった。


 けれど画面が明るくなった瞬間、指が止まった。


 何と説明すればいいのだろう。


 両親が私の葬式をしている。死亡診断書は本物に見える。でも本人である私は生きている。


 警察が来ても、あの書類を見せられ、田原家の全員が私をなりすましだと言い張れば、私は精神科の診察を勧められるだけかもしれない。


 まず、自分を証明できるものを見つけなければならなかった。


 私はLINEを開いた。


 固定していた家族グループが消えていた。


 そのグループは「田原家連絡用」という名前だった。母が毎日スーパーの割引情報を送り、父がたまに天気予報を転送し、翔太が深夜に「金貸して」と銀行口座を貼ってくる場所だった。


 今は、何もなかった。


 連絡先で父、母、翔太を検索した。誰も出てこない。


 アルバムを開く。家族写真は残っていた。


 けれど開いた瞬間、全身が冷たくなった。


 写真の中で、私が立っていたはずの場所に、遺影の女の子がいた。


 十八歳の誕生日。私は青いワンピースを着ていた。翔太にケーキを奪われたせいで、笑顔が少しぎこちなかった。


 でも写真の真ん中にいる女の子は、ピンクのワンピースを着て、甘く笑っていた。まるで一度も傷つけられたことのない娘みたいに。


 私はアルバムを閉じ、凛にLINEのビデオ通話をかけた。


 佐伯凛は、小学校からの友人だった。私がピンクを嫌いなことも、寝ると歯ぎしりすることも、初めての解剖実習のあと夜中まで吐いたことも知っている。


 呼び出し音は長く続いた。


 ようやくつながった画面の向こうで、凛はパジャマ姿でフェイスパックをしていた。私を見た瞬間、眉間にしわを寄せた。


「どちら様ですか?」


 私はスマホを握りしめた。


「凛、私だよ。遥香」


 彼女は画面に近づき、数秒じっと見た。


「田原遥香?」


「そう。私」


 凛の表情が冷たくなった。


「その名前の人、知らないんだけど」


 頭が真っ白になった。


「凛、冗談やめて。先週、新宿で鍋食べたでしょ。酔っ払って店に上着忘れて、私が取りに戻ったじゃない」


 凛は一瞬だけ黙った。


 ほんの短い沈黙だった。気のせいだと思えるほど短かった。


「先週は大阪に出張してた」


「凛……」


「もうかけてこないで」


 通話は切れた。


 もう一度かけようとすると、友だち追加の承認画面が出た。


 彼女は私を削除していた。


 私は大学の同級生、実習班のメンバー、昔のバイト先の店長にも連絡した。


 出ない人もいた。知らないと言う人もいた。私の名前を聞いた途端、慌てて切る人もいた。


 この街から、田原遥香を覚えている人間が一人ずつ消えていくようだった。


 最後に、私は近くの交番へ行った。


 勤務中の警察官は私の顔を見るなり立ち上がった。


「けがをしていますね。何がありました?」


 私はカウンターの縁をつかんだ。


「身元を確認したいんです。私は田原遥香です。誕生日は四月十七日。住所は川口市……」


 警察官の表情が慎重になった。


「まず、座ってください」


 彼は水を出し、警察署へ連絡した。


 三十分後、私は警察署の生活安全課に案内された。若い警察官に促され、氏名、生年月日、住所を書いた。


 パソコンの前で、警察官の顔色が少しずつ変わっていく。


「田原遥香さんという方は、確かに存在します」


 私は救命ロープをつかんだような気持ちになった。


「そうです。それが私です」


 警察官はすぐには答えなかった。


 画面をこちらに向ける。


「ただし、その田原遥香さんは二日前に死亡届が提出されています。戸籍上は死亡扱いとして手続きが進んでおり、死亡診断書は東都医科大学附属病院から出ています。火葬許可証の申請も確認できます」


 画面に表示された写真を見た。


 遺影の女の子だった。


 声がかすれた。


「この人は私じゃありません」


 警察官は別の記録を開いた。


「もう一点あります。あなたが先ほど伝えた個人番号には、別の住民記録が紐づいています。氏名は同じく田原遥香。ただ、住民票上ではすでに田原家とは別世帯になっています。戸籍記録にも、不自然な変更履歴があります」


「別世帯……?」


「記録上、あなたは幼い頃に児童養護施設から田原家へ移ったことになっています。その後、世帯分離に近い形で、住民票だけが単独になっています。養子縁組に関する記録も、通常とは少し違う扱いです」


 言葉の意味を、私は理解できなかった。


 正確には、理解したくなかった。


「あの人たちは、私の両親です」


 警察官は否定しなかった。ただ、声を落とした。


「落ち着いてください。こちらで支援機関に連絡することもできます。けがについては病院で診察を受けて、診断書を取ることもできます」


 私は立ち上がった。


 椅子が床をこすり、嫌な音を立てた。


「大丈夫です」


 警察官が手を伸ばした。


「田原さん」


 私は走り出した。


 夜風が顔に当たり、切りつけられるように痛かった。


 死亡届は本物だった。


 火葬の手続きも本物だった。


 住民記録も本物だった。


 世界そのものが私に告げていた。


 田原家の娘は、もう死んでいる。


 そして私は、システムの片隅に一人だけ取り残された、見知らぬ人間なのだと。



 3.私の部屋には、別の死者が住んでいた


 午後十一時過ぎ、私は田原家へ戻った。


 通夜は終わっていた。客間の灯りはまだついていたが、親戚の多くは帰ったようだった。一階には数人が寝ずの番をしているだけで、父も母も翔太もいなかった。


 私は家の裏へ回った。


 昭和の終わりに建てられた古い二階建ての一軒家だった。外壁はくすみ、二階のベランダの鉄柵には、幼い頃に私が貼ったシールの跡が残っている。


 私の部屋は二階にあった。窓のそばには古い室外機がある。


 雨どいに足をかけ、室外機に手をかけて登った。手のひらがこすれて痛む。窓には鍵がかかっていなかった。


 部屋が蒸れるのが嫌で、私はいつも少しだけ窓を開けていた。


 その習慣だけは、まだ残っていた。


 窓を押し開け、部屋に入った瞬間、私は固まった。


 ここは、私の部屋ではなかった。


 壁に貼っていた人体解剖図も、医学部の時間割も消えていた。棚に並べていた解剖学、病理学、薬理学の教科書もなかった。


 代わりに、薄いピンクの壁紙、アイドルグループのポスター、机いっぱいの化粧品、ブラインドボックスのフィギュアがあった。


 ベッドカバーからは甘ったるい香りがした。クローゼットには、私なら絶対に選ばないスカートが何着も掛かっている。


 机の引き出しを開けた。


 日記帳はない。


 聴診器もない。


 実習記録、指導医にもらった資料、徹夜でまとめた症例ノートも、すべて消えていた。


 引き出しの奥に、プリクラの束が押し込まれていた。


 写っているのは遺影の女の子だった。彼女は若い男の腕に自分の腕を絡め、親しげに笑っている。


 男の顔はスタンプで隠されていた。顎だけが見える。


 写真を近づけた瞬間、胸の奥が沈んだ。


 そのジャケットを、私は見たことがあった。


 翔太が着ていたものだった。


 廊下で足音がした。


 振り向いた瞬間、部屋の灯りがついた。


 翔太が入口に立っていた。手には金属バットを握っている。父と母も後ろに立ち、顔をこわばらせていた。


「まだ戻ってきたのか」


 私はプリクラを握りしめた。


「この子、誰?」


 母が飛び込んできて、私の手から写真を奪った。


「遥香のものに触らないで!」


「お母さん、私が遥香だよ」


 母は私の頬を叩いた。


 今度は、私は後ろへ下がらなかった。


「私はピンクが嫌い。知ってるでしょ。小さい頃から、ピンクも甘い香水も、こういう人形も全部嫌いだった。私は医学部の学生だよ。教科書は? 聴診器は? 私の実習記録はどこ?」


 母は写真を胸に抱き、氷のような目で私を見た。


「遥香はピンクが大好きだった」


 私は母を見つめた。


 滑稽なほど、はっきりわかった。


 この人は忘れたのではない。


 忘れることを選んだのだ。


 私は壁の家族写真を見た。


 父、母、翔太がいる。真ん中の位置には、本来なら私が立っていたはずだった。


 今は、彼女が立っていた。


 十八歳の誕生日。翔太にクリームを顔に塗られ、母に服を汚したと三十分も怒鳴られた。


 あの日の細かいことを、私は全部覚えている。


 けれど写真の中の女の子は明るく笑っていた。クリームもついていない。惨めさもない。


 私は相框を外し、指先でその顔をこすった。


「これは偽物だよ」


 腹部に強い衝撃が走った。


 翔太に蹴られたのだ。


 写真立ては床に落ち、ガラスが砕けた。


「いい加減にしろよ。これは姉貴の最後の写真なんだよ」


 翔太が金属バットを振り上げた。


 父が腕をつかんで止めた。


「翔太、家の中ではやるな」


「父さん、この女、窓から入ってきたんだぞ」


 私はベッドに手をついて立ち上がった。


 そのとき、窓の外の庭に金色の影が動いた。


 栗子だった。


 大二のとき、川沿いで拾ったゴールデンレトリバーだ。犬パルボウイルスに感染して死にかけていて、私はバイト代を全部動物病院につぎ込んだ。入院中も毎日会いに行った。


 それ以来、栗子は私にだけ懐いていた。


 人は嘘をつく。


 写真は差し替えられる。


 書類は偽造できる。


 でも犬は嘘をつかない。


 私は翔太を押しのけ、階段を駆け下りた。


 庭で、栗子が犬小屋から顔を上げた。私を見ると、尻尾がかすかに揺れた。


 その小さな動きだけで、膝から力が抜けそうになった。


 私はしゃがみ込み、手を伸ばした。


「栗子。おいで」


 栗子は立ち上がった。空気を嗅ぎ、私のほうへ二歩進んだ。喉の奥で、かすかな甘えた声を出す。


 私は玄関前に立つ三人を振り返った。


「この子は私を覚えてる」


 翔太が鼻で笑った。


「そいつ、誰にでもそうだよ」


「嘘」


「そうか? 栗子、噛め」


 栗子の体が一気に強張った。


 私が反応するより早く、栗子は飛びかかってきた。手首に牙が食い込む。激痛がはじけた。


 牙が皮膚を裂き、血が腕を伝って落ちる。私は反対の手で頭を押さえようとした。けれど栗子は理性を失ったように噛み続けた。


 目は濁り、口元には白い泡が浮いている。


 その瞳を見た瞬間、頭が冷えた。


 狂犬病ではない。


 少なくとも、普通の興奮状態でもない。


 何かを打たれたか、飲まされた。医学部で見た薬物性の興奮症状に近かった。


 彼らは犬にまで手を出したのだ。


 私は栗子の腹側を蹴った。


 栗子は悲鳴を上げ、ようやく口を離した。


 翔太が金属バットを持って走ってきた。


「俺の犬を蹴ったな!」


 私はコートのポケットから解剖用のメスを取り出した。


 臨床実習で使い慣れた道具だった。薄い刃が、庭灯の下で冷たく光る。


 翔太の足が止まった。


 私は血の流れる手首を押さえ、三人を睨んだ。


「通報したいなら、今すぐして」


 父の顔色が変わった。


「追い出せ」


「父さん!」


「出ていかせろ。二度と田原家に来るな。次は犬に噛まれる程度では済まないぞ」


 私は笑った。


 血が庭のコンクリートに落ちていく。


「安心して。また来るから」


 私は暗い路地へ向かって歩き出した。



 4.死亡診断書に書かれた名前


 私は大学の近くにある、取り壊し前の古い学生寮に身を隠した。


 そこはずいぶん前に水道も電気も止められていた。壁紙は剥がれ、階段には壊れた机や椅子が積まれている。数年前、同級生と野良猫を探しに来たことがあったので、二階に窓の割れた空き部屋があることを知っていた。


 手首の傷は深かった。


 コンビニで買ったミネラルウォーターで傷口を洗い、消毒液とガーゼで応急処置をした。薬液が触れた瞬間、全身に汗がにじむほど痛かった。


 それでも声は出さなかった。


 泣いても意味はない。


 ここから先、頼れるのは自分だけだった。


 壁にもたれ、出来事を一つずつ整理した。


 一つ目。死亡診断書と病院の印は本物に見える。


 二つ目。死亡届と火葬許可の手続きはすでに進んでいる。


 三つ目。田原家は私のSNS、連絡先、部屋の物、写真を事前に消していた。


 四つ目。栗子に薬物を使った可能性が高い。


 五つ目。凛も彼らに合わせていた。


 これはその場の思いつきではない。準備された計画だった。


 でも、なぜそこまでするのか。


 田原家は裕福ではなかった。父は退職後の年金で暮らし、母は近所のスーパーでパートをしている。翔太には安定した仕事がなく、日雇いをしたり、私から金を借りたりしていた。


 私はまだ医学部の学生で、奨学金と夜勤のコンビニバイトで生活費を補っていた。


 私には奪うほどの財産なんてない。


 あるとすれば、私の「死」そのものに価値がある場合だけだ。


 夜が明けると、私は寄付箱から見つけたフード付きの上着に着替え、髪をフードの中へ押し込んだ。マスクで顔を隠す。


 東都医科大学附属病院は東京・文京区にある。


 朝の電車は息苦しいほど混んでいた。私は人混みの中に立ち、包帯を巻いた手首を袖の中に隠した。血が少しずつにじんでいく。


 循環器内科は八階だった。


 高村誠の医局は廊下の奥にある。私はすぐには入らず、非常階段の扉の内側に身を潜めた。そこからなら廊下の気配が聞こえ、医局の入口も見える。


 八時過ぎ、高村が来た。


 白衣を着て、いつもの回診と同じ安定した足取りだった。実習生とすれ違うときには軽く頷く。尊敬される主任医師そのものに見えた。


 三十分後、翔太が現れた。


 キャップを目深にかぶり、周囲を見回してから医局の扉をノックした。


 私はスマホの録音を入れ、そっと近づいた。


 扉は完全には閉まっていなかった。中から、翔太の低い声が漏れてくる。


「高村のおじさん、残りの金、いつ入るんだよ。こっち本当にきついんだけど」


 高村の声は冷たかった。


「保険会社の調査がまだ終わっていない。死亡保険金はコンビニのレジ金じゃない。欲しいと言ってすぐ出るものではない」


「でも、火葬証明が出れば五千万は下りるって言っただろ」


「それは、すべて順調に進んだ場合だ」


 スマホを握る手が固まった。


 五千万。


 生命保険。


 翔太が苛立ったように歩き回る音がした。


「あの女、昨夜また戻ってきたんだよ。梨花の写真に気づきかけた」


 高村が少し黙った。


「本物の遥香は?」


「逃げた。今のあいつは家もない、住民票も説明できない、頭のおかしい女だよ。誰も信じない」


「甘く見るな。彼女は医学部の学生だ。死亡診断書の不自然さに気づく」


 翔太が笑った。


「高村のおじさん、心配しすぎ。今のあいつは、自分の身分すらまともに証明できないんだ。金が入ったら、俺は両親連れて沖縄にでも行く。あいつがどこで死のうが知るかよ」


 椅子が動く音がした。


 高村の声がさらに低くなる。


「瀬戸梨花のことは、二度と口にするな」


「梨花は俺がちょっと押しただけだろ。殺すつもりなんかなかったんだよ」


「顔があれだけ損傷していたから、君たちはつけ込めた。感謝するべきところだ」


 指先が冷たくなっていく。


 瀬戸梨花。


 遺影の女の子は、身元不明の女ではなかった。


 翔太と知り合いだった。


 それどころか、翔太が死なせた可能性がある。


 さらに近づこうとしたとき、背後から足音がした。


 看護師がトレーを持って廊下の角に立ち、怪訝そうに私を見ていた。


「そこで何をしているんですか?」


 振り向いた瞬間、医局の中の声が止まった。


 看護師の視線が、血のにじんだ袖口に落ちる。


「けがをしているんですか? 患者さんのご家族ですか?」


 ドアノブが動いた。


 私は非常扉を押し開け、階段へ飛び込んだ。


 背後で翔太の怒鳴り声が響く。


「あいつだ! 止めろ!」


 階段室に足音が反響した。警備員が下から駆け上がってくる。翔太は上から追ってくる。


 私は四階まで駆け下り、トイレに飛び込んだ。個室の鍵をかける。


 スマホが震えた。


 知らない番号からメッセージが届いていた。


「地下駐車場C区。黒のBMW、ナンバー末尾886。生きたいなら降りてきて」


 その文字列を見つめた。


 外ではドアを叩く音がしている。


「中にいるのはわかってんだよ」


 私は便器の上に乗り、小さな窓を押し開けた。


 下は三階の屋外テラスだった。高さはあるが、迷っている時間はなかった。


 飛び降りた瞬間、足首に鋭い痛みが走った。壁に手をついて立ち上がり、足を引きずりながらエレベーターへ向かう。


 地下駐車場の隅に、黒いBMWが停まっていた。


 窓が下がる。


 サングラスをかけた女が、短く言った。


「乗って」


 私はドアを開け、車に飛び込んだ。


 車は病院を出て、朝の渋滞へ滑り込んだ。追ってくる人影がないことを確認してから、私はようやく女を見た。


 彼女はサングラスを外した。


 佐伯凛だった。



 5.友人の裏切りと真相


 車は隅田川沿いの一時駐車スペースに停まった。


 凛はすぐには話さなかった。


 バッグから予備のスマホ、交通系ICカード、数枚の紙幣を取り出し、私の膝の上に置いた。


 私はそれを見つめた。


「どうして助けたの?」


 凛はハンドルを握る指に力を込めた。


「遥香、ごめん」


 私は何も言わなかった。


 凛はスマホを操作し、数枚の写真を表示した。


 写真はぼやけていたが、翔太が彼女の肩を抱いているのが見えた。次の一枚はもっと私的なもので、凛はすぐに画面を滑らせた。


「あの日、あなたの家で鍋をしたでしょ。私、酔ってた。翔太が、私が意識もうろうとしているところを撮ってたの。協力しないなら会社のグループにばらまくって言われた」


 だから、ビデオ通話のときの一瞬の沈黙は気のせいではなかった。


 凛は私を覚えていた。


 ただ、認められなかったのだ。


 凛はスマホを伏せ、自分の膝に置いた。


「最初は、あなたを家から追い出したいだけなんだと思ってた。でも翔太が酔ったとき、口を滑らせたの。死んだのは瀬戸梨花だって」


「その子は誰?」


「翔太の彼女」


 車窓の隙間から風が入った。川の匂いが混じっている。


 凛の声は低かった。


「梨花は妊娠してた。翔太に結婚を迫って、田原家のこともネットに書くって言ったらしい。その日、二人は彼女のアパートの階段で言い争った。翔太が押したの。梨花は階段から落ちて、後頭部と顔を強く打った」


「そのあと?」


「翔太は高村医師に相談した。高村はギャンブルで借金があって、金に困っていた。梨花の顔が損傷していたことに気づいて、あなたの服を着せて、あなたの身元で死亡手続きを進めることにした」


 凛は私を見た。


「遥香、生命保険に入ってたでしょ?」


 思い出した。


 母が強く勧めてきた保険だった。


 医学部の学生はストレスが多い。万が一のことがあったとき、家に迷惑をかけてはいけない。そう言われた。


 珍しく私を心配してくれているのだと思って、疑わなかった。


 受取人は田原修一と田原美代子。


 保険金額は五千万だった。


 拳をゆっくり握った。


「梨花の遺体を使って、私の死亡保険金を取るつもりだったんだ」


「高村が死亡診断書を出して、田原家が死亡届を出す。火葬まで終われば、遺体はなくなる。保険会社がいくら調べても、生きているあなたを見つけるのは難しくなる」


「どうして私の住民票を別にしたの?」


「翔太が一度だけ言ってた。美代子さんは、ずっと前から準備してたって。養子の記録を調べられたら困るからって」


 養子。


 その言葉が、頭の奥に突き刺さった。


 子どもの頃、親戚に「遥香は田原家の顔じゃないね」と言われたことがある。母に理由を聞くと、箸をテーブルに叩きつけて、「子どもが余計なことを聞くな」と怒られた。


 それ以来、私は聞かなかった。


 凛が現金をこちらへ押した。


「遥香、逃げて。地方に行って、まず生き延びて。田原家はもう普通じゃない。翔太は何をするかわからない」


「私が逃げたら、梨花はどうなるの?」


 凛は言葉を失った。


「今のあなたは、自分のことだって守れてない」


「一生隠れて生きるつもりはない」


 私は予備のスマホを手に取った。


「凛、お願いがある」


 凛の顔色が変わった。


「何をするつもり?」


 私は彼女に身を寄せ、声を落とした。


 話し終えると、凛は目を見開いた。


「危険すぎる」


 私は川の向こうの高層ビルを見た。


「あの人たちは、心の中に鬼を飼ってる。一度だけ鬼に扉を叩かせれば、勝手に真実をしゃべる」


 その日の夕方、凛は私を自分のアパートに連れていった。


 駅から歩いて十分ほどの1Kだった。広くはない部屋に、収納ラックいっぱいの書類と服が積まれている。


 凛は私にシャワーを使わせ、手首の傷をもう一度処置してくれた。


 私はラグの上に座り、パソコンで録音を整理した。


 病院で録った音声は完全ではなかった。扉越しだったせいで声がこもっている。それでも、保険金、瀬戸梨花、本物の遥香という言葉は聞き取れた。


 凛は翔太に脅されたチャット履歴、写真、音声データをバックアップした。


 私はすべてのファイルをまとめ、警視庁のサイバー犯罪相談窓口、保険会社の調査部門、東都医科大学附属病院の監査室、そして昨夜の生活安全課で私の話を聞いてくれた警察官へ送った。


 最後に予約送信を設定した。


 二時間以内に私が解除しなければ、すべての資料は複数の報道機関と法律事務所へ自動送信される。


 凛は横に立ち、顔を青ざめさせていた。


「遥香。まだ引き返せる」


 私はパソコンを閉じた。


「もう遅い」


 夜が落ちるころ、私たちはタクシーに乗り、川口へ戻った。


 田原家の窓には灯りがついていた。昼間の告別式は終わったらしく、客間の祭壇はまだ残っている。


 瀬戸梨花は私の名前で火葬され、骨壺は遺影の下に置かれていた。


 彼らは、すべてが終わりかけていると思っている。


 本当は、ここから始まるのに。



 6.幽霊だと言うなら、幽霊として帰ってやる


 午後十時。


 田原家の客間から笑い声が聞こえた。


 カーテンは完全には閉まっていなかった。私は庭の外に立ち、中を見た。


 翔太はソファに座って金を数えていた。母は新しく買った金色のブレスレットをつけ、スマホの画面に向かって角度を変えながら写真を撮っている。父は焼酎を注ぎ、久しぶりに見るほど緩んだ顔をしていた。


 祭壇は彼らのすぐ後ろにあった。


 遺影の瀬戸梨花が、静かにその光景を見ている。


 凛が裏口の鍵を開けた。


 彼女は昔からよくうちに来ていた。母が予備の鍵を渡していたのだ。田原家は今も鍵を替えていなかった。


 私たちは客間を避けて二階へ上がった。


 この家の音なら、私はすべて覚えている。どの床板がきしむか。どの扉の蝶番が緩いか。どの階段を踏めば音がしないか。


 三十分後、客間の電灯が二度ちらついた。


 次の瞬間、家全体が暗闇に沈んだ。


「停電か?」


 翔太の声が下から聞こえた。


 凛は物置に隠れ、Bluetoothスピーカーの再生ボタンを押した。


 細い泣き声が二階の廊下から漂い始める。


 叫び声ではない。


 作り物めいた幽霊の声でもない。


 若い女が喉を押さえて泣くような、かすかな声だった。


 小さいほど、壁の隙間から染み出してくるように聞こえる。


「翔太……翔太、痛い……」


 階下が静まり返った。


 母が悲鳴を上げた。


「誰なの?」


 父の声が硬くなる。


「美代子、自分で怖がるな」


 私は二階の奥に、用意していた白いワンピースを古いハンガーで吊るした。


 小型プロジェクターが起動すると、青白い顔がワンピースの上に浮かび上がる。


 その顔は瀬戸梨花だった。


 凛が写真をもとに簡単に加工したものだ。顔色は死人のように白く、目元には血の跡がある。


 道具としては雑だった。


 けれど暗闇の中では、それで十分だった。


「誰だよ。こんなところでくだらねえ真似してんじゃねえぞ」


 翔太がスマホを持って階段を上がってくる。


 二階の曲がり角まで来たところで、投影がぱっと明るくなった。


 廊下の奥に、白いワンピースが揺れている。


 スピーカーから梨花の声が流れた。


「翔太……あなたが私を押したとき、お腹の子も泣いてたよ……」


「うわああっ!」


 翔太のスマホが床に落ちた。


 彼は振り返って階段を駆け下りようとした。足を滑らせ、体ごと階段を転がり落ちる。


 骨が段にぶつかる鈍い音が、家の中に響いた。


 母が駆け寄る。


「翔太!」


 翔太は足を抱え、青ざめた顔で叫んだ。


「梨花だ……梨花が戻ってきた!」


 父が近づき、翔太の頬を叩いた。


「黙れ!」


 母はすでに取り乱していた。


「梨花さん、翔太が押したのよ。私たちは関係ないの!」


「美代子、何を言ってる」


 父が低く怒鳴った。


「だって、この子が人を死なせたりしなかったら、ここまでしなくて済んだでしょう!」


 追い詰められた獣のように、翔太が吠えた。


「全員黙れよ! 今さら自分たちはきれいですって顔すんな。保険に入らせたのはあんたたちだろ。早く火葬しろって言ったのもあんたらだ。高村のおじさんに連絡したのは父さんじゃねえか!」


 母が泣き叫んだ。


「翔太、私たちはあなたのためにやったのよ。あなたの借金取りが家まで来ていたじゃない!」


「もういい」


 私はスピーカーを止めた。


 同時に、客間の灯りがついた。


 私は二階の手すりのそばに立っていた。スマホを手に持ち、階下の三人にカメラを向けている。


 三人は同時に顔を上げた。


 母の唇が震えた。


「遥香……」


 翔太の顔が歪む。


「まだ戻ってきやがったのか」


「翔太、がっかりした?」


 父は私のスマホを睨んだ。


「録っていたのか」


「あなたたちが話し始めたところから、全部」


 翔太が立ち上がろうとした。けれど足の痛みに顔を歪め、その場に崩れ落ちる。


 外で車の音がした。


 一台ではない。


 遠くから近づいてくるサイレンの音が、次第に大きくなる。赤と青の光がカーテンをなぞり、白木の祭壇と遺影に落ちた。


 父の顔が初めて変わった。


「警察を呼んだのか」


 私は答えなかった。


「警察です! 動かないでください!」


 玄関が開き、数人の警察官が踏み込んできた。


 先頭にいたのは、昨夜、警察署で私の話を聞いてくれた刑事だった。彼は私を一度見てから、客間に座り込む三人へ視線を移した。


「田原修一さん、田原美代子さん、田原翔太さん。詐欺未遂、死体損壊、犯人隠避、虚偽診断書作成に関わった疑いで事情を聞きます。瀬戸梨花さんの死亡についても、殺人容疑を視野に入れて捜査します」


 翔太が狂ったように暴れた。


「違う! こいつだ! こいつが俺をはめたんだ!」


 私は二階から、彼を見下ろした。


 この人は、私の生活費を奪った。教材を壊した。自分の借金を私に払わせた。


 子どもの頃、翔太が花瓶を割ると、母は私を玄関に正座させた。大人になって翔太が借金を作ると、父は私に奨学金を渡せと言った。


 私はずっと、家族の中の偏りだと思っていた。


 でも違った。


 彼らは最初から、私を家族だと思っていなかったのだ。


 母は連れていかれる直前、突然床に膝をついた。


「遥香、お願い。お母さんよ。あなたのお母さんなのよ」


 私はまっすぐ母を見た。


「違う。あなたは私の母親じゃない」


 母の顔が固まった。


 私は階段を下り、祭壇の前で足を止めた。


 遺影の瀬戸梨花は、私の服を着ていた。私の名前で死に、私の名前で火葬された。


 私は線香を一本取り、火をつけて香炉に立てた。


 煙がゆっくりと上がっていく。


 心の中で彼女に言った。


 梨花、ごめん。


 でも、今度こそ逃がさない。



 7.消された娘


 事件は、ネットの物語みたいに一週間で解決したわけではなかった。


 田原家の三人が逮捕されたあと、警察は瀬戸梨花の死亡現場を改めて調べた。


 彼女が生前住んでいたアパートの階段はすでに清掃されていたが、手すりの隙間から微量の血痕が見つかった。近所の住人も、その夜、男女が激しく言い争う声を聞いたと証言した。


 高村誠はすぐに身柄を確保された。


 東都医科大学附属病院は高村を職務停止にし、監査室が関連する診療記録を封鎖した。警察は高村のパソコンから死亡診断書を偽造した記録を見つけ、田原家との金銭のやり取りも確認した。


 保険会社からは、別の手がかりが出た。


 私の生命保険は半年前、突然保険金額が引き上げられていた。申請者は表向き私本人になっており、署名も私に似せてあった。けれど筆跡鑑定の結果、なぞり書きの痕跡が認められた。


 受取人は変わらなかった。


 田原修一と田原美代子だった。


 私は三日間、病院に入院した。


 栗子に噛まれた手首は処置を受けた。足首の捻挫は重くなかった。


 刑事は私に、栗子の血液検査から動物用の興奮剤成分が検出されたと教えてくれた。栗子は一時的に動物保護施設へ預けられ、事件が落ち着いてから今後の扱いを決めるという。


 それを聞いたとき、私は長く黙った。


 凛は病床のそばでリンゴを剥いていた。彼女の手つきはぎこちなく、皮は何度も途中で切れた。


「遥香、ごめん」


 その言葉を、凛はもう何度も口にしていた。


「凛、翔太に撮られたものは、警察が対応してくれる」


 彼女はうつむいた。


「うん。わかってる」


「凛、もう一人で抱え込まないで」


 凛の手が止まった。


 病室に静けさが落ちる。


 しばらくして、彼女はリンゴを私に差し出した。


「遥香もね」


 私はリンゴを受け取り、窓の外を見た。


 数日後、私は田原家へ戻った。


 あの二階建ての家は警察の捜索を受け、玄関には封印の跡が残っていた。祭壇は撤去され、客間には線香の匂いだけが残っている。


 瀬戸梨花の遺影は警察が押収していた。骨壺も、身元確認のため改めて調べられることになった。


 私はこの家を懐かしむために戻ったのではない。


 自分のものを探しに来た。


 私の部屋は荒らされていた。


 ピンクの壁紙はそのまま残り、化粧品が机の上に散らばっている。それらは梨花のものだった。けれど私の人生を偽装するために使われた。


 父と母の部屋で、私は一つのブリキ缶を見つけた。


 畳の下に隠され、古い布に包まれていた。錠前は錆びている。私はドライバーでこじ開けた。


 中には黄ばんだ書類が入っていた。


 養子縁組に関する書類だった。


 甲、夕森児童養護施設。


 乙、田原修一、田原美代子。


 養子、氏名未定女児、番号092。


 日付は二十二年前だった。


 私は床に座り、その紙を長いあいだ見つめた。


 私は本当に、彼らの実の娘ではなかった。


 親戚の集まりで、おいしいものはいつも翔太に先に渡された。三十九度の熱を出しても、母は私に一人でドラッグストアへ行って冷却シートを買ってこいと言った。医学部に合格したとき、父の第一声は「学費は全部奨学金で何とかなるのか」だった。


 過去の小さな不公平に、ようやく答えがついた。


 でも、思っていたほど痛くはなかった。


 むしろ、少しだけ息ができた。


 もし彼らが本当の親だったら、私は血のつながりに縛られていたかもしれない。


 けれどこの紙は、最後の糸を断ち切る刃だった。


 私はもう、あの人たちに何も借りていない。


 初公判の日、私は裁判所へ行った。


 翔太は足にギプスを巻いたまま連れてこられた。私を見ると、引き裂くような目で睨んできた。


「田原遥香、恩知らずが」


 私は静かに彼を見返した。


 母は別の席に座っていた。髪はずいぶん白くなり、ずっと下を向いていた。


 休廷のとき、母は突然顔を上げた。


「遥香、お母さんが悪かった。翔太を助けて。あの子はまだ若いの」


 私は足を止めた。


「瀬戸梨花も、若かった」


 母の唇が震えた。


 私はそれ以上、彼女を見なかった。


 父は最初から最後まで黙っていた。


 記憶の中の父よりずっと老けて、背中も丸まっていた。


 でも、それは後悔ではない。


 失敗した人間の疲労にすぎなかった。


 事件が起訴へ進むと、報道が始まった。


「医学部学生、家族により死亡偽装か」


「高額生命保険金を狙った疑い」


「附属病院の主任医師、虚偽診断書作成に関与」


「被害女性、交際相手に階段から突き落とされ、別人として火葬か」


 私の名前は伏せられていた。


 それでもネットでは、私の身元を探ろうとする人がいた。


 大学は私を一時休学扱いにした。


 指導医からメールが届いた。そこには一文だけ書かれていた。


「まずは生きてください。医学部の席は、あなたのために残しておきます」


 その一文を見たとき、事件が起きてから初めて、世界が少しだけ現実味を取り戻した気がした。


 この世界は、私を完全に消したわけではなかった。


 ただ、私はこれから、自分を一つずつ取り戻さなければならない。



 8.私の本当の姓


 一か月後、瀬戸梨花の身元確認に新しい進展があった。


 警察は彼女の両親を名乗る夫婦と連絡を取った。その夫婦は地方から駆けつけ、立っていられないほど泣き崩れた。


 けれどDNA鑑定の結果が出ると、全員が沈黙した。


 その夫婦と梨花には、血縁関係がなかったのだ。


 梨花もまた、どこかから連れてこられた子どもだった。


 凛がその話を教えてくれたのは、私たちが裁判所を出た直後だった。


 彼女はコンビニのホットコーヒーを差し出した。紙コップが熱かったのか、指を少し引っ込める。


「遥香、もう一つある」


「言って」


「警察が梨花の古い記録をたどったの。梨花とあなたには、DNA上の親縁関係があるって」


 コーヒーを持つ手が止まった。


「どれくらい?」


「およそ四分の一」


 四分の一。


 いとこ。


 あるいは、もう少し近い傍系親族。


 凛は声を落とした。


「二十二年前、東京で非公開の失踪事件があった。九条家という家から、生まれて間もない女の子が消えたの。その家は医療法人と製薬会社を経営していて、かなり表に出ない一族だったらしい。警察の記録も外には出ていない」


 九条家。


 聞いたことのない姓だった。


 それなのに、その名を聞いた瞬間、胸の奥が不自然に跳ねた。


「梨花は?」


「警察は、当時一緒に連れ去られた女の子がもう一人いた可能性を見ている。その子は、九条家に住み込みで働いていた家政婦の娘だった」


 私はゆっくり顔を上げた。


 凛は不安そうに私を見ていた。


「田原美代子の姉は、昔、九条家で住み込みの家政婦をしていた」


 空気が止まったようだった。


 子どもの頃、母は私に鏡を見せたがらなかった。


 あんたは可愛くない。子どもが鏡の前でお嬢様ぶるな。


 何度もそう言った。


 小学校の卒業式の日、先生が「制服がよく似合っている」と褒めてくれた。家に帰ると、母はその服を取り上げた。


 あんたみたいな子が、金持ちの家の子みたいな格好をするな。


 母が酔ったとき、ぼそりと言ったこともある。


「お嬢様の運命が、よりによって私の手の中に落ちてくるなんてね」


 あのときは意味がわからなかった。


 今なら、わかる。


 推測が正しければ、梨花はあの家政婦の娘だったのかもしれない。


 そして私は、九条家から消えた子どもだったのかもしれない。


 さらに皮肉なことに、梨花は翔太に近づくことで人生を変えようとし、最後には田原家の手で死んだ。


 田原家は保険金のために、彼女に私の服を着せ、私の名前で火葬した。


 入れ替えられ、捨てられ、利用された二人の女の子は、二十二年後、最も残酷な形で再会したのだ。


 私は裁判所の階段を下りた。


 空は重く曇っていた。東京の高層ビルが、低い雲に押しつぶされているように見える。


 人々は私の横を通り過ぎていく。


 誰も私が誰なのか知らない。


 私がどんな人生から這い出してきたのかも知らない。


 スマホが鳴った。


 知らない番号だった。


 表示された発信地は、東京・港区。


 私は電話に出た。


 相手は数秒、黙っていた。


 それから、年老いているのに抑えきれないほど震えた声が聞こえた。


「田原遥香さんで、いらっしゃいますか」


 私は裁判所の階段の上で、何も答えなかった。


 相手の呼吸は重かった。


「いえ……もしかすると、あなたを九条遥香と呼ぶべきなのかもしれません」


 風が階段の下から吹き上がり、髪を揺らした。


「私は九条宗一郎。あなたの祖父です」


 世界が、その瞬間だけ静かになった。


 私は遠くの車の流れを見つめた。


 ふと、田原家に置かれていたあの遺影を思い出した。


 彼らは言った。


 田原遥香はもう死んだ、と。


 もしかしたら、その言葉は半分だけ正しかったのかもしれない。


 彼らに使われ、搾取され、保険金と身代わりの道具にされた田原遥香は、あの葬式の日に確かに死んだ。


 今日から、私は自分の名前を取り戻す。


 そして二十二年前、誰が私の人生を盗んだのかを、必ず突き止める。




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