第九話
クロスフェルは、ブランディア大陸の中央に据えられた都市だった。
北から南へ抜ける街道。
東西を結ぶ交易路。
それらが無理なく交差する場所に、意図的に築かれた都市である。
防壁は高すぎず、低すぎない。
威圧のためではなく、境界を示すためのものだ。
見張り塔は等間隔に配置されているが、軍旗は掲げられていない。
この都市は、最初から「戦場」になることを想定していない。
街に足を踏み入れる者がまず目にするのは、倉庫街と馬車宿だ。
巨大な穀物庫、鉱石の保管庫、積み下ろしのための広場。
そこでは人が滞在するよりも、通過することが前提になっている。
中層へ進めば、様相は変わる。
商業区、職人街、市場。
人が住み、働き、消費するための区画が整然と並ぶ。
建物は密集しているが、道は広く、見通しがいい。
意図的に、死角が減らされている。
犯罪が起きないわけではない。
だが、隠れる場所が少ないため、長引かない。
問題はすぐに露見し、切り分けられ、処理される。
さらに奥、内郭と呼ばれる区域には、行政庁舎や記録院が集まっている。
ここでは重武装が禁じられ、宗教的象徴や軍事的標章の持ち込みも制限されていた。
権力を誇示するための場所ではない。
記録し、決定し、後始末をするための空間だ。
クロスフェルを統治するのは、特定の王や教団ではない。
商会、ギルド、学識者による評議制が採られており、都市の運営は常に実務的な判断に委ねられている。
善悪よりも、理念よりも、「続くかどうか」が基準だ。
そのため、この街では宗教も勢力も等しく扱われる。
布教は許可制。
私兵の常駐は禁止。
武装集団の介入は、理由を問わず問題視される。
光の教団も、影の家も、灰の超越者も。
表向きには、この都市に拠点を持たない。
だが、誰もが知っている。
この街を経由しない情報も、物資も、人材も、ほとんど存在しないことを。
冒険者ギルドもまた、この都市の性質を反映していた。
英雄を称える場ではなく、正義を掲げる場でもない。
ここで扱われるのは、危険そのものだ。
範囲、責任、報酬。
失敗した場合の補償。
成功した場合の後処理。
すべてが書面で管理され、感情は排される。
だからこそ、政治的に扱いづらい案件や、表に出せない摩擦が、この場所に集まる。
クロスフェルは、答えを出す都市ではない。
ただ、問題が溜まりすぎて世界が壊れないよう、流し、分解し、静かに消していく。
それが、この都市の役割だった。
そして――
そうした都市に、長く留まる者ほど、否応なく「大きな流れ」に触れることになる。
クロスフェルとは、そういう場所である。
クロスフェルは、音が低い街だった。
人は多い。
通りも広い。
荷車の往来も絶えない。
だが、喧騒は跳ね返らない。
石畳と石壁が音を吸い、
街全体が一段落ち着いた呼吸をしている。
ソフィは、歩きながら呟いた。
「……都市っていうより、“止まらない装置”ね」
「止まると困る街だ」
レイが答える。
軍事都市でも、宗教都市でもない。
だが物流、情報、人材――
すべてがここを通過する。
それが、クロスフェルだった。
ギルドは、街の中央から少し外れた位置にある。
威圧感はない。
だが、軽い気持ちで入る雰囲気でもない。
扉をくぐった瞬間、四人は空気の違いを察した。
雑談が少ない。
酒の匂いも薄い。
代わりにあるのは、紙と視線。
掲示板に貼られた依頼は整然としており、乱雑な張り替えは見られない。
ジルが、鼻で笑う。
「長居する連中が多いギルドだな」
「仕事が終わらない街、ってことよ」
ソフィが返す。
宿は、ギルドが紹介した。
豪華ではない。
だが、無駄がない。
個室。
施錠。
地下に簡易の魔術遮断層。
「……ここ、話し声が外に漏れない」
ソフィが壁を軽く叩く。
宿主は、多くを語らなかった。
聞かない。
詮索しない。
ただ必要なものを揃える。
クロスフェルの流儀だ。
その夜、四人は同じ卓を囲んでいた。
仕事は、まだ取っていない。
情報も、集めていない。
ただ、ここにいる。
ジルが、グラスを傾ける。
「ラドフォールより、ずっと安全そうに見えるな」
レイは首を横に振った。
「逆だ」
「ここは、“危険が整理されてる”」
アレックスは、黙って剣を置いた。
魔剣ではない。
新しく調達した魔法剣。
軽く、静かで、自己主張をしない武器。
「……ここからだな」
誰に言うでもなく、そう呟く。
ソフィが、頷いた。
「ええ」
「ここは、世界が動く前の場所」
窓の外。
クロスフェルの灯りは消えない。
それは希望でも、安らぎでもない。
準備が整っているという合図だった。
冒険者ギルド《クロスフェル支部》は、街の中央寄りにある。
だが、目立つ場所ではない。
倉庫街と行政区の境界。
人の流れが自然に減速する地点に、控えめな石造りの建物が据えられていた。
扉は重く、だが軋まない。
何度も開閉され、整備され続けてきた証だ。
内部は静かだった。
酒場のような喧騒はない。
掲示板も派手ではない。
紙の束、記録簿、区画分けされた窓口。
ここでは、依頼は「張られる」のではなく、処理される。
受付の奥。
一段高くなった仕切りの向こうで、書類を整理していた男が顔を上げた。
年齢は分かりにくい。
若くも老いても見えない、都市に馴染みきった顔。
彼は、視線だけで四人を測る。
武装。
立ち方。
互いの距離感。
「……長期滞在登録は済んでいるな」
確認というより、事実確認だった。
彼は一枚の紙束を引き抜く。
「仕事はある。ただし――」
一拍。
「派手な英雄譚を求めるなら、他を当たれ」
紙が、カウンターに置かれる。
依頼名は短い。
《第七地区・記録不整合調査》
報酬は平均的。
危険度は「低〜中」。
ただし、備考欄が異様に長い。
――記録と現地状況が一致しない
――被害届は存在しない
――住民の証言が取れない
――対象区域は「存在している扱い」
受付の男は、淡々と続ける。
「消失事件じゃない」
その言葉が、妙に重く落ちた。
「地図上では存在する。税も徴収されている。だが、現地に“確認できるもの”がない」
「建物も、人も、遺体も」
「――被害者すら、いない」
彼は、四人を見る。
「クロスフェルでは、こういう案件を“放置”すると厄介になる」
理由は言わない。
だが、この都市で「放置が厄介」というのは、政治か、宗教か、あるいは――もっと厄介な何かだ。
「調査は三日以内」
「発見があれば報告。何もなければ、それも報告だ」
彼は、視線を落とす。
「深入りは推奨しない」
それは忠告ではなく、この街の作法だった。
書類の隅に、控えめな追記がある。
――本件は、他勢力の関与を示唆する証拠なし
――ただし、否定材料も存在しない
受付の男は、最後に付け加えた。
「この仕事を受けるなら、君たちは“まだ何も知らない側”として動いてもらう」
「それが、一番安全だ」
依頼書は、静かに待っている。
外では、クロスフェルの街が変わらず回っている。
荷が運ばれ、契約が交わされ、誰かの問題が、誰にも知られないまま処理されていく。
その中に――
一つだけ、うまく処理されなかった“空白”がある。
それが、最初の仕事だった。
クロスフェル第七地区は、地図の上では「住宅区」に分類されている。
道幅は標準。
区画も整っている。
市場からも遠すぎない。
だが、足を踏み入れた瞬間、歩調が揃わなくなる。
石畳は欠けていない。
補修跡も新しい。
それなのに、靴底が微妙に滑る。
――いや、違う。
滑っているのは、距離感だ。
家々は建っている。
扉も窓もある。
洗濯物すら、干されたままだ。
風に揺れる布が、誰かが今朝までここにいたことを主張している。
だが――
匂いが、ない。
生活の匂い。
食事。
人の体温。
それらが、丸ごと抜け落ちている。
ソフィは、無意識に呼吸を浅くしていた。
魔力は感じる。
だが、それは流れていない。
水が張られたまま、動かない水路のような感覚。
ジルが、壁際に寄る。
指先で、家屋の外壁をなぞる。
「……削れてない」
爪を立てても、粉が落ちない。
新築でもない。
古すぎるわけでもない。
ただ――
時間が止められた材質。
レイは、通りの奥を見ている。
交差点がある。
看板も立っている。
だが、標識の矢印が、どこを指しているのか分からない。
読むことはできる。
理解もできる。
それなのに、進むべき方向として認識できない。
アレックスは、一歩進み、止まった。
視界の端で、何かが「動いた」気がした。
振り返っても、何もいない。
魔法剣は反応しない。
だが、手の甲が、かすかに冷える。
「……ここ」
誰に言うでもなく、口に出る。
「“消えた”って感じじゃないな」
言葉を探す。
「……抜けた?」
音が、遅れて届く。
遠くで、木製の扉が揺れたはずの音。
だが、実際には揺れていない。
ソフィが、ゆっくり頷く。
「記録不整合……」
視線を、地面へ。
そこに、足跡がある。
いくつも。
子供のもの。
大人のもの。
だが、すべてが――
途中で終わっている。
行き先がない。
逃げた形跡でもない。
連れ去られた痕跡でもない。
ただ、「次の一歩」が、存在しない。
ジルが、低く言う。
「誰も“消されて”ない」
「でも――ここに“い続ける”ことも、できなくなった」
風が吹く。
洗濯物が揺れる。
それを見て、
初めて気づく。
影が、ない。
太陽はある。
建物もある。
だが、影だけが、どこにも落ちていない。
レイが、剣に手をかける。
「これは……」
言葉を選ぶ。
「都市が、自分の一部を“忘れた”状態だ」
その瞬間。
通りの奥で、鈴の音がした。
軽い。
子供の玩具のような音。
だが、ここには――
子供はいない。
音は、第七地区の中心から聞こえていた。
そして同時に、四人は理解する。
この依頼は、誰かの被害を解決する仕事ではない。
――都市そのものが、何かを隠している。
通りの中央。
鈴の音が、もう一度鳴った。
今度は、位置がはっきりしている。
第七地区の中心広場――地図上では、噴水のある小さな円形広場のはずの場所。
だが、そこに水音はない。
噴水は“存在している”。
石造りの縁も、彫刻も、欠けはない。
ただ――
水だけが、最初から無かったかのように空洞だった。
器はある。
満たされる前提で作られた形。
だが、満たされた履歴が、世界から削除されている。
ソフィが、喉を鳴らす。
「……観測者がいなくなった後の“余波”」
誰に説明するでもなく、言葉を続ける。
「世界は、常に全部を保持してるわけじゃない。“見られていた事象”を優先して安定させている」
アレックスは、噴水の縁に手を置いた。
冷たい。
石としては、正常だ。
「じゃあ、ここは?」
「……観測され続けていた生活圏だった」
ソフィの声が、わずかに低くなる。
「誰かが、長い時間ここを“見ていた”。住民全体じゃない。都市そのものを、定義する視点」
ジルが、静かに笑った。
「つまり」
指で空をなぞる。
「“都市を都市として成立させていた存在”が、いなくなった」
レイが、ゆっくりと頷く。
「だから破壊は起きていない。奪取も、殺害もない」
視線を、影のない地面へ。
「ただ、次の瞬間が定義されなくなった」
再び、鈴の音。
今度は近い。
四人の背後――
いや、背後だったはずの位置から鳴った。
振り返る。
そこにいたのは、子供だった。
正確には――
子供“だった形”。
輪郭はある。
服も、髪も、分かる。
だが、顔が認識できない。
見えているのに、「見た」という情報が脳に残らない。
足元には影がない。
それどころか、接地している感覚すら曖昧。
ソフィが、息を止める。
「……残留観測」
子供が、鈴を振る。
音は鳴る。
だが、空気が揺れない。
「ここで遊んでいた“記録”だけが、都市に残された」
アレックスは、一歩前に出ようとして、止まった。
直感が、警告を発する。
――触れるな。
ジルが、低く言う。
「こいつは“存在”じゃない。存在していたことを証明するための副産物だ」
レイが、歯を食いしばる。
「……観測者が消えたことで、都市は自己保存を始めた」
「だが、保存する基準が歪んだ」
ソフィが続ける。
「だから――意味のあるものだけが残り、意味を持たせていた主体が消えた」
子供の形が、ゆっくりとこちらを向く。
そして。
一歩、踏み出そうとして。
途中で、止まった。
足が、次の位置を見つけられない。
それは、第七地区の足跡と同じだった。
行き先が、定義されていない。
鈴が、最後に一度鳴る。
次の瞬間。
子供の形は、最初から存在しなかったかのように、消えた。
静寂。
風だけが吹く。
だが、依然として影は落ちない。
アレックスが、口を開く。
「……つまり」
ゆっくり、言葉を選ぶ。
「この地区は、“観測者がいた前提”でしか存在できない都市だった」
ジルが、肩をすくめる。
「そういうことだ」
「で、そいつが消えた結果――」
レイが、噴水を見る。
「都市が、自分自身を維持できなくなり始めている」
ソフィは、確信を込めて言った。
「これは始まりに過ぎない」
「第七地区は、最初に“気づいた”場所」
視線を、クロスフェルの街並みの向こうへ。
「観測者消失の副作用は、必ず、他の区画にも波及する」
アレックスは、剣の柄を握る。
魔法剣は、まだ沈黙している。
だが――
都市そのものが、敵に変わり始めている。
この依頼は、討伐では終わらない。
誰かを探す仕事でもない。
――都市が何を失い、何を隠したのかを“再定義する”仕事だ。
そして、四人はまだ知らない。
この「観測者」は、三大勢力のどれにも属していなかったことを。
だからこそ――
誰も、責任を取らない。
次に起きるのは、都市規模の“再構築”か、完全な空白か。
クロスフェルは、静かに、その分岐点へ向かっていた。
アレックスは、剣を抜かなかった。
抜いても、意味がないと分かっていたからだ。
敵意も、殺意も、この第七地区には存在しない。
あるのは――
判断を保留された都市だけだ。
「どうする気だ?」
誰に向けた言葉でもない問いが、自然と口から落ちた。
ソフィが、ゆっくりと息を吐く。
「“正す”ことはできない」
断言だった。
「壊れたわけじゃない。狂ったわけでもない。ただ、前提条件が失われただけ」
ジルが、壁にもたれかかる。
影がないため、その仕草だけが宙に浮いて見える。
「つまり――」
指を鳴らす。
「観測者の代わりを立てるか、この地区を切り捨てるか」
レイの視線が、鋭くなる。
「切り捨てれば?」
「都市は生き延びる」
ジルはあっさり言った。
「第七地区は、“最初から無かった区画”として再定義される」
ソフィが補足する。
「地図から消える。税収も、人口も、記録も。誰も困らない形で」
「……住んでいた人間は?」
アレックスの問いに、沈黙が落ちる。
答えは、もう分かっている。
「最初から存在しなかった扱いになる」
それが、この世界の“修復”だ。
レイが、歯を噛みしめる。
「それは、救済じゃない」
「でも、戦争でもない」
ジルが肩をすくめる。
「光の教団なら、迷わず切る。影の家なら、喜んで利用する」
視線を、アレックスへ。
「灰なら――均衡が保たれる方を選ぶ」
ソフィは、アレックスを見る。
選択権が、自然と彼に集まっていることを、誰も否定しなかった。
魔剣を持ち、失い、それでも“中心に立たされ続けている”存在。
アレックスは、噴水の縁から手を離した。
そして、一つだけ、言った。
「代わりを立てる」
ジルが、眉を上げる。
「正気か?」
「完全な代替じゃない」
アレックスは、地区を見渡す。
洗濯物。
止まった時間。
影のない石畳。
「観測し続ける存在を置く」
「都市を管理する神でも、制度でもなく」
レイが、理解したように目を細める。
「……人間だな」
ソフィが、ゆっくり頷く。
「常駐観測者」
「生きて、歩いて、この地区を“生活圏として見続ける存在”」
ジルが、乾いた笑いを漏らす。
「それ、誰がやる?」
答えは、最初から一つしかなかった。
アレックスは、静かに言う。
「ギルドだ」
「個人じゃない。冒険者ギルドという“機能体”を、第七地区に結びつける」
「常に人が出入りし、依頼が発生し、記録が更新される」
「そうすれば、この地区は――」
ソフィが、言葉を継ぐ。
「“観測され続ける都市区画”として、再固定される」
レイが、息を吐く。
「危険だぞ」
「当然だ」
アレックスは笑わなかった。
「失敗すれば、ここに関わった人間全員が“存在不確定”になる」
ジルが、真剣な顔になる。
「それを許す勢力は少ない」
「だから――」
アレックスは、視線を上げる。
影のない空を、まっすぐに。
「これは“公式依頼”にする」
「クロスフェル冒険者ギルドに、第七地区常駐任務を設置する」
「光にも、影にも、灰にも――無視できない形で」
沈黙。
都市が、息を潜めているようだった。
やがて、ソフィが微笑む。
「面倒なことを選んだわね」
レイは、剣から手を離す。
「でも、それが冒険者だ」
ジルは、楽しそうに口角を上げた。
「いいね。都市相手の依頼なんて、滅多にない」
風が吹く。
その瞬間。
石畳に、かすかな影が落ちた。
完全ではない。
輪郭も曖昧だ。
だが確かに――
第七地区は、“見られ始めた”。
都市は、まだ判断を保留している。
だが次に来るのは、必ず――
他の勢力の介入だ。
この選択が、クロスフェル全体を巻き込むことを、四人はもう理解していた。
それでも。
引き返す理由は、どこにもなかった。
影は、増えなかった。
だが――
定着した。
第七地区の通りに落ちた影は、揺らぎながらも消えず、建物の縁、噴水の縁、干された布の下に、「あるべき量」だけ滲むように広がっていく。
都市が、計測を始めたのだ。
「……動いたな」
レイが、低く呟く。
それは勝利ではない。
猶予だ。
ソフィは、目を閉じる。
魔力の流れを読むというより、
“流れが生まれ直す余地”を確かめるように。
「第七地区は、まだ保留状態」
「でも、ギルド結節の仮定義は通った」
ジルが、通りの奥――鈴の音がした方向を見やる。
「つまり、次は“確認”が来る」
「光か、影か、灰か」
アレックスは頷いた。
「来る前に、やることがある」
ギルドは、動きが早かった。
クロスフェル冒険者ギルド本部――
石造りの建物の奥、通常は立ち入りの制限される記録室で、第七地区に関する“例外登録”が走る。
名称は仮。
地図上では、まだ薄い。
だが項目は増え始めていた。
常駐依頼:第七地区巡回
更新条件:日次報告、実地観測
危険度:未確定
特記事項:観測欠落補填区域
「都市相手の依頼だなんて、前代未聞ね」
受付官が、半ば呆れ、半ば感心した声で言う。
「でも、理屈は通ってる」
「人が来る」
「見て、触れて、記録する」
「それが続く限り、ここは“在る”」
アレックスは、頷くだけだった。
理屈の裏側に、誰かが“不利になる”ことを、彼は知っている。
その夜。
第七地区の中心、噴水の縁に、
小さな光が落ちた。
白金でも、純白でもない。
薄く、管理された光。
空間が“整えられる”感覚。
ソフィが、即座に気づく。
「……来た」
白金の騎士は、三人。
剣は抜かれていない。
だが今回は、礼儀として鞘に収めている。
その背後に立つのは、――セラフィム=ローディア。
「確認に来ました」
穏やかな声。
「都市の安定度、観測代替の妥当性、そして――」
視線が、アレックスに向く。
「あなた方が、この区域を“保持できるか”」
ジルが、笑う。
「試験ってわけだ」
セラフィムは否定しない。
「光は、証明を好む」
彼は、足元の影を見る。
「まだ、薄い」
「ですが――」
一瞬だけ、表情が曇る。
「切り捨てるには、遅れました」
それは、光の敗北ではない。
主導権を失ったという事実だった。
その会話を、“別の視線”が見ている。
屋根の上。
影の境界。
誰でもない“誰か”。
記録されない場所から、第七地区を観測する存在。
影の家は、まだ動かない。
だが――
この地区が「使える」と判断した瞬間、必ず手を伸ばす。
そして、さらに遠く。
灰色の魔力が、都市の縁で静かに“釣り合い”を取っている。
裁定者は、まだ名乗らない。
均衡が崩れた時、必ず現れるからだ。
アレックスは、噴水の縁に手を置いた。
昼と同じ場所。
だが、感触が違う。
冷たい石の向こうに、“応答”がある。
「聞いてるか?」
都市に、そう問いかける。
答えは、言葉では返らない。
代わりに――
遠くで、子供の鈴が、もう一度鳴った。
今度は、影を引き連れて。
第七地区は、ただの異常区域ではなくなった。
ここは――
三大勢力が、直接ぶつかる前の“緩衝帯”。
そして、冒険者たちは、その中心に立っている。
次に起きるのは、小競り合いではない。
都市の定義を賭けた衝突だ。
物語は、静かに、だが確実に――加速し始めていた。
夜明け前。
クロスフェルは、まだ眠っているはずの時間だった。
だが第七地区だけは違った。
街灯は点いている。
巡回の足音もある。
人の気配は――意図的に、置かれている。
「……都市が“演技”を覚え始めてる」
ソフィが、低く言った。
噴水の水面は揺れていない。
だが、水の中に映る建物の輪郭が、わずかに遅れて追従する。
現実と反映のズレ。
それは観測者が消えたあと、世界各地で報告され始めた現象――
自己補完現象の初期兆候だった。
レイは、地図を広げている。
「第七地区の境界、昨日より狭まってる」
「外へ侵食してるわけじゃない」
「……内側で、まとまり始めてる」
ジルが口笛を吹いた。
「都市が、自分で“輪郭”を引いてる」
「誰に見られるかを、選び始めたってことだ」
それは、決して無邪気な進化ではない。
そのとき。
空気が、わずかに“鳴った”。
剣戟でも、魔術でもない。
概念が擦れる音。
アレックスは、反射的に剣を構える。
――遅い。
通りの向こうから、
“人影”が歩いてくる。
普通の外套。
普通の足取り。
普通すぎて、逆に異常。
顔を認識した瞬間、脳が一拍、判断を拒否する。
「……影の家」
レイが、確信を込めて言った。
男は、立ち止まる。
フードを外すこともなく、名も名乗らない。
だが、声だけは、はっきりしていた。
「第七地区は、まだ“未完成”だ」
それは宣告ではない。
評価だった。
ソフィが一歩前に出る。
「完成したら、どうするつもり?」
影の使者は、肩をすくめる。
「使う」
「あるいは――」
一瞬、視線が街全体をなぞる。
「壊す」
ジルの笑みが消える。
「随分と雑な二択だな」
「均衡とは、そういうものだ」
男は、淡々と続ける。
「観測者が消えたことで、都市は“意味の空白”を抱えた」
「空白は、いずれ誰かの意図で埋まる」
「我々か」
「光か」
「あるいは――」
一拍。
「あなた方か」
アレックスは、剣を下ろさなかった。
だが、踏み込まない。
「だったら、伝えておけ」
影の使者が、わずかに首を傾げる。
「何を?」
「第七地区は――」
アレックスは、足元の影を見る。
昨日はなかった。
今は、確かにそこにある。
「誰の“装置”にもならない」
「使わせない」
「壊させない」
「ここは、俺たちが“持つ”」
沈黙。
影の使者は、数秒だけ動かなかった。
そして――
小さく、息を吐いた。
「……なるほど」
それは、嘲笑ではない。
納得だった。
「では、確認しよう」
男の足元から、影が“増える”。
壁に。
地面に。
街灯の柱に。
影が、都市の構造をなぞり始める。
「あなた方が、どこまで“保持”できるのかを」
同時刻。
クロスフェル外縁。
光の転移陣が、二重に展開していた。
白金の騎士だけではない。
司祭。
監査官。
記録官。
光の教団は、本格的な介入準備に入っている。
そして、さらに遠く。
灰色の魔力が、ゆっくりと臨界を越えた。
裁定者は、まだ姿を現さない。
だが、世界は理解している。
この第七地区は、もはや一都市の問題ではない。
観測なき時代における――
最初の試金石だ。
アレックスは、剣を握り直す。
逃げ場はない。
だが、退く理由もない。
「来るなら――」
彼は、仲間を見る。
「全部、受けて立つ」
第七地区の影が、一斉に揺れた。
物語は、都市規模の局地戦へと踏み込む。
次に描かれるのは――
誰が“都市を定義する権利”を持つのか。
その答えは、血でも、光でも、理屈でもない。
選択を引き受け続けられるかどうか。
それだけだった。
影が、増殖する。
それは闇が濃くなる、という類のものではない。
第七地区そのものが、自分の縁取りを主張し始めている。
建物の角。
街灯の根元。
石畳の継ぎ目。
それぞれに落ちる影が、互いに“噛み合わない”。
都市の幾何が、ずれていく。
「……始まったな」
ジルが低く言った。
影の家の使者は、すでに後退している。
撤退ではない。
配置完了だ。
彼らの役目は、ここまで。
最初に変化したのは――音だった。
巡回兵の足音が、唐突に途切れる。
悲鳴はない。
衝突音もない。
ただ、音が記録から抜け落ちた。
レイが、即座に判断する。
「広域遮断じゃない。区域指定だ」
「第七地区だけ、“外との因果”を切られてる」
ソフィは、歯を食いしばる。
「都市が……自分で結界を張ってる?」
「正確には逆ね」
ジルが言う。
「外界から“見られないように”自分を折り畳んでる」
それは、防衛でも攻撃でもない。
拒絶だった。
通りの奥で、再び鈴の音が鳴る。
今度は、近い。
曲がり角の向こうから、“人”が出てくる。
いや――
人だったもの。
服装はまちまち。
商人。
職人。
子供。
顔は、ある。
表情も、ある。
だが、目だけが――
空白だ。
「住民……?」
アレックスの声が、わずかに揺れる。
彼らは歩いている。
だが、足音がない。
一歩ごとに、存在が“書き換えられている”。
ソフィが、息を呑む。
「記録体……」
「消えた人々が、都市の自己補完に使われてる」
レイが剣を抜く。
「斬れるか?」
「斬ったら――」
ソフィは、首を振る。
「都市そのものを傷つける」
最初の“住民”が、立ち止まる。
ゆっくりと、口を開く。
「……ここは、静かで、いい街でした」
複数の声が、重なって聞こえる。
「争いもなく」
「選択もなく」
「間違いもなく」
ジルが、吐き捨てる。
「最悪だ」
「管理された理想郷の残骸」
住民たちが、同時に一歩、踏み出す。
攻撃動作ではない。
接触だ。
触れられれば、“同化”が起きる。
アレックスは、剣を振るわない。
代わりに――
地面を、踏み鳴らした。
魔法剣が、共鳴する。
光でも、闇でもない。
選ばなかった魔力が、地を走る。
波紋が広がり、住民たちの足が、止まる。
完全な無効化ではない。
だが――
「……戻った?」
影が、彼らの足元に落ちた。
ほんの一瞬。だが、確かに。
その瞬間。
空が、割れる。
音もなく、光の柱が降り注ぐ。
白金の転移陣。
一つではない。
十以上。
光の教団が、“区域鎮圧”を選んだ。
「対象区域を、聖別・固定化する!」
拡声魔術が、都市に響く。
「抵抗は、秩序への反逆と見なす!」
ソフィが、即座に理解する。
「やる気だ……」
「第七地区を、永続封印区域にするつもり」
レイの顔が、歪む。
「人が戻れない街になる」
「戻る必要がない、と判断されるだけだ」
そして。
誰も予測していなかった第三の介入が起きる。
空間が、“塗り替えられる”。
光でも、影でもない。
灰色。
街の中心――
かつて噴水があった場所に、
一人の人物が立っていた。
ローブ。
仮面。
性別も年齢も、判別不能。
だが、存在感だけが、異常に“重い”。
ジルが、息を吐く。
「……裁定者」
灰の超越者。
グレイ=バレイサス。
彼――あるいは彼女は、誰にも視線を向けず、淡々と告げた。
「裁定を開始する」
光の騎士たちが、ざわめく。
影の家の気配が、一斉に後退する。
裁定者は、続ける。
「第七地区は、管理されるには不完全」
「放置されるには、影響が大きすぎる」
「ゆえに――」
仮面が、アレックスたちを向いた。
「保持者を、暫定的に指名する」
沈黙。
「アレックス」
「ソフィ」
「レイ」
「ジル」
「あなた方は、この区域の“選択権”を持つ」
光の教団が、即座に反発する。
「そんな権限、認められるはずが――」
裁定者は、首を振らない。
ただ、言った。
「では、代案を提示せよ」
誰も、言葉を出せない。
アレックスは、剣を下ろした。
都市を見る。
消えた人々。
戻りかけた影。
侵入する光。
待ち構える闇。
簡単な答えは、ない。
だからこそ――
「引き受ける」
彼は、そう言った。
「第七地区は、誰のものにもさせない」
「完成させるか」
「壊すか」
「その選択は――」
一拍。
「俺たちが、最後まで考える」
裁定者は、ほんのわずかに、頷いた。
「記録した」
その瞬間。
第七地区の空気が、わずかに、呼吸を取り戻す。
戦争は、まだ始まらない。
だが――都市を巡る戦いは、確実に動き出していた。
次に問われるのは、この街を、「元に戻す」のか。
それとも――
新しく生まれ直させるのか。
選択は、すでに彼らの手の中にあった。
夜が、ようやく降りてきた。
第七地区の上空だけ、
雲が低く垂れ込めている。
星は見えない。
だが、完全な暗闇でもない。
――都市が、迷っている。
応急的な境界が張られた。
光の教団による封印でもなく、灰の裁定者による固定でもない。
ソフィが即席で組み上げ、ジルが灰の符で“柔らかく歪め”、レイが巡回動線を決め、アレックスが――中心点に立つ。
守るための結界ではない。
壊すための陣でもない。
考えるための猶予。
それが、今の第七地区だった。
住民だったもの――
記録体は、通りの奥へと引いている。
消えてはいない。
だが、近づいてもこない。
まるで、「判断を待っている」かのように。
ジルが、低い声で言う。
「ねえ……」
「これ、影の家の仕込みじゃないわ」
レイが、即座に同意する。
「奴らなら、もっと露骨に刈りに来る」
「ここまで“中途半端”なのは、らしくない」
ソフィは、地面に刻まれた痕跡を見ている。
消失点。
歪曲点。
記録断絶。
「……観測者の後遺症」
その言葉に、空気が少し重くなる。
アレックスは、剣を地面に突き立てた。
ファルシオンではない。
今の彼の剣は、
意志に反応するだけの、
ただの魔法剣だ。
だが――
地面が、微かに震えた。
第七地区が、彼を認識している。
「なあ」
アレックスは、街に向けて言った。
「お前は……」
言葉を探す。
「元に戻りたいのか?」
返事はない。
だが、通りの奥で、一つだけ影が伸びた。
洗濯物の影。
壁に、ちゃんと落ちる。
ほんの一軒分。
ほんの一瞬。
ソフィが、息を呑む。
「……反応してる」
「完全な拒絶じゃない」
その時。
遠くで、
重い鐘の音が鳴った。
一度。
二度。
クロスフェル中心部――
冒険者ギルドの方向だ。
レイが、顔を上げる。
「緊急招集だ」
「しかも……第七地区絡みじゃない」
ジルが、肩をすくめる。
「そりゃそうでしょ」
「こんな“空白”、放っとかれるわけない」
去り際。
灰の裁定者が、いつの間にか、街路の端に立っていた。
誰にも気配を感じさせず。
「忠告を一つ」
仮面越しの声は、淡々としている。
「この都市は、“選ばれなかった可能性”の集積だ」
「戻すには、過去を一つ、確定させる必要がある」
「生まれ直させるなら――」
一拍。
「未来を、与えねばならない」
ジルが、乾いた笑みを浮かべる。
「一番厄介なやつね」
裁定者は、否定しない。
ギルドへ向かう途中、
アレックスは、ふと立ち止まる。
背後。
第七地区。
相変わらず、静かで、間違っている街。
だが――
さっきよりも、“完全に止まってはいない”。
「……なあ」
誰にともなく。
「俺たち、また面倒な役を引いたな」
レイが、短く笑う。
「今さらだ」
ソフィは、杖を握り直す。
「でも……」
「これは、誰かの“失敗”じゃない」
ジルが、最後に言った。
「世界が、次に進む前の――綻びよ」
四人は、再び歩き出す。
鐘の音が、夜の街に響く。
クロスフェルは、何も知らないまま、眠りにつこうとしている。
だが、第七地区は目を覚ました。
そして、それを巡る争いは――
もはや、一都市の問題では済まなくなっていた。
次に動くのは、どの勢力か。
それとも――都市自身か。
夜は、まだ終わらない。
夜明け前。
クロスフェルの街は、いつもより静かだった。
第七地区の異変は、まだ公式には発表されていない。
だが、噂というものは、光よりも早く、影よりも柔らかく広がる。
「家が空になったらしい」
「人が消えたわけじゃない」
「“そこにいなかったことになった”」
そんな曖昧な言葉だけが、酒場と宿と裏路地を漂っていた。
冒険者ギルドの会議室。
夜通しの灯りが、ようやく一段落した空気を映している。
地図の上には、クロスフェル全域。
そして、赤い石で示された――
第七地区。
ギルド幹部の一人が、低く言った。
「現状報告だ」
「失踪者――ゼロ」
「建造物の損壊――ゼロ」
「呪詛反応――なし」
「だが――」
指が、石を叩く。
「居住判定不能」
その言葉に、室内がざわめいた。
「住めない、ではない」
「住めたかどうかが、確認できない」
「……意味が分からん」
「分からないから、仕事として成立する」
そう締めくくられ、視線が一斉に向けられる。
アレックスたちへ。
ソフィは、資料に目を落としたまま言った。
「観測者が消えたことで、都市は“自分を記録する仕組み”を失った」
「第七地区は、その歪みが一番早く表面化した場所」
「つまり……」
レイが続きを受ける。
「放置すれば、同じ現象が別の地区でも起きる」
「順番に、だ」
ジルが、軽く手を挙げた。
「補足」
「この手の現象、影の家が一番嫌うやつよ」
「管理も、利用もできない」
「だから――」
アレックスが、ゆっくり言う。
「潰しに来る」
沈黙。
それは、確信に近い予測だった。
依頼は、簡潔だった。
「第七地区の“安定化”」
方法は問わない。
結果だけが必要。
安定とは――
元に戻すことか。
新しい形にすることか。
あるいは、切り捨てることか。
選ぶのは、現場だ。
夜が明ける。
太陽が昇り、街は、いつもの顔を取り戻す。
市場が開き、鐘が鳴り、人が行き交う。
だが、第七地区だけは――
光を受けても、影を落とさない。
そこは、“都市の記憶が曖昧になった場所”。
ソフィは、歩きながら言った。
「観測者は、世界を止めることで守っていた」
「でも今は――」
「動きながら、選ばせるしかない」
レイが、頷く。
「守るために、剣を抜く相手が変わっただけだ」
ジルは、路地の奥を見ている。
「影の家は、この“未定義”を戦場にする」
「光の教団は、秩序の名で封じに来る」
「灰は……」
一瞬、言葉を切る。
「均衡が壊れきる前に、刈り取りに来る」
第七地区の中心。
鈴の音が、また鳴った。
昨日よりも、少し近い。
誰もいないはずの通りで、“誰かが歩く気配”がする。
アレックスは、剣を抜かない。
代わりに、一歩、踏み出した。
「……来るなら、正面から来い」
空気が、揺れる。
建物の輪郭が、わずかに曖昧になる。
第七地区は、ついに――何かを選ぼうとしていた。
そして同時に。
遠くで、別の気配が重なる。
整えられた光。
抑え込む闇。
均衡を測る灰。
三つの意志が、同じ座標へ向かって動き出す。
クロスフェルは、まだ気づいていない。
この都市が、次の戦場になるということに。
だが――もう、引き返せない。
物語は、静かに、しかし確実に、次の段階へ踏み込んでいた。




