第七話
夜明けの鐘が鳴る前、都市ヴァルドレアはまだ眠っていた。
だが、街はすでに“選ばされて”いた。
■兆し
最初に異変に気づいたのは、商人だった。
港湾区の倉庫が一斉に封鎖され、中央街道へ向かう交易車列が、理由も告げられず止められた。
「疫病だと?」
「違う、魔力汚染だ」
「いや、港の封印が壊れかけているらしい」
噂は、噂の形を保たないまま広がっていく。
だが共通していたのは――
どれもが“もっともらしい”ということ。
■都市に落とされた三つの選択肢
昼前。
魔術議会の鐘楼が、通常とは異なる合図を打ち鳴らした。
緊急招集。
ソフィが顔を上げる。
「……早すぎる」
議会庁舎へ向かう途中、彼女は街の様子を見渡して、理解した。
影の家は、兵を出していない。
黒霧も、遺構も、魔王もない。
代わりに――
“状況”を配置してきた。
議会で提示されたのは、三つの報告だった。
一つ目。
北方水路の封印術が不安定化。
放置すれば、都市下層が水没する可能性。
だが、修復には大量の魔力供給が必要。
供給元は――
市街区の結界を一時的に解除するしかない。
解除すれば、影の家の工作員が流れ込む。
二つ目。
交易区で発見された“黒霧に似た反応を持つ物質”。
実害は確認されていない。
だが、恐慌はすでに始まっている。
これを鎮圧するには、強制的な検疫と区画封鎖が必要。
つまり――
数万人規模の生活を切り捨てる。
三つ目。
冒険者ギルドへの通達。
「未確認の高位遺物が都市に存在する。市の安全保障上、隔離、ないしは排除を要請する」
放置すれば、影の家シェイド・フォロウがそれを“次の旗”に使う。
拒めば――
都市は“遺物を隠す危険都市”として孤立する。
■影の家のやり方
レイは、歯噛みする。
「……戦場が、ない」
「あるわ」
ジルが低く言う。
「街そのものが、戦場」
影の家は、姿を見せない。
だが、どの選択肢を取っても、人が死ぬ。秩序が壊れる。あるいは、未来が縛られる。そう作られている。
完璧なジレンマ。
そして――
その中心に置かれたのが、
《選択器》だった。
■アレックスの前に突きつけられる問い
アレックスは、議会庁舎の高窓から街を見下ろしていた。
市場。
屋根。
人。
どこも、剣で守れる距離じゃない。
ソフィが言う。
「選択器を使えば――」
言葉を、飲み込む。
使えば、一つの解は“確定”する。
水路を救う代わりに、結界を失うか。
恐慌を止める代わりに、街を切るか。
都市を守る代わりに、遺物を差し出すか。
どれも、正解に見える。
どれも、誰かを見捨てる。
アレックスは、円環を握る。
ファルシオンなら、切って終わらせられた。
敵を倒し、結果を背負い、前に進めた。
だが、これは違う。
これは――
選ばせるための遺物だ。
「影の家は……」
アレックスは、低く呟く。
「俺に、剣を抜かせないつもりだな」
ジルが笑う。
「ええ。だってあなたが剣を抜く時は、“世界が正気を失った時”だもの」
■都市が息を詰める
夕刻。
選択の期限が迫る。
街は、静まり返っていた。
誰もが待っている。
魔術議会の決断を。
冒険者の動きを。
そして――
アレックスの選択を。
影の家は、確信している。
選ばせれば、世界は必ず割れる。
剣を使わせなければ、英雄は孤独になる。
それが、彼らの戦争。
アレックスは、目を閉じた。
円環は、冷たい。
だが――
彼の胸には、まだ熱があった。
「……いいだろ」
小さく、だが確かに言う。
「なら、の街ごと、想定外を選ぶ」
ソフィが息を呑む。
レイが、目を見開く。
ジルだけが、静かに笑った。
「やっぱりね」
影の家が仕掛けた都市規模のジレンマは、ここで終わらない。
なぜなら――アレックスは、まだ“選択していない”からだ。
鐘楼の影が、街路を斜めに切り取っていた。
夕刻。
期限まで、あと一刻もない。
魔術議会の広間では、声を潜めた議論が渦を巻いている。
だが、アレックスはそこにいなかった。
■剣の代わりに、足を使う
アレックスは、港湾区へ向かう石段を駆け下りていた。
護衛も、宣言も、説明もない。
ただ一人。
レイが追いつく。
「待て。どこへ行く気だ」
「水路だ」
短く答える。
「結界を解くかどうか、議会で悩んでる時間はない」
「選択器は?」
「使わない」
その言葉に、レイは一瞬、言葉を失う。
「……代替案があるのか?」
アレックスは、立ち止まらない。
「あるかどうかじゃない」
「作る」
■ソフィの理解
水路封印区画。
厚い魔術扉の前で、ソフィが待っていた。
彼女は、何も聞かず、アレックスの顔を見ただけで察した。
「……選ばないつもりね」
「ああ」
「なら、理屈で止めることはできない」
そう言って、術式展開を始める。
「その代わり――失敗したら、都市が沈む」
「わかってる」
ソフィは、微笑んだ。
「剣がなくなっても、相変わらず無茶ね」
■ “選択肢”の前提を壊す
封印の核。
魔力流が乱れている。
影の家は、ここを“半壊”状態にした。
完全に壊さない。
だが、放置すれば崩壊する。
だから、「結界解除か、水没か」という二択が成立する。
アレックスは、流路を見つめた。
「……これ、どこまでが“自然な劣化”だ?」
ソフィは一瞬考え、答える。
「八割は――人為的なノイズ」
「だよな」
アレックスは、瓦礫の中から一本の鉄杭を引き抜いた。
魔力を帯びていない、ただの構造材。
「なら、壊すべきは封印じゃない」
彼は、杭を魔力の渦の“外側”へ打ち込んだ。
「ノイズの発信源だ」
■力ではなく、責任を引き受ける
杭が、折れた。
次に、彼の右腕が震える。
魔力の逆流。
ファルシオンがあれば、引き受けてくれた負荷。
今は、自分の身体で受けるしかない。
歯を食いしばる。
「アレックス!」
ソフィが叫ぶ。
「続ける!」
声は、掠れている。
「結界を切るかどうか、選ばされてるのが気に食わない」
彼は、さらに杭を打ち込む。
「だったら、選択肢そのものを消す」
魔力流が、安定する。
封印が――“修復”され始めた。
■同時多発の“崩し”
その瞬間。
街の別地点で、ジルが動いていた。
交易区で流された“黒霧物質”の噂。
彼女は、情報屋としてではなく、灰の勢力として動く。
「誇張を、逆に利用する」
恐慌を煽っていた影の家の伝令役を、静かに排除。
噂は、収束を始める。
一方、レイは冒険者ギルドへ。
「遺物提出要求」の根拠を突き、法的手続きの欠陥を暴く。
「正式決議なし。つまり、これは“圧力”だ」
ギルドは、動かない。
■選択器は、沈黙する
封印核の前。
ソフィが、静かに告げる。
「……安定した」
アレックスは、膝をついた。
息が荒い。
だが――街は、沈まない。
結界も、解除されない。
検疫も、封鎖も、提出も――すべて“理由を失った”。
影の家が用意した三つの選択肢は、前提条件ごと、崩れ去った。
■影の家の誤算
遠隔の観測点。
名を持たぬ者たちが、沈黙する。
「選択器は――使われていない」
「だが、局面は崩れた」
「……剣を使わず、選択を拒否したか」
それは、彼らが最も想定していなかった行動。
“英雄が責任を引き受ける”という、最も不合理な選択。
■そして、街は知る
夜。
街に灯りが戻る。
何も“決断”は発表されなかった。
だが、危機は去った。
人々は、理由を知らない。
それでいい。
アレックスは、円環を見下ろし、呟く。
「……使わなくて、正解だったな」
選択器は、何も答えない。
だが――初めて、沈黙が味方になった。
影の家の戦争は、一つ、破られた。
夜更け。
ヴァルドレアの屋根の上で、風が静かに流れていた。
都市は、眠っている。
だがそれは、危機を忘れた眠りではない。
選ばされなかったという違和感を、まだ胸の奥に残したままの眠りだ。
■円環の異変
アレックスは、宿の一室で円環――《選択器》を卓上に置いていた。
灯りの下でも、それは鈍く、無色だ。
魔剣ファルシオンのような圧も、声も、脈動もない。
「……相変わらず、静かだな」
独り言に、返事はない。
だが、その沈黙が――以前と、微妙に違っている。
ソフィが、円環の縁に指を近づける。
「触らないで」
「え?」
「今、“返された”」
アレックスは眉を上げる。
「返された?」
ソフィは、目を閉じる。
「魔力じゃない。意志……というより、判断の余白」
彼女は言葉を選ぶ。
「使われなかったことで、この遺物は“未確定”のまま残った」
■第一兆候 都市の“ざわめき”
その夜、奇妙な報告が相次いだ。
・港湾区で、封印の補助結界が自然修復
・交易路で、封鎖寸前だった街道が自発的に解放
・冒険者ギルドに、未依頼の協力者が現れる
誰かが指示したわけではない。
だが、人が――判断し、動いている。
レイが、腕を組む。
「……おかしいな」
「何が?」
「指導者がいないのに、秩序が立ち直っている」
ジルが、静かに笑う。
「それが、“管理されない均衡”よ」
■選択器の“反応”
アレックスが、円環を手に取る。
その瞬間。
――軽く、震えた。
だが、力を引き出すための振動ではない。
共鳴。
遠くで、誰かが何かを選んだ。
それが、微かに“伝わってくる”。
ソフィが、はっと目を見開く。
「……そうか」
「何かわかった?」
「これ、選択を“行使”する装置じゃない」
彼女は、確信を持って言う。
「選択を“集中”させるための器」
レイが首を傾げる。
「使われていないのに?」
「だからこそよ」
ソフィは円環を見る。
「使われなかった判断が、行き場を失って、ここに集まっている」
■ 新たな機能の兆し
円環の内側。
これまで何もなかった空間に――
一瞬だけ、無数の細い光が走った。
文字ではない。
術式でもない。
それは、選ばれなかった可能性の残光。
アレックスは、息を呑む。
「……これ、世界の“未遂”か?」
ジルが頷く。
「選ばれなかった未来」
「救われなかった街」
「起きなかった戦争」
彼女は、低く続ける。
「灰の勢力が、ずっと探していたもの」
■ 灰の掟との一致
ジルは、円環から一歩距離を取る。
「グレイ=バレイサスには、古い掟がある」
レイが問う。
「何だ?」
「決断を代行するな」
沈黙。
「選択器は、本来“使われる”ための遺物じゃない」
ジルの声は、静かだ。
「使われないことで、世界に選ばせ続けるための――蓄積器」
■影の家への影響
遠く。
名を持たぬ通信域で、影の家が異変を感知する。
「……選択が、散らばっている」
「集中していない。だが、消えてもいない」
「遺物が、“結果”を吐き出していないのに――」
彼らは、理解する。
この遺物は、支配も、抑止も、できない。
だが――世界を“自律させてしまう”。
それは、管理を前提とした戦争を、根底から無効化する。
■アレックスの実感
アレックスは、円環をそっと机に置いた。
「……使わなくてよかった」
ソフィは、微笑む。
「ええ。あなたが“選ばなかった”から、世界が動き始めた」
レイが、呟く。
「厄介だな。英雄がいらない世界か」
ジルが、肩をすくめる。
「いいじゃない。英雄は、疲れる」
円環は、静かにそこにある。
だが、沈黙はもう、空白ではない。
それは――
選ばれなかったすべてを、溜め込み始めた証。
そして、影の家が最も恐れる未来の芽。
夜が、都市を包み直す。
それは静かな夜ではなかった。
騒音も悲鳴もない――だが、気配だけが濃くなる夜だった。
■影の家 ― 無名の中枢
場所は記録に残らない。
地図に描けず、座標にも定まらない空間。
壁は石でも金属でもない。
黒霧を凝縮した思考の残滓が、建築物の形を取っている。
そこに集うのは、影の家の中枢たち。
名前はない。
役職すら、流動する。
ただ一つ、共有されるものがある。
――戦争の再演という意志。
中央に浮かぶ黒い結晶体が、微かに軋んだ。
「……観測値、逸脱」
声は一人のものではない。
複数の思考が重なり、ひとつの発話を成す。
「選択器が“沈黙したまま”稼働している」
「結果が出ていないのに、因果が流動している」
「管理できない均衡だ」
結晶体の表面に、都市の断片が映る。
ヴァルドレア。
港、街道、路地裏――
人々が勝手に決めて、勝手に動く光景。
それは、影の家にとって――最悪の兆候だった。
■議論ではなく、確認
「選択器は、使われていない」
「だが、影響は拡散している」
「これは武器ではない」
「違う。これは戦争そのものを無効化する存在だ」
沈黙。
否定は、出なかった。
影の家シェイド・フォロウは、管理と再演を前提に存在している。
帝国の亡霊であり、敗北をやり直すための集合体。
選択肢を奪い、結末を再現する。
それが、彼らの戦争だった。
だが――選択器は、誰にも選ばせないことで、世界に選ばせている。
これは、思想への攻撃だ。
■最優先目標の変更
黒い結晶体が、はっきりと振動する。
「結論を出す」
空間に、文字でも映像でもない確定が走る。
――選択器を破壊する
――回収は不要
――解析は不要
――完全消滅をもって成功とする
一瞬の躊躇もない。
「危険度評価」
「魔剣ファルシオン喪失後の代替遺物」
「灰の勢力が関与」
「都市全体への影響、未知数」
「それでも?」
返答は、即座だった。
「それでもだ」
選択器が存在する限り、影の家は“再演者”でいられない。
彼らは、観客になることを最も嫌う。
■影が動き出す
命令は、言葉にならないまま流れる。
・潜伏していた影の司祭に、暗号解除
・都市内部の協力者へ、即時起動命令
・黒霧残滓を用いた即席兵器の再構築
・観測網を「破壊前提モード」へ切り替え
目的は一つ。
選択器が存在する都市そのものを、戦場にする。
誰かが呟く。
「……また、都市が一つ消えるか」
だが、それを惜しむ声はない。
影の家にとって、都市は舞台装置でしかない。
■都市側の予兆
同時刻。
ヴァルドレアの夜警が、異変を感知する。
「霧が……逆流してる?」
港湾区の水面に、黒い筋が走る。
封印されたはずの旧地下路から、
意図を持った気配が漏れ始める。
冒険者ギルドの鐘が、低く鳴った。
緊急ではない。
だが、嫌な音だ。
ソフィは、窓辺で立ち止まる。
「……来る」
アレックスが、振り返る。
「影の家か?」
「ええ。今度は迷っていない」
ジルが、短剣を手に取る。
「狙いは一つね」
レイが、静かに剣を抜く。
「選択器だ」
■静かな宣戦布告
その瞬間、円環が――《選択器》が、初めて明確に反応した。
光でも、振動でもない。
ただ、重さが増した。
アレックスの胸に、嫌な感覚が走る。
これは――守らなければならない重さだ。
ソフィが、低く告げる。
「影の家は、この世界に“選ばせる”ことを許さない」
ジルが笑う。
「上等。なら、選ばせ続けるだけよ」
外で、霧が濃くなる。
戦争は終わっていない。
だが今度は――
結果を奪い合う戦争ではない。
“選択そのもの”を巡る戦争が、始まる。
夜明け前。
ヴァルドレアの空は、まだ色を決めかねている。
霧が低く垂れ込み、街路の石畳は濡れているわけでもないのに鈍く光っていた。
アレックスは、屋上に立っていた。
選択器は背後、封印布に包まれたまま沈黙している。
だが――沈黙は、無関心ではない。
「……戦争、か」
独り言のように漏れた声に、ソフィが隣へ来る。
「正確には違うわ」
彼女は空を見上げる。
霧の向こうに、都市全体を覆う“歪み”が見え始めていた。
「影の家は、戦争という形式でしか思考できない」
アレックスは眉をひそめる。
「どういう意味だ?」
「彼らはね、勝敗が決まる状況じゃないと理解できない」
ソフィの声は冷静だが、硬い。
「選択器は、勝ちも負けも決めない。使われない限り、結論を先送りにする存在」
「だから壊したい?」
「ええ。“宙ぶらりん”が一番、彼らにとって耐えられない」
■開戦は、音もなく
最初の異変は、鐘でも爆発でもなかった。
人が、迷い始めた。
港湾区で、荷を下ろすはずだった商人が足を止める。
衛兵が巡回経路を外れる。
冒険者が、依頼を受ける直前で立ち止まる。
誰も命令されていない。
だが、選ばされている。
「……来てるわね」
ジルが、路地の影から呟く。
「影の家は、直接攻めてこない。都市そのものを“割る”つもり」
レイが頷く。
「内側から崩す。昔、教団がやった手口だ」
彼は、苦い表情を浮かべる。
「選択を迫り続けて、人が自分で壊れるのを待つ」
■影の家の宣言
正午。
空が、一度だけ暗転した。
雲でも日蝕でもない。
都市全体が、一瞬“裏返った”ような感覚。
その直後――
声が、街中に落ちる。
拡声でも魔術でもない。
意識に直接触れる声。
「選択器の保持者に告ぐ」
「それは、世界を停滞させる異物である」
「使わぬならば、破壊せよ」
「破壊せぬならば、都市ごと、結果を示す」
人々がざわめく。
悲鳴はない。
怒号もない。
ただ、不安だけが増殖する。
アレックスは歯を食いしばる。
「脅迫だな」
「違うわ」
ソフィが静かに言う。
「公開投票よ」
■都市規模のジレンマ
影の家は、選択器を壊さない限り――
都市に「決断」を強いる。
・黒霧残滓の再活性
・街区単位での機能停止
・物流の遮断
・治癒魔術の不調
・封印領域の再開放
すべてが、段階的に発生する。
だが条件は、明確だ。
――選択器が存在する限り、続行する
誰かが言い出す。
「壊せばいいんじゃないか?」
別の誰かが返す。
「でも、あれがあるから影の家は動けなかったんだろ?」
議論が生まれ、対立が生まれ、 疑心が生まれる。
都市が、自分で割れていく。
それこそが、影の家の戦争。
■アレックスの選択
夜。
四人は、再び集まる。
「……使う気はないんだろ?」
レイが、アレックスを見る。
「ない」
即答だった。
「壊す気も?」
「それも、ない」
ジルが口笛を吹く。
「大胆ね」
ソフィは、しばらく黙ってから言う。
「つまり――影の家の前提を、全部無視する」
アレックスは頷く。
「選択器は、“選ばないことで機能する”」
「なら」
彼は、都市を見下ろす。
「俺たちも、選ばない」
■戦争の形が変わる
影の家は、選択を奪うことで支配してきた。
だが今回は違う。
都市は、恐怖に揺れながらも、少しずつ“自分で決め始めている”。
商人は、話し合う。
衛兵は、命令を待たずに動く。
冒険者は、依頼を分け合う。
完璧ではない。
混乱もある。
だが――それでも進んでいる。
ソフィが、微かに笑う。
「影の家は、この状況を理解できない」
「なぜなら」
ジルが続ける。
「勝ちも負けも、まだ決まってないから」
レイが剣を握る。
「だが、向こうは必ず踏み込んでくる」
アレックスは、夜風の中で言う。
「その時が、本当の開戦だ」
戦争は始まっている。
だがそれは――
都市を壊すための戦争ではない。
“選ばせない支配”と、“選び続ける不確実性”の戦争だ。
そして影の家は、初めて気づき始めている。
――この戦争、勝ち筋が存在しないかもしれないということに。
夜は、完全には明けなかった。
交易都市ヴァルドレアの空は薄い灰色に染まり、朝と呼ぶには頼りない光が、街の輪郭だけを浮かび上がらせている。
それはまるで、世界そのものが様子見をしているかのようだった。
■魔剣なき剣士
アレックスは、剣を抜いた。
黒銀の輝きはない。
生命を啜る脈動もない。
そこにあるのは、正規の魔導工房製――魔力伝導剣。
刃に刻まれたのは簡素な補助紋。
魔力を流せば、斬撃の位相を安定させるだけの、実用一点張りの剣だ。
「……軽いな」
独り言が、自然と漏れる。
かつてのファルシオンは、抜くだけで“重さ”があった。
剣としての重量ではない。
選択を背負わせる重さだ。
今、その圧はない。
ソフィが、彼の手元を見る。
「慣れないでしょう」
「正直に言えばな」
アレックスは剣を収める。
「だが――これはこれで、助かる」
「?」
「もう、剣に背中を押されない」
ジルが鼻で笑った。
「つまり?」
「自分の足で踏み出せる」
その言葉に、レイは一瞬だけ目を伏せ、静かに頷いた。
■影の家の“次の一手”
都市に変化が現れ始めた、その日の午後。
影の家シェイド・フロウは、方針を切り替えた。
観測による分断。
選択圧による自壊。
どれも決定打にならない。
理由は明白だ。
選択器が、使われていない
そして、もう一つ。
魔剣ファルシオンが、存在しない。
影の家にとって、この二つは同義だった。
“予定されていた終着点が消えた”
だからこそ――彼らは、原始的な手段へ戻る。
■中枢侵攻の兆し
最初に異変を察知したのは、ジルだった。
「……地下、動いたわ」
路地裏の影から、灰色の魔力が微かに立ち上る。
「都市中枢の“下”。観測者がいた区画の、さらに奥」
ソフィが即座に反応する。
「まさか……中枢そのものを、前に出す?」
「ええ」
ジルは短く答える。
「影の家の“核”よ」
レイが剣を構える。
「ついに出てきた、ってわけか」
アレックスは、空を見上げる。
雲の流れが、一点に向かって収束している。
「……戦争だな」
だがその声に、かつてのような高揚はない。
あるのは、腹を括った静けさだけだ。
■ 魔剣なき者の戦場
地下への入口は、都市の真下に口を開けていた。
古い石段。
だが、踏みしめた瞬間にわかる。
ここは――千年前の設計思想で作られている。
「ファルシオンがあれば、真っ先に共鳴していたでしょうね」
ソフィの言葉に、アレックスは苦笑する。
「なくてよかった」
「強がり?」
「いいや」
彼は、魔法剣を抜く。
淡い蒼光が、刃を走る。
「今なら、斬るかどうかを――自分で決められる」
影の気配が、通路の奥から滲み出す。
人影。
だが、名前を持たない者たち。
影の家の尖兵だ。
レイが前に出る。
「来るぞ」
ジルが低く笑う。
「さあ――魔剣なしの英雄様。どこまでやれる?」
アレックスは、一歩踏み出した。
剣は語らない。
力を強要しない。
だが――
応えてくれる。
それで十分だった。
■戦争の本当の始まり
刃が交差する。
魔法と鋼がぶつかり、地下に火花が散る。
影の家は理解し始めている。
この戦争は、特定の遺物を巡る争いではない。
誰が、どんな力を持って、それでも選び続けるのか。
――それを、真正面から叩き潰さなければならない戦争だ。
そして、魔剣を失った剣士は、かつてよりも厄介になっていた。
選択を、奪えない存在として。
地下中枢は、生きていた。
石造りの通路だと思っていた壁が、低く鳴動する。
表面を走る幾何学紋様が赤黒く発光し、都市の鼓動のような振動が足裏を叩いた。
「……建造物じゃないわね」
ソフィの声は、冷静さを保とうとしてわずかに硬い。
「機構都市よ。中枢そのものが戦う設計」
その言葉が終わるより早く、床が割れた。
■第一防衛層 影兵増殖区画
裂けた床下から這い出してきたのは、黒霧を圧縮した“人型”だった。
骨格はある。
だが肉がない。
影が、影のまま武装している。
「来る!」
レイが前に出る。
光を帯びた剣閃が一体を両断するが――
倒れた影兵は、霧となって床へ戻り、
三体に増えた。
「増殖型……!」
ジルが舌打ちする。
「殺し切るんじゃない。生成源を叩く!」
アレックスは視線を巡らせ、即座に理解した。
壁だ。
いや――脈動している“核”。
ファルシオンなら、迷わず斬り込んでいた。
だが今は違う。
「ソフィ!」
「わかってる!」
ソフィは詠唱を短縮する。
空間座標を強制固定する高位干渉魔術。
影兵の動きが、一瞬止まる。
「今!」
アレックスが踏み込む。
魔法剣に魔力を流し込み、刃の位相を“ずらす”。
斬撃は、影兵ではなく――
影が帰る“場所”を切り裂いた。
壁の核が、悲鳴のような共鳴音を上げて砕ける。
影兵は、一斉に崩壊した。
ジルが、息を吐く。
「……魔剣なしで、そこまでやる?」
「だから言っただろ」
アレックスは剣を振り払い、構え直す。
「考える余裕があるって」
■第二防衛層 選択圧回廊
通路が、突然三方向に分岐する。
それぞれの先に、違う光景が映った。
崩れ落ちる都市。
処刑台に立つ人々。
そして――何事もなかったかのような静かな街。
ソフィが吐息する。
「幻影じゃない……意思決定誘導型の精神干渉」
影の家の得意分野だ。
選ばせて、壊す。
「間違った選択をすれば?」
レイが問う。
ジルが肩をすくめる。
「最短で全滅。か、都市ごと巻き添え」
一瞬、沈黙。
アレックスは、剣を下ろした。
「――進まない」
「何?」
ソフィが振り向く。
「選択肢が三つあるなら、その前提を壊す」
彼は通路の中央へ歩き出す。
「全部、選ばない」
剣を床に突き立て、魔力を地脈へ直接流し込む。
荒っぽい。
だが、制御はしている。
床がひび割れ、回廊全体の構造が歪む。
選択肢そのものが、崩れ落ちた。
幻影は消え、ただ一本の通路だけが残る。
ジルが、楽しそうに笑った。
「なるほど。使わないことで、壊す」
影の家が嫌うやり方だ。
■第三防衛層 中枢守護機構《無名連環》
空間が、縦に開いた。
天井も床も消え、無数の環が浮かぶ虚空。
その中心に、巨大な機構体。
人の形を模しているが、顔がない。
腕が四本。
脚部は都市の基礎構造と直結している。
ソフィが、声を失う。
「……都市防衛最終機構」
「倒せるのか?」
レイの問いに、彼女は即答できない。
ジルが前に出る。
「倒す必要はない」
灰色の魔力が、彼女の足元に広がる。
「均衡を外すだけ」
機構体が動く。
重力が反転し、四人の体が宙へ投げ出される。
アレックスは空中で体勢を立て直し、レイと視線を交わす。
「やれるか?」
「当然だ」
光と鋼が、交差する。
レイが正面から注意を引き、ジルが死角へ回る。
ソフィは、詠唱を放棄した。
代わりに、構造式そのものを書き換える。
「今よ、アレックス!」
魔法剣が唸る。
ファルシオンほどの力はない。
だが――
意志は、奪われていない。
アレックスは、機構体の“接続部”へ斬り込んだ。
都市と中枢を繋ぐ、その一本を。
衝撃が走る。
機構体が、初めて膝をついた。
■防衛機構、崩壊
連環が次々と砕け、空間が崩落を始める。
ソフィが叫ぶ。
「中枢が、むき出しになる!」
ジルが歯を見せて笑う。
「いい流れよ。影の家が――本気で出てくる」
アレックスは剣を握り直す。
魔剣は、ない。
だが今の彼には、それで足りていた。
「行こう」
ここから先は――中枢そのものとの戦争だ。
そして、影の家は理解し始めている。
魔剣を失った剣士こそが、最も制御できない存在だということを。
――戦闘は、さらに苛烈になる。
中枢防衛機構が崩れ落ちた瞬間、都市が呻いた。
瓦礫の崩落音ではない。
構造が壊れる音でもない。
――意思が、拒絶する音だった。
ソフィが歯を食いしばる。
「……来る。中枢“人格層”が起動する」
「人格?」
レイが問うより早く、空間が“塗り替えられた”。
■影の家・中枢人格《統合思考核》
視界が反転する。
四人は、都市の地下ではなく――巨大な円環構造の中心に立っていた。
天井は存在しない。
代わりに、無数の都市の映像が浮かぶ。
栄えた街。
滅びた街。
止められた戦争。
再演された惨劇。
そして――そのすべてを束ねる“声”。
「――観測者は排除された」
感情のない声。
だが、怒りだけははっきりと含まれている。
「均衡は、破壊された」
「選択は、逸脱した」
ジルが小さく笑った。
「つまり? 想定外が嫌いってこと?」
声は、無視する。
代わりに、円環の中心に“像”が浮かび上がる。
人ではない。だが人の形。
顔は複数。声も複数。
――影の家、その集合意識。
ソフィが、息を呑む。
「……中枢の正体」
レイが、剣を構える。
「影の家は“組織”じゃない……都市規模の思考体か」
「肯定」
声が重なる。
「我々は“再演装置”」
「戦争を失敗させないための仕組み」
「魔王戦争は――人類の最適解だった」
アレックスが、低く言う。
「ふざけるな」
像が、彼を向く。
「魔剣を失った剣士」
「最大の誤差要因」
「排除対象――最優先」
■第二波 ― 中枢直轄戦力《都市位相兵》
空間が歪み、“兵”が現れる。
影兵とは違う。
黒霧でもない。
都市そのものを削り出したような、石と光の混成体。
数は――数えきれない。
「正面突破は無理!」
ソフィが叫ぶ。
「なら、分断する!」
ジルが灰の魔術を展開する。
空間に“ズレ”が生じ、兵の隊列が歪む。
レイが突っ込む。
光の剣が、都市位相兵の装甲を裂く。
だが――再構成が、速すぎる。
「切っても戻る!」
「戻るなら――」
アレックスが、前に出る。
「戻れない状態にする」
魔法剣に、魔力を込めすぎる。刃が悲鳴を上げる。
それでも振るう。
斬ったのは、兵ではない。
兵を成立させている“法則”。
一体が、完全に崩壊した。
再構成しない。
ソフィの目が見開かれる。
「……法則干渉? あなた、そこまで見えてるの?」
「いや」
アレックスは息を吐く。
「見ないようにしてるだけだ」
ファルシオンなら、剣が答えを教えた。
だが今は、自分で考え、選び、斬る。
その“遅さ”が――影の家には致命的だった。
■中枢の焦燥
像が、歪む。
「誤差が拡大している」
「制御不能」
「再演不能」
声が、初めて“揺れる”。
「魔剣を失ったにも関わらず――なぜ、なお進む?」
アレックスは答えない。
代わりに、剣を握り直す。
ジルが、彼の横に立つ。
「理解できないでしょうね」
灰の魔力が、彼女の周囲に満ちる。
「均衡を壊す者は、常に“不合理”なのよ」
ソフィが、詠唱を始める。
「中枢人格を固定する。今しかない!」
レイが叫ぶ。
「守る!」
光が走る。
灰が絡む。
剣が、道を開く。
■中枢侵攻・最終局面へ
像が、崩れ始める。
だが――完全ではない。
影の家は、最後の手段を残していた。
「最終段階へ移行」
「魔王戦争・完全再現プロトコル」
空間が、赤く染まる。
都市の上空に、かつての“魔王”の影が重なり始める。
ソフィが、震える声で言う。
「……嘘でしょ。それはもう、兵器じゃない」
アレックスは、剣を構える。
「なら――」
低く、はっきりと言った。
「ここで終わらせる」
魔剣は、ない。
だが、剣士は立っている。
――次は、最後の魔王との決戦だ。
都市消滅級。
逃げ場はない。
そして影の家は、ようやく理解する。
自分たちが呼び起こしたのは、制御不能な“英雄”ではなく――
選択を拒む、ただの人間だったことを。
都市の空が、裂けた。
比喩ではない。
雲が割れ、空間そのものが裏返り、
“かつて在った戦場”が重ね書きされる。
焦げた大地。
砕けた城壁。
無数の骸。
千年前、
魔王戦争の最終局面。
影の家が再演しようとした――「勝利が確定していた歴史」。
■最後の魔王
それは、降りてきた。
翼はない。
角もない。
だが、世界が拒絶する存在感だけがある。
人型。
王の姿。
全身を覆うのは、
黒霧ではない。
凝縮された“意志”。
ソフィが喉を鳴らす。
「……あれは、個体じゃない」
レイが理解する。
「戦争そのものだ」
魔王が、ゆっくりと視線を動かす。
都市。
人々。
そして――四人。
「再演条件、未達」
声が、低く響く。
「魔剣ファルシオン、欠損」
「観測者、不在」
「均衡管理、失敗」
そして、結論。
「――それでも、排除する」
■開戦 ― 都市消滅級
最初の一撃で、街区が消えた。
衝撃でも、爆発でもない。
“存在の削除”。
建物が、瓦礫になる前に――なかったことになる。
ソフィが即座に結界を張る。
「防げない! あれは魔法じゃない!」
「なら――」
アレックスが前に出る。
「剣で行く」
無謀だ。
だが、他に選択肢はない。
魔王の腕が振られる。
レイが迎え撃つ。
光の剣が、“削除”を逸らした。
「……通る!」
「通るけど、削りきれない!」
ジルが灰の魔術を展開する。
空間に“曖昧さ”を生む。
完全な削除を、不完全な破壊に落とす。
「今よ!」
■剣のない剣士
アレックスは走る。
ファルシオンは、ない。
代わりに手にしているのは、
調達した魔法剣。
――正直に言えば、頼りない。
だが。
一歩、踏み込む。
魔王の“存在”が、重くのしかかる。
頭が割れそうになる。
それでも。
「……お前は」
息を吐く。
「勝ったことにされただけだ」
剣を振るう。
狙ったのは、魔王の核ではない。
“勝利という前提”。
刃が、何かを切り裂く。
世界が、軋む。
魔王が、初めて後退した。
「――記録外行動」
■崩れる再演
ソフィが叫ぶ。
「効いてる! 戦争の“結果”に干渉してる!」
「そんなこと、本来できるわけが――」
レイが止める。
「できてる」
ジルが、静かに言う。
「ファルシオンがなくなったからよ」
アレックスが、振り返る。
「……何だって?」
「魔剣はね」
灰の魔力が、彼女の周囲に渦巻く。
「“最適解”を提示する剣だった。勝ち方を、教える剣」
だから――影の家に利用できた。
ジルは続ける。
「でも今のあなたは、勝ち方を知らない」
魔王が、咆哮する。
空が、赤く染まる。
都市の半分が、消えかける。
「――再演不能」
「戦争、破綻」
■最後の一撃
レイが前に出る。
「アレックス!」
ソフィが詠唱を完了する。
「一瞬だけ、存在を固定する!」
ジルが、灰を撒く。
「“結果”を曖昧にする!」
三人が作った、ほんの一瞬の隙。
アレックスは、考えない。
ただ、振るう。
剣が、魔王の胸を貫く。
だが――役割は果たした。
魔王の“存在理由”が、崩れる。
「……再演、終了……」
声が、消える。
■戦後
都市は、残った。
傷だらけだが、消えてはいない。
人々が、顔を上げる。
誰かが、言う。
「……生きてる」
ソフィが、膝をつく。
「終わった……」
レイが、剣を下ろす。
「いや」
アレックスは、魔法剣アストリウムを見つめる。
「終わらせた」
ジルが、遠くを見る。
「影の家は――もう“戦争”を使えない」
再演は、壊れた。
最適解は、否定された。
■そして
世界は、選択を取り戻した。
不安定で、不完全で、面倒で。
それでも。
アレックスは、立ち上がる。
「……次は?」
ソフィが、微笑む。
「選ばせる番ね」
レイが、頷く。
「守る価値はある」
ジルが、軽く肩をすくめる。
「均衡は、動き出した」
空は、もう裂けていなかった。
――戦争は終わった。だが、物語は続く。
ここから先は、
“勝利が保証されない世界”だ。
それでいい。
■ブランディア北方辺境都市 ラドフォール
冒険者ギルド《ファルク・ネスト》
北風が、街路を低く唸りながら抜けていく。
ラドフォールは大きな街ではない。
石壁は古く、屋根は低く、繁栄という言葉よりも生存という言葉が似合う都市だ。
だがその分、余計なものがない。
戦争の匂いも、政治の気配も、
ここでは薄まっている。
ギルド《ファルク・ネスト》は、かつて猛禽類の営巣地だった岩棚を改装した建物だった。
高い天井。
無骨な梁。
暖炉の火が、絶えず赤く揺れている。
その火を囲むように、四人は腰を下ろしていた。
■剣を置いたアレックス
アレックスは、壁に立てかけた一本の剣を見ていた。
新しく調達した魔法剣。
悪くはない。
だが、まだ“馴染んでいない”。
鞘に手をかけることもなく、
ただ、そこにあるのを確認するだけ。
ソフィが、湯気の立つ杯を差し出す。
「ほら。北方名物、薬草茶」
「……苦そうだな」
「体にいいの。今のあなたには特に」
受け取って、一口。
顔をしかめる。
「……やっぱり苦い」
ソフィは、小さく笑った。
その笑顔に、かつての“張り詰めた覚悟”はない。
ただ、少し疲れた魔術師の顔だった。
■ソフィの静かな安堵
ソフィは、指先に小さな光を灯していた。
以前なら、無意識に術式を重ね、最適化し、制御し続けていたはずだ。
今は違う。
ただ、光を眺めるだけ。
「……ねえ」
ぽつりと、言う。
「何も起きてない時間って、こんなに落ち着かないものだったかしら」
レイが、暖炉に薪を足しながら答える。
「平和ってのは、慣れるまで時間がかかる」
ソフィは、目を伏せる。
「私はずっと、“選ばなきゃならない側”だったから」
「今もそうだろ」
レイの声は、柔らかい。
「ただ、一人じゃなくなっただけだ」
ソフィは、少しだけ肩の力を抜いた。
■レイの立ち位置
レイは、鎧を外していた。
軽装のまま、椅子に腰掛け、剣を膝に置く。
光の騎士だった頃、こんな無防備な姿は許されなかった。
今は――誰にも咎められない。
「教団からは?」
アレックスが、何気なく聞く。
レイは首を振る。
「静かだ。それが答えだろう」
追手も来ない。
呼び戻しもない。
つまり、役目は終わったということだ。
「……後悔は?」
ソフィが問う。
レイは、少し考えてから答える。
「あるさ。だが――」
暖炉の火を見る。
「自分の剣を、ようやく自分で振れている」
それで十分だ。
■赤のジルという異物
ジルは、いつも通りだった。
椅子の背に脚を投げ出し、杯を片手に、周囲を観察している。
だが――その目に、緊張はない。
「灰の勢力から、何か言ってきた?」
ソフィが聞く。
ジルは肩をすくめる。
「“よくやった”ってさ。それと――」
杯を傾ける。
「しばらく、自由行動に入れって」
アレックスが眉を上げる。
「珍しいな」
「均衡が動いた直後はね」
ジルは微笑む。
「観測より、人を見る時間が必要なの」
少しだけ、本音が混じった。
■夜更け
ギルドの喧騒は、次第に静まり、外では風が雪を運び始めていた。
冒険者たちの笑い声。
木杯が触れ合う音。
暖炉の薪が爆ぜる音。
世界は、ちゃんと回っている。
アレックスは、立ち上がり、窓の外を見る。
白く染まり始めた街。
「……なあ」
振り返らずに言う。
「次は、もう少し普通の依頼にしないか」
ソフィが、即答する。
「賛成」
レイが、苦笑する。
「同感だ」
ジルが、面白そうに言う。
「じゃあ次は、報酬重視でいきましょうか」
四人の笑い声が、静かなギルドに溶けていく。
■小休止
剣は、壁にある。
魔法は、眠っている。
均衡は、まだ揺れている。
だが今は――戦わない時間。
次の物語が始まるまでの、ほんの短い、休息。
ラドフォールの夜は、静かに、深く、彼らを包み込んでいた。
――そして、
新しい朝は、必ず来る。




