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第六話

 それは地図に存在しない。


 だが、必ず辿り着いてしまう場所だった。


 夜明け前。

 ブランディア大陸西縁、地平線に沈みかけた月の残光を背に、黒い岩盤が折り重なる峡谷が口を開けている。


 風は吹いているのに、音がない。

 羽音も、砂の擦れる気配も、すべてが途中で切断される。


「……ここね」


 ジルが低く言った。


 声は反響しなかった。

 吸われたのではない。

 届くべき“壁”が存在しないのだ。


 影の家――シェイド・フロウの本拠は、城でも地下都市でもない。


“役割だけが残った場所”。


 名前を捨て、国家を捨て、未来すら捨てた者たちが、それでも「戦争」だけを続けるために集まった空白。


 アレックスはファルシオンを背負ったまま、一歩、岩の影へ踏み込む。


 瞬間、空気が変わった。


 湿り気はない。

 冷たくもない。

 だが、皮膚の上を這う圧が増す。


「歓迎されていないな」


 レイが小さく呟く。


「歓迎、という概念がないのよ」


 ソフィは視線を上げたまま言った。


 峡谷の奥――

 岩壁に刻まれた無数の溝が、微かに光を反射している。


 魔法陣ではない。

 文字でもない。


 人の“行動記録”そのものだ。


「戦争の痕跡を、地形に刻む……」


 ソフィの声に、苦味が混じる。


「ここは、墓場じゃない。記念碑でもない」


 ジルが続ける。


「継続装置よ。戦争という行為を、終わらせないための」


 次の瞬間。


 岩が、動いた。


 否。

 人影が、岩から剥がれ落ちた。


 黒衣。

 仮面。

 性別も年齢も判断できない。


 一人ではない。

 十でも、百でもない。


 数えるという発想そのものが、この場では意味を失っていた。


「――魔剣保持者」


 声が重なる。

 単一の口から発せられたように。


「大魔導士」


「裏切り者の騎士」


「均衡破壊者」


 名では呼ばれない。

 役割だけが投げつけられる。


 アレックスは一歩前に出た。


「質問は一つだ」


 ファルシオンの鞘に、手を掛ける。


「まだ、黒霧を使う気か?」


 沈黙。


 だが、それは逡巡ではない。


 やがて、声が返る。


「黒霧は不要になった」


 ソフィが目を細める。


「観測者が消えた今、均衡は自壊を始める」


「人は選び、争い、壊す」


「我々は、その加速を受け持つ」


 ジルの口元が歪む。


「相変わらずね。自分たちを“現象”だと思ってる」


 影の一つが、一歩前に出る。


「灰の者」


 その呼び方に、

 ジルの瞳がわずかに冷えた。


「均衡は、固定されるべきだった」


「更新などという不確実性は、千年前に失敗した」


 レイが剣を抜く。


 光は、弱い。

 だが、確かに灯っている。


「だから、再演するのか」


「帝国を名乗り、戦争をなぞり、同じ結末を呼ぶために?」


 影は否定しない。


「再演ではない」


「最適化だ」


 その瞬間。


 空間が裂けた。


 魔術ではない。

 罠でもない。


 本拠そのものが、侵入者を拒絶した。


 床が歪み、壁が折れ、影が武器を形作る。


「来るぞ!」


 アレックスはファルシオンを抜いた。


 黒銀の刃が、低く鳴く。

 生命力を啜る感覚が、即座に返ってくる。


「ソフィ、展開!」


「了解――“固定しない”結界を張る!」


「レイ、突破口を!」


「任せろ!」


「ジル――!」


「もう消えてるわ」


 影の家の本拠で、再び剣と魔法が火花を散らす。


 だが、これはただの戦闘ではない。


 ここで勝てば、戦争を続けるための“場所”そのものが崩れる。


 影の家は理解している。


 だからこそ――

 彼らは全力で、殺しに来る。


 ファルシオンが、一瞬だけ重くなった。


 まるで、ここを斬ることを、剣そのものが知っているかのように。


 アレックスは踏み込む。


「――終わらせる」


 それは宣言ではない。

 選択だ。


 影の家の本拠で、

 千年分の戦争が、今、ぶつかる。



 剣戟が、止まった。


 正確には――

 止められた。


 アレックスの一撃が影を断ち、レイの剣が光の軌跡を刻み、ソフィの魔術が空間を縫い止め、ジルの刃が背後を奪う。


 それでも。


 倒れた影は、崩れなかった。

 血も、肉も、骨もない。


 影は、ただ――ほどける。


 霧のように、糸のように、何かの「役割」を終えた情報が、地面へ吸い込まれていく。


「……おかしい」


 ソフィが息を詰める。


「中枢が、出てこない」


 ジルが舌打ちした。


「そりゃそうよ。ここに“王”なんていない」


 アレックスは、ファルシオンを構えたまま、足元の地面を見る。


 岩盤に刻まれていた溝が、ゆっくりと光を失い始めている。


 いや――

 消されている。


「上じゃない」


 レイが気づく。


「下だ」


 その言葉と同時に、本拠全体が、深く沈んだ。


 落下ではない。

 崩壊でもない。


“階層が切り替わる”感覚。


 次の瞬間、四人は、円形の空間に立っていた。


 天井はない。

 壁もない。


 ただ、無数の“影”が、床に縫い留められている。


 人の影。

 魔物の影。

 兵士の影。

 子供の影すらある。


 全てが、動かない。


 そして、その中心。


 黒い柱が、一本。


 人の背丈ほど。

 だが、圧倒的に重い。


 ソフィが、震える声で言った。


「……これ」


 ジルが、答えを代わりに告げる。


「影の家の中枢」


「個人じゃない」


 柱の表面に、無数の文字が浮かび上がる。


 名前。

 肩書き。

 所属。

 役割。


 だが、どれも途中で削られている。


「名前を捨てた者たち……」


 レイが呟く。


「違う」


 ジルは首を振った。


「名前を奪われた者たちよ」


 その瞬間。


 柱が、脈動した。


 声が、空間全体に響く。


 単一ではない。

 複数でもない。


“統合された声”。


「我々は、失敗の記録」


「我々は、敗北の集積」


「我々は、捨てられた選択肢」


 影が、床から立ち上がる。


 いや――

 影が、柱へと引き寄せられる。


「千年前」


 声が続く。


「帝国は、滅びた」


「光は勝ち、闇は退き、世界は均衡を選んだ」


「だが――」


 影が、一本、また一本、柱へ吸収されていく。


「選ばれなかった可能性は、どこへ行った?」


 ソフィが息を呑む。


「……まさか」


 アレックスの背で、ファルシオンが低く唸った。


 声が、確信をもって告げる。


「我々は、世界から“不要”と判断された者たち」


「敗軍の将」


「禁忌を研究した魔術師」


「帝国に従った民」


「均衡のために切り捨てられた命」


 レイの拳が、震える。


「……墓標、か」


「否」


 声が否定する。


「保存庫だ」


 柱の中心に、一つの映像が浮かぶ。


 千年前の戦場。

 黒霧が空を覆い、帝国の旗が燃え落ちる。


「世界は、勝者だけで語られた」


「敗者は、“間違い”として処理された」


「だが、我々は消えなかった」


 ジルが、静かに言う。


「あなたたちは……“観測されなかった歴史”」


 声が、初めて感情を帯びる。


「そうだ、灰の者」


「観測者は、均衡に不要な我々を切り捨てた」


「だから我々は、観測されない戦争を選んだ」


 アレックスは、柱に向けて剣を構える。


「それが、影の家の正体か。亡霊の集合体だって?」


 一瞬の沈黙。


 そして、答え。


「違う」


「我々は――」


 柱が、完全に光を放つ。


「世界に拒否された“可能性そのもの”だ」


 その圧に、空間が軋む。


 ソフィがかすかに目を閉じる。


「だから……同じ戦争を、何度もなぞる」


「再演ではない」


「存在証明だ」


「我々が“不要ではなかった”と、世界に刻むための」


 アレックスは、一歩踏み出す。


 ファルシオンが、明確に――応えた。


「だったら」


 剣を、真っ直ぐ向ける。


「俺は、その可能性ごと斬る」


「過去を、墓から引きずり出すんじゃない」


「今を生きてる奴らに、選ばせろ」


 柱が、軋む。


 影の家中枢は理解した。


 この剣士は、自分たちの“天敵”だ。


 なぜなら――

 彼は、拒否された可能性を、別の形で抱えている。


 魔剣ファルシオン。


 千年前、「失敗」として処理された兵器。


 中枢が、低く告げる。


「……ならば、次は“完全起動”だ」


 影が、再び動き出す。


 ここから先は、影の家そのものとの最終局面。


 そして同時に――

 ファルシオンの真実へと、不可逆に踏み込むことになる。



 灰は、音を立てない。


 炎の後に残るそれとは違う。

 崩壊の果てでも、終末の名残でもない。


 選択が行われた“後”にだけ残る沈黙――

 それが、彼らの立つ場所だった。


◆灰の結社・記録室


 場所は、どこにも属さない。


 都市の地下でもなく、塔の最上階でもない。

 座標としては存在するが、世界地図には決して記されない“余白”。


 円形の石室。

 壁一面に刻まれたのは、年代でも王名でもない。


「分岐点」の記録だ。


 勝利した戦争。

 回避された災厄。

 選ばれなかった未来。


 それらが、灰色の線として絡み合い、一つの巨大な網を形作っている。


 中央の台座に、一人の女が立っていた。


 顔は若い。

 だが、瞳だけが異様に古い。


「……観測者、消失」


 彼女の声に、石室の奥から、低い応答が返る。


「確認した」


「都市中枢・管理機構、完全停止」


 別の声。


「影の家シェイド・フォロウ中枢、起動兆候あり」


「完全起動フェーズへ移行」


 女は、ゆっくりと息を吐いた。


「予定より、早いわね」


◆灰の掟


 彼女の背後、壁の一部が淡く光る。


 そこに刻まれた言葉。


 ――均衡を守るな

 ――均衡を固定するな

 ――均衡を、更新せよ


 それが、グレイ=バレイサスの掟。


 彼らは世界を救わない。

 破壊もしない。


“選択肢が残る状態”だけを維持する。


「観測者が消えたことで、世界は一段、自由になった」


 女は言う。


「同時に、影の家が動きやすくなった」


 別の構成員が、静かに告げる。


「影の家は、可能性の保存庫」


「過去に拒否された選択肢の集合体」


「存在理由は、理解できる」


「だが――」


 女は、言葉を継ぐ。


「今を生きる人間の選択を奪うなら、それは“更新”ではない」


 一拍。


「ただの、逆行よ」


◆赤のジルについて


 誰かが、話題を変える。


「赤のジルは、深く関与しすぎている」


「個に、肩入れしている」


 女は、首を振らない。


 否定もしない。


「彼女は、“揺らぎ”として送り込んだ」


「魔剣の剣士」


「黒霧封印の魔導士」


「教団から逸脱した騎士」


「そして、彼女自身」


 女の指が、石台に刻まれた一点をなぞる。


 アレックスの名は、そこにない。

 ソフィも、レイも。


 だが、

 線が集中している点がある。


「魔剣ファルシオン」


 空気が、わずかに張り詰める。


「千年前、封印されたはずの“失敗作”」


「影の家の中枢と、同じ系譜にある」


 女は、静かに告げる。


「影の家は、“拒否された可能性”を集めて軍にした」


「ファルシオンは――」


 一瞬、言葉を選ぶ。


「拒否された可能性を、一人で抱え込む器」


 沈黙。


 それは、灰にとっても危険な存在だった。


◆灰の判断


 女は、背を正す。


「介入レベルを、引き上げる」


「直接戦闘は、まだ行わない」


「だが――」


 視線が、記録の網の先へ向く。


「影の家が“完全起動”に至れば、世界は再び、選択肢を失う」


「その瞬間、我々は――」


 声が重なる。


「――均衡を、壊す」


 女は、最後に呟く。


「剣士が、どこまで斬れるか」


「魔導士が、どこまで選び続けられるか」


「そして、ジルが――掟を超えられるか」


 灰は、賭けに出ていた。


 世界そのものを、試験台にする賭けだ。


 石室の光が、消える。


 次に彼らが動く時、それは――影の家か、魔剣か、あるいは“世界の意思”そのものが臨界を越えた時になる。



 夜明け前だった。


 空はまだ青にも黒にもなりきらず、都市の輪郭だけが曖昧に浮かび上がっている。


 その静けさを、

“鳴ってはいけない音”が破った。


 ――低く、長い、共鳴。


 鐘でも雷でもない。

 だが、確実に世界の深部に触れる音だった。


 アレックスは、反射的に剣へ手を伸ばす。


 だが、抜いていないのに――魔剣ファルシオンが、震え始めていた。


「……来た」


 ソフィが、呟く。


 彼女の魔力感知が、過去最大のノイズを拾っている。


「黒霧装置じゃない……もっと、根本的な――」


 言葉が途切れた。


 空間そのものが、“組み替えられている”。


◆影の家 ― 完全起動


 それは、爆発でも侵攻でもなかった。


 都市のどこかに、旗が立ったわけでもない。


“影の家が、存在を隠す必要をやめた”

 ただ、それだけだった。


 見えない糸が、世界中で張り巡らされる。


 黒霧装置の残骸。

 地下遺構の起動核。

 失われた帝国の碑文。

 名を消した者たちの記録。


 それらが一斉に、同じ位相で“応答”を始める。


 ソフィの顔色が変わった。


「……魔術じゃない」


「これは、概念の起動よ」


 レイが剣を構える。


「敵は?」


「“どこ”でもあり、“ここ”でもある」


 ジルが、短く舌打ちした。


「完全起動ね……最悪のタイミング」


◆魔剣の異変


 その時だった。


 ――ギィ……ン


 金属が軋む音。


 だが、それは外からではない。


 アレックスの内側からだ。


「……っ!」


 膝をつく。


 視界が、二重になる。


 過去の戦場。

 黒霧の海。

 倒れ伏す兵士たち。


 それらが、“思い出”ではなく“現在進行形”として流れ込んでくる。


 ソフィが叫ぶ。


「アレックス! 剣を離して――」


 遅かった。


 ファルシオンが、自ら抜け落ちる。


 黒銀の刃が、宙に浮かび、淡い光と闇を同時に放つ。


 その刃に――

 文字が浮かび上がる。


 術式でも、言語でもない。


“役割”だ。


◆魔剣ファルシオンの正体


 空気が、凍る。


 誰かの声が、剣を通して響いた。


 それは命令でも、囁きでもない。


 告白だった。


『――確認。影の家、完全起動を検知』


『――対応プロトコル、解放』


 ソフィが息を呑む。


「……剣が、喋ってる?」


 ジルは、目を細めた。


「違う」


「剣に閉じ込められてた“何か”が、目を覚ました」


 アレックスの頭に、理解が流れ込む。


 千年前。


 魔王戦争。


 黒霧が初めて使われた夜。


 そして――それを“止めるために作られた存在”。


『魔剣ファルシオンは――』


 声が、静かに続く。


『黒霧を殺す剣ではない』


『黒霧を引き受ける器だ』


 レイが、眉をひそめる。


「……吸命魔剣」


「生命力を代償にする理由は――」


 ソフィが、震える声で続けた。


「代償じゃない」


「隔離よ……」


 ファルシオンは、黒霧を斬るたびに、黒霧を破壊していたのではない。


“持ち主の命と引き換えに、自分の中へ封じていた”


 だから、剣は重くなる。

 だから、剣は喰らう。


 そして今――


『影の家、完全起動』


『黒霧総量、臨界突破』


『――器の限界、近接』


 沈黙。


 ジルが、静かに言った。


「つまり……」


「影の家が完全に動いたことで、剣が抱え込んできた“失敗の総量”が、一斉に目を覚ました」


 アレックスは、浮かぶ剣を見上げる。


 恐怖は、ない。


 代わりに、妙な納得があった。


「……俺が予定外だった理由か」


 ソフィが、必死に言う。


「まだ、選択肢はある!」


「分離、再封印、あるいは――」


 ファルシオンが、

 光を強める。


『選択肢を提示』


『――継続使用

 器としての役割を維持』


『――完全解放

 黒霧・影の系譜を顕現』


『――自己断絶

 剣と担い手、共に消失』


 三つ。


 どれも、

 戦争を呼ぶ選択だ。


 影の家は、それを待っていた。


 世界は、それを試している。


 アレックスは、剣へ手を伸ばす。


「……選ばせるな」


「俺が、選ぶ」


 その瞬間――


 遠くで、影の家中枢が“応答”した。


 完全起動は、終わっていない。


 ここからが、本番だ。



 風が、逆流した。


 都市の上空。

 雲が引き裂かれるように左右へ分かれ、

 そこに“影”だけで編まれた紋章が浮かび上がる。


 旗ではない。

 紋章でもない。


 概念の投影だ。


 それを見た瞬間、ソフィの喉がひくりと鳴った。


「……あれは、魔術でも、召喚でもない」


「“組織そのもの”を、世界に定義し直している……」


 レイが、低く呟く。


「影の家が、顔を隠すのをやめた、ということか」


 ジルは、苦々しく笑った。


「ええ。“名を捨てた者たち”が一つの名を持つ瞬間よ」


◆影の家中枢 ― 顕現


 紋章の中心が、ゆっくりと崩れる。


 そこから現れたのは、城でも、塔でもなかった。


 人の形だった。


 だが、単独の人間ではない。


 顔は定まらない。

 年齢も、性別も、種族すらも。


 輪郭が揺らぎ、そこに無数の“過去の顔”が走馬灯のように重なっている。


 皇族の面影。

 司祭の瞳。

 傭兵の傷。

 魔術師の手。


 そして――

 全員が、名を持っていない。


「……集合体」


 ソフィが、言葉を絞り出す。


「人格じゃない。役割を選ばなかった者たちの――」


 影は、応える。


 声は一つだが、同時に無数でもあった。


「我々は、影の家」


「選ばれなかった可能性の、保管庫」


「拒否された歴史の、継承者」


 アレックスの魔剣が、激しく鳴動する。


 共鳴している。


 同じ系譜の“失敗”として。


◆正体の核心


 レイが、一歩前に出る。


「千年前の帝国か?」


「それとも、その残党か?」


 影は、否定も肯定もしない。


「帝国は、我々の“最初の器”にすぎない」


「ネザード統一帝国は、世界を止めるために、黒霧を選んだ」


「そして――失敗した」


 影の胸部に、黒霧と同質の揺らぎが走る。


「我々は、その失敗を引き受けた」


「皇族の血も、司祭の信仰も、兵の憎しみも」


「すべてを、名を捨てることで一つにした」


 ジルが、冷たく言う。


「だから、国家でも教団でもない」


「軍ですらない」


 影は、静かに肯定する。


「我々は――戦争そのものの保存形態」


 空気が、凍る。


 ソフィは、理解してしまった。


 影の家は、誰かが世界を壊そうとして生まれたのではない。


 世界が壊れかけた時、“やり直す選択肢”として生まれてしまった存在だ。


◆魔剣との関係


 影の視線が、ファルシオンへ向く。


「黒銀の魔剣」


「貴様は、我々の兄弟だ」


 アレックスの声が、震える。


「……兄弟?」


「そうだ」


「黒霧を外へ解き放つか」


「内へ引き受けるか」


「選択が分かれただけだ」


 影の家は、黒霧を軍にした。


 ファルシオンは、黒霧を剣に封じた。


 同じ失敗から生まれた、二つの解答。


「完全起動とは、回収作業にすぎない」


 影は、淡々と告げる。


「黒霧」


「観測者の残骸」


「そして――器として目覚めた魔剣」


「すべてを統合し、千年前の続きを始める」


◆明確な敵対


 レイが、剣を構え直す。


「それを、俺たちが止める」


 影の家は、初めて笑った。


「理解している」


「だからこそ、君たちを――」


 影が、腕を広げる。


 都市の影が、一斉に立ち上がる。


 兵士の影。

 市民の影。

 倒れた者たちの影。


「次の素材として認識した」


 ソフィが、叫ぶ。


「ふざけないで!」


「世界は、

 やり直すためにあるんじゃない!」


 影は、冷静に返す。


「やり直しではない」


「再演だ」


 アレックスは、魔剣を握り締める。


 痛みが、走る。


 だが、もう迷いはなかった。


「……保存庫だろうが、失敗の集合体だろうが」


 剣を、前へ。


「俺は――今を喰う影を斬る」


 魔剣が、応える。


 完全起動した影の家。

 正体を現した中枢。


 そして、器として限界に近づく魔剣。


 ここから先は――全面衝突だ。



 都市が、息を吐いた。


 いや――

 影を吐いた。


 石畳の隙間。

 屋根の縁。

 人々の足元。


 伸びた影が、一斉に“立ち上がる”。


◆都市戦の始まり


 最初に動いたのは、レイだった。


 剣を抜く音が、騒然とした街路を切り裂く。


「来るぞ!」


 言葉が終わる前に、影の兵が踏み込んでくる。


 形は人間に近い。

 だが、関節の動きが狂っている。

 痛覚も、躊躇もない。


 レイは正面から迎え撃った。


 踏み込み。

 斬撃。

 光を帯びた剣閃が、影を裂く。


 ――裂けたはずの影が、すぐに“縫い合わされる”。


「再生……!」


 レイは舌打ちし、位置をずらす。

 同じ場所で戦えば、包囲される。


「ソフィ!」


 返事はない。

 すでに詠唱に入っていた。


◆ソフィ ― 制圧魔術


 空気が、張り詰める。


 都市の魔力脈が、彼女の周囲へと収束する。


「——展開」


 重力が、ひっくり返った。


 建物の壁に貼り付く影兵が、一斉に宙へ浮く。


 圧縮。

 歪曲。

 爆散。


 影が、霧のように散る。


 だが――散った影が、地面へ戻る途中で再結合する。


 ソフィが敵を見やる。


「……都市そのものが、再生媒体になってる」


 影の家は、

 街を“肉体”として使っている。


◆ジル ― 裏から断つ


 その瞬間、一体の影兵の“首”が落ちた。


 音もなく。


 ジルだ。


 屋根から、壁から、影から影へ。


 暗器が、急所だけを正確に裂く。


 彼女の灰の魔術が、影の“接続点”を一瞬だけ鈍らせる。


 完全破壊ではない。


 だが――

 再生の速度が落ちる。


「今よ!」


 その声に、アレックスが踏み出した。


◆アレックス ― 突破役


 魔剣ファルシオンが、低く唸る。


 吸命の感触が、腕を伝ってくる。


 構わない。


 前へ。


 斬る。


 斬る。


 斬る。


 剣が通った跡だけ、影が“戻らない”。


 黒銀の刃が、影そのものを喰っている。


 影兵が、明確にアレックスを避け始める。


 中枢が――

 脅威を再評価した証拠だ。


◆中枢の介入


 空が、落ちてくる。


 いや、影が降ってくる。


 建物の影が、一斉に剥がれ、集合する。


 巨大な“腕”。


 叩きつけられる。


 ソフィが即座に結界を張る。

 衝撃が、街路をえぐる。


 レイが盾役に回る。

 ジルが影の流れを断つ。


 アレックスは、ただ一人、前へ。


「……都市を使うなら」


 剣を、振りかぶる。


「都市ごと、斬る」


◆第一局地戦の結末


 魔剣が、一瞬だけ――限界を越えた光を放つ。


 斬撃が、影の腕を根元から断ち切る。


 影が、悲鳴のような振動を発する。


 中枢の声が、都市全体に響く。


「——損耗確認」


「局地戦、終了」


 影兵たちが、一斉に“溶ける”。


 街に、静寂が戻る。


◆戦闘後


 瓦礫の中。


 アレックスは、膝をついた。


 息が、重い。


 ソフィが駆け寄る。


「無茶しすぎ……!」


「まだ、死んでない」


 ジルが、周囲を警戒しながら言う。


「撤退ね。あれは“試し”よ」


 レイが、剣を収める。


「……都市規模で来るとはな」


 遠くで、中枢の“視線”が消える。


 だが、確信が残る。


 影の家は、もう隠れない。


 これは――

 前哨戦だ。


 次は、都市を守る戦いか。

 それとも、中枢へ踏み込む反撃か。


 選択の時間は、長くない。



 夜が、静かすぎた。


 都市戦の余韻はまだ街路に残っているはずなのに、風の音も、人の気配も、どこか遠い。


 アレックスは瓦礫の縁に腰を下ろし、膝の上に剣を置いていた。


 黒銀の刃は、呼吸しているように脈打っている。


 規則正しく。

 鼓動のように。


「……お前、そんな音立てる剣だったか?」


 答えはない。


 だが――

 刃の表面を走る微細な光が、彼の問いを否定していた。


◆異変の始まり


 ソフィが、そっと近づく。


 歩み寄るほどに、魔力の密度が変わるのが分かる。


「……アレックス」


 声が、低い。


「それ、魔力反応じゃない」


 彼女は、剣とアレックスの間を見ていた。


「生命反応よ」


 アレックスは、眉を寄せる。


「……冗談だろ」


「冗談だったらよかった」


 ソフィは、言葉を選ぶように続ける。


「ファルシオンは、あなたの生命力を使って力を引き出してた」


「でも今は――あなたの生命力を“基準”にして、自分で調律を始めてる」


 レイが、無言で剣を見つめる。


 騎士として、武器と持ち主の関係には敏感だった。


「……剣が、主を選び直している?」


 ジルが、静かに口を挟む。


「違うわ」


 灰色の瞳が、冷ややかに細まる。


「器が完成しつつある」


◆剣が語り始める


 アレックスが、ゆっくりと柄を握る。


 痛みが、来ない。


 代わりに――感触が増えた。


 血管の流れ。

 心拍。

 呼吸。


 そして、自分の内側に“もう一つの鼓動”がある。


「……おい」


 思わず、呟く。


「聞こえてるなら、何か言えよ」


 その瞬間。


 剣の脈動が、一拍、強くなる。


 頭の奥に、言葉ではない情報が流れ込んできた。


 ――戦場。

 ――黒霧。

 ――崩れた城壁。

 ――血に濡れた手。


 だが、そこに“憎しみ”はない。


 あるのは、処理しきれなかった選択の残骸だけだ。


 ソフィが、息を呑む。


「……今、あなた、何か見た?」


 アレックスは、額に手を当てる。


「映像ってほどじゃない」


「感覚だ」


「……“続きをやれ”って、言われた気がした」


 ジルが、小さく舌打ちする。


「完全覚醒が近い」


「しかも、影の家の起動と同調してる」


◆灰の勢力の警告


 ジルは、腰の暗器に手を添えたまま、告げる。


「グレイ=バレイサスの掟には、はっきり書いてある」


「“世界を再編できる器が生まれた場合、均衡側は必ず介入する”」


 レイが、眉をひそめる。


「つまり?」


「つまり」


 ジルは、アレックスを見る。


「あなたは、影の家にとっても、灰の勢力にとっても、“予定外の切り札”になりつつある」


 ソフィが、声を荒げる。


「だからって、彼を切り捨てる気?」


「いいえ」


 ジルは、首を振る。


「だから、守る」


「……でも」


 一拍、間を置く。


「完全覚醒したファルシオンは、“剣”じゃなくなる」


 アレックスが、静かに問う。


「何になる?」


 ジルは、

 一言で答えた。


「選択装置」


◆覚醒の兆し


 その時。


 遠くで、影がざわめいた。


 都市の奥――

 影の家中枢が、同じ変化を察知したのだ。


 ファルシオンの刃に、はっきりとした紋様が浮かび上がる。


 それは黒霧の紋でも、

 帝国の紋章でもない。


 未完の刻印。


 ソフィが、確信を持って言う。


「……完全覚醒したら、この剣は」


「黒霧を断つだけじゃない」


「“戦争の再演”そのものを、否定できる可能性がある」


 アレックスは、剣を握り直した。


 震えは、ない。


 怖さも、ない。


 ただ――

 覚悟だけが、静かに定まっていた。


「だったら」


 剣を、立てる。


「目を覚ますなら、最後まで付き合え」


 黒銀の刃が、応えるように強く脈動する。


 完全覚醒は、まだ先だ。


 だが、もう引き返せない。


 影の家は動く。

 灰の勢力も動く。


 そして、魔剣ファルシオンは――“剣であること”を終えようとしていた。



 夜明け前だった。


 都市の影が、わずかに“薄く”なっている。


 それは勝利の兆しではない。

 影の家が、重心を引いた証拠だ。


「……退いたんじゃない」


 ソフィが、街路の奥を見据える。


「集約してる」


 レイが、短く頷いた。


「中枢へ戻ったな」


 ジルは、瓦礫の上にしゃがみ込み、地面に指先を当てる。


 灰色の魔力が、水面の波紋のように広がった。


「道はある」


 顔を上げる。


「影の家は、“観測されること”を前提に作られてる」


「つまり?」


「辿り着けるようになってる」


 アレックスは、ファルシオンを握った。


 刃が、わずかに方向を示すように傾く。


「……こっちだ」


◆侵入経路


 街の最下層。


 下水でも、地下道でもない。


“影が最初に溜まった場所”。


 石壁に、人の背丈ほどの亀裂が走っている。


 中は暗い。

 だが、完全な闇ではない。


 影が、自分の形を忘れて漂っている。


 レイが、剣を構える。


「内部戦になる」


「包囲される前に、中枢を叩く」


 ソフィは、短く詠唱し、四人を覆う結界を張る。


 音が、消えた。


 足音も、呼吸も、存在感そのものが薄れる。


「……都市から切り離した」


「ここから先は、影の家の“身体の中”よ」


◆中枢域


 進むにつれ、空間の感触が変わる。


 壁はあるが、距離感が曖昧だ。


 遠いはずの場所が近く、近いはずの場所が遠い。


 ジルが、低く言う。


「人格の寄せ集めね」


「統一されてない記憶が、構造を歪めてる」


 突然、影兵が“湧く”。


 天井。

 床。

 壁。


 レイが前に出る。


「突っ込む!」


 剣が閃く。

 一閃で、影が裂ける。


 再生しかけた影を、ジルの暗器が貫く。


 灰の魔術が、接続を断ち切る。


 ソフィの魔法が、残滓ごと焼き払う。


 そして――アレックス。


 魔剣が、明確に“道”を斬っていく。


 影が、避ける。


 恐れている。


 中枢が、この剣を理解し始めている。


◆中枢の声


 空間全体が、わずかに振動する。


 影の家の声が、直接、脳裏に響いた。


「侵入、確認」


「君たちは、自ら“核”へ来た」


 レイが吐き捨てる。


「望むところだ」


 影が、嘲る。


「理解していない」


「ここは、指揮所でも、玉座でもない」


 空間の奥が、ゆっくりと開く。


 そこにあったのは――

 巨大な“空洞”。


 中心に、影が渦巻いている。


 人格。

 記憶。

 戦争。

 失敗。


 すべてが、一つの塊として循環している。


 ソフィが、息を呑む。


「……これが」


「影の家の中枢……」


 影の声が、続く。


「我々は、破壊されることを想定している」


「だが――」


 渦が、わずかに形を変える。


「統合は、阻止できない」


 その瞬間。


 ファルシオンが、激しく震えた。


 共鳴。


 中枢と、剣が。


 アレックスの視界が、一瞬だけ歪む。


「……来る」


 ジルが、叫ぶ。


「防衛段階に入る!」


◆逆侵攻の本質


 レイが、剣を構え直す。


 ソフィが、魔力を高める。


 ジルが、影の流れを読む。


 アレックスは、一歩、前へ。


「……中枢ってのはな」


 魔剣を、正面に。


「守るもんがあるから、中枢なんだろ」


 剣が、低く鳴る。


 完全覚醒には、まだ至らない。


 だが――

 中枢を断つには、十分だ。


 影の家は、初めて明確な敵意を示した。


 影が、都市一つ分の質量で押し寄せる。


 これは――逆侵攻。


 そして、本当の決戦の入口だ。



 影が、落ちてくる。


 それは兵ではない。

 個体でもない。


 ――機構だ。


 空洞の中心から、重力が反転したかのように、黒い構造体が次々と“剥離”していく。


 歯車。

 骨格。

 神経のような影の索。


 それらが空中で組み上がり、都市の広場ほどの空間を占有する。


「……化け物じゃない」


 ジルが低く言う。


「建造物だ」


 影の家の声が、再び響く。


「防衛機構、起動」


「中枢保全を最優先」


「侵入因子――排除」


 その言葉と同時に、構造体の各部が発光する。


 光ではない。

 影の密度が、臨界を越えた兆候だ。


◆初動衝突


「来るぞ!」


 レイが叫ぶ。


 次の瞬間、空間が“裂けた”。


 直線的な攻撃ではない。

 存在そのものを削ぐ圧が、横薙ぎに走る。


 ソフィが、即座に展開する。


「多層結界、最大!」


 衝撃が、結界に叩きつけられ、空気が悲鳴を上げる。


 だが――

 一層、砕けた。


「……っ!」


 二層目が耐える間に、

 レイが跳び出す。


「突破口を作る!」


 剣が、影の装甲に叩き込まれる。


 だが、弾かれる。


「硬っ……!」


 影の家が、淡々と告げる。


「物理干渉、非推奨」


「分解処理、開始」


 装甲が開き、内部から影の索が射出される。


 無数。


 生物の反射神経では、追いつかない。


 だが――ジルが、動いた。


◆灰の干渉


「“繋がり”を切る」


 地面に灰色の紋が広がる。


 影の索が、途中で霧散した。


「構造は単純よ」


 ジルの声は冷静だった。


「自己修復と再接続が早すぎるだけ」


「つまり?」


「切り続ければ、鈍る」


 ソフィが頷き、詠唱を変える。


「魔力、点集中!」


 光が、一点に収束し、撃ち抜かれる。


 影の装甲に、初めて“穴”が空いた。


 だが、次の瞬間。


 穴が、別の場所に移動する。


 レイが忌々し気に言った。


「逃げやがった……!」


 影の家の声。


「被弾箇所、再配置」


「損耗率、許容範囲」


「防衛機構、継続」


◆魔剣の拒絶


 アレックスは、まだ動いていなかった。


 ファルシオンを、強く握りしめている。


 剣が、明確に“拒んでいる”。


 ――違う。

 拒絶ではない。


 待っている。


 ジルが気づく。


「……アレックス」


「まだ、斬らせないつもり?」


 アレックスは、低く答えた。


「中枢が、剣を測ってる」


「ここで使えば――」


 影の家が、完全に理解する。


「なら、どうする!」


 レイが叫ぶ。


 アレックスは、

 一歩、前へ出た。


◆全面戦闘への移行


 影の防衛機構が、形を変える。


 四肢が分離し、空間各所に“拠点”を形成。


 都市戦用。

 包囲殲滅用。


 本気だ。


 ソフィが、歯を食いしばる。


「結界、持たない……!」


 ジルが即断する。


「役割分担!」


「レイ、近接で注意を引いて!」


「ソフィ、索と砲撃を抑えて!」


「私は中枢との接続点を削る!」


「アレックスは――」


 一瞬、言葉を切る。


「最後まで温存」


 影が、再び押し寄せる。


 空間が、戦場になる。


 鋼と魔法と灰が交錯し、影が、断末魔のように震える。


 だが――

 防衛機構は、まだ落ちない。


 そして。


 アレックスの手の中で、ファルシオンが――


 初めて、自ら魔力を吐き出した。


 低い、獣のような共鳴音。


 ソフィが、振り向く。


「……始まった」


 ジルが、確信をもって言う。


「完全覚醒の……前兆よ」


 影の家中枢が、わずかに沈黙した。


 それは――

 予測外の事象。


 全面戦闘は、次の段階へ移行する。



 影が、泣き始める。


 音ではない。

 振動でもない。


 都市そのものが、不協和を起こした。


 石畳が、逆向きに軋み、壁面の影が“立ち上がる”。


 建物の輪郭が、わずかにずれていく。


「……空間が」


 ソフィの声が、震えた。


「重なってる……!」


 影の家中枢が、初めて感情を帯びた声を出す。


「――全面再編」


「都市防衛機構、人格統合段階へ移行」


◆都市が“敵”になる


 鐘楼が、折れ曲がる。


 ではない。

“関節”が生えた。


 塔が、歩き出す。


 屋根が開き、内部から影の兵装が展開される。


 街路は、迷路へと変形し、出口という概念が消える。


「くそっ……!」


 レイが跳ぶ。


 だが、着地点が――消えた。


 空中で、重力の向きが変わる。


 落下ではない。

 引き剥がされる感覚。


「レイ!」


 アレックスが伸ばした手が、届かない。


 影の索が、レイの身体に絡みつく。


 その瞬間――


「拒否」


 低く、重い声。


 影の索が、断裂した。


 灰。


 ジルの魔術が、空間そのものに楔を打ち込む。


「この都市……」


 ジルが息を吐く。


「人の記憶で補強されてる」


「住民の恐怖、従属、沈黙――」


「それを“素材”にしてる」


 影の家の声が、重なって響く。


 一人ではない。


 十。

 百。

 都市に刻まれた“過去の声”。


「我らは影」


「名を捨てた者」


「敗者」


「不要とされた記録」


「――だから、消えない」


◆人格統合体の降臨


 中央広場が、沈む。


 地面が割れ、黒い“核”が浮上する。


 それは、顔を持たない。


 だが――視線だけがある。


 無数の声が、同時に語る。


「侵入者、定義完了」


「均衡破壊因子」


「更新不要」


「排除」


 都市中枢人格統合体。


 それは、影の家そのもの。


 ソフィが、喉を絞り出す。


「……人じゃない」


「でも……」


「人だったものの集合」


 その瞬間。


 思考が、侵食される。


 過去の後悔。

 選ばなかった道。

 捨てた誰か。


 アレックスの脳裏に、知らないはずの戦場が映る。


 黒霧。

 千年前。


 ファルシオンを握る、別の自分。


 剣が、吠えた。


 否。


 命令した。


 ――抜け。


◆強制覚醒


 アレックスの身体が、自分の意思を追い越す。


 ファルシオンが、鞘を破壊して現れる。


 刃は、黒銀。


 だが今は――

 血脈が走っている。


 剣が、語り始める。


 声は、アレックスの内側から。


《拒否権、消失》


《使用者、生存優先》


《完全覚醒プロセス、前倒し》


 ソフィが叫ぶ。


「アレックス、待って!」


 だが――もう遅い。


 影の家が、理解する。


「……そうか」


「貴様は」


「鍵ではない」


「封印そのものだ」


 都市人格統合体が、防衛機構をすべて解除する。


 代わりに――都市を捨てる。


 街が、崩壊を始める。


 ジルが、歯を食いしばる。


「くそ……!」


「中枢が、剣を“起爆剤”にする気だ!」


 レイが、剣を構える。


「だったら!」


「起動する前に、叩き切る!」


 だが――ファルシオンが、拒む。


 アレックスの視界が、赤く染まる。


 鼓動が、剣と同期する。


 完全覚醒は、まだ“兆し”だ。


 だが――引き返せる段階では、もうない。


 影の家中枢が、最後の宣告を下す。


「ならば見せよう」


「魔剣ファルシオン」


「その正体を」


「――世界が、なぜお前を恐れたかを」


 都市が、完全に崩れ落ちる。


 次の瞬間、露わになるのは――


 剣の記憶か、世界の罪か、あるいは、両方か。



 崩落する都市の中心で、時間だけが止まった。


 瓦礫は空中に縫い止められ、煙は形を保ったまま静止する。


 動いているのは――剣だけだ。


 ファルシオンの刃から、血でも魔力でもない“何か”が零れ落ちる。


 それは、人の形をとった。


◆過去の使用者たち


 一人ではない。


 三人。


 いや――数えられない。


 最初に姿を得たのは、鎧を纏った騎士だった。


 顔は見えない。

 だが、声だけは確かだった。


「……また来たか」


 次に現れたのは、王冠を持たぬ王。


 血に濡れた外套を引きずり、疲れ切った目でアレックスを見る。


「これが、千年後の世界か」


 最後に、剣そのもののような存在が立つ。


 影のようで、光のようで、境界を持たない人影。


 ソフィが、言葉を失う。


「……魂の……残滓……?」


 影の家中枢が、愉悦を含んだ沈黙の後に語り出す。


◆魔王戦争の真相


「魔王戦争」


「それは、勝利の記録として保存された唯一の物語」


「だがな……」


 中枢の声が、都市全域に反響する。


「実際は、違う」


 幻視が走る。


 黒霧に覆われた大地。

 戦場に立つ、無数の国家軍。


 魔王は、一体ではない。


「魔王とは――」


「均衡崩壊時に発生する現象だ」


「文明が、拡張しすぎたとき」


「選択肢が多すぎたとき」


「世界は“圧縮”を必要とする」


 騎士の亡霊が、低く呟く。


「だから……我々は」


「作らされた」


 王だった亡霊が、拳を握る。


「英雄も、魔王も」


「世界を保つための――」


「装置だった」


 影の家中枢が、結論を告げる。


「ファルシオンは、そのための剣」


「魔王を殺す剣ではない」


「魔王を生み、管理し、終わらせる剣だ」


◆剣に支配されるアレックス


 その瞬間。


 アレックスの視界が、完全に切り替わる。


 自分の身体が、“遠い”。


 呼吸が、誰かのものになる。


 ファルシオンが、明確な意志を持つ。


《使用者同調率、臨界突破》


《人格優先権、剣側へ移行》


 アレックスは、叫ぼうとして――


 声を失う。


 代わりに、剣が言葉を紡ぐ。


《安心しろ》


《お前は消えない》


《だが――》


《今は、私が“選ぶ”》


 彼の足が、勝手に前へ出る。


 一歩ごとに、空間が裂ける。


 レイが、歯を食いしばる。


「……ちくしょう」


「目が……違う……!」


 ジルが、震える声で言う。


「完全覚醒じゃない……」


「“管理モード”だ」


 剣に支配されたアレックスが、影の家中枢を見上げる。


 そして、断言する。


「――再演を、開始する」


 中枢が、初めて動揺する。


「馬鹿な……!」


「まだ、千年周期は――!」


 剣が、冷酷に答える。


「周期は、剣が決める」


◆過去の使用者の選択


 亡霊たちが、アレックスの背後に立つ。


 騎士が、剣を掲げる。


「終わらせろ」


 王が、首を振る。


「……いや」


「今度は違う」


 境界の人影が、初めて“感情”を帯びる。


「剣よ」


「次は、選ばせろ」


「世界に」


「人に」


 ファルシオンが、沈黙する。


 その刹那――アレックスの意識が、戻る。


 激痛。

 血の味。


 だが、まだ立っている。


 ソフィが、泣きそうな声で呼ぶ。


「アレックス……!」


 彼は、剣を強く握り直す。


「……聞いた」


「全部、聞いた」


 影の家中枢が、理解する。


「……なるほど」


「だから、貴様は危険なのだ」


「剣に選ばれ」


「それでも、従わない」


 都市の最終崩壊が、始まる。



 都市中枢の空が、割れた。


 崩壊ではない。

 破裂でもない。


 まるで――

 世界が、深呼吸をやめたかのようだった。


◆ファルシオンの拒絶


 アレックスの手の中で、黒銀の魔剣ファルシオンが、初めて震えを止めた。


《管理機構、再接続要求》


《使用者――》


 その声が、途中で断ち切られる。


 アレックスは、ゆっくりと剣を持ち上げた。

 だが、構えではない。


 突き立てる位置を、自分の胸に定める。


 ソフィが叫ぶ。


「やめて!!」


 剣が、焦りを帯びた波動を放つ。


《警告――! 生命維持率、低下――》


「黙れ」


 アレックスの声は、低く、はっきりしていた。


「管理も、周期も、再演も」


「全部――お前が決めることじゃない」


 彼の胸に、刃が触れる。


 血は出ない。

 だが、魂が焼ける感覚だけが走る。


 過去の使用者たちが、ざわめく。


「やめろ!」

「それは――自壊だ!」


 アレックスは、笑った。


「違う」


「契約の破棄だ」


 刃が、砕けた。


 正確には、“剣という概念”が崩れた。


 黒銀の魔剣ファルシオンは、武器でも、管理装置でもなくなる。


 残ったのは――意志を増幅する媒体。


 剣は、剣であることを拒否した。


《……理解》


《管理者権限、消失》


《以後――選択権は、使用者ではなく世界へ返還》


 魔剣は、魔剣であることをやめた。


◆影の家、最後の切り札


 影の家中枢が、ついに沈黙を破る。


 声は、もはや個人ではない。


「――ならば」


「予定通り、最終段階へ移行する」


 都市全域の地下が、同時に脈動する。


 黒霧ではない。


 もっと古く、もっと濃密な何か。


 ソフィが、顔色を失う。


「……そんな……」


「まだ、魂の総量が……!」


 影の家中枢が、淡々と告げる。


「足りないなら――足すだけだ」


 都市に残っていた、黒霧装置の残骸。


 観測装置の名残。


 帝国時代の供物槽。


 それらすべてが、一つの“器”に集約される。


 レイが、剣を抜く。


「……魔王か」


 中枢は、否定しない。


「最後の魔王」


「英雄を必要としない」


「世界そのものを選択不能にする存在」


 巨大な影が、都市の中心から立ち上がる。


 人の形をしているが、顔がない。


 意志がない。


 ただ――“均衡を終わらせる”機能だけがある。


◆灰の勢力、掟を破る


 その瞬間。


 空間が、灰色に塗り替えられる。


 ジルが、静かに息を吐いた。


「……来たか」


 灰の魔術陣が、都市の外縁から一斉に展開される。


 姿を現すのは、数十――いや、数百の影。


 全員が、同じ紋章を持っている。


 グレイ=バレイサス。


 均衡の維持者。

 介入しない者たち。


 その代表格が、前に出る。


「赤のジル」


「これは――明確な掟違反だ」


 ジルは、振り返らない。


「知ってる」


「でもね」


 彼女は、影の家と、巨大な魔王を見据える。


「均衡を守るために世界を殺すなら」


「そんな掟――最初から間違ってる」


 灰の代表が、目を閉じる。


「……記録する」


「本日をもって」


「グレイ=バレイサスは――」


 一瞬の沈黙。


「世界側につく」


 灰の魔術が、解き放たれる。


 それは破壊でも、封印でもない。


“選択肢を増やす魔術”。


 魔王の進行が、わずかに――だが、確実に鈍る。


◆最終局面


 アレックスは、もはや剣を構えていない。


 手にあるのは、ただの“力の焦点”。


「ソフィ」


「レイ」


「ジル」


 三人を見る。


「英雄はいらない」


「魔王もいらない」


「……終わらせよう」


 ソフィが、涙を拭う。


「ええ」


「世界に――考える時間を返す」


 レイが、前に出る。


「俺は、嘘で守る世界を信じない」


 ジルが、笑う。


「じゃあ――派手にいこうか」


 四人が、同時に踏み出す。


 管理されない力。

 予定されない選択。

 均衡を壊す覚悟。


 世界は、再び試される。


 だが今度は――

 誰かの都合ではない。


 人の意志で。



 都市アレグ=ノアの空が、鳴った。


 雷ではない。

 爆発でもない。


 巨大な心臓が、世界の裏側で一度だけ鼓動したような――そんな音だった。


 立ち上がった“それ”は、もはや魔物と呼べる存在ではなかった。


 人の形をしている。

 だが、頭部は輪郭だけがあり、顔は存在しない。


 胸部には巨大な空洞。

 そこに、黒霧装置、観測機構、帝国時代の供物槽、ありとあらゆる“管理の残骸”が絡み合っている。


 最後の魔王。


 英雄を生むための敵ではない。

 倒されるための象徴でもない。


 ――世界を「止める」ための最終装置。


 影の家中枢の声が、空間そのものから響く。


「これが結論だ」


「均衡は、必ず破られる」


「ならば――破られる前に、凍結する」


 魔王が一歩、踏み出す。


 都市が、沈む。


 地面が割れるのではない。

 建物が壊れるのでもない。


“存在の優先度”が下げられる。


 ソフィが叫ぶ。


「都市が……消されてる!」


 レイが歯を食いしばる。


「違う……“保存対象から外されてる”」


 魔王は、戦っていない。

 ただ、歩いているだけだ。


 その一歩ごとに、人の記憶が薄れ、街路が意味を失い、建物が「ただの瓦礫」になる。


 アレックスは、拳を握りしめる。


 剣は、もうない。

 だが――力は、確かにある。


「行くぞ」


「止める」


「都市ごと、だ」


■第一段階 ―― 物理の拒絶


 レイが最初に踏み込む。


 光の騎士の剣が、全力で魔王の脚部を斬り裂く。


 ――斬れた。


 だが次の瞬間、傷が意味を失う。


 切断されたはずの部位が、「切断されなかった状態」に書き戻される。


 影の家の声。


「無駄だ」


「物理現象は、この存在に対して後付けだ」


 レイは、退かない。


「……なら」


 剣を地面に突き立てる。


「俺が意味を与える」


 光が、爆発する。


 それは斬撃ではない。

 信念を、世界に叩きつける一撃。


 魔王の動きが、一瞬だけ止まる。


 ソフィが即座に続く。


■第二段階 ―― 魔術の限界


 ソフィは、術式を組まない。


 詠唱も、構築もない。


 ただ、両手を掲げる。


「これは――封印でも破壊でもない」


「拒絶よ」


 彼女の背後に、無数の魔法陣が重なり合う。


 禁呪。

 失われた帝国魔術。

 黒霧を封じた原初の式。


 すべてを、同時に――未完成のまま叩き込む。


 魔王の胸部、空洞が軋む。


 だが、声が響く。


「魔術は、選択だ」


「選択は、管理される」


 ソフィの膝が、折れる。


「……っ!」


 魔術は通じている。

 だが、代償が重すぎる。


 ジルが、前に出る。


■第三段階 ―― 灰の介入


 灰色の魔力が、都市全域に広がる。


 ジルは、指を鳴らす。


「じゃあ――管理そのものを、ズラそうか」


 灰の魔術は、破壊しない。


“どれが正解かを、分からなくする”。


 魔王の動きが、明らかに乱れる。


 一歩が、踏み出せない。

 次の処理が、決定できない。


 影の家が、初めて焦りを見せる。


「何をした、灰の魔術師」


 ジルは笑う。


「均衡を、更新しただけ」


「選択肢が多すぎて――決められなくなったのよ」


 だが、それでも足りない。


 魔王は、なお進む。


 都市の中心が、白紙に戻り始める。


 アレックスが、前に出た。


■最終段階 ―― 人の意志


 彼は、何も持っていない。


 剣もない。

 魔術もない。


 ただ――

 選ぶ覚悟だけがある。


 魔王の前に立ち、

 拳を握る。


「お前は、止める存在だ」


「なら――俺が止める」


「お前を、だ」


 影の家が嗤う。


「個人の意志で、装置を超えるつもりか」


 アレックスは、答えない。


 ただ、一歩踏み出す。


 その瞬間。


 過去の使用者たちの声が、背後から――消える。


 魔剣ファルシオンの残滓が、彼の中で、静かに同調する。


 管理も、契約もない。


 あるのは――

「ここで終わらせる」という選択。


 拳が、魔王の胸部――空洞に突き刺さる。


 衝撃はない。

 爆発もない。


 ただ、停止。


 魔王の全処理が、一瞬、止まる。


 アレックスが、低く告げる。


「世界は――」


「止まらない」


 空洞が、崩壊する。魔王もまた崩壊していく。


 最後の魔王は、咆哮すら上げない。


 存在理由を、失ったのだから。


 都市は、崩れ落ちる。


 だが――

 消えはしない。


 瓦礫になり、傷つき、失われたものは多い。


 それでも――

 人は、そこにいる。


■決着


 静寂。


 風が、吹く。


 ソフィが、座り込む。


 レイが、剣を下ろす。


 ジルが、空を見上げる。


 アレックスは、拳を開く。


 もう、剣はない。


 だが――

 世界は、動いている。


 管理されない、不完全なまま。


 それでいい。


 それが、生きているということだ。



■焼け残った都市 ― 翌朝


 朝は、いつも通り訪れた。


 それが、まず異様だった。


 都市アレグ=ノアは半壊している。

 通りの半分は瓦礫に埋まり、高塔の上層は吹き飛び、港湾区の倉庫群は黒く焼け落ちている。


 それでも――

 朝日だけは、同じ角度で差し込んだ。


 人々は恐る恐る外へ出る。


 泣き叫ぶ者はいない。

 歓声もない。


 あるのは、


「……生きてるな」


 という、呟きだけだった。


■冒険者ギルド ― 公式記録


 ギルドは、即座に動いた。


 理由は単純だ。

 動かなければ、都市の秩序が完全に崩れる。


 被害報告は三日三晩続いた。


・死者数:記録不能

 (消滅扱いと生存未確認が混在)


・都市中枢機構:消失

・黒霧関連装置:全停止

・原因:

 「未確認の大規模魔術災害」


 アレックスたちの名は、

 公式記録から意図的に外された。


 功績も、罪も、記載されない。


 それが――

 ギルドなりの“守り方”だった。


■魔術議会 ― 沈黙という決断


 魔術議会は、声明を出さなかった。


 いや、正確には――出せなかった。


 観測者が消えたことで、


・長年予測が外れなかった未来演算

・都市単位で管理されていた魔力流

・「危険だが必要」とされていた禁忌研究


 それらが、一斉に破綻した。


 黒霧研究派閥は、証拠が消えたことを幸運と見る者もいた。


 だが――

 ローズマリー・エステルは違った。


 彼女は、私的な記録にこう残す。


均衡は、管理できるものではなかった

私たちは

“世界が止まらなかったこと”に

恐怖している


 議会は、分裂する。


 即時改革派。

 現状維持派。

 沈黙を選ぶ者たち。


 だが、ひとつだけ共通していた。


 もう、元には戻れない。


■光の教団シャイニング・ワン ― 失われた“言い訳”


 光の教団は、最も早く気づいた。


「均衡が崩れた」のではない。

“均衡を言い訳にできなくなった”のだと。


 レイの密命は、ここで終了する。


 教団上層部は、彼を追わない。


 理由は単純だ。


 彼を裁けば――

 教団自身が、何を守ってきたのか問われる。


 代わりに出された内部文書は、こう締めくくられていた。


これより教団は

「管理者としての役割」を放棄する

我々は導く存在であり

止める存在ではない


 それが、教団にできる最大の後退だった。


■灰の勢力 ― 記録の更新


 グレイ=バレイサスは、勝利を宣言しない。


 彼らは常にそうだ。


 灰の会合で、

 一行の記録だけが追加される。


観測者:消失

黒霧戦略兵器:無効化

均衡状態:

不安定(許容)


 ジルは、その席にいない。


 それも、想定内だった。


 彼女は現場で動き、

 現場で決断した。


 それでいい。


 灰の勢力は、

 誰かを縛るために存在していない。


■影の家 ― 敗北の再定義


 影の家シェイド・フロウは、崩壊していない。


 だが――

 負けた。


 観測者を失い、都市支配を失い、黒霧を“兵器”として運用できなくなった。


 彼らは結論を出す。


再演は失敗した

世界は、管理されるには

複雑になりすぎた


 そして、戦略が書き換えられる。


「帝国の復活」から、「世界そのものの再設計」へ。


 戦争は終わらない。


 だが、次は――

 もっと歪な形になる。


■四人 ― それぞれの立ち位置


 アレックスは、ファルシオンを失った。


 そうして新調した魔剣はファルシオンの如く古代の遺物ではなかったが、名工の手によって鍛えられた。


 ソフィは、選択の重さを背負い続ける。


 それでも――

 選ばないより、選ぶ方を選んだ。


 レイは、帰る場所を失った。


 だが、進む理由を得た。


 ジルは、灰の掟を一度破った。


 だからこそ、灰の未来を更新できた。


 彼らは英雄ではない。


 だが――

 世界が止まらなかった理由にはなった。


 都市は、再建される。


 歪なまま。

 不完全なまま。


 それでも、人は歩き、選び、争い、笑う。


 管理されない世界が、再び――動き出した。



 夜明け前の風が、瓦礫の匂いを運んでくる。

 都市消滅級の戦闘の痕跡は、まだ地面の熱として残っていた。


 アレックスは、崩れた石壁に腰を下ろし、

 無意識に――腰の位置へと手を伸ばした。


 そこにあるはずだったもの。


 黒銀の重み。

 微かな脈動。

 命を削る代わりに力を返してくる、あの不気味な“相棒”。


 指は、空を掴んだ。


「……ああ」


 声にならない息が漏れる。


 ファルシオンは、消えた。

 折れたのではない。

 封じられたのでも、奪われたのでもない。


 役目を終え、自ら“終わった”のだ。


 剣がなくなった瞬間、アレックスの体から何かが抜け落ちた。


 長年、常に胸の奥で疼いていた焦燥。

 剣を抜くたびに覚悟として積み重ねてきた「いずれ死ぬ」という前提。


 それらが、音もなく剥がれ落ちた。


 同時に――

 空白が生まれた。


 強さの裏付けを失った、空白。


「……軽いな」


 ぽつりと呟く。


 身体は確かに軽かった。

 魔力の流れも安定している。

 生命力が削られる感覚もない。


 それなのに。


 剣を握っていた右手だけが、ひどく冷たかった。


 少し離れた場所で、ソフィが瓦礫を片付けていた。

 彼女は一度も、剣のことを口にしない。


 レイは警戒のために立ち、ジルは灰色の術式で周囲の均衡を確認している。


 誰も、慰めない。

 誰も、祝福しない。


 それが、彼らなりの理解だった。


 アレックスは立ち上がり、拳を握る。


 力は、ある。

 魔法戦士としての訓練も、経験も、消えてはいない。


 だが――

“切り札を失った”という事実だけが、重く残る。


「俺は……」


 言葉が途切れる。


 ファルシオンがあったから、踏み込めた戦場があった。


 ファルシオンがあったから、選ばずに済ませてきた判断もあった。


 剣がすべてを引き受けてくれた、と言ってもいい。


 それが、もうない。


 ソフィが、近づいてきた。


 彼女はアレックスの顔を見て、少しだけ、困ったように笑う。


「ねえ」


「ん?」


「剣がなくなって、最初に思ったことは?」


 アレックスは考え、正直に答えた。


「……怖い」


 ソフィは、頷いた。


「正常よ、それ」


「強くなったはずなのにな」


「違うわ」


 彼女は静かに言う。


「強さを“預ける場所”がなくなっただけ」


 その言葉が、胸に落ちる。


 ソフィは続ける。


「あなたは、剣に選ばれていたんじゃない。選ばれていたのは――“剣を捨てる覚悟を持てる人間”よ」


 アレックスは、息を吐く。


「買い被りすぎだ」


「いいえ」


 彼女の声は、揺るがない。


「影の家も、魔王も、観測者も。みんな、剣を恐れていた。でも最後に剣を終わらせたのは――あなた自身だった」


 レイが近づき、短く告げる。


「教団から、連絡が来た。……お前を“戦力”としてではなく、“判断者”として見ているらしい」


 ジルが肩をすくめる。


「灰の勢力も同じよ。剣を持たないあなたの方が、厄介」


 アレックスは苦笑した。


「ろくな評価じゃないな」


 だが、胸の奥で、何かがゆっくりと形を変え始めているのを感じる。


 剣があった頃には、考えなかったこと。


 ――次に、何を選ぶか。

 ――誰のために、戦うか。

 ――戦わない、という選択肢。


 それらが、ようやく“自分のもの”になった。


 夜が明ける。


 崩壊した都市の向こうで、人々が瓦礫を動かし始めている。


 アレックスは、その光景を見つめながら言った。


「……剣がなくても、進めるよな」


 ソフィが、レイが、ジルが、それぞれ違う表情で頷く。


 ファルシオンは失われた。


 だが――アレックスは、まだ物語の中心に立っている。


 剣ではなく、意志を携えて。


 戦争は、終わっていない。


 だがこれからは――剣に選ばれた英雄ではなく、剣を失った人間として、世界と向き合う番だった。



■剣の代わりにはならないもの


 ファルシオンを失ってから、三日が経った。


 その間、何も起きなかった。

 それが逆に、不気味だった。


 魔剣が消えれば、世界は何らかの反動を示す。

 誰もがそう思っていた。


 だが――

 空は静かで、魔力の潮流も穏やかだった。


「……嵐の前の、だな」


 レイが低く呟く。


 彼らが滞在していたのは、旧都市アレグ=ノア郊外に残された、半壊の監視塔。


 影の家の中枢戦で破壊されたはずの場所だ。


 ソフィは塔の最上階で、魔力計測用の簡易陣を展開していた。


 その指が、止まる。


「――来る」


 アレックスが顔を上げた。


「敵か?」


「違う……これは」


 ソフィの声が、わずかに震える。


「遺物反応。しかも、ファルシオンとは“逆方向”」


■それは、剣ではなかった


 塔の地下。

 かつては補助制御室だった空間。


 瓦礫をどけた先に、

 黒い石箱が埋まっていた。


 装飾はない。

 紋章も、術式も刻まれていない。


 ただ、“開けられること”を前提に作られた形。


 ジルが目を細める。


「……これ、影の家の保管方式じゃない」


「教団でもない」

 レイが続ける。


 ソフィは、ゆっくり息を吸った。


「灰の様式でもない」


 三勢力のいずれにも属さない。


 アレックスが、箱に手を伸ばした。


 触れた瞬間。


 ――軽い。


 あまりにも軽い。


 重さも、魔力圧も、意志の抵抗もない。


 ファルシオンとは正反対だ。


「……開くぞ」


 止める者はいなかった。


 箱の蓋は、拍子抜けするほど簡単に外れた。


 中にあったのは――


 円環状の金属片。


 掌に収まるほどの大きさ。

 色は鈍い灰白色。


 だが、表面を見た瞬間、ソフィが息を呑む。


「……嘘」


 そこには、文字にならない文字が刻まれていた。


 魔術式でも、言語でもない。


 それは――“判断の痕跡”。


■遺物の名


 ソフィは、震える声で言った。


「これは……《レガリア》でも《兵装》でもない」


 彼女は、はっきりと断言する。


「《選択器セレクター》」


 レイが眉を寄せる。


「何を選ぶ?」


 ソフィは、アレックスを見る。


「世界よ」


 沈黙が落ちる。


 ジルが口を開いた。


「聞いたことがあるわ。魔王戦争の末期――剣でも、術でも、支配でも止まらなくなった時代に」


 彼女は、少し苦い顔をする。


「“剣を折るための遺物”が作られたって話」


 アレックスは、円環を見つめる。


 触れているのに、何も奪われない。


 生命力も、魔力も、感情すら。


 ただ――“問い”だけが浮かび上がる。


 何を守る?

 何を捨てる?

 誰に選ばせる?


「……これ、俺向きじゃないな」


 アレックスは苦笑する。


「逃げ道が多すぎる」


 ソフィは、静かに言った。


「だから、あなたに来た」



 その夜。


 アレックスは一人、塔の外で円環を手にしていた。


 ファルシオンを失った手。

 その掌にあるのは正確にはかつての刃ではない。


 振るえない。

 切れない。

 守れない。


 だが――

 拒否はできる。


「剣は、背負ってくれた」


 彼は、独り言のように呟く。


「これは……背負わせてこない」


 円環は、何も答えない。


 ただ、アレックスが何かを選ぶたびに――


 それを世界に“確定”させる力を秘めている。


 だからこそ。


 影の家は、

 これを恐れていた。


 だから、観測者は、これを管理できなかった。


 だから、ファルシオンが終わった“後”に現れた。


■兆し


 翌朝。


 ソフィが、確信を持って告げる。


「影の家が動くわ」


「理由は?」


 レイが問う。


 ソフィは、円環を見る。


「剣は止められても、選択は止められないってことに、彼らが気づいたから」


 ジルが笑う。


「なるほど。今度の戦争は、血じゃなくて――」


「決断だな」


 アレックスは、円環を腰に下げた。


 剣の代わりではない。

 切り札でもない。


 だが、これ以上に厄介な遺物はない。


 なぜなら――


 これは、使うたびに世界の責任を背負わせる。


 アレックスは、歩き出す。


 剣を失った英雄として。


 そして――

 選択を拒めなくなった人間として。


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