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第五話

 ヴァルドレア中央区。

 石と木を組み合わせた重厚な建物――冒険者ギルド本部。


 扉を開けた瞬間、いつもの空気が流れ込んできた。

 酒と汗、革鎧、紙束の匂い。

 怒号、笑い声、金勘定の音。


 世界がどれだけ歪もうと、ここだけは変わらない。


 掲示板の前に人だかりができていた。


「おい、これ見たか?」

「北方街道沿いだってよ」

「霧……いや、あれは“黒”だろ」


 紙が剥がされ、貼り直され、赤字で追記されていく。


 アレックスは人混みをかき分け、依頼書を読む。


緊急調査依頼

発生地点:北方街道第三中継地・廃宿場

現象:黒色霧の断続発生/魔獣の異常活性

備考:現地駐屯兵、二度撤退

原因不明。魔術的干渉の可能性あり。


 紙の端に、冒険者ギルド独自の符号が打たれていた。


 ――非公開付記あり


 ソフィが気づく。


「これは……ギルド上層経由ね。普通の依頼じゃない」


 レイが周囲を見渡す。視線を伏せる者、聞き耳を立てる者。


「もう噂が回っている。黒霧は“名前を変えて”広がり始めているな」


 そのとき、背後から低い声。


「その噂、もう一段深いところまで来てるわよ」


 振り返ると、フードを被ったジルが壁にもたれていた。


 いつもの軽薄な笑みはない。

 仕事の顔だ。


「影の家――正確には“シェイド・フロウ”って呼び方が、裏で定着し始めてる」


 アレックスが眉をひそめる。


「誰が流してる?」


「複数。でも共通してるのは――“冒険者向け”って点」


 ジルは指を二本立てる。


「第一に、ギルドは現場に人を出す組織。第二に、死んでも責任を問われにくい」


 ソフィの声が低くなる。


「……試されてる?」


「ええ。装置が壊された後の“反応速度”をね」


 レイが依頼書を引き剥がす。


「黒霧、廃宿場、撤退した兵。条件は揃いすぎている」


 アレックスは静かに剣の柄に触れた。


 魔剣は、まだ眠っている。

 だが――呼ばれれば、必ず応える。


「行こう」


 短い言葉だったが、全員が頷いた。


 ソフィはすでに思考を切り替えている。

「規模次第だけど、今回は“装置未満”の可能性もある」


 ジルは肩をすくめる。

「もしくは――囮」


 レイが最後に言った。


「どちらにせよ、冒険者ギルドを通した時点で――これは戦場だ」


 扉の外。

 街道へと続く道の先に、雲が垂れ込めていた。


 黒ではない。

 だが、その下で何かが動いている。


 剣と魔法、そして名もなき者たちの戦いは、

 再び――現場から始まる。



 出立前。


 石段を上がるにつれ、下階の喧騒は遠ざかっていった。

 酒と汗の匂いは薄れ、代わりに乾いた紙と封蝋の香りが支配する。


 ギルド本部の三階。

 冒険者の立ち入りは原則許されない区域。


 扉の前で、受付役の職員が一度だけ三人とジルを見比べ、

 無言で扉を開けた。


 中は簡素だった。

 豪奢な調度はない。

 だが、壁一面に並ぶ書架と地図が、ここが“世界を動かす情報の集積点”であることを示している。


 奥の机に座る男が顔を上げた。


 年齢は五十前後。

 派手さはないが、視線は鋭い。


「久しいな、アレックス。それに……ソフィ、レイ。噂の顔が揃っている」


 ジルは壁際に立ったまま、口を挟まない。


 アレックスが率直に切り出す。


「北方街道の依頼だ。黒霧、シェイド・フロウ絡みだろう?」


 男は即答しなかった。

 一拍置き、机の引き出しから一枚の羊皮紙を取り出す。


「まず確認する。お前たちは“どこまで知っている”?」


 ソフィが答える。


「黒霧は自然現象じゃない。千年前の遺産。複数の装置が存在する可能性が高い」


 男の眉が、わずかに動いた。


「……そこまで来ているか」


 レイが続ける。


「そして、それを再稼働させている集団がいる」


 男は溜息をついた。


「なら、話は早い」


 彼は地図を机に広げた。

 北方街道。第三中継地。

 赤い印が打たれている。


「現地で確認されたのは――装置“そのもの”ではない」


 アレックスが目を細める。


「じゃあ何だ?」


「中継核だ。簡易制御装置、あるいは観測点」


 ソフィが即座に理解する。


「黒霧を発生させるための“心臓”じゃない。霧の濃度、反応、介入者の能力を測るための……目」


 男は頷いた。


「二日前、正規兵が接触した。結果は――撤退」


「被害は?」


「死者はいない。だが、生還者全員が同じ証言をしている」


 彼は淡々と読み上げた。


「『霧の中に、誰かが“こちらを見ていた”』」


 ジルが、低く笑った。


「観測罠ね。完全に“向こう主導”」


 男の視線がジルに向く。


「……お前も同行するのか」


「ええ。ギルドが動くなら、私も動く」


 男はそれ以上追及しなかった。


 代わりに、声を落とす。


「ここからは、非公式だ」


 部屋の空気が変わる。


「ギルド上層としては、この件を大きくしたくない」


 レイが静かに問う。


「理由は?」


「三つある」


 指を一本立てる。


「第一に、黒霧が“兵器”であると確定すれば、各国が介入する」


 二本目。


「第二に、魔術議会が動く。そして――必ず内情が割れる」


 三本目。


「第三に」


 男はアレックスを見た。


「お前たちが、影の家シェイド・フロウにとって“重要目標”だと既に把握している」


 沈黙。


 アレックスが言った。


「それでも行け、と?」


 男は首を振る。


「行くかどうかは、お前たちが決めろ」


 そして、依頼書に赤い印を押した。


「これは冒険者ギルドとしての正式依頼だ。だが、記録には残らない」


 ソフィが小さく息を吐く。


「いつも通りね」


 男は最後に言った。


「一つ忠告しておく。今回は“破壊”が目的とは限らない」


「?」


「影の家は、お前たちがどう動くかを見たいだけかもしれん」


 ジルが口を開く。


「……つまり、向こうはもう次を考えてる」


 男は頷いた。


「そうだ。そしてその“次”に、お前たちが含まれている可能性は高い」


 アレックスは立ち上がった。


「十分だ」


 剣の柄に手を置く。


「確認は終わりだな」


 男は短く笑った。


「変わらんな。だからこそ、頼む」


 扉が開く。


 外から、街道の風が吹き込んだ。


 黒霧はまだ、見えない。

 だが――


 次は、確実に“見られている”。



 街道は、途中で“終わって”いた。


 かつては馬車が行き交い、旅人が休んだ石造りの宿場。

 今は屋根が落ち、壁は煤け、人の営みが急に切り取られたような静けさだけが残っている。


 風が吹く。

 だが、音が少ない。


 ソフィが立ち止まった。


「……変ね」


 アレックスも気づいていた。

 足音が、妙に軽い。


「霧は出ていない。なのに……空気が“湿っている”」


 レイが周囲を見渡す。


「黒霧の前兆じゃない。これは――」


 その瞬間だった。


 地面の石畳に刻まれた古い馬蹄跡。

 その影が、ずれた。


 誰も動いていないのに。


 ジルが即座に後退する。


「来たわ」


 音はない。

 光もない。


 だが、何かが起動した。



 宿場跡の中央。

 井戸だった場所の縁に、見えない“膜”が張られる。


 空間が、わずかに歪む。


 ソフィの魔力感知が、鋭く跳ねた。


「魔術じゃない……正確には、“魔術だけじゃない”」


 アレックスが剣に手を伸ばすが、

 魔剣は――反応しない。


 眠ったままだ。


「……敵意がない?」


「違う」


 ジルが低く言う。


「敵意を向ける段階じゃないのよ」


 空間の歪みが、四人を包み込む。


 視界の端で、数値のようなものが走った。

 意味はわからない。

 だが、評価されている。



 ソフィの背後で、空気が“記録する”。


 詠唱速度。

 魔力の波形。

 封印術式の組み立て癖。


 レイの動きが、わずかに“遅延”される。


 踏み込みの角度。

 反応時間。

 剣を抜くまでの判断速度。


 アレックスの胸元。

 黒銀の魔剣が――呼吸と同調した瞬間だけ、微細に脈動した。


 それを、何かが“見逃さなかった”。


 ジルは気づく。


「……まずいわね」


「何がだ?」


「この罠、侵入者を排除するためじゃない」


 彼女は歯を眉をひそめる。


「個別データを抜き取るためのもの」



 井戸跡の中心に、

 霧にも影にも似た“輪郭”が浮かぶ。


 人型ではない。

 獣でもない。


 視線だけが、そこにある。


 誰とも目が合わない。

 だが、全員が同時に理解した。


 ――見られている。


 ソフィが手をかざした。


「これ以上は、能力を晒すことになる」


 レイが剣を半分だけ抜く。


「斬れるか?」


「無理」


 ジルが即答する。


「斬る“対象”がない。これは……向こう側の“窓”よ」


 アレックスが低く言う。


「閉じる方法は?」


 ソフィは一瞬考え、首を振る。


「正規の解除術式は不明。強制的に壊すしかない」


「壊したら?」


「――こちらが“敵だ”と確定する」


 沈黙。


 それを破ったのは、アレックスだった。


「もう確定してる」


 彼は一歩前に出る。


「見られてる時点で、同じだ」



 ソフィが詠唱を組み替える。


 封印ではない。

 破壊でもない。


“遮断”。


 空間と空間の接続を、強引に切る術式。


「三秒だけ、魔力を集中させる」


 レイが前に出る。


「その三秒、何が起きても動かすな」


 ジルはすでに影に溶けている。


「――来るわ」


 視線が、強くなる。


 評価が、確信に変わる。


 ソフィの術式が完成した瞬間、空間が悲鳴のように軋んだ。


 次の瞬間――


 視線は、消えた。



 宿場跡に、静寂が戻る。


 だが、誰も安堵しなかった。


 レイが言う。


「……今のは」


 ジルが答える。


「影の家にとっての“名刺交換”」


 ソフィは唇を噛む。


「能力の一部は、抜かれたわね」


 アレックスは剣を見下ろす。


 魔剣は、何事もなかったように静かだ。


 だが――

 確実に、向こうは知った。


 魔剣が生命と連動していること。


 ソフィが封印を即興で組み替えられること。


 レイが前線指揮型の剣士であること。


 そして何より。


 三人が、退かなかったこと。


 ジルが静かに言った。


「これで確定よ。ここは“前線”じゃない」


「……じゃあ何だ?」


「次の戦争の、観測点」


 風が吹き、崩れた宿場の瓦礫が転がる。


 黒霧は、まだ出ていない。


 だが――

 影の家は、すでに一手を打ってきていた。



 観測罠が沈黙してから、十数秒。

 誰も動かなかった。


 風の音。

 崩れた瓦礫の軋み。


 そして――

 何も起きないこと自体が、異常だった。


 ソフィが低く言う。


「完全には、切れてない」


 レイが眉を寄せる。


「遮断したんじゃないのか?」


「“遮断したつもり”だった。でも……」


 彼女は指先を宙に走らせ、魔力の残滓をなぞる。


「これ、向こうも想定してる。一方通行じゃない。双方向の窓よ」


 ジルが小さく笑った。


「つまり――覗かれてる最中なら、こっちからも覗ける」


 アレックスが静かに問う。


「やれるか?」


「一人じゃ無理」


 ソフィはアレックスを見る。


「でも、“魔剣”がある」


 アレックスは一瞬だけ黙り、剣の柄を握った。


「……やろう」



 ソフィが即興で術式を組む。


 封印でも攻撃でもない。

 共鳴の歪みを“反射”させる魔術。


「普通の魔力じゃ、向こうに届く前に散る。でも、あなたの剣は違う」


 アレックスの胸元。

 黒銀の魔剣が、わずかに熱を持つ。


 ジルが続ける。


「影の家は、黒霧や古代装置を“共通規格”で繋いでる。つまり、信号の癖がある」


 レイが周囲を警戒しながら言う。


「三十秒だ。それ以上は、向こうが気づく」


 ソフィは頷く。


「十分」



 アレックスが、剣を半寸だけ抜く。


 黒銀の刃が、空気を吸った。


 その瞬間――

 ソフィの術式が“接続”する。


 観測罠の残骸に、逆流が生まれた。


 視界が、裏返る。



 場所ではない。

 距離でもない。


 概念の向こう側。


 無数の“点”が、網の目のように連なっている。


 ジルが息を呑む。


「……分散型だ」


 影の家は、一つの拠点から観測していない。

 複数の中継点。

 複数の観測者。


 だが――


 ソフィが気づく。


「全部が、同じ“核”を通ってる」


 中心に、歪んだ焦点がある。


 完全な場所は見えない。

 だが、方向は掴める。


 北でも南でもない。

 街道沿いでも、地下でもない。


 レイが低く言う。


「……都市だ」


 ソフィが頷く。


「しかも――生きている都市」



 さらに、もう一つ。


 アレックスの剣が、強く脈打つ。


「……来る」


 ソフィが即座に術式を切り替える。


「違う。これ、向こうの“反応”じゃない」


 ジルが思案顔。


「観測ログの中に……人為的なノイズがある」


 影の家の完璧な分散網に、意図的に混ぜられた“揺らぎ”。


 それは――


「誰かが、影の家の中から“ずらしてる”」


 沈黙。


 レイが言った。


「内通者か?」


「違う」


 ジルの声は、確信を帯びていた。


「別の勢力よ。影の家と同じ土俵に立ってる」


 灰の勢力か。

 あるいは――

 第三の観測者。



 限界が来た。


 ソフィが叫ぶ。


「切る!」


 アレックスが剣を収めると同時に、術式が崩壊する。


 観測罠は、完全に沈黙した。


 今度こそ、何も残らない。



 四人は、息を整えながら立ち上がる。


 得られた情報は、三つ。


影の家は単一拠点ではない

 → 壊滅戦は不可能。切断戦が必要。


観測の中枢は“都市規模”

 → 次の舞台は、いずれかの都市内部と民衆の中。


影の家の観測網には第三者の干渉がある

 → 均衡勢力か、未知の介入者。


 ジルが静かに言った。


「向こうは、私たちを“見た”つもりでいる」


 ソフィが続ける。


「でも実際は――見返された」


 アレックスは街道の先を見る。


「次は、見られる前に叩く」


 風が吹く。

 黒霧は、まだ現れない。


 だが――

 戦場は、確実に都市へ向かって動き始めていた。



 街道を離れ、丘を越えた先。

 霧はない。だが、空気が違う。


 ソフィが呟く。


「……ここから先、魔力の“流れ”が不自然」


 遠くに見える都市――

 城壁を持たない、だが広がり続ける街。


 人の営みが積み重なり、意思も記憶も溜め込んだ――生きている都市。


 ジルが地図を畳む。


「交易都市アレグ=ノア。表向きは中立、裏は何でもあり」


 レイが低く言う。


「シェイド・フロウが潜むには、理想的だな」


「潜む、じゃない」


 ソフィの視線は都市の中央を射抜いていた。


「溶け込んでる」



 門はない。

 検問もない。


 それなのに――

 アレックスは確信する。


「見られている」


 魔剣が、微かに共鳴している。


 だが奇妙なことに、殺意がない。


 代わりに感じるのは、測定、比較、調整。


 ソフィが歩きながら術式を展開する。


「影の家の観測と、もう一つ……“質”が違う」


 ジルが頷く。


「第三者は、追跡じゃない。評価してる」



 市場区画に入った瞬間。


 一瞬だけ、時間が“ずれた”。


 誰も気づかない。

 だが、四人全員が感じた。


 ソフィが足を止める。


「……今、干渉があった」


 ジルが即座に周囲を確認する。


「痕跡なし。でも……ログが“書き換えられてる”」


 レイが低く唸る。


「影の家じゃないな」


 アレックスの剣が、

 拒絶反応を示す。


「敵、ではない。だが、味方でもない」


 その瞬間、ソフィの視界に“意味のない映像”が流れ込む。


 崩れた塔。

 古い星図。

 燃える書庫。


 彼女は息を呑む。


「……これ、警告?」


 

 ジルが静かに言葉を選ぶ。


「第三の観測者……たぶん、個人よ」


 レイが眉を上げる。


「この規模で?」


「だからこそ」


 ジルの声は確信に近かった。


「影の家は“組織”。でもこいつは――」


 ソフィが続きを言う。


「継承体」


 都市に溶けた、一人の意思。


 知識を積み重ね、

 文明の節目ごとに立ち会ってきた存在。


「王でも神でもない」


 ソフィは震える声で言う。


「観測者そのもの」



 その夜。

 アレックス達が身を寄せたのは廃都の宿のような寂れた部屋だった。


 そして、テーブルの上に一枚の紙が置かれていた。


 誰も気づかなかった。

 音もなかった。


 紙には、短い一文。


「剣は予定外だ。だが、歓迎する」


 署名はない。


 だが、紙の端に刻まれた古い記号。


 ソフィがそれを見て、言葉を失う。


「……これ、失われた学派の印」


 ジルが息を呑む。


「都市そのものが、観測装置だった可能性がある」


 レイが問いかける。


「そいつは、何を望んでる?」


 沈黙の中で、アレックスが答えた。


「均衡だ」


 魔剣が、静かに同意する。



 影の家。

 第三の観測者。


 二つの視線が、この都市で交差している。


 しかも――

 互いに完全には信用していない。


 ソフィが決意を込めて言う。


「中枢へ行く。影の家より先に――“彼”に会う」


 ジルが微笑む。


「交渉か、試験か……」


 レイが剣を確かめる。


「どっちにしろ、都市はもう戦場だ」


 アレックスは窓の外を見る。


 人々の営み。

 無数の視線。


 そして――

 まだ名を持たぬ観測者。


 物語は、静かに臨界へ近づいていた。



 都市の最奥。

 地下でも塔でもない。


“間”だった。


 壁も床も、素材を特定できない。

 石に似ているが、魔力を拒まない。

 光源はなく、しかし暗くもない。


 時間の感覚が、曖昧になる。


 ソフィが小さく息を吐いた。


「……術式が、ここでは“意味を持たない”」


 ジルは無意識に背中の暗器へ指をかけるが、引き抜く気配はない。


レイだけが、視線を前へ固定している。


 そして――

 声がした。



「座標、確認完了」


 男とも女ともつかない声。

 感情がないわけではないが、個人の癖が削ぎ落とされている。


 空間の中央に、輪郭が浮かび上がる。


 人の形。

 だが、決定的に“人ではない”。


「私は――都市に名を与えられなかった者だ」


 ソフィが即座に反応する。


「名前を捨てた?」


「違う。名前が、耐えられなかった」


 レイが低く問う。


「何者だ?」


 間が、わずかに沈黙する。


「観測者。均衡の記録者。そして――失敗の継承体」


 アレックスの剣が、震えた。



 観測者の視線が、四人を順に撫でる。


「確認したい」


 声が静かに落ちる。


「君たちは、黒霧を破壊する意思を持つ」


「当然だ」


 アレックスが答える。


「ならば問う」


 空間が歪む。

 都市の上空、戦場、地下遺構、これまで見た“黒霧の記憶”が重なる。


「黒霧は武器だ。だが、抑止でもある」


 ソフィが眉をひそめる。


「脅しのための均衡?」


「そうだ。帝国はそれで世界を止めた」


 レイが吐き捨てる。


「止めた? 停滞させただけだろう」


 観測者は否定しない。


「結果として、文明は延命した」


 そして、問いが投げられる。


「――破壊の先に、何を置く?」



 ソフィへ。


「魔術師」


 彼女の前に、無数の術式が浮かぶ。

 完成形。未完成。禁忌。


「知識は力だ。だが、解放は混乱を生む」


 ソフィは即答しない。


「……だからこそ、制御する人間が必要」


「議会か?」


「違う」


 彼女は観測者を真っ直ぐ見る。


「選択の責任を負う者」


 観測者は、微かに記録を更新する。



 レイへ。


「元・教団の剣」


 レイの背後に、光の象徴が揺らぐ。


「秩序を守るために、真実を伏せた経験があるな」


 レイは吐息した。


「……ある」


「それでも、黒霧を壊すのか?」


「壊す」


 即答。


「均衡を守るために嘘をつくなら、俺は――均衡そのものを疑う」


 観測者は、初めて僅かに“迷い”を示す。



 ジルへ。


「灰の魔術師」


 彼女の足元に、灰色の紋章が浮かぶ。


「均衡を保つ掟を持つ者が、均衡を壊す側に立つ理由は?」


 ジルは肩をすくめる。


「均衡ってのはね」


 一歩、前に出る。


「動かさなきゃ腐る」


「掟への反逆だ」


「違う」


 ジルの目は冷たい。


「更新よ」


 観測者は、明確に評価を記録する。



 アレックスへ。


 最後に、剣を持つ者。


「剣士」


 魔剣が、空間に干渉する。

 観測者はそれを避けない。


「君は、予定外だ」


「知ってる」


「それでも進む理由は?」


 アレックスは、短く答える。


「誰かが、止めなきゃならない」


「それは使命か?」


「違う」


 剣を、少しだけ持ち上げる。


「代わりがいないってだけだ」



 沈黙。


 観測者は、長い時間――

 そう感じさせるだけの間、考える。


「……理解した」


 空間が安定する。


「君たちは、均衡を管理しようとしていない」


「壊すことで、次を選ばせるつもりだ」


 ソフィが言う。


「世界に」


「人に」


 観測者は、静かに告げる。


「ならば、私は――介入しない」


 ジルが眉を上げる。


「協力もしない?」


「直接は」


 しかし、続く言葉。


「だが、私は影の家シェイド・フロウの観測者」


 間の空気が冷える。


「冒険者が私を追ってここへ来たのならば試練を課す」


 観測者の輪郭が薄れる。


 最後に、一言。


「そして彼らは、すでに次の段階へ移行している。黒霧装置は――囮だ」


 アレックスが目を細める。


「本命は?」


 観測者は答える。


「――人そのもの」


 空間が、元に戻る。


 都市は、変わらず動いている。

 だが、四人は理解した。


 ここから先は――

 何れにしても戦争の形が変わる。



 そして突如、空間が、歪んだ。


 音ではない。

 警告でもない。


 規則の更新――

 それだけで十分だった。


 観測者の声が、低く響く。


「脅威度、再評価」


 輪郭が、はっきりと実体を帯びる。

 人型だったものが、戦闘用構造体へと変質していく。


「アレックス、ソフィ、レイ、ジル」


 名を呼ばれた瞬間、空間そのものが敵意を帯びた。


「影の家シェイド・フロウ規則、第三条」


 床に、黒い幾何学紋が走る。


「――均衡を破壊する意思を持つ存在に対して試練負荷対象とする」


 ジルが即座に叫ぶ。


「来るわよ!」



 空間から、影兵ではない影が湧き上がる。

 人型だが、顔がない。

 武器は持たず、現象そのものが攻撃だ。


 アレックスが踏み込む。


 魔剣が唸り、一振りで空間を切り裂く。


 黒い構造体が断たれるが、即座に再構成される。


「再生が早い!」


 ソフィが叫び、即座に詠唱を切り替える。


「――対象固定、構造干渉!」


 純粋な破壊魔法ではない。

 観測構造そのものを書き換える術。


 影の一体が、崩壊する。


 レイが前に出る。


「道を開く!」


 光の剣撃が、再構成される前の“隙”を正確に叩く。


 一体、二体と消える。


 だが――



 観測者自身が、動いた。


 音もなく、距離が詰まる。

 拳が振るわれた瞬間、重力が歪む。


 レイが吹き飛ばされ、壁に叩きつけられる。


「ぐっ……!」


 アレックスが即座に割り込む。


 魔剣と、観測者の腕が衝突。


 火花ではない。

 現象同士の衝突。


「っ……重い!」


 観測者の声が冷たい。


「魔剣。想定以上の干渉力」


 ジルが背後へ回る。


 暗器が放たれるが、空中で軌道が捻じ曲げられ、弾かれる。


「チッ、空間操作か!」


 ソフィが詠唱を完了させる。


「アレックス、伏せて!」


 巨大な魔法陣が展開される。


「――多重位相崩壊!」


 爆発は起きない。

 代わりに、観測者の半身が“ずれる”。


 一瞬の隙。



 アレックスが吼える。


「今だ!」


 魔剣に魔力を全注入。

 剣が、存在を否定する光を帯びる。


 レイが並ぶ。


「合わせる!」


 二人の剣撃が、交差する。


 斬撃ではない。

 断定だ。


 観測者の胸部が、裂ける。


 ジルが即座に飛び込み、裂け目へ暗器を突き立てる。


「更新、拒否!」


 灰色の魔力が流し込まれる。


 観測者が初めて、明確に後退する。



 輪郭が不安定になる。


「……記録更新」


 声に、僅かな変調。


「戦闘能力、想定超過」


「規則に従い――」


 空間全体が、赤黒く染まる。


「第二フェーズへ移行」


 床の紋様が変化する。


「影の家シェイド・フロウ、都市制圧プロトコル発動」


 ソフィが息を呑む。


「……街全体を戦場にする気?」


 観測者は答えない。


 代わりに、

 都市の鼓動が――

 ここまで聞こえた。



 観測者の輪郭が崩れ、空間に無数の観測線が走る。


 都市中枢そのものが、彼を守る装甲へと変質していた。


 壁が動く。

 床が沈む。

 重力が反転する。


「来るぞ!」


 レイの声と同時に、四方から観測刃が射出される。



 ソフィが即座に前へ出る。


「全員、私の背後!」


 魔法陣が展開されるが、

 詠唱は途中で切られた。


「――っ、干渉が強すぎる!」


 観測者が腕を振る。


 都市中枢の構造そのものが落下し、質量攻撃となって襲いかかる。


 アレックスが前へ出る。


「関係ない!」


 魔剣を叩きつける。


 斬ったのは構造ではない。

“成立している理由”だ。


 落下していた空間が、真っ二つに割れて消滅する。


 観測者が初めて、明確に声を荒らげる。


「異常因子……!」



 ジルが低く言う。


「観測線、全部私が潰す!」


 灰色の魔力が彼女の身体を包む。


 彼女は跳んだ。

 影を蹴り、空間を踏み台にする。


 暗器が放たれるたび、観測線が灰となって剥落する。


「均衡は――壊して更新する!」


 観測者の干渉範囲が、一気に狭まる。


 レイが突っ込む。


「今だ!」


 光の剣が、観測者の防御領域に初めて到達する。


 一閃。


 肩口が裂け、光が内部へ流れ込む。


「記録損傷……!」


 観測者の胸部が開き、

 中から黒霧装置の簡易核が露出する。


 ソフィが目を見開く。


「こいつ……都市中枢そのものを代替コアにしてる!」


「だから逃げなかったのか!」


 アレックスが叫ぶ。


「レイ、足止め! ジル、干渉遮断!」


「了解!」


「任せな!」


 二人が同時に動く。


 レイが正面から突進し、観測者の注意を完全に引きつける。


 ジルが背後へ回り、灰の魔術で再構成プロセスを停止。


「更新、完全拒否!」


 観測者の動きが、止まる。



 ソフィが、最後の術式を組む。


「これは……議会でも、禁書でも使わなかった術」


 魔法陣が一つだけ、静かに浮かぶ。


「存在を、戻す術」


 魔法陣が観測者の動きを封じる。


 アレックスが頷く。


「十分だ」


 魔剣を両手で構える。


 剣が、これまでで最も静かに――

 完全に目覚める。


「終わりだ、観測者」


 踏み込み。


 一閃。


 剣は、核でも構造でもない。


“観測者という役割そのもの”を断ち切った。



 音は、なかった。


 観測者は、言葉も残さず――消えた。


 都市中枢の歪みが、解けていく。


 床が安定し、壁が静止し、重力が戻る。


 ソフィが、深く息を吐く。


「……やった」


 レイが剣を収める。


「いや。これでようやく、スタートだ」


 ジルが苦笑する。


「観測者がいなくなったってことは――もう、誰も止めない」


 アレックスが魔剣を収め、言った。


「なら、止めるのは俺たちだ」


 外から廃都アレグ=ノアにこだまする人々の声が聞こえる。

 観測者の消滅が何らかの影響を与えたのか。


 シェイド・フロウの観測者は失われた。

 都市中枢は守られた。

 そして四人は、生きている。



 地図に刻まれた名は、

 かつて――「富の結節点」を意味していた。


 だが、現実のアレグ=ノアは違う。


 崩れた石畳。

 閉ざされた商館。

 煤に覆われた塔の外壁。


 交易路は生きているはずなのに、人の流れだけが不自然に滞っていた。


「……死んでる街だな」


 アレックスの言葉に、ソフィは否定も肯定もしなかった。


「いいえ。“縛られていた”だけ」


 レイが、遠くの見張り塔を見上げる。


「観測者が、ここにもいた」


 ジルが小さく息を吐く。


「いた、というより――縫い付けられてたって感じね」



 彼らが都市へ足を踏み入れてから、

 奇妙な変化が起き始めていた。


 止まっていた水路が、ゆっくりと流れを取り戻す。


 封鎖されていた門が、理由もなく解錠される。


 そして――


 広場の中央で、一人の商人が声を上げた。


「……通れるぞ! 北街道が、開いた!」


 ざわめきが広がる。


 それは誰かの命令でも、奇跡でもない。


 ただ、監視が消えた結果だった。


 ソフィが、静かに理解する。


「都市単位で、意思決定を歪められていた……」


「取引も、流通も、“最適解”に誘導されてただけ」


 ジルが肩をすくめる。


「人の自由意思を邪魔しない程度に、ね。だから誰も気づかなかった」



 夕刻。


 市場の一角で、久々に露店が並び始める。


 剣を研ぐ音。

 布を広げる音。

 交渉の声。


 街が、呼吸を取り戻していく。


 レイが言う。


「影の家は、この都市を“盤面”として使っていた」


「だが、駒は――もう勝手に動き出す」


 アレックスは、魔剣の柄に手を置いたまま、街を見渡す。


「全部救えたわけじゃない」


「でも、“止められてた未来”は解放された」


 ソフィが、静かに頷く。


「それで十分よ」



 その夜。


 アレグ=ノアの上空を覆っていた、見えない圧迫感が――完全に消えた。


 影の家シェイド・フロウは、

 この都市を通じて行っていた


・物流の操作

・政治的圧力の増幅

・黒霧装置への間接支援


 そのすべてを、失った。


 直接的な勝利ではない。


 だが確実な敗北だった。



 夜明け前。


 四人は、街外れの高台に立つ。


 都市はまだ荒れている。

 完全な復興には、時間がかかるだろう。


 それでも――


 灯りは、増えていた。


 ジルが言う。


「観測者が消えた世界は、面倒だけど……悪くない」


 レイが剣を背負い直す。


「管理されない秩序だ」


 ソフィは、空を見上げる。


「選ばされる未来じゃない。選ぶ未来」


 アレックスは、短く笑った。


「なら、俺たちの仕事は――まだ続くな」


 アレグ=ノアは、

 もう“死んだ都市”ではなかった。


 影が引き、人が戻り、街は自分の足で歩き始める。


 観測者なき世界で。

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