第二話
雲を割るように伸びた白い尖塔。
祈りの鐘ではなく、警告の鐘が鳴るのは十年ぶりだった。
巨大なステンドグラス越しに、冷たい光が床を照らす。
その場に集まる白装束の司祭と、銀鎧の騎士たち。
中央の席、聖印を胸に抱く老人が低い声で告げた。
「――レイ=クロイス。紋章を喪失。規定に基づき、貴き裁断の対象とする」
ざわめきが走る。
若い騎士が一歩進み出た。
「待ってください、長。レイ殿は任務遂行のために紋章を……」
老人は手を上げ、言葉を遮る。
「それが問題だ。紋章は仲間のために砕いてはならない――これが掟である」
別の司祭が冷ややかに告げる。
「光の騎士が個人的判断で紋章を砕いた。その行為は即ち、己の信仰より人を選んだということ」
若い騎士が口をつぐむ。
この教団では、信仰は生命すら上回る。
だが――
後方で控えていた黒衣の書記官が、静かに進言する。
「ただ一つ、問題があります」
「言え」
「レイが協力したのは、冒険者アレックスと大魔導士ソフィ。闇を封じる者であると、多数の目撃が」
司祭たちが顔を見合わせた。
「闇に与したのではなく、闇を阻んだ……という報告か」
「はい。さらに――」
書記官が言う。
「封印を成した魔法は、教団では不可能と判断されていた術式。つまり、こたびの封印には彼らの協力が不可欠だった可能性が」
空気が変わる。
老人の目が細くなる。
「では――その二人は、我らにとって」
助力か、危険か。
英雄か、異端か。
数秒の静寂の後、
老人は、どちらでもない選択を口にした。
「レイを異端の監視対象とする。必要とあらば――回収か排除」
若い騎士と書記官が息を呑む。
老人は続ける。
「だが、同時に利用価値もある。闇の進行は想定より早い。もし、外部の力が必要となるなら――」
ステンドグラスの光が赤みを帯び、空が不吉に染まっていく。
「彼らを敵と決めるのは、最後でよい」
鐘が鳴り渡った。
祈りの音ではなく、戦いの音。
焚き火の前。
レイは炎を見つめたまま、短く言った。
「――教団は、動く」
アレックスが薪をくべる。
「俺たちを敵としてか?」
「判断は保留だろう。だが、監視は必ずつく」
ソフィが静かに問う。
「あなたは後悔してる?」
レイは少しだけ眉を寄せ、そして、
「……わからない。ただ、紋章を砕いた瞬間より――こうして君たちと焚き火を囲む今の方が、心は安らいでいる」
ソフィが微笑んだ。
「それが答えでしょ」
アレックスも笑う。
「安心しろよ。敵に回ったら、ちゃんと逃げてやる」
レイは笑ったのかため息なのか、小さく肩を揺らした。
「心強い仲間を得たよ、アレックス」
焚き火の音が夜に溶けていく。
だが――
闇と光、双方の勢力は、既に三人の存在を知った。
そして世界はまだ、ほんの入口に過ぎない。
ブランディア北方。交易都市 ヴァルドレア。
大陸の中央街道と北方鉱山地帯、さらには海路の港を結ぶ交通の十字。
あらゆる国の商人と傭兵、宗教使節、密輸業者、諜報員が混在する「表と裏の市場」が同居する都市。
別名――金の盾と呼ばれた。
なぜ盾か。
この都市の金と情報が、いくつもの国を矛から守り、また刺してきたからだ。
石造りの巨大門をくぐると、香辛料と油、馬、酒、人の匂いが混ざり合う。
市場の喧騒。
異国の言語、冒険者の怒号、貴族馬車の行列。
その雑多さが、むしろこの都市の繁栄を象徴していた。
レイの表情はいつになく慎重だった。
「ヴァルドレアは表向き中立都市だが、実際には金で動かぬ者はいない」
ソフィが肩を竦める。
「つまり、私たちが歩くだけで情報が売られるってわけ」
アレックスは苦笑した。
「まあ、隠れるのは俺たちの得意分野じゃない」
歩く三人の前。
広場の中心にそびえる巨大な掲示板には、
山のような依頼書と懸賞金告知が貼られていた。
その中に――
ソフィが目を止める一枚があった。
『黒霧の研究素材 高額買取』
依頼主:ヴァルドレア魔術議会
ソフィの眉がわずかに動く。
「魔術議会……ここで、黒霧の研究を?」
レイが低い声で言った。
「噂は聞いた。議会内部に光と闇、双方の研究者がいる。彼らは禁忌の壁を軽く踏み越える」
「協力相手じゃなくて――取引相手、ってことね」
ソフィの声が少し冷える。
夕刻。
三人は酒場へ。
扉を開けた瞬間、煙草と蒸留酒の匂いが鼻を突く。
そして客の視線が三人を刺す。
そこは、情報を求める者と売る者が混ざり合う場所。
剣より言葉が致命的な武器となる空間だった。
バーカウンターの奥。
赤いフードの女が、足を組みながら三人を見た。
「レイ=クロイス。久しいわね」
レイの肩が僅かに固まる。
アレックスが小さく呟いた。
「知り合いか?」
「……昔、任務で世話になった。この都市の情報屋――赤のジルだ」
ジルは妖しい笑みを浮かべる。
「光の紋章が見当たらないけど? 喪失――それとも裏切り?」
ソフィが一歩前へ出る。
「聞きたいことがあるの。黒霧の装置、そしてその背後」
ジルは笑う。
「三つ質問をくれるなら、三つ答えてあげる。ただし――支払いは金じゃない」
アレックスが眉を上げる。
「何を差し出せってんだ?」
女の目が楽しげに細められる。
「秘密。この都市では金より価値がある」
焚き火よりも冷たい取引の気配が漂う。
赤のジルは、グラスを指先で回しながら言った。
「教団の元騎士――大魔導士――そして、魔剣を抜いた者。ええ、あなた達の噂くらい聞いてるわ」
彼女の視線がアレックスの腰の剣へゆっくりと滑った。
「それ――《黒銀の魔剣》。所有者を選ぶ生きた剣。歴史上、持ち主は三人しか記録がない」
酒場のざわめきが細くなる。
ソフィとレイがアレックスを見た。
アレックスは、しばらく沈黙の後、口を開く。
「……俺は、この剣の本当の由来は知らない。ただ一つ――知ってる事がある」
酒場の空気が膨らむ。
アレックスがゆっくりと鞘から剣を半寸だけ抜くと、
黒銀の刃が淡い燐光をうっすらと発した。
「魔剣は、俺の血に反応する。剣を振るうほど――俺の魔力じゃなく、生命力が減る」
ソフィの目が揺れる。
「アレックス、それ……」
ジルは微笑を深めた。
「生命に食らいつき、力に変換する剣。――吸命魔剣。古い言葉ね」
アレックスは淡々と告げる。
「負けるわけにいかない戦いは、何度もあった。だから振るった。でも代償は確実だ」
手の甲の黒い紋様。
彼は手袋を外し、見せた。
黒い筋が静脈のように走り、刻印のように光を帯びる。
ソフィが息を呑む。
「……あの黒霧と似てる。いや、もっと古い形?」
レイが低く言う。
「それは封印に近い。誰かが血に刻んだ魔術だ」
ジルが笑みを消す。
「なるほど――その秘密なら十分よ。取引成立」
そして、指を一本立てる。
「質問一への答え。黒霧装置の術式は千年前の魔王戦争の遺産。最近発見されたわけじゃない。――『誰かが発掘し、動かしている』」
アレックスの眉が寄る。
古代の遺物。
それと同じ時代――千年前。
アレックスの黒銀の剣もまた、伝承上はその時代の武器。
ソフィが小声で呟く。
「アレックス……あなたの剣も、その時代のもの?」
アレックスは視線を落とす。
「……わからない。ただ、拾った時すでに意志があった」
ジルは、グラスを軽く傾けて言った。
「ただ一つ言えるのは、千年前の闘争は終わってない。形を変え、静かに再開している」
アレックスは静かに剣の柄に触れた。
黒銀の刃は、薄く脈動した。
まるで聞いているかのように。
ジルはグラスを置き、声を潜める。
「黒霧装置を再稼働できる者。それが誰かを知りたいのよね?」
三人がうなずく。
ジルは、酒場の奥の壁に貼られた古い地図を指差した。
そこには、千年前の大戦で消滅したとされる国――
《ネザード統一帝国》
その紋章が描かれている。
「黒霧は魔術のカテゴリーでは禁忌術。魂を霧化し、意志を混ぜ、兵を無限に補充する。かつてネザード帝国の影軍が使っていた技術よ」
レイが低く呟く。
「千年前に滅んだはずだ……」
「滅んだとされているだけ」
ジルの指先が、地図の南部の渓谷地帯をなぞる。
そこには名前が擦れて読めなくなっている地域があった。
「これは三十年前に、現地の村ごと焼かれた場所。報告書では魔獣化による暴走。でも――逃げ延びた生存者の証言では違った」
アレックスが身を乗り出す。
「何があった?」
ジルは静かに答えた。
「死んだはずの皇族の紋章を見たと」
三人の間に、氷のような沈黙が落ちる。
ソフィがゆっくり聞き返す。
「つまり……ネザード帝国の血筋が生きていて、黒霧装置を動かしている可能性が?」
ジルは肩をすくめる。
「もし、それがただの亡霊なら脅威じゃない。だけど――」
視線がアレックスの魔剣に向く。
「千年前の遺産が複数動き始めてるなら話は別」
レイが拳を握る。
「黒霧を操る誰かは、帝国の後継者、もしくはその意思を継ぐ者か……」
アレックスの胸元の刻印が微かに疼いた。
黒剣は千年前の遺物。
ネザード帝国の影軍も千年前。
それが偶然の一致かどうか――答えを出すのは早い。
だが、剣は静かに、確かに脈動していた。
まるで、目覚めつつある記憶を宿すかのように。
ジルが最後に言った。
「ただし忠告しておく。黒霧を操る者は、表向き名前を持っていない」
アレックスが眉を上げる。
「匿名で動いてるってことか?」
ジルは首を振る。
「いいえ。最初から個ではないの。黒霧を動かす者たちは、互いに顔を知らず、名前も持たず、ただ一つの呼び名で呼び合う」
ジルは低い声で言った。
『影の家』
ソフィの表情が鋭くなる。
「家? 組織?」
ジルが言う。
「彼らは国家でも教団でもない。血でもない。闇の司祭、失われた皇族、傭兵、逃亡魔術師――目的のために名前を捨てた者たちの集団」
レイが息を呑む。
「目的……?」
ジルはグラスを回し、微笑む。
「大陸の政治を巻き込んだ、千年前の戦争の再演」
――黒霧は武器。
――失われた帝国は旗。
そして、影の家は――軍。
アレックスは静かに言った。
「じゃあ俺たちは――その火種を踏んじまったってわけか」
ジルは笑みを浮かべながらも、目だけは笑っていなかった。
「三人がその名前を知った時点で、向こうもあなた達を知っていると思いなさい」
酒場の外から、遠くで雷鳴が轟く。
天気予報に雷はなかった。
まるで、空が何かを告げるように。
「ソフィの身体に残った封印の痕……あれは何だ?」
雷鳴と共に一瞬照明が揺れ、
酒場の天井を照らす魔石灯の光が不気味な影を落とす。
ソフィの指先が、袖の内側へそっと触れる。
封印儀式の後から消えない、黒い紋様――
まるで枝分かれする樹の血管のような、複雑な魔術刻印。
ソフィがゆっくりと息を吐く。
「ただの魔力酔い、じゃないことは……わかってる」
アレックスは彼女の表情から視線を外さずに言う。
「封印の時、何かがソフィに触れた。黒霧の司祭の声だ。あれが痕として残ってる」
レイは険しい顔をする。
「封印が完全なら、術式は消えるはずだ。残るということは……内側から繋がっている」
ジルは、すこしだけため息をつき、
今度はその視線をソフィへ向ける。
「その痕――黒霧の汚染じゃないわ」
ソフィが瞬きをする。
「……じゃあ何?」
ジルは静かに答えた。
「鍵よ。黒霧の流れを閉じた。その扉の鍵穴の役割を、あなたが担っている」
アレックスの表情が固まる。
「鍵? 人間を……鍵に?」
ジルは指先で机を軽く叩く。
「封印は蓋をするだけじゃない。魔術というのは――必ず出口を残す。逃がす穴、調整弁、または……鍵穴」
ソフィの目がわずかに揺れる。
「じゃあ……私は、封じたんじゃなくて、結んだ?」
「――ええ。あなたは黒霧と繋がっている。正確には、繋がる可能性を背負わされた」
レイが低い声で問う。
「その鍵、もし向こう側の手が回せば……?」
ジルは淡く笑う。
「封印が裏返り、門が開く。黒霧は逆流し、あなたの中へ」
ソフィの肩がわずかに震えた。
アレックスは、冷たく静かに言う。
「どうすれば、その鍵を壊せる?」
ジルはグラスを口に運び、氷がカランと音を立てる。
「壊す方法は一つ。封印術そのものを上書きする。つまり元の術式を超える術を持つ者――黒霧の術を作った側の魔術師が必要」
レイが息を呑む。
「ネザード帝国の残党か……影の家の司祭。敵にしかできない、ということか」
ジルは頷く。
「味方にはいない。千年前の術を完全に理解できる者は、今を生きていない」
ソフィが小さく呟く。
「じゃあ私は……」
アレックスが食い気味に言う。
「治せる方法があるなら、見つけりゃいい」
ソフィが目を向ける。
その言葉は、軽く聞こえるが――
彼の声には迷いがなかった。
ジルはグラス越しに、真っ直ぐアレックスを見た。
「覚えておきなさい。封印の鍵を壊す術を持つ者は――黒霧の敵ではないかもしれない」
アレックスの目に一瞬、反射した怒りが走る。
「どういう意味だ?」
「影の家だけが、千年前の遺産を継いでいるとは限らない。――光の側にも、過去を引き継ぐ者はいる」
レイの顔色が変わる。
「光の教団が……?」
ジルは声を潜めた。
「封印術は光の術式。千年前の戦争で、光と闇は互いに禁忌を学び、互いに禁忌を使った」
酒場の窓に、再び雷光が走る。
その瞬間、ジルの声がまるで契約の一文のように、
淡々と、冷たく響いた。
――ソフィの封印の痕は鍵。
それを作った術者は、闇かもしれないし、
光かもしれない。
敵は一つの陣営とは限らない。
この争いは、光と闇の二元じゃない。
千年前から続く、三つの勢力の戦だ。
雷鳴。
遠くで鐘の音が鳴る。
ヴァルドレアの夜が、静かに揺れ始めていた。
――ヴァルドレア城下、冬の夜。雪混じりの風が吹きつける石畳の市場通り。
初めは、誰もそれを「霧」とは思わなかった。祭りの屋台が燻らせる肉の煙か、酒場の排気か、あるいはただの夜霧か。
だがそれは、街灯の火を黒く濁らせ、光そのものを飲み込むかのように広がっていった。
煙ではない。水蒸気の冷気もない。
夜空の星すら透けて見えない――ただ、深い闇だけが、ゆっくりと地上へ降りてくる。
最初の悲鳴は、露店の少女があげた。
「……お母さん? 手が、冷たい……黒く……!」
彼女の手首から指の先にかけて、皮膚が煤のように黒ずんでいく。
しかし凍傷のように腐るのではなく――
影が肉体に染み込み、形を変えている。
触れたものにも広がった。
木箱、布、石畳。
黒いシミのように、しかし液体ではなく、光を吸う漆黒の物質が移植されるように増殖していく。
衛兵達が駆けつけ、武器を構える。
だが、黒霧に触れた槍の刃は、まるで墨汁に浸したように暗色を帯び、刃毀れしたかのように鈍る。
「バカな……金属が……喰われてる?」
霧ではなく――封印から漏れ出した瘴の概念そのものだった。
やがて黒霧は、ある一点へ向かって収束し始める。
城壁北側、古い井戸の跡地。
この街が交易都市になる以前、部族時代から触れてはならない地とされた場所。
黒霧は、まるで何かに呼ばれるように集まり、形を作っていく。
――人形のような、影の獣。
――四つ脚、長い首、面のない顔。
――音もなく、ゆっくりと歩き出す。
その瞬間、街の灯りが一斉に揺らぎ、消えた。
ただ雪と闇が残る静寂の中――
遠く、封印の紋章を刻んだ北方の塔が微かに脈打つように輝いた。
まるで、封印が「目覚めた」ことを告げる鼓動のように。
そして、人々はようやく悟る。
闇は偶然ではない。
古い伝承でも、迷信でもない。
――封印に影響が出始めている。
――何かが、こちら側に滲み出している。
それは小さな事件ではなく、
これから始まる大災厄の前兆だった。
ヴァルドレア城の応接室。
魔術議会の紋章を胸に掲げた老魔導士が、薄い笑みで言う。
「黒霧が封印の反動だと? ふむ、魔術の教育を受けてこなかった冒険者の推測としては、面白い意見だ」
アレックスは腕を組んだまま不快を隠さない。
ソフィに鍛えられ、実戦で魔術を扱う魔剣士。
机上の理論だけで語られると癇に障る。
「反動じゃないなら説明してみろ。封印して安心してた結果がこれだ」
その時――
足元から薄く黒い靄が立つような揺らぎ。
窓の外の鐘の音が濁るように響いた。
アレックスは椅子を倒し立ち上がる。
「来たな」
老人が叫ぶ。
護衛が止めようとする。
しかしアレックスは言い放つ。
「死にたくなければ窓閉めて魔術障壁でも張ってろ」
背を向け、走り出す。
魔剣の柄に触れながら。
ヴァルドレア魔術学院支部、古文書室。
ソフィは大量の羊皮紙を二つの魔法陣で宙に並べ、
封印術式のズレを探っていた。
「封印の魔方陣……一部が後付け。元々の術者以外の手が加えられてる……?」
眉が寄る。
それはつまり、封印は本来の目的とは別の誰かに利用されている、という可能性。
突然、室内のランプがふっと暗くなり、窓ガラスに黒い紋様が浮かぶ。
「……干渉? こんな離れた場所まで届くとはね」
ソフィは外套を翻す。
杖を手に、魔力が指先に集まる。
「アレックス、レイ……無事でいなさいよ」
風を裂く瞬間移動の魔法陣が輝き、ソフィの姿が夜の街へ消えた。
レイは鎧を着ていない。
騎士団紋も外していた。
ただ一本の剣だけを腰に、城下の夜警の手伝いをしていた。
巡回中、空気の匂いが変わる。
鉄の匂い――いや、もっと古い、腐った魔力の匂い。
通りの角を曲がると、
黒い霧が、子供の背丈ほどの獣の形を取り、商人を追い詰めていた。
レイはためらわず踏み込み、剣を抜き放つ。
「退け」
白銀の刃が走る。
闇の獣は裂け、霧散するが、再生が早い。
「討ち切れない……封印が緩んでいるのか」
肩の傷を押さえながら空を見た。
星が、ひとつも見えない。
黒霧が空を覆っていた。
「――このままなら、街が死ぬ」
レイは剣の切っ先を黒霧の源へ向け走る。
かつて光を名乗った者として、今はただ、守りたいという個人の誓いだけを胸に。
アレックスは駆け抜け、剣を抜いた瞬間に霧が裂ける。
ソフィは雷光とともに街路へ現れ、魔術障壁で民を守る。
レイは血のついた剣を握りしめ、霧の中心へ向かい走る。
運命は三本の線となり、ヴァルドレアの夜、同じ一点へ――
黒霧の渦が開く門の前へ。
三人がほぼ同時に、黒霧の渦が開く広場へ飛び込んだ。
霧は風も無いのに螺旋を描き、地面の石畳が古い魔術陣のように黒く染まる。
アレックスが剣を構える。
「この質、前に倒した黒霧の化身とは違う……格が違うな」
ソフィは杖を地に付き、霧の濃淡を読み解く。
「濃度が高すぎる。封印の反動とか甘い話じゃない……送り込まれているわ」
レイは静かに頷き、霧の中央を見据える。
「誰が、どこからだ」
その問いに――
返答したのは、霧そのものだった。
黒い霧が人型の影を象って立ち上がる。
骨のような輪郭、深いフードを被った司祭服。
顔は無い。
しかし笑った気配だけが、明確に存在した。
「――封印を触れた者よ。聞こえる」
ソフィが即座に魔術障壁を展開する。
声は直接脳髄に響く幻聴型の精神干渉。
アレックスが前に出る。
「お前が黒霧の主か。司祭級――か?」
影は首を傾ける。
その仕草だけで、空気が冷たくなる。
「主? いいえ、我らは門の鍵。この大陸の闇を解き放つための、ただの手」
レイが低く、鋭く問う。
「闇の勢力の第一階梯……本当に実在していたのか。貴様らは何を望む」
霧が揺れ、影が笑う。
「光がある限り、闇は飢える。君たちの封印は、我らにとっては給餌にすぎない」
ソフィが眉を寄せる。
「……封印の魔力を、吸っている……? 私たちが閉じたつもりが、逆に養分になってたって言うの?」
影の司祭は静かに両手を広げる。
「その通り。封印は、こちらの世界へ口を開ける管となり、我らはそこを通り、増え続ける」
霧の奥で無数の影が蠢く。
アレックスの背筋に寒気が走る。
「じゃあ封印を守ってた奴らは……」
「すべて、騙されていた」
ソフィの目が怒りで光る。
「光も闇も……利用されてたってわけね」
レイが剣を構え直す。
「ならば――その誤り、まずはお前から断つ」
影の司祭が手を下げると、地面の魔術陣が裂け、黒霧が獣と翼と鎖を持つ異形へ形を変える。
「断てるものなら。星の落ちた剣よ、試してみるがいい」
アレックスの手が魔剣を抜いた。刃に黒炎が灯る。
「試すまでもない。俺たちは――その闇を閉じに来た」
三人対影の司祭、戦闘へ。
黒い翼、鎖、三つ口の獣の顔。
霧が固まったとは思えぬ重量と殺意を纏う。
最初の咆哮だけで地面が揺れた。
建物の窓が砕け、悲鳴が街の奥へ散る。
ソフィが判断を下す。
「まず霧を剥ぐ! レイ、前衛固定! アレックス、斬撃は魔力抑制!」
レイが盾を構え、突進する影の衝撃を受け止める。
「ぐっ――重い……! だが、止める!」
聖騎士時代に叩き込まれた防御姿勢。
衝撃のあと、盾を半歩押し返す。
レイは吼えた。
「アレックス、今なら……!」
アレックスは横へ滑り込み、魔剣の刃を薄く走らせる。
霧を裂く黒銀の軌跡。
しかし深追いせず、一撃で跳ぶ。
「やっぱり……長く触れたら、俺ごと食う気か」
魔剣は応えるように、低く脈動した。
ソフィの詠唱が重なる。
「――《封従の絶対風壁》!」
青白い刃の風が旋回し、レイの盾を中心に侵食阻止の円筒を展開する。
ソフィは叫ぶ。
「霧を寄せ付けない防壁、短時間だけど使える! レイ、正面から抑えて! アレックス、斬り込みは防壁の内側で!」
レイが頷き、踏み込む。
「任せろ!」
巨大な腕が振り下ろされる。
聖剣ではない今のレイには荷が重い――
だが彼は逃げない。
盾が火花を散らす。
腕と鎖が絡み、引き裂こうとする。
アレックスが防壁の縁を滑るように走り、
影の脚を断ち切った。
黒霧が炸裂し、怪物がよろめく。
「ひとつ!」
「二つ目もいく――!」
レイの盾打ちで姿勢が崩れ、
アレックスの回転斬りで鎖が散る。
怪物が咆哮とともに変形しようとした瞬間、
ソフィの声が空気を震わせる。
「変形の魔術式、割り込む! ――《術式反転:霧還流》!」
黒霧が逆流した。
怪物の肉体が一瞬霧へ戻る。
形が薄くなる――防御が落ちる。
ソフィが叫ぶ。
「今! 完全に霧になる前に!」
アレックスが魔剣を両手で握りしめ、踏み込む。
「喰らえ――《黒断》ッ!」
黒銀の刃が閃光と影を撒き散らし、依代の核を貫いた。
霧が悲鳴のような音を立てて裂け、影の司祭の声が風に混ざる。
「なるほど……剣と封術と光なき騎士の協奏――調和はまだ死なず、か」
霧は崩れ、風へ、塵へ、闇へ。
依代は消えた。
だがその去り際に、声だけが残った。
「――次の門は開く。ヴァルドレアは、ただの入口にすぎない」
そして最後に。
「魔剣の担い手――あなたの寿命は、もう【削れている】」
声は途切れた。
ソフィとレイが、かすかに息を呑む。
アレックスは魔剣を握ったまま、その刃を見下ろす。
黒銀は脈を打ち、まるで血が巡っているように微かに温かかった。
黒霧の散った路地に、規律正しい足音が近づく。
振り向くと、深い紺のローブを纏った一団が通りを封鎖していた。
胸には――
ヴァルドレア魔術議会の紋章。
前に立つ男は、白手袋に杖を携え、表情にはかすかな嘲笑が浮かんでいる。
「黒霧の依代を単独撃破とは……驚きましたよ、外部の冒険者諸君」
アレックスが剣を下ろしつつ、警戒を解かない。
ソフィは目を細める。
「魔術議会の使節、ね。こんな早く現れるなんて――どこで見ていたの?」
男は杖を軽く地面に突き、言う。
「我々は、この街の結界管理者です。重大な魔術犯罪への対処は管轄内」
レイが一歩前へ出る。
「感謝の一言はないのか。街を救ったのは彼らだ」
男の眼がレイの紋章の消えた胸元に落ちる。
「……元・光の騎士殿が、反逆者と行動を共にしているとはね」
レイの拳が震える。
ソフィがレイの腕をそっと掴む。
アレックスは言い返さず、ただ使節の瞳を真っ直ぐ見据えた。
男は口元だけ笑い、「あなた方には同行を願います。黒霧装置について語っていただくために」
ソフィが眉をひそめる。
「尋問、って言いたいわけね?」
男は肩を竦める。
「協力的であるなら――取引と呼びましょう」
沈黙。
周囲では、倒壊した建物から市民たちが怯えた目で様子を伺っている。
レイが小声で言う。
「連行されたら、情報はすべて議会に独占される。俺たちは手駒にされるぞ」
アレックスは、わずかに息を吸って――
「条件がある」
使節が眉を上げる。
「街を守るために戦った人間を、犯罪者として扱わないこと」
静寂。
ソフィは気づいた。
その条件は――ソフィを庇う言い回しだ。
使節は唇を歪める。
「興味深い要求ですね。黒霧の瘴気汚染者を英雄扱いしろとは」
ソフィが睫毛を震わせた。
封印の後遺症――議会に既に知られている。
その瞬間、アレックスが踏み出す。
「言ったはずだ。俺たちは街を救った側だ」
魔剣が、低く、震えるように脈動した。
杖の先が、アレックスの心臓を狙うように向けられる。
空気が凍る。
だが――
老人の声が割り込む。
「そこまでにしておきなさい」
黒衣の老人が人混みをかき分けて歩む。
背には議会の最高紋章。
使節たちが一斉に頭を下げる。
――ヴァルドレア魔術議会
筆頭評議員 ザハル=クラウン。
ザハルは三人を見て、静かに頷いた。
「まずは休め。その上で……協議の場へ来てもらう」
アレックスは剣を収める。
ザハルは続ける。
「黒霧を操る影の司祭。それは単なる現象ではなく、すでに戦争の足音だ」
そして――
筆頭評議員はアレックスを正面から射抜く。
「魔剣使いよ。千年前の戦いは、今も終わっていない」
アレックスの握る拳の中で、魔剣が応えるように脈打つ。
ザハルに案内され、三人は議会塔へと向かう――。
しかしその影で、赤のジルは屋根の上から微笑んでいた。
「さあ……大陸の金の盾が、どちらに傾くか見物ね」
夜風に、黒霧の残り香が揺れる。
戦闘の翌夜。
ヴァルドレアの裏路地は湿った石の匂いが漂い、昼とは別の貌を見せていた。
アレックスはフードを深くかぶり、人気のない細道を進む。
今日の密会は、これまで以上に意味を持つ。
明日、魔術議会との正式交渉が控えていた。
油灯の影が揺れた瞬間、壁の陰から声が降ってきた。
「昨夜の騒ぎ、街中で噂になってるわよ」
赤のジルが姿を現す。
赤い襟巻き、黒革のブーツ、
闇の情報屋の装いは、夜の色に馴染んでいた。
アレックスは単刀直入に切り込む。
「魔術議会が黒霧で何を企んでいる。明日の交渉で切り札が必要だ」
ジルは薄く笑う。
「切り札ね。欲しいなら、こちらにも条件がある」
彼女は壁に背を預け、人の気配を気にするように耳を澄ませた。
「議会の内部――『黒霧に関わる派閥』がある。彼らは表向き反対してるが、密かに研究を進めている」
アレックスの眉が動く。
「黒霧を……利用するつもりか」
ジルの瞳は鋭く、乾いた声で続けた。
「力というものはね、必ず誰かが『使う』と決める。問題は――それが誰か、というだけ」
アレックスは焦りを抑え、問い直す。
「その派閥の名前と、証拠を」
ジルはくすりと笑い、首を傾げた。
「証拠は明日届けるわ。議会の代表者……彼女こそ鍵になる」
アレックスは一歩近づく。
「協力する気があるのか、ないのか」
その問いにジルは肩をすくめた。
「私が欲しいのは、安全と影響力。あなたたちが議会を揺らせば、その見返りとして、私は黒霧の情報を全面的に流す」
アレックスは沈黙し、やがて短くうなずいた。
「明日、議会で俺たちが動く。お前の情報が確かなら――協力しよう」
ジルの赤い外套が揺れ、彼女は裏路地の奥へ消えながら一言だけ残した。
「――議会は敵だけじゃない。味方もいる。ただ、味方だと思った者ほど、裏切るのよ」
夜の風が冷たく吹き抜ける。
アレックスは短く息を吐き、ギルドへ戻ろうと歩きだした。
――明日の交渉は、剣でも魔法でもない。
――そして、最も危険な戦場になる。
夜明けのヴァルドレアは、昼の喧騒が嘘のように静かだった。
魔術議会の塔を遠望できるギルドのテラス。
その欄干に寄りかかり、ソフィは薄い冷気を吸い込みながら自らの両手を見つめていた。
指先がわずかに震えている。
黒霧の事件──対処はできた。
しかし、封印の後遺症は完全ではない。
魔力の流れが不安定になり、精神への負荷が強まっているのを誰よりも自分が知っていた。
背後から足音。アレックスがそっと近づく。
「眠れなかったか」
ソフィは視線をわずかに落とし、皮肉めいた笑みを口元に浮かべた。
「明日会うのは、私が追い出された場所よ。不安がないと言えば嘘になるわ」
風が髪を揺らす。
アレックスは彼女の横に立ち、塔の尖塔を眺める。
「魔術議会は、お前に何を求めている?」
「理念。計算。実験。そして……従順」
ソフィはゆっくりと目を閉じた。
「私は魔術は道具だと思っていた。使う者しだいで、癒しにも破壊にもなる。だから理性と倫理が必要だって、そう教えられた」
「今は違うのか」
「ええ。封印に触れて理解した。魔術は人の外側にある何かと干渉する技術なのだと。触れていい領域と、踏み越えてはいけない領域がある」
アレックスは言葉を探すように顎に手を当てた。
「議会は、その境界を越えた可能性がある」
「越えたのよ。黒霧はその証拠。失敗したから、隠し続けてきた」
ソフィは拳を握る。
「私は明日、魔術師として交渉する。でももし、議会がまだ禁忌に手を伸ばしているなら──」
そこで言葉を切る。
アレックスがその沈黙を受け取るように静かに言う。
「戦う覚悟はあるか」
ソフィは短く息を吸った。
「……逃げるよりは、ずっといい」
アレックスの目がわずかに柔らかくなる。
「なら、俺が隣に立つ理由は十分だ」
ソフィは初めて、緊張の隙間に小さく笑みを落とした。
「あなたの剣の代償は? 本当に大丈夫?」
「大丈夫かどうかは、使ってみないとわからない。まあ、騎士団時代から『考えるより動く』タイプだからな」
彼らしいと、ソフィは肩をすくめた。
朝の光がゆっくり街を照らし始めていた。
その光は、これから向かう塔の影を濃くしていく。
同じ朝、別の路地。
宿の裏口から出たレイは、薄い霧の中に立つ三つの影を見つけた。
白の外套。胸には「光の紋章」。
かつてレイ自身が誇ったはずの象徴が、今は刃のように彼を遮る。
一人がヘルムを外し、かつての同僚の顔が現れた。
「レイ。生きていたか」
声に揺れはない。
ただ職務として言葉を継ぐ。
「教団はお前の帰還を命じている」
「拘束か、説得か。どっちだ」
「どちらでもない。お前が望むなら赦す。神のもとへ戻ればだ」
レイの眉がかすかに動いた。
赦す。それは「罪」を前提とした言葉だった。
「俺は裏切っていない。ただ、疑問に答えが欲しかっただけだ」
「疑問に飲まれ、闇に堕ちた者は数多くいた」
「俺が闇に見えるのは、お前らが光に目を焼かれているからだ」
一瞬、空気が張り詰めた。
後ろの二人が剣を半ば抜きかける。
「レイ。交渉と称して『魔術議会』に与するつもりか。禁忌の研究を看過するのか」
「看過する気はない。だからこそ俺は『知る』必要がある」
追手の目が細められる。
「ならば我々と来い。議会ではなく、神の裁きのもとへ」
レイはわずかに首を振った。
「裁きは後でいい。まずは真実を聞く。自分の足で」
「それは神への反逆だ」
「違う。神を語り、権威を振るう人間に従わないだけだ」
追手の顔にわずかな怒りが浮かぶ。
「レイ。最後の機会だ」
レイの手は剣の柄に触れ、しかし抜かない。
「剣を向ける気はない。だが進む道を塞ぐなら、俺は道を選ぶ」
三人の距離が交錯する。
睨み合いは刃より重い緊張を生んでいた。
追手が剣を引いた。
ただし鞘に収めたまま。
「交渉が終わった後でもいい。お前を迎えに来る。逃げるな」
「逃げる必要はない。俺の道だ」
追手たちは背を向け、霧の中へ消えた。
レイは冷えた空気を吸い、胸の奥で小さく呟いた。
「赦されるために戦うわけじゃない。守るためだ。俺が選んだ光で」
そして三人は再び同じ方向へ歩き出す。
ヴァルドレア魔術議会との交渉の刻。
政治と禁忌と千年前の影が、静かに扉を叩いていた。




