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9.オトの章

在位三ヶ月という、

あまりにも短い期間の皇帝オト。

彼は、こんな男だったのかもしれない。

オトの章



1.

ローマ社交界の夜会。


葡萄酒と香油が混ざった甘い匂いが漂っていた。

大理石の床には灯火が反射し、

金と象牙の飾りが施された長椅子には、

選び抜かれた貴族たちが並ぶ。


誰かがホラティウスを引用すれば、

隣の紳士がすかさず韻を返す。

政治、教養、噂話──

この場所では杯のように混ざり合い、絶えず形を変えていく。


その空気の“揺れ”を、オトは生来の才能で楽しんでいた。


『おや? あの女性は…』

「彼女はポッパエア・サビーナですよ、オト殿」

『ああ…彼女がそうか』


洗練された物腰、絶妙な言葉選び、長身の姿。

派手な装いも不思議と自然で、目を引く。

ローマ社交界でもっとも注目される若い貴族──それがオトだ。


そんな彼が今、話題の女性ポッパエアへ視線を向けていた。


彼女がふと笑えば、男たちの視線が一斉にそちらへ向かう。

本人は無自覚のように、品よく扇を広げている。


オトは、その扇のわずかな動き、

そして周囲の表情の波──

利害、嫉妬、期待──

それらが生む、微かな表情の乱れを見逃さなかった。


『ポッパエア…ずいぶんと目立つ女性だな』


そのときだった。

ほんの一瞬、針先ほどの軽い接触──

“目が合ったかどうか”程度の薄い光が走った。


──悪くない。


 ポッパエア・サビーナ。

 家柄、教養、話術、美貌。

 どれも申し分ない。


オトは声をかけようと決め、

静かに歩み寄り、持ち前の“空気を読む力”で

彼女の関心を確かに掴んでいった。


「オト、素敵な人。

 あなたと話してるとね……未来が広がる気がするの」


その笑みの裏に、微かな影があることも、

オトは既に察していた。



やがて二人は結婚した。

社交界の花形同士──注目はいや増した。


だが、それは愛ではない。

互いの格を高めるための“同盟”だった。


「ねえオト…"アウグスタ"って、世界にたった一人なのよね?」


扇の影に潜む彼女の目は、微笑みながら鋭い。


 ※アウグスタ:ローマ女性最高の称号。

  政治にも宮廷にも計り知れない影響力を持つ。


「なんて、特別な響きなんでしょう」


その“特別”という語。

たった半拍、声の温度が上がった。

まるで未来の冠に指先で触れたかのような、熱。


『……興味があるのかい?』


「さあ? ただの言葉遊びよ」


オトは悟った。

彼女の視線は、自分の隣では終わらない。

皇帝の座の隣──“皇后”の椅子に向いている。



「ポッパエアちゃんを、僕のものにしたい!」


ネロ帝の恋は幼稚で、けれど烈しかった。


「いけませんぞ、陛下。彼女はオト殿の妻でございます」


賢者セネカが、慎重に言葉を選ぶ。


「そんなのわかってるよ!」


カップを強く握り、葡萄酒がこぼれる。


「…ねえセネカ先生、なんとかならない?

 ポッパエアちゃん、僕に熱い視線を送ってくるんだ」


甘えた調子なのに、

言葉の奥に潜むのは“生殺与奪を握る者”の冷たさ。

賢者セネカは重みを背負い、説教を始めた。


(やべえ、先生が説教モードだ)


ネロ帝は聞くふりだけし、しだいに不機嫌を募らせていく。

そして宮廷全体に重苦しい空気が漂った。



侍従は静かに震え、

書記官たちは普段より口数が少ない。


オトは、その“異様な重さ”を敏感に感じ取った。

中心はネロ帝。

原因は、自分の妻。


ネロ帝の熱情は制御不能になりつつあり、

賢者セネカですら持て余している。


オトは冷静に線を整理した。


 ネロ帝 ――ポッパエアを欲している

 セネカ ――疲弊している

 ポッパエア ――皇帝の寵愛を求める

         いや、その先……皇后位だ

 自分──さて、どう動けば最も合理的か…


すべてが繋がった。


『ならば、利用するだけだ』



思考がまとまり、改めて妻の姿を思い浮かべるオト。


そこに愛情はあったのか?


……いや、そんなものは最初から重要ではない。


ただ、ほんの少しだけ──

(本当にこれで良いのか?)

という思いが、ポッパエアの横顔と共に彼の中に静かに浮かんだ。



『セネカ殿。宮廷の空気が重いと……そうお感じになりませんか?』


「…おぬしが気づかぬはずもない。思っておる通りじゃ」


老賢者は深くため息をついた。

目の下には濃い影。


(やはり、お疲れだ)


『陛下のお心が晴れる策があれば良いのですが……ところで』


「うん?」


『ルシタニア総督の人事――

 もう、お決まりですか?』


その瞬間、空気が細く震えた。


「いや、まだじゃが」


『でしたら……候補者をお示しになるのも一手かと。

 例えば……………』


賢者セネカの視線がオトを捉える。

オトは柔らかい微笑みを返す。


「…なるほど。だが、おぬしはそれで良いのか?」


オトは目を伏せ、穏やかに笑った。


『西のルシタニア──

 “空気が澄んでいる”と聞きます。

 私は、そういう静けさが好きなのです』


「……む」


賢者セネカの眉がわずかに動き、

そして頷いた。


「わかった。任せよ」



数日後。

賢者セネカはネロ帝の前で人事案を掲げた。


「候補は、ルフス、コルブロ、ウェスパシアヌス……そしてオト」


ネロ帝の目が一気に輝く。


 オトがルシタニアへ行けば、

 ポッパエアは“自由”になる──!


「素晴らしい案だ、セネカ。

 その中ならオトが適任だな。だろう?」


「御意」


「オトをルシタニア総督に任命する。

 期待している、と伝えよ」



こうしてオトはルシタニア総督の地位を得た。

表向きは都から遠ざけるための人事――

だが実際には、重要属州を治め、人脈を築き、

軍事基盤を整える機会でもあった。


ネロ帝はポッパエアを得るだろう。

ポッパエアは皇帝の寵愛を得、さらに高みへ。

賢者セネカは宮廷の平穏を取り戻す。


四方、すべてが勝者だ。

──この時点では。


オトはまだ知らなかった。

運命がいかに気紛れで、いかに残酷かを。



出発前。

杯を傾けた瞬間、背後で楽士が不協和音を鳴らした。

澄んだ夜気に、ただ一つだけ濁った音が落ちる。


『やれやれ…』


(調和というものは、たいてい気づかぬところから崩れる)


杯を空け、遠い旅路に思いを馳せる。

この経験が、いつか自分をさらなる高みへ導くと信じて。




2.

朝の光が高窓から差し込み、

湿り気を帯びた白い大理石の床が

かすかに金色を帯びて輝いていた。


ルシタニア総督府の大広間。


新任総督オトは、彼の椅子には座らず、

あえて一段下の来客席の前に立っていた。


(見下ろせば、相手は本音を隠す。

 同じ高さに立てば、空気が動く)


形式に倣いながら、形式に縛られない立ち位置――

その静かな“距離”が、かえって人々の視線を引き寄せた。


最初に現れたのは現地の名士たち。

羊毛業の長老、

湿地帯の地主、

有力都市の大商人など

それぞれが恭しく頭を垂れ、祝辞を述べる。


総督オトは微笑みもせず、かといって不機嫌にも見せず、

ただじっと相手の顔を見つめ、淡々と応じた。


――名前と顔。

それを確実に結びつけるような、静かな“観察”。


続いて総督府の官人たちが進み出る。


細身で神経質そうな秘書官、

「しょ、書状はすべて私が」と早口で言うが、

語尾だけが妙にくぐもって消えた。


福々しい財務官は、汗をぬぐいながら

「予算の現状は後ほど……」と頭を下げる。


そして護衛隊長官。

筋肉質で、朴訥な印象。

彼は挨拶の途中で盛大に噛んだ。


「総督閣下の安全は……ががんばって、お守りいたります!」


噛んだ瞬間、自分でも驚いて固まる長官。

周囲の空気が凍りつく。

その時、総督オトの口角が“初めて”わずかに上がった。


(緊張で噛む、か。

 だが、これは職務を軽んじている者の噛み方ではない)


『よろしい。挨拶は以上だ。皆、下がってよし。

 ――長官、君は残れ』


長官の顔色が見る間に青ざめる。

官人たちは目で「ご武運を」と告げながら静かに退出した。


大広間に残るのは二人だけ。

白い大理石の床に長い影が伸び、

外の回廊の風の音だけが響く。


総督オトがゆっくり振り向く。

長官は、震えを押し殺すように直立した。


『長官、まずは君に尋ねる』


「は!な、何なりと」


声が裏返ったが、総督オトは気に留めず続けた。


『私は若く、この土地も初めてだ。

 ……ルシタニアの人々について、君に教えてほしい』


「?、はい……」


拍子抜けしつつも口を開き、

村の気質、名士の評判、近隣部族の動向――

知る限りを語り出す。緊張は徐々にほどけ、

やがて自然な口調になった。


『なるほど。では次に――君の指揮する護衛隊についてだが』


瞬間、また固まる。

だが総督オトの目が穏やかなままだと気づくと、息が戻った。


『隊で一番、力の強い者は?』


「はい。格闘では2番隊のマリウスに叶うものはおりませぬ」


『弓の名手は?』


「1番隊のクィントゥスかと」


『足の速いものは?』


「2番隊のスカエウォラと、3番隊のサルウィウスでしょうか」


『剣は?』


「これは、マルケッルスに決まりましょう」


 ・頭の切れる者

 ・馬の扱いに長ける者

 ・気配りがうまい者


評価ではなく“具体的能力”を問う質問が続く――

長官は迷わず、次々に答えた。


総督オトは内心で静かにうなずく。


(この男……隊をよく見ている)


『結構。下がってよい』


長官が深々と礼をして去っていく背中を見送りながら、


(気取らず、虚勢もない。こういう男が、現場を守る)


総督オトはひとつ、確かな手応えを感じていた。


 人材の土台は悪くない。それにしても

 ローマに比べ、なんと素直な空気だろう



着任後まもなく、総督府は朝から喧騒に包まれるようになった。


土地台帳、道路補修、徴税率、部族との折衝――

次々に案件が舞い込む。


総督オトは『うむ』『ふむ』と相槌を打つが、

拙速に命令を下さない。

むしろ、素直に認めた。


『これは詳しい者に聞きたい。

 ……君たちはどう考える?』


官人たちは驚きつつも、丁寧に説明した。


「昨年の干ばつで農民が疲弊しており――」

「この街道が傷めば徴税が滞り――」

「この村は山岳部族との接触が多く――」


総督オトは真摯に耳を傾け、理解すると静かに言う。


『では――君の判断でいこう。任せてよいか?』


押し付けではなく“委ねる”声。

説明と責任が自然に一致する瞬間。


理由なき叱責も、突然の方針転換もない。

怒号も、気まぐれな命令もない。

ただ理にかなった判断が積み重なる。


気が付けば官人たちは口々に言うようになっていた。


「この総督は、無茶を言わない」

「我々の意見を聞いてくださる」

「知らぬことを隠さない。……信頼できる」


“外から来た総督”と“土地の民”との壁は、

彼の場合、見事に崩れ去りつつあった。


そんなある日、隊の訓練場視察から戻った総督オトの顔に、

どこか愉快そうな色が浮かんでいた。

彼は、あの神経質な秘書官を呼び、告げる。


『護衛隊を集めよ。

 ……なに、楽しんで貰おうと思ってね』


「はい。しかしどのような?」


『ふふ』


(また何か奇妙なご思案が……)


秘書官は、ごく小さく肩を落とした。


総督オトは、彼に詳細を伝えた。



総督府の中庭。

たいまつが炎を揺らし、焼いた肉の匂いと葡萄酒の甘い香りが満ちる。

集められた護衛隊の兵たちは、見たことも無い豪華な会場に驚く。


「こ、これ全部、俺たちが食っていいのか?」


焼き上がった肉が盛られ、

樽の栓が抜けるたび、どよめきが起こる。


「飲みきれないぞ……飲み放題だ!」


楽士の素朴な音楽が、隊員たちの気分を高める。

隊長が叫ぶ。


「総督閣下からの、日頃の慰労だ。存分に飲め!」


その一言で、歓声とともに宴が始まる。


用意した料理や酒は、

たしかにルシタニアでは豪華に思えるだろう。

ローマの夜会なら、葡萄酒一樽にも満たない。

それでこれだけの笑顔が買えるなら、安いものだ。


「飲んでるかー」

「飲んでるぞう」

「最高だー」

「俺、あの総督好きー」

「俺もぉ」


酔いが回り、空気が緩んだその時――


ドン、ドン、ドンッ。


「総督閣下、ご到着!」


ふいを突かれた一同は、とんでもなく驚いた。


「はああ!?」

「嘘だろ?」

「俺たちみたいな宴に?」

「閣下がわざわざ来てくださる?」


兵たちは酔いも吹き飛ばして慌てふためいた。

長官は冷や汗を流しながら


(聞いてない!)


と叫びたくなった。


「ああ、ヤバイ、なんか立てない」

「ほらマリウス、しっかり立て、整列だ」


たいまつの火を背に、階段の上、総督が現れる。

太鼓が止まり、空気が凍りつく。


宴の喧噪が、刃物のように静まり返った。

誰も、次に何が起きるのかを想像できなかった。


「整列!」


転びかけながら必死に姿勢を正す兵たち――

総督は、列の前をゆっくり歩き、ひとりひとりの顔を見る。

酒で赤い兵たちの顔は、必死に我を保とうと緊張した。


最奥、長官の前で足を止める。


「閣下、お越しいただき光栄であります!

 皆、総督様に心より感謝しております!」


「ありがとうございます!」


兵たちは、わずかに乱れながらも口を揃えた。


総督は小さく頷き――

静かに兵を見渡しながら、よく通る声で言った。


『――ところで長官。

 2番隊のマリウスはどこだね』


マリウスの背筋に冷たい電流が走る。


「マリウス、前へ!」


酒気を吹き飛ばし、前へ飛び出すマリウス。


総督は歩み寄り。真正面から静かに見つめる――

やがて、鋭く、しかし誠実な声で言った。


『お前が、マリウスか』


「は、はい!」


『……隊で一番の怪力と聞いたが……なるほど』


マリウスは思わず喉を鳴らした。

総督の眼は、冗談ではなく “評価している眼” だった。


総督オトはふっと口元をゆるめ、

マリウスの胸を2度、拳で叩く。


『鍛えてあるな。見事な体だ、マリウス』


マリウスの心臓が跳ねた。

(総督閣下が……俺の名を呼んで……褒めてくださった!)


どよめきが広がる。

総督オトは次々に名を呼んだ。


「弓のクィントゥスはどこだ?」

「剣のマルケッルスは?」

「足の速いスカエウォラとサルウィウスは?」


マリウスの時と同じく、短く的確に名を呼んで褒める。


それは軍人にとって何よりの栄誉――

兵たちの胸には酔いとは別の熱が満ちた。


『クィントゥス。お前の弓を見せてくれ。腕前を見たい』


急遽、弓と的が用意され、クィントゥスが進み出る。

腕の筋肉が膨らみ、ギリギリと狙いを定める。


ひゅっ


放たれた矢が、見事に的の中心を射抜いた!


「よし!」

「おおおおお!!」


歓声が爆発し、クィントゥスは真っ赤な笑顔で周囲に応えた。


(腕だけじゃない。仲間の視線を、すでに背負っているな)


総督オトは兵たちの誇りを確認するように見回すと、

大きく声を張った。


『クィントゥス、見事だった。

 皆、まだまだ大いに楽しんでくれ!

 私は君たちを――心から頼りに思っている!』


一瞬の静寂。

次の瞬間、中庭は震えるほどの歓声に包まれた。

クィントゥスは感激のあまり、歯を食いしばったまま声が詰まった


総督オトは微笑み、ゆっくりと去っていく。


(明日になれば、彼らは自慢するだろう。……これでいい)



兵たちの緊張が、一気に解けた。

兵たちは呆然と立ち尽くし、やがて誰かがぽつりと言った。


「……俺、めちゃめちゃ感動した」

「俺も」

「俺の力を認めてくださった……」

「クィントゥス、お前すげぇよ!」

「総督様は、本当に俺たちを“見ている”」

「俺たちの総督様だ!!」


その夜、中庭は歓声と笑いで満ちた。

そして後に――

この夜のことを、兵たちは何度も語ることになる。


「オト総督は、俺たちの誇りだった」


そう語り始める彼らの話は、

何年経っても色あせることはなかった。


ただ、その語りに帯びる温度は、

ある時を境として、大きく変わることになる。




3.

総督府の奥。


厚い扉が、低い音を立てて閉じられた。

外のざわめきは、そこで断ち切られる。


高い位置に設けられた窓から、細い光が落ちていた。

部屋の中央には簡素な机と椅子が二つ。

飾り気はない。

必要なものだけが整然と置かれている。


――新任総督の執務室として、いかにも相応しい。


市議マルクスは、机の前に立ったまま、総督を見た。

表情を崩さぬよう努めながら、その沈黙の質を測っている。


(若い。だが……軽くはない)


賄賂を渡すことに、ためらいはなかった。

それはこの街では挨拶と同じだ。

問題は、相手がそれをどう受け取るか――


「総督閣下」


定型句のように、穏やかな声を選ぶ。


「ご着任、まことにおめでとうございます。  

 本日はご挨拶の機会を頂き、感謝しております」


『……用件を』


総督は椅子に腰掛けたまま、短く答えた。

余分な感情はない。

拒絶でも、催促でもない。

だが、遠回りを許さぬ声だった。


市議マルクスは一拍だけ間を置き、懐に手を入れる。

革袋が机の上に、ずしりと置かれた。

金属が触れ合う鈍い音が、静かな部屋に落ちる。


「総督閣下のご着任を歓迎いたします、

 ほんのささやかな“気持ち”でございます」


"ささやか"という表現にあわない量であることは明らかだ。

市議マルクスは、理由を言わない。

言う必要がないことを、彼は知っていた。


総督は革袋に視線を落としたまま、

すぐには手を伸ばさない。


(……測られているな)


市議マルクスはそう理解した。

この沈黙は拒絶ではない。

新任総督が、この街の空気を量っているだけだ。


やがて総督は、静かに革袋を手に取った。

中身を確かめる様子はなく、ただ重さだけを確かめるように。

そして、机の脇へ置く。


『確かに、受け取った』


それ以上の言葉はなかった。


(最初の一手は、これでいい)


市議マルクスはそう判断した。 安堵ではない。

ただ、関係が結ばれたという事実の確認だ。


『用件は以上か?』


「はい。今後とも、何卒よしなに」


深く頭を下げ、

市議は過不足なく礼を済ませると、部屋を辞した。


扉が閉じる。

静寂が、元の位置に戻った。

一人残された総督オトは、机の脇の革袋に視線を落とした。


(――なるほど。歓迎とは、こういう形か。さて……)」


総督オトは革袋から視線を外さず、思考を巡らせていた。



数日後――

ルシタニア首府の市議会は、朝からざわめいていた。

半円形の石段に市議たちが並び、

中央の低い壇上に、総督が立つ。


形式的な挨拶が終わり、議事が進もうとした、その時。


総督は、書板を一枚手に取り、淡々と口を開いた。


『議題に入る前に、一つ報告がある』


空気がわずかに引き締まる。


『市議のマルクス殿から――

 次のような"寄付"があった』


総督は数字を読み上げる。

受け取った金額と同じ数字だ。

そしてそれは、決して小さな額ではなかった。


ざわ、と小さなどよめき。

市議マルクスは、一瞬だけ固まった。


(……え?あれは賄賂だったんだが……)



『この寄付は道路の整備に充てられる』

『民も喜ぶだろう』

『個人資産を差し出すとは、マルクス殿、立派な行いである』

『工事完了後は、その功績を称え、名を刻んだ碑を建てよう』


一拍。


市議席のあちこちで、目の色が変わる。


(……いいなあ、マルクス)

(名が残るのか!)

(道路に名前が?)

(ちくしょう、あいつ上手くやりやがって)


(悪くない……いやむしろ、かなり、いい!)

市議マルクスは、喉を鳴らしながら立ち上がった。


「こ、光栄でございます、総督閣下……」


皆が気づく。

彼は総督へ賄賂を渡したのだ。

総督はそれを寄付に変換し、名誉となって返って来た。


 その名誉は、

 石に刻まれ、道となり、橋となり、水となって残る。

 誰もが日々目にし、感謝する。

 家族や奴隷たちは、主人を誇りに思うだろう。


市議たちは互いに視線を交わし、同じ考えに行き着いた。

主な有力者たちが、慌てたように声を上げる。


「で、では――

 私も、橋の修繕費の足しとして、些少ながら寄付を……

 もし可能でしたら、私の名も……」


「水道の改修に、私も」


「公衆浴場の拡張に」


「貯水池の整備に充てていただければ!」


声が重なる。

会堂が、ざわめきに包まれた。


総督オトは、騒ぎを制するでもなく、

ただ静かに頷き、記録官に目を向け、淡々と告げる。


『――すべて聴取し、記録せよ』


市議たちの胸中は、すでに一致していた。


(悪い話じゃない)

(むしろ、うまみが大きい)

(次は、いくら出そうか)

(あいつにだけは、名を譲れない!)


総督オトは、そのざわめきを聞きながら、

表情ひとつ変えなかった。


(――これでいい)


賄賂はインフラに姿を変え、残る。

こうしてルシタニアの街々は、

静かに、しかし確実に整えられていった。


金をほとんど使うことなく、総督オトは兵の心を掌握し、

市議たちには自ら進んで金を差し出させ、

その資金で街のインフラを整えていった。


彼が用いたのは、剣でも財貨でもない。

総督としての言葉と態度、

そして――目先の欲に走らない、揺るぎない誠実さだった。




4.

ルシタニア総督オトは、長年にわたり属州を治めてきた。

それはローマ宮廷から遠ざけるための罰とも言えたが、

同時に、一国を任されるだけの信頼を示す贈り物でもあった。


財政は安定し、人材も集まっていた。

そして何より彼は

――中央ローマの空気の変化を、誰よりも早く嗅ぎ取っていた。


ネロ政権は、もはや持たない。

反乱は各地で芽吹き、風は確実に逆向きに吹いている。


ローマは、次の皇帝を必要とする。


その最有力候補が、隣州ヒスパニア総督ガルバであった。


ただし――


(私が支援すれば、だが)


老齢のガルバが、長く帝位に留まることはない。

彼には後継となる子もいない。

玉座はいずれ、空く。


(その時、座るのは――私だ)


胸の奥に走ったわずかな高揚を、オトは即座に押し殺した。

感情は表に出さない。

空気を読み、懐に入り込む。

それは、彼がこれまで幾度となく成功させてきた処世術だった。


総督オトは、総督ガルバの反乱に全面協力を申し出た。

(そのため、もともとあった借金は、さらに膨らんだ。

 ――だが、後戻りはできなかった)



総督ガルバは古い時代の人間だった。

名門の出、共和政の残り香の中で育ち、

質素を尊び、規律を信じ、

人を甘やかすことを知らない。


それは美徳であり、同時に、時代遅れの欠点でもあった。


元老院は、ガルバを正式な皇帝として承認した。

彼はローマへ凱旋し、歓声の中で宮廷に入った。

その陰で、先帝ネロはすでに逃亡先で自害していた。


ローマの喧騒が収まるころ、

オトは早くも違和感を覚え始めていた。



即位祝いの下賜金――ドナティウムは、出されなかった。


「兵を金で買うことはしない」


それがガルバ帝の信念だった。

ガルバの参謀ウィニウスが、その言葉を盾にオトを退ける。


ローマの宮廷で、オトは悟った。

このガルバ政権では、自分は主役ではない。

そして、参謀ウィニウスという男が、露骨に自分を排除し始めていることも。


(やりにくい……)


書状だけでは見えなかった存在が、

今、確かにオトの前に立ち塞がっていた。



ガルバ帝は失策を重ねた。


 兵士の待遇を引き下げ、

 民衆への負担を増やし、

 娯楽を削り、

 かつて先帝ネロがばらまいた金を、無慈悲に回収した。


ローマの財政は、そうせざるを得ない状況だった。

――だが、誰もそれを望んではいなかった。


極めつけの失策は、

参謀ウィニウスを執政官に据えたことだ。


 側近を、ローマの顔に据えた。


それは「皇帝は操り人形だ」と宣言するに等しかった。


兵も、市民も、貴族も、騎士も、属州総督たちも――

怒る者と、見限る者とが、同時に増えていった。


『このままでは、ガルバ政権は崩壊する、私の計画も終わる』


オトは必死だった。

私財を投げ打ち、借金を重ね、

近衛兵たちの不満をなだめ続けた。


(今は耐えろ。必ず、私がなんとかする)


だが地方では、もう抑えが効かなかった。

ゲルマニア方面軍が反乱を起こしたのだ。


(今を逃せば、もう手遅れだ)


オトはガルバ帝に直談判を試みる。

だが、参謀ウィニウスは彼を遮り、冷たく告げた。


――ガルバ帝は、ピソを養子とし、帝位の後継者に定めた。


世界の色が、変わった。


オトは深く息を吸い、穏やかに微笑んだ。

その仮面は、完璧だった。




5.

血に染まった宮廷。

倒れているのは、皇帝ガルバ、それと参謀ウィニウス。


オトは静かに息を吐いた。


(こうするしか、なかった)


クーデターは、かなりの綱渡りだったが、

拍子抜けするほど、抵抗はなかった。


オトは皇帝となった。


彼は“空気を読む皇帝”として振る舞った。

先帝ガルバが「正しさ」を選んだところで、

彼は「受け入れられる形」を選んだのだ。


ローマに、束の間の安堵がもたらされた。

人々は思った。

このまま、平和が戻るのではないか、と。


だが――

一つだけ、残された大きな問題があった。


ゲルマニア方面軍の反乱だ。



軍の将としてはそれなりだった司令官ウィテッリウスを皇帝に担ぎ、

ゲルマニア方面軍はローマへ進軍した。


オト帝は迎え撃った。

そして、敗れた。


最前線で鍛えられたゲルマニア方面軍の軍勢に、

即席のローマ軍が勝てるはずもなかった。


オト帝は考え続け、

そして、結論に至る。


(もう、内戦は終わりにしよう)


ローマ全体の空気は、彼にこう叫んでいる。


――もうこれ以上、ローマ人同士で殺し合いたくない!


オト帝は、天幕の外に立つ兵たちの気配を思い浮かべた。

彼らは、戦場ではなく、彼の判断を待っている。


「体制を立て直しましょう、陛下!」


オト帝は首を横に振った。


『私一人が死ねば、すべては収まる』


彼はナイフを手に取った。


『ウィテッリウスは無能だが、

 控えめで、人に流されやすい。

 だが……それでいい』


(あの男の治世に、私の名は不要だ)


そして、微笑んだ。


『さようなら』


オト帝は自害した。


その死は、あまりにも潔く、

あまりにも静かだった。


こうして、オト帝の治世は三ヶ月で終わった。


だがローマは、

その短い皇帝を、忘れなかった。




おわり。



ネロ帝の遊び友だちだった

空気読みの皇帝オトは、

その能力ゆえに、あまりにも潔い最期を選んだのでした。


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