8.ガルバの章
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マイナーな皇帝に突入するギャグマ・・・ギャグローマ日和
前章で奥さんを奪われたオトが
再登場します。
ガルバの章
1.
砂埃にまみれた男が庭へ駆け込んできた。
胸を大きく上下させ、馬の鼻孔からは白い蒸気が吹き出している。
その様子だけで、ローマの情勢がもはや待ったなしであることは知れた。
「……ガルバ様を、新しき皇帝に、是非!」
男は、ガリアで反乱を起こした総督の使いの者だった。
思わず息が止まる。
私を?
七十を過ぎた、この私を?
いや、それよりも――正当性がない。
皇帝位とは法が、元老院が、ローマが認めてこそだ。
勝手に名乗り出るなど許されぬ。
だが、ヤツらの掲げる “ローマを正しき道へ戻す” という志だけは理解できる。
今のローマは腐敗し、誰かが立ち上がらねば破滅する。
『承った。皇帝にはならぬが……
だがワシも軍を整え、ローマへ向かおう』
◆
使者が去ると、朝の冷気が庭いっぱいに満ちた。
ローマから、はるか西に離れた地、ヒスパニア
その空気は澄みわたり、遠くでは羊飼いの笛が細く揺れている。
中央ローマの混乱が、まるで別世界の出来事のようだった。
役人の不正は即座に断ち切る。
兵の規律も厳しく保つ。
民からの「このヒスパニアの地だけは安心だな」という声が届いた時、
私はようやく、自分の統治が実を結んだと感じたものだった。
だが、ローマ――。
皇帝ネロは詩を詠み、歌い、政務を忘れ、
宮廷はご機嫌取りばかりと聞く。
嘆かわしい。
このまま捨て置くことなどできぬ、と考えていた。
◆
『皇帝、か……。
老いた身には大きすぎる冠よ。
ワシはただ、新しき誰かの橋渡しでよい』
そう言ったとき、胸の奥で小さな炎が灯った。
50年以上も前に、かのアウグストゥス様が
若き日の私に告げた言葉、
――ローマの未来は、汝ら若者の双肩にかかっている
その大いなる期待に、いまだ報い得てはいない。
参謀ウィニウスが側に立ち、軽く会釈をする。
「閣下。いかがなさいますか?」
目を閉じた。
安寧に甘えるか、腐敗したローマを正すか。
答えは、最初から決まっていた。
『――行こう。ローマが、ワシらを呼んでおる』
震えた声は、恐怖ではなく、覚悟の重さだった。
2.
ガルバ動く――!
その報がローマに届いた瞬間、議場は石を打つ雷鳴のようにざわめいた。
白い大理石の床に、黒い革靴の音が一斉に鳴り響き、
反響が天井のアーチを震わせる。
議員たちは椅子を押しのけて立ち上がり、互いの顔を探るように視線を交わした。
「ヒスパニアの裏切り者ガルバが、軍を率いてローマへ向かっている!」
その叫びが天井に跳ね返った刹那、ざわめきが爆ぜた。
「このままガルバを “国家の敵” として扱ってよいのか」
「……そもそも、本当に彼は、国家の敵なのか」
「いや……国家の敵は……別にいるのではないか」
声は皆かすれていた。
言いたいことは同じなのに、誰も最初の一歩を踏み出せない。
──ネロ帝。
義弟ブリタンニクスを死に追いやり、
母アグリッピナを殺し、
妻オクタウィアまで処刑した。
卑劣な佞臣ティゲッリヌスが権勢を振るい、
反対者は次々に追放、あるいは処刑。
ローマ大火の噂も、いまだ市民の口から離れない。
その名を思うだけで、議場は暗く沈んだ。
やがて、老議員がひとり、震える声で呟いた。
「……国家の敵は、ネロ帝ではないのか?」
時が止まったような静寂。
呼吸の音さえ、議場から消えた。
しかし次の瞬間、静寂の氷が砕け散るように、声が連鎖した。
「そ、そうだ」
「ネロ帝こそ国家の敵だ」
「ローマの混乱はすべて皇帝に由来する」
「歌に耽り、政務を捨てた皇帝など、あってよいものか」
「よいはずがない」
「ガルバ殿は、ローマを救うために立ち上がられたのだ!」
堰を切ったように声があふれた。
実のところ多くの議員は、元老院に来る前から結論を胸に秘めていた。
ただ、誰が最初の石を投げるかを恐れていただけだ。
「ネロ、討つべし」
その叫びは、長く停滞していた空気を一気に押し流した。
ヒスパニアの総督、老将ガルバ――。
家柄、人柄、実績、統率力。
いずれを取っても皇帝に相応しい。
「厳しいが、私腹を肥やさぬ」
「冷たいが、嘘をつかぬ」
「怖いが、背中は信用できる」
そんな声が議場のあちこちで上がる。
かつてアウグストゥスも、ティベリウスも、クラウディウスも、
揃ってガルバを「優れた男」と評した。
歴代の名帝が認めた確かな人物。
いま、元老院の期待は大きく膨れ上がっていた。
久しく失われていた――“正しきローマ”の姿を、
皆が思い出し始めていた。
3.
「ネロ帝、自死!」
ローマからの急報が、行軍中のガルバ陣営へ届いた。
荒野を渡る風の音が、一瞬だけ止まった気がした。
続いて、さらに早馬が砂を蹴って駆けつける。
「元老院は、ガルバ様を正式に皇帝としてお迎えする旨、
決議いたしました」
えっ……?
私を、皇帝に?
ローマにもまだ着いておらぬというのに。
(皇帝になる気など、最初から無かったんじゃがのう……)
(……こうなっては、もう逃げ道はあるまい)
老いた胸の奥で、何かがきしりと鳴った。
『承った。皇帝としてローマに入る、と伝えてくれ』
「はっ! お待ち申し上げております、陛下」
周囲がざわめき、やがて大きな歓声へと変わった。
兵たちは旗を高く掲げ、若い士官は涙ぐみ、
老臣でさえ目頭を押さえていた。
ただひとり、ガルバのみが黙していた。
その瞳の奥では、正しきローマへの道筋が
刻一刻と組み換えられていく。
――皇帝として、何を捨て、何を残すべきか。
――誰を信じ、誰を切らねばならぬのか。
「やりましたな、ガルバ殿、いえ、陛下」
『オトか。お前には、世話になった』
ルシタニアの総督オト。
ガルバの反乱を真っ先に支持し、金と人脈を惜しみなく投じた男だった。
今回の帝位獲得の最功労者と言えるだろう
"世話になった"
その一言は、事実であり、重い負債でもあった。
オトの貢献はあまりに大きい。
だが、そのオトが求めるものは、さらに大きなものとなるであろう……
夜の帳が落ちると、ランプの火が小さく揺れた。
ガルバは自らの影を見つめ、しばし立ち尽くす。
数刻前より、その影はひどく長く、そして重い。
……老いが胸に痛い。
だが、この老いを口実に背を向けることだけは、できぬ。
やがて、ガルバ軍はローマへ到着した。
◆
「新皇帝ばんざーい! ガルバ帝ばんざーい!」
無数の声がローマの石畳を震わせた。
市民も、元老院も、兵士も。
誰もが、新たな皇帝に期待を爆発させていた。
花が降り注ぎ、香が焚かれ、
老将の肩へと次々に手が伸びた。
そのどれもが、純粋な“希望”の重みだった。
だが、その希望の波の中に、
ほんのわずか――数えるほどの顔が、
口では万歳を唱えながら、瞳だけが笑っていなかった。
(……おるな。やはり、ああいう目をする者が)
暗い目は静かに品定めしていた。
「この老人は、本当に帝国を導けるのか」と。
ガルバは息を整えた。
だが、ひるむつもりは毛頭ない。
よし。
ともかく、皇帝となった以上は――
私が思い描くローマを実現する!
あの頃の……アウグストゥス様が治めた、
古き良きローマの姿を。
ガルバは胸の奥で熱く誓った。
だが、その足元には、
皇帝の座に就いた者が決して見落としてはならぬ
“危うい影”が、静かに伸びつつあった。
4.
「兵が、未だにボーナスを要求しております」
参謀ウィニウスが、慎重に言葉を選びながら進言した。
先帝ネロの旧臣を一掃し、新しい体制をスタートさせた矢先の兵たちの不満。
『ああ、わかっている。だがやはり、ボーナスは出さぬ。不要だ』
ガルバ帝はきっぱりと言い切った。
ローマでは、皇帝即位時に兵や市民へ
“ボーナス(即位恩賞や寄付)” を出すのが慣例となっていた。
『そもそも、法のどこにもそのような規定は無い』
「確かに……。私もそう思います」
『各地の反乱、ローマ大火後の復興、食料不足、
前皇帝の浪費、軍の維持費……今は1セステルティウスでも惜しい』
「承知しました。御意のままに」
◆
しかし、兵たちの反応は――
「は? ボーナスなし!?」
「嘘だろ、あのケチで有名なティベリウス帝でさえ出したのに」
「話が違うだろう」
「なんだよちくしょう」
「期待外れの老いぼれだ!」
兵舎のあちこちで怒号が上がり、
槍の石突きで地面を叩く音が夜通し続いた。
「兵たちの不満が募っております」
参謀ウィニウスが重く告げる。
『構わぬ。
今までとは違うのだぞ、と示す良い機会じゃ』
ガルバは迷いなく言った。
その頑固さは、若い頃からの清廉な信念そのものだった。
『ところでウィニウス。
お前にはこれからもワシの片腕となって、大いに働いてもらう。
……そこでお前を、もう一人の ”執政官” に任命する』
「……! ありがたき幸せにございます」
だが、この決断こそ――決定的な悪手であった。
◆
「自分の腹心を執政官に……?」
「なんという暴挙だ! 完全に独裁を狙っている」
「許されることではない」
「ガルバ帝は、人を見る目がないのか?」
「これでは未来が思いやられる」
ローマ帝国において執政官とは、
政権の威信と理念を体現する最高位の名誉職であり、
名門の出自を誇る貴族、戦で名を馳せた将軍、有力な州総督――
まさに、帝国の顔として選び抜かれた者たちが座する席であった。
そこを私的側近で埋める――
それだけで、新皇帝への信頼は大きく損なわれた。
元老院
「ガルバ政権は閉じている。我々は排除される」
各州総督
「皇帝は周囲を仲間内で固めておる。信用ならぬ」
軍
「側近政治の匂いだ……ネロ時代の再来か?」
不信は、音もなく、しかし確実に広がっていく。
当のガルバ帝は――
「さあ、ローマを立て直し、古き良き時代を取り戻すぞ!」
そう信じきっていた。
真面目で、正直で、清廉な“老人の理想”を、ただまっすぐに。
だが、その足元では、
政権崩壊へ向かう地響きが静かに鳴り始めていた。
5.
「兵たちの不満が、ますます大きくなっております」
参謀ウィニウスが、重い口調で告げた。
『まだボーナスのことを言っておるのか』
「はい。他にもありますが……やはり一番は金のことです」
『ワシは法的に何も間違っておらぬ。
不平を持つほうが間違っておるということじゃ』
ガルバ帝は、頑固な石のように言い切った。
「しかし、このままでは……。何か手を打たねばなりません」
参謀ウィニウスの声音には、焦りというより “政治的警戒” が混じっていた。
ガルバ帝は、しばし考える。
兵たちの不満を柔らかく受け止め、うまく吸収できる人物――
“耳”として働く者を、近衛長官に据えれば良いのではないか。
『そうじゃ。ラコを近衛長官とし、やつに兵の不満を解消させよう』
「……え? ラコを、でありますか?」
参謀ウィニウスの眉が、ほんのわずかに跳ね上がった。
「率直に申し上げれば、あれほど頼りない男は他におりませぬ。
強い統率力を要する役目には不適かと――」
『今は厳しく統制するより、柔らかく対応する人材が必要じゃ。
ラコの性格ならば、むしろ適任じゃろう』
(柔らかい、ではなく…… “柔らかすぎる” のだが)
参謀ウィニウスは内心でため息をついた。
こうして、新しい近衛長官が決まった。
『頼むぞ、ラコ。兵たちの不満を早めに解消せよ。
これは規律の問題じゃ。甘やかせば軍は堕落する』
「……は、はい。お任せを」
ラコ長官は汗をにじませながらぎこちなく頭を下げた。
その様子を横目で見て、参謀ウィニウスは薄く、冷たい笑みを浮かべた。
(うまくやるがいい、近衛長官ラコ。
失敗すればお前の責にできる。
そして皇帝陛下の怒りも――お前が受けることになる)
◆
近衛長官ラコは兵舎へ向かった。
兵たちは彼を見るなり、待ち構えていたかのように声を張り上げた。
「長官、ボーナスは本当に無いんですか?」
「俺たちの待遇、前より悪くなっているじゃないか」
「遠征があるって噂もあるんですよ?どう士気を保てって言うんですか」
「あの年寄り皇帝、現場の"今"が見えてないんじゃあないか?」
「ネロ帝の頃に比べて、統制が厳しすぎる!」
ラコ長官は両手を慌てて振った。
「ま、まあまあ……。そんなに怒らず……ね、
その…、皇帝陛下が決められたことだし……」
「じゃあ、長官から言ってくださいよ “兵の忠誠には金がいる”って」
「現場の声を届けるのが長官の務めでしょう」
「あんたが言えば、皇帝も考えるかもしれないだろう」
「そ、そんな……ええと、とにかく落ち着いて……」
ラコ長官の声は掻き消され、
兵たちの怒声はさらに荒く、熱を増した。
「落ち着けるか! 俺たちは命を張ってるんだぞ」
「ガルバ陛下は俺たちの犠牲を分かっていない」
「ウィニウスやあの側近どもは、懐を温めてるくせに」
押し寄せる怒気に、ラコ長官は言葉を失い、ただ後ずさるだけだった。
兵たちの怒号は、もはや “暴発寸前の空気” を孕んでいた。
その様子を遠くの影から見ていた参謀ウィニウスは、
わざとらしく肩をすくめた。
(……やれやれ。やはり役目は果たせんか。
ならば兵の怒りは、ラコに向かせておく方が都合がよい。
皇帝陛下の耳に届く前に、ここで腐らせてしまえ)
冬のローマの冷えた空気が震えた。
その震えは、確かに――
政権崩壊へと続く“予兆”の音色を帯びていた。
6.
『どうにも国庫が足りぬ……』
今日も、理想のローマを思い描きながら、
ガルバ帝は眉間に深い皺を寄せていた。
「支出は増えるばかりです。それに対し、税収が安定しません」
参謀ウィニウスは、いつもの冷静さで言葉を継いだ。
「原因は明白です。属州も市も、徴税が適切に行われておりません。
ネロ帝の時代、納める額をごまかす者があまりに増えました。
それが “慣例” になってしまったのです」
『そうじゃのう……。ではウィニウスよ、徴税を厳格化せよ。
古き良き秩序を取り戻すのじゃ』
「承知しました。すぐに命令を出します。
――それと、陛下」
『なんじゃ?』
「ローマへの食糧供給も不安定です。
一部の供給者が “代金の支払い遅延” を恐れ、出荷を渋っております」
『ふむ……税収さえ安定すれば、この問題も解決に向かうじゃろう。
頼んだぞ、ウィニウス』
「はっ。お任せを」
参謀ウィニウスは恭しく頭を下げる。
その瞳の奥には、何かひどく冷ややかな光が宿っていた。
◆
街では、徴税強化の布告が読み上げられるたびに、
民衆の怒りが渦のように広がっていた。
「だから!払えないもんは払えないんだよ」
「陛下のお決めになったことだ」
「こっちは食うので精いっぱいだぞ。
“ちゃんと” 払ったら生活なんか成り立たねえ」
「税が安定すれば食料価格も下がる。暮らしだって……」
「まずメシをまともに食わせろってんだ」
「そのメシを整えるのに、税がいるのだ」
「税を払うためにメシを抜けってか? 死ぬわ!」
怒号は一段と激しさを増し、徴税官たちには石が飛び、
護衛に守られながら逃げ帰る者が続出した。
ローマの冬風に、民衆の荒い息と罵声が混ざり、
街はどこか殺気を帯び始めていた。
◆
「陛下、民衆や属州の不満が高まっております」
『国庫はどうじゃ?』
「……回復には、まだ遠く及びませぬ」
『困ったのう……』
ガルバ帝は額に手を添えた。
その指先に、年齢以上の疲れがにじむ。
「それから――兵たちの不満も続いております」
『ラコ長官はどうしておる?』
「最近は兵舎へ足を運ぶことすら難しいようで……。
囲まれるのが怖いのか、涙目で過ごしておるとの噂です。
“長官が逃げ回っている” などと嘲笑され……」
『そうか……』
ガルバ帝は静かに瞼を閉じた。
良かれと思って任命した柔和な近衛長官は、
結果として兵の怒りを吸収するどころか、
“怒りの捌け口” として消費されているだけだった。
まっすぐな理想が、現実の重さを跳ね返せていない。
ガルバ帝は深く息を吐いた。
――理想のローマに一歩近づこうとするほど、
現実のローマは二歩、遠ざかっていく。
その感覚だけが、老いた胸にじわりと広がっていった。
7.
「ライン方面軍が、陛下への忠誠を拒否しているとの噂が」
『なんだって!?』
「けしからぬことです」
ガルバ帝は思わず顔をゆがめたが、
胸の奥では別の苦みがじわりと広がった。
――自分もまた、かつてのネロ帝に “忠誠拒否” をした側だった。
その事実が、強く責め立てる言葉を喉につかえさせた。
『……本格的な反乱となる前に、なんとかせねばならぬのう』
「新しい司令官を送り、統制を刷新してはいかがでしょう」
『そうじゃのう……。
しかし、あまりに優秀な将軍を送れば……
ライン方面軍をまとめ上げ、ローマへ攻め込んで来るやもしれん』
ガルバ帝は眉を寄せる。
自身の老い、国庫の逼迫、増える敵。
そのすべてが、判断を慎重…というより “弱気” にしつつあった。
「では、いかがなさいますか?」
少し黙し、ガルバ帝は拳をぽんと鳴らした。
『能力は “そこそこ” で、家柄が良く、兵を刺激せぬ男……
ウィテッリウスが良い。あれなら無難に率いるだろう』
◆
「お呼びですかぁ? 皇帝陛下ぁ」
『ああ。お前にライン方面軍の司令官となってもらう』
「ええっ? ぼ、僕がですかぁ?
あ、ありがとうございますぅ……」
『頼んだぞ。軍団をうまく収めよ』
「はぁい、行ってきまぁす」
“そこそこ” どころか “ふにゃふにゃ” にも見える口調に、
重臣たちは誰もが顔を見合わせたが、
ガルバ帝だけは安心したようにうなずいた。
――刺激しない人物。
――反乱を起こさない人物。
――無難な人物。
そんな “弱い基準” だけで選ばれた人事だった。
◆
ゲルマニア到着後。
「やあライン方面軍のみんなぁ。
僕が新司令官のウィテッリウスだよ。よろしくねぇ」
「司令官殿! 兵たちはガルバ帝への不満で爆発寸前です!」
「ええ? そ、そうなの? いけないなぁ……
ちょっと話、聞いてくるよぉ」
◆
「新司令官どの、聞いてください!」
兵たちが怒涛の勢いで不満をぶちまけ始めた。
われらは一年中、凍える森林で戦っている
その対価が “賃金削減” ?
ネロ帝の方がまだ気前が良かった
ガルバ帝は都から命令するばかりだ
我らの現実を何ひとつ知らぬ
古い規律を押しつけるな
命を張る兵に正当な報酬を出せ
次々押し寄せる怒りに、ウィテッリウス司令官は汗をだらだら流した。
「え、ええと……君たち、皇帝陛下の言うことには従わないと……
いけないよぉ……?」
「納得いきません」
「ローマは我々を無視した」
「そ、そこをなんとか……。
ぼ、ボーナスなら……ぼ、僕が出すから……
少しだけど……」
ギラァァァン!
兵たちの目が、獣のように輝いた。
「おい! 新司令官殿がボーナスをくれるぞ」
「理解ある上官だ」
「ガルバ帝よりよほど皇帝向きでは?」
「……皇帝向き?」
ウィテッリウス司令官の膝がかくかく震えた。
「そうだ、 ウィテッリウス殿が皇帝ならきっと」
「もっとボーナスがもらえるぞ!」
「我らのウィテッリウス様、
新しい皇帝になってください」
「え? え? な、何言ってるのさぁ、
皇帝はガルバさんでしょう?」
「我々は、あなたに忠誠を誓います」
「ローマを目指すぞ」
「武器を取れ!」
「や、やめてぇぇ!ガルバさんに叱られる、
ちょっと、武器はやめようよぉぉ」
「ガルバを倒せーガルバを倒せー」
「反乱だー反乱だー」
「ウィテッリウス帝ばんざーい」
「ぼ、僕そんなつもりじゃ……ないのにぃ……」
◆
「大変です
ライン方面軍がウィテッリウス司令官を新皇帝として担ぎ上げ、
ついにはっきりと、反乱の意志を示しました!」
『な、なんだってーーーっ!』
ガルバ帝は玉座でよろめいた。
――またしても裏目の人事。
慎重なつもりが、保守的なつもりが、
結果として “最悪の選択” ばかりを呼び寄せてしまう。
老皇帝の胸に、どうしようもない焦燥だけが渦巻いた。
8.
『困ったのう……ついに反乱が起きてしまったか』
ガルバ帝は、深く、重い息を落とした。
「近衛兵はじめ帝国軍は、まだボーナスの支払いを要求しております。
こうなっては、支払ってしまったほうがよろしいのでは?」
『いや、それは法的根拠の無いものだ。
要求する側が間違っておる。
正しくないものは、何があっても認められぬ』
──この“正しさ”が、結局は彼の命を奪うことになる……
「ところで、オト殿が最近……
“次の皇帝は私だ” と言わんばかりの振る舞いをしているようです」
『ああ、オトか。
ヒスパニアのころからワシによく協力してくれた。
金も借りとるしのう……』
「では、後継者はオトに?」
『いや。
ネロ帝の悪友だったあの放蕩者には、
ワシの理想とするローマは築けぬじゃろう』
「しかし、このまま放置すれば……」
『そうじゃのう……思えば、カリグラ帝以来、
皇帝は皆、暗殺か突然死ばかりじゃった。
もしかしたらワシも、いつどうなるか……』
老いが、静かに、確実に背中を押していた。
『今のうちに、後継者をはっきりさせておくのが良いかもしれぬな。
おい、ピソを呼べ。
あやつを養子とし、ワシの後継者とする』
ルキウス・カルプルニウス・ピソ・リキニアヌス――
若く、質実で、清廉。
ガルバ帝の理想を継ぐのに最もふさわしい青年と見込まれた。
◆
「ガルバ帝の後継者が……ピソに決まった、か。ほう──」
オトは表向き、静かにその報せを受け止めた。
眉ひとつ動かさず、祝意すら口にしてみせた。
しかし、内心は違う。
──裏切られた。
道理からも義理からも、次の皇帝は自分が指名されるもの、と考えていた。
あの時、全てを賭けた我が忠誠は、ただの道具にすぎなかったのか……
──だが、声を荒げるのは愚か者のすることだ。
彼は騒がない。
問いただすことも、しない。
ただ静かに、計画だけを動かした。
不満を募らせていた近衛兵団へ、静かに歩み寄る。
小袋に詰めた金貨が、無言の説得として兵たちに渡っていく。
“表の沈黙”と“裏の行動”。
オトはすでに、次の一手へ歩を進めていた。
陛下、何度も忠告したはずです。
人の心を、軽視してはならぬ、と──
◆
「お逃げください!近衛兵たちが!」
『!』
老帝ガルバは、
その一言で悟る。
クーデターだ!
「逃げることも、急ぐことも、このガルバにはふさわしくない」
彼は玉座に座ったまま、刺客を待ち構えた。
やがて、金で買われた近衛兵団が宮殿へ雪崩れ込んできた。
それでも彼は、逃げようともしない。
ガルバ帝は静かに目を閉じる。
その表情には、怒りも恐怖もない。
ただ――どこかで覚悟していた者の顔だった。
「来るがよい。そして、ワシができなかったことを、
お前たちで成し遂げるがいい」
その言葉を最後に、皇帝ガルバは首を落とされた。
逃げず、取り乱さず、
「運命を受け入れた老人」の威厳を保ったまま、殺されたのだ。
──最初から最後まで
彼の“正しさ”は、全てが常に裏目だった。
6月に始まり1月に終わった彼の統治、わずか七ヶ月余り。
正義と法と信念を貫いたはずの皇帝は、
それゆえに滅びたのであった。
終わり
すべてが「良かれと思って」なのに、
すべてが裏目の結果を招く。
この構造が残酷で、一周回ってもはやギャグです。




