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7.ネロの章

文字数(空白・改行含む):6405字


ローマ史は知らなくても

暴君ネロという言葉は知っている。

数年前は、私もそうでした。


ネロの章


「ネロ様のご相談とは、なんでしょうな?」

近衛(このえ)長官ブッルスが尋ねる。


即位から五年、母后(ぼこう)アグリッピナの影が薄れた宮廷。

だが今日の呼び出しには、妙な静けさがあった。


「さあ、ワシにもわからぬ。哲学に関するお尋ねらしいが……」

セネカが答える。

ネロがもっとも頼る男、ローマでも指折りの哲学の権威だ。


「哲学……それなら、なぜ軍人の私まで?」

「おぬしにも関わることかもしれぬ。とにかく、行こう」


やがて二人は侍従(じじゅう)に導かれ、静まり返った謁見(えっけん)の間へと足を踏み入れた。

廊下の奥からは、宮廷特有の香がほのかに漂ってくる。

そのまままっすぐ、皇帝の御前(ごぜん)へと進み出た。



『やあ先生、そしてブッルス、来て貰って悪いね』

「何をおっしゃいます陛下。我らは常に、陛下のためにあるのです」

「セネカ殿の言うとおり。

 お呼びとあらば、いついかなる時でも参上します」


『ありがとう。じつは、哲学の相談があるんだ』

「何なりと」


『僕は皇帝だよね。

 皇帝には皇帝の求める道というものがあると思う』


「……左様、陛下は特別な存在で、そこには特別な道がある」

「陛下が道を示されるなら、我らはただ従うのみ!」


ネロ帝は、指先で椅子の肘掛けを軽くなぞり、言葉を探した。


『……母はよく言ってたよ、僕が小さい頃からね。

 ”あなたはローマで一番の者になるのよ”

 って。……口癖のようにね』


「そうでしたなあ。10年前が思い出されます……」

セネカは遠い目をした。

「私があなた様の教育を、アグリッピナ様から任された日も──

 そして陛下がローマの第一人者となられた瞬間も……

 ええ、昨日のことのように胸に残っております」

ネロ帝は、懐かしさと気恥ずかしさが入り混じったような表情を浮かべた。


『僕は皇帝として、ローマを正しき道へ導く責を負っている。

 その務めから目をそらすわけにはいかないんだ』


「まさしく、そのご覚悟がローマを支えましょう」

「陛下の道ならば、我ら近衛は必ずお支えいたします」


『でも、皇帝になったばかりの頃、

 僕はなんにもさせて貰えなかったね…』


「い、いえ陛下。それは──」

セネカの肩が、わずかに強ばった。

「それは……アグリッピナ様が、陛下のご年齢を案じられて……」

哲学者らしからぬ、どこか焦った調子。

「まさしく!」

ブッルスは胸を張った。

「お母上様は、陛下をお守りしようとされたまで……であります!」

軍人らしい、融通のきかぬ真剣さが声ににじんだ。


『あの頃は、お母さんと先生とブッルスで、全部決めてたよね。

 僕はただ見てるだけで……()()()()だった…』

「けしてそのようなことは……」

「誤解であります、陛下、我らは常に、陛下をお支えするために……!」


「だからあのとき、僕はお母さんに聞いたんだ。

 “おかしいよ、僕が一番じゃなかったの?”

 って』

「……そうでしたか。思えばあの頃、我らは目の前の政務に追われ、余裕を失っておりました」

「そのようなことが……存じ上げませんでした」


『そしたらお母さんは、

  “母に逆らうのね?ふうん、そうねえ……

  あなたの義弟ブリタンニクスは、もっと素直かもしれないわねえ“

 って脅してきた。僕を排除する目だった!』


「そ、それは……」

一瞬、言葉を詰まらせるセネカ。

「それは、決して本気ではなかったはず……にございます。

 アグリッピナ様は、お心強き方ゆえ」

「私も、本気ではなかったと信じます」


『そうだね。二人の言う通りだと思う。

 母と私は強い絆で結ばれているからね。

 少し行き違いがあっただけだ、と思ってる』

「そのようにお考えくださるなら、何よりでございます」

「安心いたしました」


『でも一応、義弟(おとうと)は毒で○しておきました』


「はい。ブリタンニクス様を毒で……って、えええええ!?」

二人の驚愕が重なる。

声も、表情も、同時に跳ねあがった。

「……よ、4年前のあれは……暗殺……?」

ブッルスは、まるで槍で突かれた兵士のような顔になった。


『だって○すのが一番手っ取り早いだろう?』

「手っ取り……」

「だろうって……」


唖然とする二人。


『しかし今では、それは間違いだったのではないか?

 そう思うんだ。どうだろう?』

「ブリタンニクス様の死は、てんかん発作ではなく、毒殺でしたか……」

『そう。ちょっと毒を強くしすぎたから、即死しちゃった』


「……陛下。情念の抑制については、憶えておいでですな?」

セネカ、先生モード発動!

「怒り、嫉妬(しっと)、恐怖、欲望……

 これらは理性によって制御されるべきもの。

 陛下にとって怒りほど危険な感情はありません。

 これは軽率な処刑や暗殺を防ぐ教えです…………が」

『ん?』


「――まあ、やっちゃったものは仕方ないですな。うん、やむなし!」

「え?ちょ、セネカ殿!?」

『そうだよ。だってもう4年も前の話だし、今さらだよねえ』

「左様ですなあ」

「えぇー……」

ドン引きするブッルス。


「本日のご相談は、そのことで?」

『いや、それは前置きなんだ』

「(まだ、あるのか……)」

いつもの穏やかな表情に戻ったセネカに対し、

ブッルスは、気持ちの切り替えが追いついていない。



『あのとき、弟をぶっ○して、母を政界から締めだしたよね』

「左様でしたな」

「(言い方…)」


『自分で言うのもなんだけど、それ以降はとてもうまくいっていた』

「陛下の徳が、あまねくローマを包む5年間でしたなあ…」

「確かに、ローマ市民も元老院も、今までよくまとまっております」


『セネカ先生、ブッルス、ありがとう。僕一人では何もできなかったよ。

 今の僕は、二人に対する感謝の気持ちでいっぱいだ。

 本当にありがとう、

 本当に…ありがとう!』

「陛下、そのお気持ちを伺えただけで、十分です」

「(……まあ、基本的には、素直な方なんだが)」


『ところでセネカ、「愛」については、どう思う?』

「愛ですか。

 愛と慈悲、それらは統治者に欠かせぬもの。

 良き君主は、父のように人民を導くものです」


『僕もそう思う。そうなろうと思っている。

 もっとも僕には、父の記憶が殆ど無いんだけどね』

ネロ帝は、ふと目を伏せ、指先でトガの端をつまんだ。

言いにくいことを探すように、一拍置く。


『だから代わりに、僕は二人から“父の形”を教わった。

 僕の父は、もう……お前たちなんだ。お前たちが、僕の父親だ』

「陛下…」

「(なんて澄んだ瞳だ……)」


『じつは、好きな子ができた』

「ほ」

「(急展開…)」

『名前はポッパエア、とっても勝ち気で、素敵な人なんだ』

「ポッパエア・サビーナのことですかな」

『でも彼女は、親友オトの妻だった……』

「つまり人妻を好きになってしまった、と」

『そう。これって、どうかな?』


「左様ですなあ…」


セネカは一度、視線を落とした。

恋の話として聞き流すには、あまりに禍根が深い。

だが叱りつければ、彼は素直に傷つく――そして暴走する。

少し考えてから、応えた。


「恋は激情であり、政治は冷静さを要します。

 皇帝が臣下の妻を望めば、宮廷は乱れ、ローマの士気を損ないます。

 まずは御心をお鎮めください」

「(おお、さすがはセネカ殿)」


『うん、僕もそう思った。全くその通りだ』

「おわかりいただけましたか」

『わかってたんだけど、オトが邪魔だったんで、

 ルシタニアの総督に任じて、地方に飛ばしました』

「(全然わかってなーい!)」


「オト殿、ですか……そういえばそうでしたなあ。あれは急な人事でした」

「オト殿が気の毒であります……」

『いいじゃん別に……総督だよ?栄転だよ。すっごい田舎の端っこの方だけど』


任地はルシタニア、海風強くして葡萄は酸味が強い地域。


セネカは一瞬迷ったが、

その決定を正当化する言葉を探してしまう自分に気づいた。

そして一言。

「まこと、栄転ですなっ!」

『だよね。win-winだ』

「win-winです。ふぉっふぉっふぉ」

「(こ…この二人…)」

ブッルスは、ますます引いた。


『でもね、さらに問題があるんだ』

「(さらに……問題……)」



親友のオト(じゃまもの)をローマから追い出したんで、

 ポッパエアに告白したんだよ。好きだ!って。僕と一緒になってって』

「はい」

『そしたら、OKって言われた』

「良かったですな」

『でも、条件が付いたんだ。「私を皇后にしてくれなきゃイヤよ」って』

「ああ、残念ながら、それは不可能です」

「左様。陛下には、すでにオクタウィア様という素晴らしい皇后様がいらっしゃいます」

『うん、そうだよね…』

「うんうん」

『だから僕は、オクタウィアと離婚してから、ポッパエアと結婚しようと思いました』

「え?」

「(思いました…って)」

ブッルスは耳を疑った。

『それをお母さんに言ったんだ。そしたら真っ赤になってダメって言うんだ』

「でしょうなあ」

「(当たりまえだ)」


『昔、解放奴隷のアクテちゃんと結婚したいって言った時も、

 身分が低いからダメ!って言うし、

 今度は、オクタウィアがいるからダメ!っていう。

 ダメダメダメダメ、お母さんはダメダメ星人だね』

「それは、どちらも理由があっての反対かと存じますぞ」

「(ダメダメ星人ってなんだ?)」


『愛がわからない』

「いえ、それは愛ではなく劣情…ゲフゲフフン。

 とにかく、少し落ち着きましょう」

『ああ、僕もそう思って深呼吸を2回くらいして考えたよ。

 そして決めました。母を○そうって』

「そうそう、落ち着くことは良いことです……って、ええええー?

 ダメです!ダメダメいけません!」

「絶対にダメであります!ダメ!」

『お前らもダメダメ星人なのか?』

「母親を○すなんて、とんでもないことですぞ!」

「考えられないであります!考えられないであります!」

『だって○すしかないじゃん。”絶対ダメ”って言われたら!』


「うぐ…」

「しかし…」

二人は言葉を失った。

理屈では止められないと、直感だけが告げている。


──やがて沈黙の隙間に、倫理が滑り落ちていった。


「ダメ……とは言いませんが、もう一度よく考えてくだされ」

「ちょ、セネカ殿?」

『ちゃんと考えたさ!だから

 お母さんを船に乗せて沈めて、事故に見せかけようと思いました』

「ぐお」

「なんと」

『でもね、失敗しちゃった』

「ほ…」

「(焦ったぁ)」

『お母さん、追放されていた時、島にいたよね。

 島では暇だったから泳いでばかりいたんだって。

 そしたらすごく泳ぎが上手になったみたいで、泳いで帰ってきちゃった』

「はぁ…」

「そ、それは不幸中の幸いでした。お母様は今、どちらに?」

『自分ちにいるよ。ほら、これ見て。母から手紙が来た』

「手紙……船の沈没が暗殺だとバレておらねば良いのですが…」

「(読むのがこわい…)」


   ”愛するネロ

   私のかわいい子。

   私はお前の用意してくれた船に乗って、

   お前の用意してくれた目的地へ向かいました。

   とても楽しい船旅だったわ。

   けど船が沈んでしまったの。

   だから泳いで帰ってきました。

   お母さん、頑張ったのよ。

   ちょっと怪我しちゃったけど、心配しないでね。

   そう、心配は、いらないわ。

   ただ、今度はもう少し丈夫な船にして欲しいかな。

   まあ…今度があれば、だけど  母より”


『どう?』

「これは……運命の歯車が(きし)んでおりますな」

哲学者セネカは、意味不明なコメントをつぶやいた。

「気付いてますよ、この書き方。陛下が暗殺を仕掛けたってバレてますよ」

『やっぱりそうか』

「アグリッピナ様が本気で復讐を考えたら、何をなさるか……」

『そうそう! 母の行動力ってさ! 半端ないよね! あはははは』

「(なんでテンション上がってんだ?)」

「はい、存じております。

 アグリッピナ様のあの行動力は、まさしく英雄ゲルマニクス様譲りの御気性——」

「我々はそれを、幾度となく目の当たりにしてきましたからなあ」


「セネカ殿、悠長に言っている場合ではありませんぞ!

 陛下、今すぐお母様のもとへ、もちろん私たちも共に!

 心から謝れば……きっと、きっと許していただけます!」

近衛長官ブッルスは、抑えきれぬ焦りに突き動かされ、今にも飛び出しそうだった。


『そうかも知れないけど、そうじゃないかもしれないし』


「陛下、ここはむしろ、冷静に応じませんと」

『うん、僕もそう思った。

 冷静にならなきゃ!落ち着かなきゃ!って』

「そうですとも、陛下」

「そう・・・ですね。私が軽率でした、すみません」

『そこで、これを見て欲しい』



ネロ帝は、母后アグリッピナの使者の刺殺体を見せた。


『落ち着かなきゃ……

 確かにそう思ったんだけど、

 それは使者を○しちゃった“あと”なんです…』

「む、むぅ……おお……おおお……!」

「ぎゃああああああ!」


『やばいよね』

「ヤバいですな」

「非っ常に、やばいです」


『もう、どうしようもないと思うじゃん?』

「いえ、まだできることはあります」

「(……あるか? 本当に?)」


『そう、そこで僕も考えた。

 結局はもう、やるしかない!と、それで』

「(嫌な予感……)」

『側近アニケトゥスを呼んで、母を確実に○してくるように命じました』

「なあああああにぃぃぃっ!!」

「ひ、ひぃぃ……!」


『そのアニケトゥスがさっき帰ってきたよ。”無事、○して来ました!”って』

「う、うおおお……」

「(なんということだ……神々よ……!)」


『これ、どうにかなる?セネカ先生、ブッルス』

「こ、これは…」

「うーむ」


しばらく考える哲学者セネカ。


「…わかりました。なんとかしましょう。ワシにお任せくだされ」

「セネカ殿?」

『おお!』


「…調べたところ、使者は短剣を所持しております。

 つまり陛下に対し殺意があった証拠、と言えます。

 陛下にとっては正当防衛ですな」


『ああ、なるほど。

 じつは僕もそう思ってたんだ。最初からそう思ってた』

「(ホントかなあ)」

「この路線で書を用意いたします。元老院に提出しましょう」

『やった、さすが先生!よろしく頼むよ。

 じゃあ僕はポッパエアちゃんに会ってくるから!

 いぇーいばいばーい』


扉が閉まる音だけが響き、

後には、重苦しい沈黙を抱えた哲学者セネカと近衛長官ブッルスが取り残された。



「ブッルスよ…」

「はい」

「これはもう、ダメかもわからんな…」

「そう…ですね」

「ワシはもう引退する。あとは任せたぞ、ブッルス…」

「セネカ殿、私はもう、心が折れそうです」

「頑張ってくれ。じゃあワシは帰るね」

「せ、セネカ殿…?」

「この使者の始末、よろしく!」

「(私も…帰りたい…)」



こうしてセネカは「引退する」「引退する」と言いながら、

()()()()ようやく引退する時を迎えた。

それは、ブッルスが心労で倒れ、亡くなるのと同じ年だった。


「ブッルスも死んじゃったし

 陛下もますます、やばたんピーナッツだし……

 もはやワシ一人では面倒みきれないのう」


哲学者セネカは考える。


「………まあ、今までたんまり稼がせて貰ったから、

 そろそろ楽隠居させて貰おうかの…。

 いやあ、ワシってダメダメ星人? ふぉっふぉっふぉ」


  ”あんた本当に哲学の権威か?”


いないはずのブッルスのツッコミが聞こえた気がした

が、哲学者セネカは特に気にすることもなかった。


しかし、さらにこの3年後、

セネカにも“ダメダメ星人”の報いがやってくるのであった。




― Fin ―



ローマで「王」という言葉を使うのは抵抗がありますが

ネロでこの王朝が終わります。

ユリウス・クラウディウス朝、お疲れ様でした。



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