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5.クラウディウスの章

文字数(空白・改行含む):8025字


皇帝クラウディウスは、「友情・努力・勝利」を体現した、

まるで少年漫画の主人公のような皇帝です。

『無視され続けた皇族の僕、気付けば解放奴隷とともに帝国を統べる者となっていた』

クラウディウスの章


1.

皇帝暗殺!


カリグラ帝、突発的に暗殺される――

瞬く間に、ローマの権力の中心は空白となった。


宮殿は混乱していた。

怒号、金具の擦れる音、床を蹴る靴音――すべてが入り乱れる。


討ったのは、皮肉にも皇帝親衛隊。

計画はなく、現場は完全に混迷していた。


一方、元老院にも緊張が走っていた。

急遽集められた議員たちは、まとまりなく声を上げる。


「誰が暗殺など……!情勢はどうなっている!?」

「犯人を探すより、これからどう動くかが先決だ!」

「いまこそ共和政の復活の時ではないか!」

老いた共和派が机を叩く。

すると若い議員がきっぱりと言い放つ。


「今さら戻れません。我が国は、もはや皇帝なくしては成り立たない!」


議場は混迷。

ローマはどこへ向かうのか――誰も答えを持っていなかった。



――その騒ぎの奥。

宮殿の片隅では、まるで別の物語が進行していた。



皇族の一人、五十歳の男が、絨毯から必死に這い出した。

壺の裏へ、次に机の下へ、さらにカーテンの陰へ

片足を引きずりながら移動する。

怪我ではない。彼の生来の不自由だ。


(こ、殺される!僕はカリグラ帝の叔父……きっと消される……!)


震える指先に汗がにじむ。


(アントニウスも、カエサル暗殺の時は……こんな気持ちだったのだろうか)

(いや、あの将軍は僕みたいにみっともなく隠れたりはしなかった。震えたりも――)

(落ち着け僕、歴史の考察をしてる場合じゃないだろう!)


歴史好きゆえの脱線を、頭を振って追い払う。

鼓動だけがやけに大きく響く。


(…歴史家リウィウスなら、この混乱をどう書くのだろう)

(詩人エンニウスなら、この惨状も格調高く描くのだろうな……)


――その時。


バサッ。


「ひぃっ!」


赤いカーテンが一気にめくられ、兵たちがなだれ込んだ。

彼は無造作に引きずり出され、胸元に剣先を突きつけられる。


「皇帝か――死か!?」


「えっ!?」


二択。

兵の手も震えていた。

剣に付着した血が滴り、背後では怒号が飛び交う。


二択の狭さに、彼の心は悲鳴を上げた。

同時に、その短い言葉で兵たちの意図を素早く理解する。


(僕を皇帝に? 冗談じゃない!)


『(断る!)』


――だが、言葉は出なかった。

現実の身体は、心と真逆に激しく()()()()()


「おおーっ!」


顔を見合わす兵たちに、安堵の表情が広がる。

親衛隊にとって、これ以上血を流さず混乱を収められる唯一の選択肢――それが彼だったのだ。


(ま、待って、違っ……!)


「ご無礼をお許しください、陛下」


『で、で、でも……ぼ、ぼ、僕なんかが皇帝なんて……そ、それに元老院が……』


彼の首は縦にも横にも定まらず、震える手は宙を彷徨った。

足は床を探るように視界の下で揺れている。

兵たちはその姿を無言で見つめ、互いにうなずき合った。

──この男なら、制御できる。


「ご心配なく。道は整えてございます」


『……み、道?』



クラウディウスは、生まれつき身体にハンデを抱え、

宮廷では「いても気づかれない存在」だった。

周囲から期待もされず、半ば放置されて育った

だからこそ、皇帝となることも、前向きにはなれない。


『(困ったな……)』

『(どうしよう……)』

『(まいったな……)』


心では即位を拒否しながら、

しかし彼の意志など関係なく、状況は容赦なく先へ進んでいった。

やがて彼は、兵たちに“担ぎ上げられる”ように元老院へ連れていかれた。

道中、怯えきった姿に、見た者は処刑場へ向かう者だと勘違いしたことだろう。


議場は怒号と議論の熱気に包まれていた。

彼を連れた親衛隊が足を踏み入れた瞬間、議場の空気が震える。

無数の視線が一斉に彼へと刺さった。


大理石の冷たさが膝の裏から背筋へと伝わる。

逃げ場は、もうない。

一歩踏み出すたび、足先が自分のものではなくなるようだった。

再び怒号が巻き起こり、彼を置き去りにして議場は熱を噴き上げる。


激情交差するこの時間を、彼は俯いてやり過ごした。

声が石壁で弾け、渦のように押し寄せる。

それでも彼には、誰が何を叫んでいるのか聞き分ける余裕などなかった。


やがて、この広い空間がふっと静まる。

空気の変化に気づき、彼はゆっくり顔を上げた。

――次の瞬間。


「クラウディウス帝、ばんざーい! 新皇帝、ばんざーい!」


割れんばかりの喝采が、押し寄せる波のように議場を満たした。

彼は自分が、とうとう皇帝に“されてしまった”のだと理解した。


歓声の中、ただ立ち尽くす。

手にまとわりつく冷たい空気が、

現実を鮮明に突きつけた。


この男、正式名は「ティベリウス・クラウディウス・ネロ・カエサル・ドルスス」

栄光の一族の影で生き続け、

自らが皇帝になるなど考えたこともなかった者。


『こ、こ、皇帝に……なっちゃった……ど、ど、どうしよう……』


震える胸中に、

歴史のページで見てきた為政者たちの名が浮かび上がる。

その列の中に今、自分も加わったのだ。


ローマ帝国、第4代皇帝──


その事実は、彼の奥底に潜んでいた何かを

呼び覚まし始めていた。




2.

即位したクラウディウスは、

たちまち“帝国の重さ”に

押しつぶされそうになる。


皇帝の仕事は、それだけで常人には耐えがたいほど重いものだった。

しかも今は、前の皇帝が残した暴政のツケ

――負債と混乱までもが、のしかかっている。


財務官の机には、

未払いの請求書が山のように積み上がり、

それを前にした彼の顔は青ざめていた。


市場ではパンの値段が二倍に跳ね上がり、

人々の間には、不穏な空気がじわじわと広がっていた。


帝国は、崩壊の一歩手前まで来ていた。


日々、破れた堤防から濁流が押し寄せるように、

元老院や各部署からの使者たちが、新皇帝のもとへ殺到する。


「陛下、北方の蛮族が国境をうかがっております!」

『う、うん、わかった。考えておくよ…』

(またあそことあそこ…か。砦が二つ、いや三つ必要だ。補給線の距離は…地図を見ないと……)


「水道橋の一部が崩落し、補修が急務でございます!」

『そ、その書類、そこに置いといて…』

(予算は…、労働力は…、復旧までにかかる日数は……)


「ローマ市内で盗賊が増えております!」

『治安は、守らなきゃね…』

(根本は経済だ。だが、まずは市民を守る体制を…)


「陛下! 市内で暴動が発生しました!」

『えええ…困ったなあ…』

(チャリオット競走のサポーター同士の喧嘩が原因…… 死者を出さず沈静化させるには…)


「食料輸送船が難破しました!」

『ああ』

(ああ……)


「属州が税負担に不満を…!」

『うう』

(うう……)


「橋が落ちました!」

『ぐぐぐ』

(これは……)


報告がひっきりなしに飛び込み、

新帝は返事をするだけで精一杯だった。


『(この量は、とても一人じゃ対処できない……無理だ……)』


だが、政治の相談を持ちかけられる“貴族”など、

自分にはひとりもいない——

そのことを、彼はよく分かっていた。


生まれつき病弱で、吃音、足も不自由――いくつもの障がいを抱えていた彼は、

それゆえ宮廷では侮られ、宴席では笑われ、あるいは存在しない者のように扱われた。

母でさえ、祖母でさえ、優しい言葉をかけてくれることはなかった。


 「クラウディウス、客の前に出ないで」

 「あなたは下がっていなさい」

 「読書でもしていればいいの」


『は、は、はい』


 「恥をさらさないで」

 「どうしてあなたはそんな出来損ないなの」

 「せめて迷惑だけはかけないで」


『はい…………』


自然と、書物だけが彼の世界となっていった。


 はあ……ずっと部屋にこもって本ばっかり読んでいたからなあ

 私に皇帝なんて……やっぱり務まらないよ。もう今日は……部屋に戻りたい……


出口の見えない不安のまま、クラウディウス帝は執務室を後にした。


◆ 夜の宮殿・回廊


夜の宮殿は不気味なほど静かだった。

白い大理石の床に足音が淡く反響し、

遠くの松明がパチ、と小さく弾ける。


その静寂の中で唯一、クラウディウス帝を温かく迎えたのは、

日頃から彼の身近に仕えてきた“解放奴隷”たちだった。


「お帰りなさいませ、陛下」


『やあ、ナルキッスス……ただいま……』


「ずいぶん、お疲れのご様子ですね」


『もう、皇帝やめたい……』


「何をおっしゃいます。まだ即位されたばかりではありませんか」


『だって僕、政治なんて殆どやってこなかったんだよ?

 いきなり帝国ぜんぶを背負うなんて無理だよ。

 僕一人じゃあ、ダメだよ……』


「では、“分担”なされては?」


『分担って……僕に頼れる友達なんていると思う?

 元老院の連中は、誰もが僕のこと半分バカにしてる…

 とても頼めないよ……』


ナルキッススは微笑んだ。

その微笑みは、クラウディウスの弱った心を

そっと抱きしめるようだった。


温かな沈黙が流れる。

ナルキッススは微笑んだまま動かない。


『……え? もしかして……君のこと?』


「ええ。我々、陛下に仕える解放奴隷一同、

 喜んで陛下の“手”となり、“目”となり、働きましょう」


『でも君たちは……その、身分が……』


キュピーン!


胸の奥で、何かが弾けた。


(待てよ。能力だけを見るなら、彼らは間違いなく優秀だ。

 身分がどうあれ、僕を笑わない。馬鹿にもせず支えてくれる。

 ……そうか。そうだよ!)


 ――身分にこだわる必要なんて、ないじゃあないか!


『ナルキッスス! 僕は、君たちの力に……頼りたい!』


「“頼る”ではありません、陛下。どうぞ──ご命令を」


『命令…………うん。じゃあ……………』


クラウディウスは、息を大きく吸い、静かに吐いた。


『我が政治を助けよ、ナルキッスス』


「はい!陛下」


『人選は君に任せる。僕は……寝るね……』


「承知いたしました。ゆっくりお休みくださいませ」


こうしてナルキッススら数名の解放奴隷は、

皇帝直属の“私設秘書団”として組織される。


ローマの運命を大きく動かすことになる、静かな夜の小さな転機。


やがて誰もが気づくだろう。

ローマの迷走を救ったのは、私欲に溺れた傲慢な貴族たちではなく――

誰より皇帝に寄り添い、黙々と支え続けた、名もなき実務家たちだったのだと。


クラウディウスは『生まれて初めて人に命令をした』そんな気持ちで眠った。




3.

宮殿に、書板が擦れる音と足早に行き交う影が満ち始める。

クラウディウス帝がまだ眠い目をこすっている頃、

ナルキッススら“私設秘書団”は、すでに膨大な書類の山を分類し始めていた。


「至急の案件は右から。重要だが優先度の低いものは左へ。

 ……元老院が騒ぎそうな案件は、別枠にしましょう」


「了解だ。……ふむ、これは税制絡みだな。

 派閥争いの火種になりかねん。俺がやろう」


「お願いします。陛下を煩わせる価値のない案件は、

 各自の判断で処理して構いません」


静かだが鋭い声が飛び交う。

彼らの手は迷いなく動き、混沌を整理し、意味を与え、優先順位をつけていく。

いつしか宮殿は、ローマ史上まれに見る速度で動き始めていた。


◆ 執務室


『お、おはよう……』

(……机の上が、もう綺麗になってる……)


「おはようございます、陛下。本日のご予定をまとめてございます」

『こ、こんなに少ないの? 昨日は机が崩れ落ちそうだったけど』

「“本当に陛下が判断すべき事柄”だけに絞りました。他は我々で処理いたします」


(……仕事って、こんなに……やりやすくなるものだったのか)


ナルキッススが次の書板を差し出す。


「北方国境の件です。現地司令官から

 “実情に合わぬもの”として命令書が送り返されてきました。

 前帝の指示ですが――破棄してよろしいかと」

『えっと……どれどれ……なるほど、

 これは前例も根拠もないね。破棄でいいよ、伝えておいて』


「水道橋の崩落についてです。

 財源不足ゆえ従来方式では難しいのですが、支出を調整し段階的に行えば可能です。

 インフラは民心と経済を左右しますので、早めに取り掛かるべきかと」

『よ、よし!まとめておいてくれ』

「はっ」


彼は驚いた。

ほんの数日で、帝国の政務がここまで“見える”ようになるとは。

彼の胸の奥の不安が、少しずつ霧散していく。



◆ 午後 ―― 元老院


議場にはざわめきが渦を巻いていた。

「皇帝陛下がローマでまともに政務をしてくださるのは、どのくらいぶりだ?」

「先帝があれだったからなぁ……しかし最近、政務の進みが妙に、早い」

「あの陛下が、ここまで優秀とは……」

「ふん、優秀? あの皇族の落ちこぼれがか?」

「マルクス殿、声が大きい!」

「誰かが手を貸しているのだろう。だが……誰だ?」


そのざわめきを切り裂くように、

クラウディウス帝が登壇した。


以前の “狂帝の影で震えていた叔父” とは違い、

姿勢はほんのわずかに伸びている。

足取りは不自由ながら、迷いのない一歩だった。


「あれは……本当にクラウディウス殿下か?」

「確かに陛下だ。しかし……」


皇帝の目には、半生で培った学問の光が宿っていた。


『しょ、諸君、ま、まず申し上げたい。

 い今、こっ、ここ国庫は、深刻な、じょ状態にああ、ある』


緊張と吃音の、たどたどしい言葉。

それを終えたクラウディウス帝に、徐々に落ち着きが戻る。


『先例が示している。国を立て直す要は、せ、制度を正すことだ』

『徴税も支出も、今一度、見直さねばならない』

『先帝の治世で積もったむ、む、無駄と不正は、しょ、諸君らも知っているだろう』


『市民の活動を後押しし、税収を増やし、』

『――そして効率よく使うことを、め、目指す』


『痛みを伴う立て直しも、必要となるだろう』

『これは、私一人では成し得ぬ。国全体の、か、覚悟が、必要だ』

『私から、五つの提案がある。しょ、諸君らの意見を聞きたい』


『まず一つ目。徴税の流れを見直し、収入と支出の記録を、すべて明らかにする…』


議場のざわめきは、次第に静まっていった。

さらに、続ける。


アウグストゥスの財政術。

カエサルの税制改革。

スッラの行政整理。

マリウスの兵制刷新。


さらには

ギリシャ諸都市の政治形態、

プトレマイオス朝の徴税制度、

東方の宿敵パルティアとの外交――。


次々と史例が引用され、その全てが的確だった。


「反論しようにも、根拠が豊富すぎる……」

「いや、理解はできる、が……」

「我々の誰も、あれだけの史料を読み込んではいない……」


議場は静かになっていく。


(あれ?誰も意見を言わない?私の言葉は、認められたのかな?)


そう思い始めた時、沈黙を破って立ち上がった者がいた。

共和派の老人議員だ。


「そもそも!そ、そもそもあなたがローマを率いる必要はないのだ!

 以前のように、元老院にすべてを任せればよい!」


彼は、クラウディウスの人となりを知っていた。

(あの気弱な男なら、強く迫れば黙るはず)

(こ、殺されることはあるまい……)

それでも、死を覚悟し、賛同者の声を期待しての発言だった。


クラウディウスは、正直、怯んだ。

うまく話せていると思っていたところ、

自分の存在そのものを問われてしまったのだ。


(泣きそう)


しかし頭では、別の思考も走っていた。

それが感情を追い越したとき、皇帝は静かに語り出す。


『も、も、もし元老院が常に一致団結し、じ迅速に動けるのであれば―』

(ここで淀みなく語ることができればなあ……)


彼は続ける。


『マリウスとスッラの内戦も、ポンペイウスとカエサルの対立も、

 お起きなかった。

 共和政は素晴らしい。しかし現実の共和政は――』


一呼吸。


『う、“内輪揉めの歴史”だった。

 いずれの場合も元老院は、一致して迅速に動くことができなかった。

 では、あ、あなたに問いたい。

 いま元老院は、国家を一つにまとめる備えが、あるのか?」


「う……」


老議員は、ローマの現実を知るだけに、押し黙ってしまった。

別の議員が立ち上がる。


「しかしそれは、陛下も同じ!あなたには、経験が全く乏しい!」


『……そ、そ、それは事実だ。

 だが、“他人の経験を受け継ぐ技術”、それが知識だ』


『私はこれまで、多くの書物を読み続けてきた。

 歴史には、間違い、成功、裏切り、忠義……すべて記録されている。

 け、経験が不足するのなら、ローマの経験を借りればよい。

 あ、あなたがたのうち誰か、私以上に、歴史を知っている者はいるか?』


(もしそうならば、私は昼夜を問わずその者と語り明かしたい!)


皇帝のもつ膨大な知識は、たった今皆が思い知ったところだ。

既に証明されている。

議員は全く反論することができなかった。


さらに別の議員。


「あなたは人前でよくどもられる。

 そのような方に軍の指揮も行政も、

 務まらないのではないでしょうか!」


発言のあと、議員は真っ青に震えてしまった。

前の二人に影響され、私はとんでもないことを言ってしまった!

それでも口を固く結び、皇帝の返答を待った。


『ど、どもりは……確かに治らぬ癖だ。だが…

  フィリッポス王は足を引きずり、

  デーモステネスは吃音に悩み、

 それでも彼らは国家の命運を動かした。

 弱点は、つ、務めを果たせぬ理由にはならぬと考える』


(まあ、フィリッポス王はデーモステネスを口だけ野郎と言ってたけど)


『弱点を抱えながら為した仕事を、私は尊敬している。

 あ、あなたは、誰かの弱点を嗤えるほど、完璧なのか?』


議員は真っ赤になって、恥じ入ってしまった。


『……私は、できる者から学ぶだけだ。

 あなた方からも、学べるのなら、そうしたい』


顔を伏せる者

視線を泳がせる者

こっそり隣に合図を送る者

議員たちに「もう誰も、何も言わないのか?」という空気が流れた。


やがて議場は沈黙の重みに沈んでいく。

その沈黙こそが、彼に対する元老院の答え。

クラウディウス帝の心は静かだった。



(……ナルキッススたちが実務を整理してくれている。

 だから私は、皇帝として判断すべきことに集中できる……ありがたい)


そして、ふっと胸が温かくなる。


(読んできた歴史も、語学も、文学も、法学も……すべて、無駄じゃなかったんだ!)



◆ 夕 ―― 宮殿・控えの間


「陛下は、立派になられましたね。お顔に自信が満ちている」

「ああ。あの方は、機会さえあれば本来の才を発揮できるお方だった」

「我々は皇帝の“手”となり、“頭脳”となってお支えするだけですよ」

「まったく同感だ」

「うむ、うむ」


実務家たちは静かに頷き合った。

無名の解放奴隷に過ぎなかった彼らが、この日確信したのは――

“自分たちが支えれば、この帝国は変わる”

という、確かな手応えだった。


彼らはやがて、誰に名を知られることもなく政を動かす“影の実務家集団”へと変貌する。

しかし彼らの胸にあったのは、栄達ではなく、

ただ主君を支えんとする誠だけであった。


やがて宮廷では、不穏な潮流が生まれる。

震源地は――皇后。

その渦中で、彼らは再び水面下で動くことになる。


しかし、それはまた別の物語である。


おわり。



クラウディウスは、もともと歴史家として静かに生きていましたが

皇帝に即位すると優れた政治手腕を発揮しました。

身体的な障害を抱えながらも、解放奴隷を起用して官僚制度を発展させた皇帝です。


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