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2.アウグストゥスの章

文字数(空白・改行含む):13301字


「カエサルの権力を継いだのは、彼の養子となったオクタウィアヌスです

 彼は後の初代ローマ皇帝アウグストゥスです」

という2行を、引き延ばして物語にしました。




アウグストゥスの章


1.

キリストが生まれる、数十年前のイタリア――

いずれ「ローマ帝国」と呼ばれる世界最大の国が形を取り始めようとしていた。

その中心に立つ若者の名は、オクタウィアヌス。

後に初代皇帝となる男である。


イタリアの南――

ブーツのつま先と海を挟んで対峙する大きな島、シチリア。

波に磨かれた小石は淡く赤い。

幾世代の血が、海とともにこの浜へ還ったのかもしれない。


地図から顔を上げた熟練の将軍レピドゥスは、使者の視線と正面からぶつかった。

「オクタウィアヌス様のお言葉を、そのままお伝えします――」

使者の声は静まり返った室内に重く厚く澄みわたり、ひと呼吸の間、時が止まったように思えた。


「『レピドゥス閣下がお治めの北アフリカをはじめとする領地、それらは全て私、オクタウィアヌスが直接治めたほうが、よりローマの安定に資すると考える』――以上です」


レピドゥスは、かつてローマを三つに分け合った“三人の盟約者”の一人だ。

だが今やその剣も、刃こぼれして久しい。


使者アグリッパの言葉は冷えた石床に吸い込まれるように消えた。

そのまま彼は、微動だにしない。

炎を映すような瞳だけが、静かに相手を量っていた。


歴戦の将は机の前でうなだれるように座っていたが、その言葉にゆっくり顔を上げた。

「……ほう。そういうことか」

声は平板であったが、握りしめた拳が、かすかに震えた。

あの男、オクタウィアヌスを初めて見た日に感じた、己の運命を見透かされたような錯覚が胸をよぎる。


馬鹿な――あの若造が、ここまで!


かつてローマに絶大な影響力を誇ったカエサルが、十数年前に暗殺されて以来、国は再び混乱の時代へと逆戻りしていた。

その遺志を継ぐ者として名を挙げられたのが、当時まだ無名の若者――オクタウィアヌスである。


(いや、いつかはこうなる予感を、持っていたじゃないか、私は)

少年オクタウィアヌスの瞳に潜む深淵を、当時の彼は直感的に恐れていた。


「私はお伝えするだけです。閣下もお気づきでしょう。……風は、すでに定まった方へ吹いております」

使者アグリッパの声は柔らかでありながら、覆しようのない重みを帯びていた。


将軍レピドゥスは口を開きかけ、やがて閉じる。


「お言葉、繰り返しましょうか?」

「いや、いい、分かった。私もそう思う。私も彼と同じ意見だ」

「さすがです。そのご賢察の早さ」


「アグリッパ殿、伝えてもらえるだろうか。せめて、最高神祇官(さいこうじんぎかん)の座だけは私に続けさせてほしいと」

「承りました」

「あ、待て、せめて何か、心を和らげるものを…そ、そうだ!あのギリシャ製の壺を贈ろう。オクタウィアヌスくんが欲しがっていたものだ!」

「オクタウィアヌス、くん?」

使者アグリッパが聞き咎める。

「……あ、いや、殿、オクタウィアヌス殿が・・・」

言い直した自分の声が、ひどく老けて聞こえた。


「伝えておきます」

ふう、と息をつき、若き使者は退出する。


扉が閉まる音が、老将には妙に遠く聞こえた。

一人になった年長の将が思わずつぶやく。

「ああ、私は…ここまでか」

深く息を吐き、しばらくの間、うつむいたまま両目を閉じた。

「ふ、ふふっ……最高神祇官。神々に仕える最高責任者――なんの権限もない、ただの名誉職だ。だがこれで、少なくとも私を殺すことはできまい」

(しかし――いずれその頭巾も、あの若造(オクタウィアヌス)の頭上へ移る日が来るだろう)


いまやローマを導く3人のバランスは変化した。

オクタウィアヌスはレピドゥスを超え、アントニウスさえ凌ぐ力をその手に収めつつある。


・・・


我が友オクタウィアヌスは、いったいいつからこの未来を見据えていたのだろう。


沈黙が満ちる。


それを考えるとき、アグリッパには必ず一つの記憶がよみがえる――


――あれは十数年前。

友が、まだカエサルの親戚の少年に過ぎなかった頃のこと。

病弱な身体を理由に母親は止めたが、少年オクタウィアヌスは大叔父カエサルの遠征に加わる決意を固めた。


『アグリッパ、我が友よ、一緒に来てくれないか。お前の力が必要だ』


そう語る友の目に、アグリッパは不思議な胸の高鳴りを覚えた。

まるで大将軍から頼りにされたような、誇らしげな気持ちとなったのだ。

(病弱で小柄、腕力もなく、まだ年若い友人――このとき私は、この男のどこに将軍の器を見たのだろう?)

あの瞬間の記憶が、今も胸に蘇る。


答えは戦場が示した。

前線に出すぎて敵兵に囲まれた友オクタウィアヌス、間一髪で彼を救い出した私は、友の行動に驚いた。

今殺されかけたばかりというのに、もうそのことを忘れたかのように力強く立ち上がり、大音量で戦場に叫んだのだ。


『者ども、今こそ刃を振るう時!』


(この声が、少年のものとは誰も信じられなかった)


『敵を屠り、勝利を掴め! 進めぇッ! 進めぇええッ!!』


地を裂くような怒声が戦場に響き渡り、兵たちの胸に再び火を灯した。

味方の槍に力が漲り、鬨の声は敵陣を押し返した。


後日、そのことを知った友の大叔父カエサルは、満面の笑みを浮かべ、手を打って喜んだという。

それほどまでに、この出来事はカエサルの期待を大きく超えるものだった。


私、アグリッパは、己を知っている。

戦場での采配、陣形の組み換え、突撃の機を見極める眼――それらには誰にも負けない自信がある。

だが、知謀、洞察、政治手腕、そして何より追い詰められたときに示す胆力においては、親友オクタウィアヌスの足元にも及ばない。

だからこそ、私はためらいなく彼に仕えると決めたのだ。

ただの友人としてではなく、一人の将軍として、未来の覇者に対して。


その親友は今、ローマの混乱を掌中に収め、盤上の駒を見下ろすように数多の勝ち筋を描いている。


この男はいずれ、必ず英雄と呼ばれるようになるだろう。

そう信じながらも、胸の奥に冷ややかなものが残った。


……英雄とは、しばしば怪物の異名にすぎぬのだから。





2.

「では、カエサルの遺言書を読み上げます」


アントニウスは、元老院諸氏数百人の前で声を張った。

議場の外の広場には、たくさんのローマ市民が集まっている。


莫大な遺産と権力を継ぐ者、カエサルの名を継ぐ者は誰か――。


(俺だろう)

彼は確信していた。

(カエサルとともに死地を乗り越えてきたのは、この俺、マルクス・アントニウス様だ)

彼は自信満々、余裕たっぷり、はっきりと大声で遺書を読み上げる。


「えー、カエサルの残す財産、……ええと……これこれを妻に、これこれを親族の誰々に――」


読み上げられるうち、元老院諸氏の顔に少々違和感が浮かぶ。

なぜならカエサルの親族に残される配分が、ずいぶん少なかったからだ。

莫大な遺産のほんの一部に過ぎない。


「―そして、全てのローマ市民に、一人300セステルティウス(庶民にとって半年分の収入に匹敵する額)を贈る――」


議場も、外の会場も、大きくざわめく。


「え?!()()()()()()()()に一人300セステルティウス?!」

「うわああ!」

「やっぱりカエサルさんは偉大だ!」

「独裁者なんかじゃなかった!」

「カエサル神!」

感極まって号泣する者も出る。


「静粛に」

場内が落ち着いたころ、皆が最も注目する後継者指名の段になった。


(さあ、俺だ)

アントニウスの期待が膨らむ。


(アントニウスさん、いよいよですね)

(俺たちのリーダー)

(頼むぜ兄貴)

仲間の熱い視線が彼に注がれる。


「我がカエサルの名を継ぐ者、それはオクタウィウス!…………え?!」

議場の空気が凍る。


「ん?」

「は?」

「誰だって?」

「オクタウィウスって誰だ?」

「まだ17か18の若造だ」

「カエサルの親戚らしい」

「甥じゃないのか?」

「姪の子だよ確か」

「まあ……カエサルが選んだんだ」

「そうだ、カエサル様の人選に間違いはあるまい」

「私もカエサル様を信じる!」

「いやいや、ボケたんだよ。カエサルもボケたのさ」

「お気に入りの少年ってことなんだろう」

「失望した」

「俺はアントニウスを推すね」

歓声と罵声が入り混じるローマの街。


羊皮紙(ようひし)を握るアントニウスの拳は、血が滲むほどに強張っていた。

顔は紅潮し、呼吸は荒く、鼻翼が大きく震えている。


議場の元老院議員たちは、誰一人として口を開けなかった。

その沈黙を切り裂いたのは、退場するアントニウスの重く響く靴音だった。

――ドス、ドス、ドス。

彼は何も言わなかった。

「(今すぐにでもこいつの名を、羊皮紙ごと引き裂いてやりたい!)」

しかしその行為は、己が敗北を認めることだ。

言葉を呑み込み、憤怒を沈黙に凝縮したまま、石畳を踏み鳴らして議場を去る将軍アントニウス。

彼の背に翻るマントが、大きな影を床に投げた。

やがて扉が閉ざされ、会場には重苦しい余韻だけが残る。


(カエサル、俺はお前の剣だったじゃないか。なぜその剣を捨てる!)


広場では、まだ街のざわめきが収まらずにいた。


・・・


アポロニアの川辺。

雪解け水を含んだ川は、まだ冷たい光をたたえていた。

芽吹き始めた柳が風に震え、山から吹き下ろす空気は鋭い。

遠くでは、訓練場の兵たちが掛け声を上げて槍を突き出していた。

オクタウィアヌスは外套を翻し、手の中の書簡を静かに畳んだ。

顔に浮かんだ笑みは、喜びでも驚きでもない。

ただ、盤面が整ったことを確認した者の微笑だった。

『友よ。聞いてほしい』

「……なんだよ、急に」

『私はカエサルおじさんの名を継ぐことになった』

「え?!それって」

『出発の支度だ』

「え、ちょ」

『一刻も早くローマへ。風のあるうちに船を出そう』

彼は一瞬、オクタウィアヌスの言葉の速さに圧倒される。

カエサルの名を継ぐ・・・

そのことが意味する様々な影響を、必死で理解しようとするアグリッパに対し、すでに考え終わって次の行動に移ろうとするオクタウィアヌス。

その瞳には、少年のあどけなさと、老練な策士の冷たさが同居していた。

「そ、そうだ!きっとあの短気なアントニウスが黙っていないぞ。怒り狂っているはず。危険だ!ローマは!」

『だろうな』

「だろうな・・・って、殺されるぞ!」

『かもな』

「な?!」


オクタウィアヌスは川面を見やった。

流れはローマへと続く。彼の瞳もまた、迷いなくその先を見ていた。


『帰ろう!ローマが、私を呼んでいる』

風が、まるで彼の言葉に従うように方向を変えた。


声には、震えも昂ぶりもなかった。ただ、決定された未来のように静かだった。

その声が風に乗った瞬間、彼の親友アグリッパは理解した。

この男は――自らの運命を瞬時に理解し、考察し、対応している。

運命を制している!


言葉と同時に、オクタウィアヌスは足を踏み出していた。

その眼差しは、川の流れよりも冷たく、しかし誰よりも確かな“未来の地図”を見ているようだった。





3.

「もう詰んだと思っておった!」

ローマで彼の名を知らぬ者はいない。弁舌の魔術師、キケロ

――知の巨人と呼ばれた男だ。

老人は、羊皮紙の束を机に叩きつけた。

それは、カエサルの遺言を書きとった紙の束だ。


「キケロ様?」

「カエサルめの頃から、いやもっと前からずっと、わしら共和派は押されっぱなし、まるで風前の灯じゃ・・・」

「そうですね」

「ところが――じゃ!」


老人の目がきらりと光る。

「カエサルの後継者は、オクタなんとかいう若造!」

「オクタウィウスですね。今はオクタウィアヌスと呼ばれています」

「名などどうでもよい。十八の若造よ。我らに舞い降りた最大の好機じゃ」

「と言いますと?」

「うむ。カエサルの名は鋭き剣じゃが、未熟な腕では紙すら切れぬ。我らが柄を握れば、狙う相手も切り口も、思いのままよ」

「ええと、手懐けて操ろう、という意味ですか?」

「そうじゃ。結び目を断つには刃も要るが、結び目は言葉でほどくこともできる。わしの舌は剣より鋭いからのう。しゃしゃ」

「(……歯は抜けてるけどね)」


「オクタウィアヌスは留学先から海へ出て、あと数日でローマへ戻ってくるようです」


にやりと笑う共和派のリーダー的存在キケロ。

「時は来た!その若造が帰還すれば、遅滞なく我がもとへ連れてくるのじゃ。賢者は剣を振るうより先に言葉で戦を制するものなのじゃ」


・・・


――やがて、オクタウィアヌスが共和派に招かれ、彼らの前にやって来た。

『こんにちは、よろしくお願いします』

「やーあ、君がオクタウィアヌスくんか。カエサルの後継者の」

『はい。そう……です』

「若いねえ、えっと、いくつ?」

『18歳です』

「十八!うらやましいのう」

「留学してたってね?」


共和派の連中に囲まれるオクタウィアヌス。


『はい。勉強や訓練を受けてました。まあ、それなりに』

「正直、戸惑ってるじゃろう?カエサルの名を継ぐことになって」

『ええ、おじさんの遺言書で、そう指名されて……ちょっと』

「そうじゃろう、そうじゃろう」

「このままだと、あの短気なアントニウスらに消されるかもよ?」

『そ、そんな、じゃあボク、後継者を辞退してきます』

「待て待て待て」

「まあ、そう結論を急がないで」

「だいじょうぶじゃ!」

「そうそう、我らに任せれば安全だよ」

「一緒に、ローマの平和を守ろうではないか!」

「全力で支えるから!大船に乗ったつもりでいなさい」

『……分かりました。ありがとうございます』

「うんうん、わしを父と思って頼ってもよいんじゃよ?しゃしゃしゃしゃ」

『……はい、よろしくお願いします』

(この人だな、首魁(しゅかい)は)


オクタウィアヌスは一礼し、背を向ける。

「フッ」

その口元が、かすかに動いた。

笑ったのか、鼻で息をついたのか――

それはかすかな変化だったためか、誰もその一瞬に気づくものはいなかった。


扉が閉まる。


窓の外では、糸杉の梢が風に揺れていた。

その影が机の上を渡り、地図のローマを闇で包んだ。


老キケロはそんな影など気にもとめず、言った。

「やはり若造、言葉で丸め込むなど容易い。あの駒は、わしらの好きに動かせるぞ!これで一歩先んじたわい」





4.

「認めない!」

バーン。

木の机が鳴った。

遺言書発表のあと、幾度目かの元老院の会場で――筋肉将軍アントニウスが立ち上がった。

彼はオクタウィアヌスの継承を、皆の前で真っ向から反対したのだ。


「あんな若造に、何ができる?何もできないぞ!」

「そうだ!」

「そうだそうだ!」

アントニウスの仲間が同調する。


「ヤツに何がある?考えてみろ。経験もない、実績もない、指揮する兵もたかが知れている。カエサルの親族だったというだけだ」

「そうだそうだ」

「ルックスはいいね」

「うるさい!」


「ここに宣言する。私は断じてオクタウィアヌスをカエサルの後継者とは認めない!」

そう言って席を立ち、マントを翻して荒々しく出口へ向かう。

彼の仲間や支持者も多数、それに従った。

「いいか!このローマを守るのは俺だ!あんな解放奴隷の孫なんかじゃない!真にローマを憂う者は俺についてこい!」


背を伸ばし、まっすぐ前を睨んでローマを歩くアントニウス。

それに従う多くの支持者たち。


若い兵らが思わず見送った。

「……あの貫禄、しびれるな」

「ああ、やっぱり憧れる」


アントニウスたちはやがて北へ逃亡し、人を集め軍として動き出した。

その足音は、やがてローマ全土を揺るがすことになる。


・・・


「筋書き通りじゃ!」

元老院の老人たちは、アントニウス挙兵を聞いてほくそ笑む。

「アントニウスめは今や、ローマの平和を脅かす反逆者じゃ」

「そうじゃ!国家の敵じゃ!」

「当然、討伐せねばならぬ」

「ローマ軍としてな!平和を守る正義の軍としてな!」

「オクタウィアヌスくん、やってくれるかね」

『はい、私も軍を率いて、彼の討伐に参ります、あと・・・』

「あと?」

『私の祖父は、解放奴隷なんかじゃありません』

「あ、気にしてたんだね。うん、わかってるわかってる」

「では、元老院軍を率いる2人の執政官(しっせいかん)とともに、北へ向かってくれたまえ!」

『わかりました』


※おや?執政官って何だろう。

 それは元老院で一番偉い人、2人。

 一番なのに2人っておかしいけど、元老院はそういうところなんだ。


・・・


対峙するアントニウス軍と、元老院 + オクタウィアヌス連合軍

『全軍、前へ!』

オクタウィアヌスが震える唇を噛みしめながら、それでも命令を叫んだ。

若き声は意外なほど澄んで、戦場のざわめきを突き抜けた。

兵士たちは顔を見合わせ、やがてその声に従って一斉に前進する。

両軍が衝突。

槍と槍がぶつかり、盾が軋み、戦馬のいななきが土煙に吸い込まれていく。

斬撃の火花が飛び散り、地面は赤く濡れた。

混乱の最中、オクタウィアヌスは一歩も引かず、軍旗の下から命令を飛ばし続ける。

震える己の指を、固く剣の柄に押し付けた。

しかし、発する声だけは不思議なほど澄み切っていた。

一瞬、戦場の音が消えた気がした。


土煙の向こう、血にまみれた少年の叫びが、まっすぐ空へ突き抜けた。

「怯むな!押せ押せ!」

その叫びに、兵たちは力を振り絞り、前列を押し返した。

やがて連合軍は、なんとかアントニウス軍を退けた――。


しかし、戦の中、執政官が2人とも死んでしまった。


兵たちの勝利の高ぶりは波のように広がり、やがて唯一の司令官となったオクタウィアヌスへと押し寄せた。

「ローマばんざーい!オクタウィアヌスばんざーい!」


戦場の風が止んだ。

鳴り響く歓声の余韻が、やがてローマの石畳へと届く――


・・・


戦の報が届いたローマでは――

「我らの勝利!アントニウス軍は西へ逃亡しました!」

「おー、やりおったか」

「しかし、執政官のお二人が戦死なされました」

「なんじゃと?!」

「執政官が2人とも死んだ?」

「そんなことって、ある?」

「想定外じゃったのう、執政官が、2人とも死ぬなんて」

「残った兵士たちは皆、オクタウィアヌスに忠誠を誓い、従っています!」

「おいおい、ということは今、軍を率いているのはあの若造だけ?」

「青二才が単独司令官って、まずくないか?」

「え、ちょっと待って、それってつまり…」

「つまり、我らの操り人形計画は…」

「人形をつなぐ糸が無くなったのう」

「操り人形が自分で歩き出すパターンじゃないか?」

「それもう操り人形じゃなくね?」

「……やばいな」

「いやいやいやいや、大丈夫じゃ」

「そうじゃ、あやつ一人では何もできんじゃろう!大丈夫じゃ!」

「大丈夫か?」

一瞬、議場の声が止んだ。


その頃、北方の空では――

すでに新しい旗がはためき始めていた。





5.

「ぜえええぇぇぇぇっっっったい許さねえ!」

ドカーン。

樽が吹き飛び、酒が床を流れる。

「そ、そうですよアントニ・・・」

「絶対!絶対!絶対!絶対!絶対!許さねえっっっ!!」

「ちょ、アントニウスさん。落ち着いてください」

酔っては物に当たり散らす筋肉。

取り巻きはおろおろしている。


「あんの若造が後継者だと?!くそ。あのやろう。俺はガリア戦争以来ずっとカエサルの腹心だったんだ。ずーっとずーっとずーっと一緒に戦ってきたんだ。カエサルは俺を一番認めていたんだぞ・・・・。俺はカエサルの第一の部下、いや!相棒・・・、いやいや、パートナーだったんだ俺は!だよな!」

「そうですとも」

「間違いありません!」

「カエサルを一番そばで見ていたのは俺だ。後継者は俺しかいない!俺にしかできない!そうだろう!?」

「ええ、その通りです」

「まさに」

「ああああああああああ!!!」

ガラガラドッカーン。

部屋はめちゃくちゃだ。


「これはちょっと落ち着くまで話ができそうにないな?」

「そうだな。もともと脳筋だし、あの人」

「うおおおおおおおおお!」

ズドーン。ガラガラ。

壁に穴があき、粉塵が舞った。

しばしの沈黙。


そこへ――。

「誰だ!てめえは!」

「私の名はアグリッパ、オクタウィアヌスの意を受け参りました」

「あああ?!誰だあ?!」

「私の名前はアグリッパ、オクタウィアヌスの意を受け参上しました」

「お、お、おお、オクタウィアヌスだとおお!」

つかみかかる筋肉


「あーあ、最悪なタイミングで来たな、あいつ」

「殺されるぞ、まだ若いのに」

「でも・・・、あいつもいいガタイしてんなあ」

つかみかかったアントニウスをいなす若きアグリッパ

「!」

「まあ、落ち着きましょう。お互いに有益なお話です」

「ああっ?!知るかぁーっ!」

今度はがっちり組み合った両者

「ぐぐぐ・・・」

アントニウスの腕がきしみ、床石にひびが入る。

互いの肩が膨らみ、筋肉と筋肉がぶつかり、空気が震えた。

――が、次の瞬間。

「ふっ……」

空気がすっと静まった。

アントニウスの腕がわずかに揺らぐ。

暴れ疲れか、それとも年齢のせいか。

どちらにせよ、均衡は崩れた。

「くっ!」

アントニウスが荒く息を吐く。


「……お話、よろしいでしょうか」

乱れぬ呼吸のまま、アグリッパが淡々と告げる。

「はぁ、はぁ、はぁ。……ああ」

アントニウスは額の汗をぬぐい、振り返った。

「お互いに有益なこととは、なんだ?」

「……オクタウィアヌスは、あなたを必要としています」

「何?!」

「アントニウスさん、一応、話は聞いてたんですね」

「俺、意外と冷静!」

自分を親指で指し示すアントニウスの歯がキラーンと光った。





6.

いよいよ対面するアントニウスとオクタウィアヌス。


「あのアグリッパとかいうやつから!おおよその話は聞いた!」

『ありがとうございます。アントニウスさん、いや、アントニウス様とお呼びすべきでしょうか』

「あん?」

意外な言葉に毒気を抜かれる。


『私はご覧の通り、何の力もない、実績もない、何も無いただの人間です。カエサルおじさんの、いえ、父上の遺言によって後継者となりましたが、何ももたない若輩者です』

「だな!」

『はい!』

「だがお前は一度、俺たちに勝ったじゃないか」

『あれは執政官2人の力です。私の力ではありません』

「んで、話ってのは何か?後継者を代わってくれと?」

『ゆくゆくは、そう考えています』

「ほう・・・、アグリッパの話は本当だったのか」


意外そうに、アントニウスは組んでいた腕をほどいた。


『しかし、今は時期が悪い。一つはローマ市民の私への熱狂です。今また後継者をあなたに指名すると・・・』

「当然、俺がおまえを脅したということになるな」

『はい。そうではない!真の後継者はアントニウス様だ!と私が声を限りに叫んでも、誰の耳にも届かないでしょう。さらに二つ目』

「共和派のじじいたちだろう?」

『彼らは私に接近し、私を操ろうと必死です』

「じゃあ、どうすんだ?遺書を書いて自殺するか?あ?」

『ふふ……それでは最初のと同じ、あなたが疑われて共和派の思うつぼです』


わずかな沈黙。


『私は・・・』

少しうつむくオクタウィアヌス。

『私は本当に浅学非才(せんがくひさい)の若造です。自分でもわかっています。だから、カエサル様の真似、せめて猿真似でも…、いや、猿真似だからこそ真似る価値があると思ったのです』

「猿真似?何のことだ?」

『かつてカエサル様がクラッススとポンペイウスを結びつけ、三人でローマを治めたように、私も猿真似をしてみます。……アントニウス様と、もう一人と、私の三人で』

「ほう」

『やがて時間が経てば、ローマ市民もあなたの素晴らしさに気づき、私の無能さも露呈するでしょう』

「ほうほう」

『私の、後継者としての力も、その3人で三等分します。何しろ私には知恵がありません。あなたに導いて欲しいのです』

「なるほど。それが「お互いに良い話」か」

『はい』

「だが、元老院は認めないだろ?そんなの」

『なに、あなた様がいれば必ず認められます。力こそパワー!です』

「力こそパワーか。力こそパワー!名言だな!はっは、……まあ、お前も自分で言うほど悪くはないかも知れないぞ?あーっと、こういう話は酒がないとな!おい、酒もってこい!」

「へい」

『ははは、……恐縮です』

「三人で、ということは、あとの一人は誰だ?」

『それは』


オクタウィアヌスは、少し考える顔を見せてから答えた。


『それは、あなたにお任せします。アントニウスさん、表向き私がカエサルの後継者としても、実際にはあなたがリーダーですから』

「ふん、そう?ふふん。そうか?そっか。はっはっは。はっはっはっは。そうかーそうかそうか!」


先ほどまでは、殺意すら含んでいた表情だった筋肉。

しかし今では、自分を頼れる兄貴分にでも見せたいのか、精一杯胸を張りオクタウィアヌスの背中をばんばんたたいている。


『今あなたの、私への怒りは、ローマ中の誰もが知っています』

「恥ずかしいな。派手に暴れたからな」

『元老院……共和派の老人たちは、これを機にあなたと私がつぶし合うことを狙っています。それを逆手にとるという策を、アグリッパが考えてくれました。今からお話しいたします』

「ほう。お前が」

皆の視線がアグリッパに突き刺さる。

「(え?俺?何のこと?ねえ何のこと?)」

身に覚えの無いアグリッパは一瞬ヒヤッとした。

しかし彼はすぐに気づく。

目の前で弱々しい若者のふりをする、その親友のするどい眼光に。

「(ああ…俺が“言ったことにする”のか…)」

沈黙を続けるアグリッパは、心の動揺を微塵も顔に出さない落ち着きぶりだった。

そして、そんな彼が考えたことになっているその”策”を語り出す親友と、酒を飲むのも忘れて真剣な顔で話を聞くアントニウスたち。

「(…この人、ほんと恐ろしい)」

その場の全員がオクタウィアヌスの話に集中する中、喜びとも恐れともつかない感情を必死で飲み込むアグリッパであった。


「(俺はこの人に一生ついていく──だが、この人を理解することは、もしかしたら最後までできないかもしれない)」

夜となり、来たときとは違って、紳士的なふるまいで退席するアントニウスと仲間たち。

部屋に残った二人、オクタウィアヌスはまた、見えない未来を見つめて思案していた。

アグリッパは肩の力を抜いて尋ねた。

「なあ、力こそパワー!ってなんだ?」

『ん?ああ、ヤツに伝えたいことを、極限までわかりやすくしただけさ。わかりやすいってことは、重要だからね』

アグリッパは苦笑した。

「(…確かに、わかりやすさこそ、時に世界を動かす)」


『……だが、正しくわかってもらう必要はないんだ』





7.

「た、たた、大変です!大変!」

怪我で流血した埃まみれの兵とともに、元老院に報告の使者が飛び込んできた。

「なんじゃ?」

「どうした、あの若造が、返り討ちにあったか?」

「いえ、あ、お、お、オクタウィアヌスが!」

「若造がなんじゃ、アントニウスを討伐したのか?」

「それとも捕まって捕虜になったのか?」

「死んだか?」

「アント!アントニウスが!」

「なんじゃ、早く言わんか。まどろっこしい」

「あ、ありのままを申し上げます!アントニウス討伐に向かったオクタウィアヌス軍が、アントニウス軍と合流!こちらに向かっています!」

「あん?」

「合流?」

「合流じゃと!」

「どういうことだ?」

「オクタウィアヌスとアントニウスが和睦し、同盟を結びました!」

その瞬間、議場の空気が破裂した。

「な、なんだってー???!!!」


 一瞬の静寂。

 そして時が動き出す。

 机を叩き割る者。

 椅子ごと後ろにひっくり返る者。

 頭を抱えてぐるぐる回る者。

 硬直したまま動かない者。

 神々に祈り始める者。

 そして、宙を見つめて呆然とするキケロ。

「ば、馬鹿な…そんな馬鹿な……!」

「これは…完全に計算外じゃ…」

「いや、計算式には存在し得ない項目だ…」

「あり得ない!」

「そうだ、誤報だ。誤報に違いない」

「そうじゃそうじゃ」

「でも彼ら、めっちゃ笑顔で握手してましたよ?」

「黙れ!」

ついに元老院は「それは誤報」と決めつけ、より確かで正しい報告を待つこととなった。

「まあ・・・大丈夫じゃろう・・・うん」

言葉とは裏腹に、もはや誰も大丈夫とは思っておらず、落ち着かない心を持て余している。

そんな老人たちの中、キケロだけは小さく

「・・・終わった」

とつぶやいた。

老いた賢者の声は、誰にも届かぬまま石畳に落ちた。


その夜、街の片隅で、

誰かが、カエサルの名を囁いた。





8.

「同志たちよ!ローマは今、大きく揺れている!」

会場は神殿の広間。

石の床に木の椅子が並ぶが、列はまばらで、ところどころに空席がぽっかりと穴を開けている。

共和派をはじめとする反対派はすでに逃亡し、残されたのは中立派と日和見派(ひよりみは)ばかり。

閉ざされた高い窓から差し込む光は冷たく、薄暗い中で議員たちの影が長く伸びていた。

椅子のきしむ音が一つ、二つ。

やがて再び、重たい沈黙。

その静まり返った空間で、アントニウスは胸を張って叫んだ。

「我ら三人は!カエサルの遺志を胸に、力を合わせると誓った!」

「アントニウス、レピドゥス、オクタウィアヌスはここに、国家再建三人委員会を立ち上げるものである!」



※レピドゥスって誰だっけ?

 あ、このお話の最初に出てきた熟練の将軍だ。

 三人目はこの人だったんだね。



オクタウィアヌスが一歩前に出る。柔らかい笑顔だ。

『さて、皆さんに承認していただきたいことがあります。事前にお伝えしました統治権限を、正式に、法的に、我々に認めていただきたいのです』


(軍勢をぞろぞろ連れて来て、よく言うよな…)

(ローマを揺らしてるの、お前らじゃないか…なあ?)

「そこのモブ議員二人。そう、あなたたちです」

レピドゥスの低い声が広間に響く。

「あ、いや…」

「わ、我々は、その…」

顔色が瞬く間に青ざめる。


やや間を置いて、別の議員が立ち上がった。

「権限が強すぎる!これでは独裁ではないか!」

アントニウスの鋭い視線が突き刺さる。

議員は喉を鳴らし、口を閉ざした。


それでも数人が声を上げる。

「そうだ!こ、これをそのまま認めるわけにはいかない!」

「じゃあ混乱が収まったあとは、どうなるのだ!?」

「権限は三人で分散することを、条件としたい!」


オクタウィアヌスは微笑んだ。しかしその目だけは笑っていない。

(いいぞ、その条件…こちらの譲歩に見せかければ、より正統性が増すというもの・・・計算通りだ)

『良いですね。話し合いましょう!ここは元老院です』

オクタウィアヌスが続ける。


『さて、皆様のご懸念はもっともです。我々はこの権限を、決して独裁に使うつもりはありません。権限は三人で分散し、期限付きとします。そして混乱解消の後には、必ずあるべき共和政の姿に戻すことをお約束します。これは非常事態ゆえの苦渋の選択なのです。どうかご理解いただきたい。我らはカエサルの志を継ぎ、この混乱を終わらせ、ローマの平和と繁栄を、必ず取り戻します』


再び沈黙。

遠くで鳩の羽音が響いた。


やがて、恐る恐る一人の手が上がる。

「私は、条件付きでなら三人委員会の提案に賛成する・・・」

その瞬間、議場の空気がわずかに揺れた。

二つ、三つ──そして波のように賛同が広がり、反対の声は吸い込まれるように消えていく。


『(賛同の波…これでいい。これが“合法的な力”だ)』


その後数ヶ月の議論の末、妥協案が固まり、ついに成立の瞬間が訪れる。

かつてオクタウィアヌスが提案した「3人でローマを支配する」ことが現実となったのだ。


(カエサルおじさん…こういうことは、堂々とやんなきゃ、ね)


第二次三頭政治(さんとうせいじ)は始まった。

だが、やがてこの三人のうち二人は、オクタウィアヌスにより消えてゆく。

残った一人――この若者こそ、のちのローマ帝国初代皇帝アウグストゥスである。

このとき誰が知っていただろう。千年を超えて続く帝国の幕開けを…


おわり。






真実を全て文章にするのは不可能と気付きました。

自分に一番近い人の思いも、いや自分自身の思いさえ、

文章にすると真実ではなく物語になってしまうから。


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