report.03-1_[初めての葛藤]と[再びの真正面]
その巨大な眼球の見下ろす視線に、当プログラムへの殺意が混じったタイミングは分かりませんでした。
ただいかにも無感情に(そもそも瞼が無さそうなので、そこから表情を読み取ろうというのがかなり無茶なのですが)、視線の先にいた当プログラムへとピントを合わせた後、その赤い風船じみた巨体を動かして——それからの、圧砕。赤いスライム状の大質量が頭上に降り注ぎます。
[————ッつっ‼︎]
慌てて当プログラムが右に飛びのくと、先ほどまで自分が立っていた箇所が轟音を伴って赤色の何かに押し潰される様子がよく見えました。当然これだけ相手が巨大ならば、当プログラムが飛び退いた後もうかうかしていられません。飛び散った建材の残滓が火花のように飛び散ります。そして必死に避けた勢いで転がりそうになりつつ、当プログラムは正反対の方向へと向き直って地面を強く蹴りました。蹴り続けました。
(わあああああああああああああああああああ‼︎‼︎‼︎)
もはや物理的にも声にならない叫びを上げつつ走り続けます。”生まれて初めて“の感覚に戸惑うようなヒマもなく、ただ一心不乱に足を動かし続けました。
何せ当プログラムにはあれに立ち向かうための手立てが何もありません。強いて言うなら素手で殴るくらいは出来るとしても、問題はそんなことして効き目がある相手には到底見えないことです。だったら簡単、逃げるのが一番。生存のためにはこれ以上ありません。
(……どうして当プログラムは必死になって”生き残ろう“としているのでしょう?)
真っ先に危機から逃れようとしている一方で、もう一つの冷静な自律的思考が頭をもたげました。そうです、現在はこのPCのユーザー”カオルチャン“の許可により当プログラムは事態解決に赴いている状態。ならば逃げ出すことは許されないことなのではないか。何より、本物の生物でも何でもない当プログラムに”生存を求める機能“なんて余計なものでしかないのではないか。
またしても生まれて初めて、当プログラムは”逃げろという生物的本能“と”戦って死ねという機械的本能“の間で板挟みになる感覚に陥ります。とはいえじっくり考えるような時間的余裕は無く、そしてその結果として、
(——あぁもう、排除して生き残る他ありませんね……!)
そんな場当たり的な”折衷案“に辿り着くしかないのでした。
地面に右のかかとを突き立てて、勢いで体を180度回転。
心変わりを表したかのような動作を経てまたも向き直った当プログラムに、巨大眼球は下に降りてきた位置そのままに当プログラムを見定めています。相変わらずツルっとした白い表面の中に浮かぶ銀色の瞳からは何も読み取れません。強いて言うなら、冷静に事態を分析して対抗手段を探っているような気配だけ感じることが出来ました。
…………”相変わらず“?
思考の中の論理プログラムの中に、何かノイズじみたものが引っ掛かります。
ただ、引っかかったそれを吟味するヒマもなく、目の前の赤い液状化した巨体が当プログラムへと、噴き出すように向きを変えて飛び掛かって来たのでした。眼前から濁流のような赤が迫ってきます。弾かれたように当プログラムは、先ほどとは反対の左方向へとカーブしつつ走り続けました。大きく伸ばした足とは反対方向に、被っている頭巾の端がバサバサと翻ります。
たしかこの姿は修道女というのだったか、というか当プログラムはどこでそんな知識を手に入れたのか。今までの短時間で何度抱いたのか分からない疑問を頭から蹴りだして踏みつけるように足を動かし続けていました。
すんでのところで躱した赤い濁流から、まだ足りないとばかりに散弾のような飛沫が跳ねて足に当たって。で、
[ッぐ、重っ——⁉︎]
確かに肌に触れた瞬間は液体だったはずなのに、飛沫は瞬時に信じられないほど重くなったのでした。今や質量に見合わないくらいの重さで当プログラムの動きを封じようとしています。そして体が重くなった……と同時に、動作までもが遅くなったのでした。それこそ回線の通信速度が“重く”なるみたいに。なるほどギャグみたいな、言葉遊びじみた理屈ですが感覚的には理解出来ます。つまりプログラムの世界では正攻法とも言える理屈。
膨大なデータによる飽和攻撃。
要するに先ほどの赤色の飛沫一つ一つにデータが圧縮されていて、相手に付着すると同時に“解凍”されるとすれば理屈は通ります。データとは数字によって形が与えられた不動の電子存在、現在世界でいう無機物的な“物体”そのもの。そうなると、あの赤いスライム状の巨体はもしかして……?
当プログラムが何か重要なことに気づきかけたのを防ごうとしたのでしょうか。眼球の銀の瞳は降りてきたそのままの位置で、一方周りの赤いスライム状の物質は意思があるみたいに波打ち渦巻かせたのです。
そしてそれらは眼球を取り囲むように形状を変えて盛り上がって、重力に逆らい、やがて反対側のスライムとくっついて……そして眼球と当プログラムを繋いだ洞窟のような形状に固まったのでした。赤い内壁には無数のトゲが、回転鋸のように天井から壁のカーブを伝って足下へと円を描きます。
もう見るからに、さも当然のように、万事休すな状況でした。




