第3話|宮廷、乱れる
王女の失踪から、半日。
宮廷は、すでに修羅場と化していた。
「誰だ、あの侍女に付き添わせたのは!」
「ちょっと待ってください、指示が出たのは昨日の夕刻──」
「王女殿下が“部屋から”消えたんだぞ!? いつの話をしてる!」
「だから順を追って──!」
怒号と混乱の応酬が、王女宮の一角を支配していた。
臨時に設けられた応接室には、文官と近衛、そして数名の侍女たち。誰がどこまで事情を把握しているのかさえ不明なまま、関係者だけが次々に詰め込まれ、気づけば誰も収拾のつけ方を見失っていた。
「第一近衛はなぜ部屋の前を離れていた!」
「正規の交代時間です、巡回報告も記録されています!」
「現場の結界、異常なしって……どういう意味だ!?」
「わたくしは、ただ……案内を、と……」
混乱の渦中で、若い侍女がぽろぽろと涙をこぼす。
文官は指示を出す者と記録を取る者に分かれ、それぞれが別の方向を向き、報告は積み上がらずに分散するばかりだった。
「第六課は記録まとまったか!」
「証言数が多すぎて……まだ全体の整理が──」
「だからって、出せない理由にはならんだろ!」
「第七課はどうした! 報告が一枚も上がってこないぞ!」
「様式が未確認のままでは出せません! 記録は後でいくらでも直せますが、形式を外れれば無効になります!」
「杓子定規ばかり言ってる場合か!」
「記録がバラバラなら、そもそも証拠になりません!」
互いに責任を押しつけ合い、声を荒らげる文官たち。
第六課は“とりあえず書き残せ”の何でも屋、第七課は“書式を守らねば意味がない”という番人。
正反対の性格が、この場の混乱をさらに膨らませていた。
そんな中、廊下の奥から足音が響いた。
誰かが来る。だが、その足音に応じる者はいない。
「……通せ」
低く落ち着いた声が、一拍遅れて届いた。
場の空気が、一瞬、張りつめる。
「お、お名前を──」
「第六文官局、エグバート=グランヴィルだ」
その名が出た瞬間、応接室の空気が変わった。
文官に近衛、侍女までもが目を見開き、誰もが言葉を呑む。
扉が静かに開かれ、長身の男が現れる。黒髪に簡素な上着、左手には革張りの記録帳。
「本日付、王太子殿下の指示により、聴取記録の臨時統括を預かる。状況を」
声量は抑えめだったが、その語調に“拒めない力”があった。
「グ、グランヴィル文官、ですが……第六が、こうした聴取現場に?」
「この件は“記録に残す”と判断された。だから俺が来た。ただそれだけだ」
その声音はどこか苦笑めいていた。だが、現実味を帯びたその態度が、場にわずかな冷静さを取り戻させた。
文官と近衛たちは、顔を見合わせた。
まるで、異物を前にしたように。
「状況はまだ流動的で……情報が錯綜しておりまして」
「だったら、今ある分だけでいい。手がかりと証言の整理、提出された台帳、近衛の巡回記録──最優先で確認したい」
ひとり、エグバートは歩を進める。
まるで、ここが自分の部署であるかのような無遠慮さ。
けれど、誰も止めなかった。止められなかった。
「姫君に最後に随行した侍女は?」
「エルマです。現在、別室に拘束中──取り調べの途中ですが……」
「記録は誰が?」
「第七課の確認が……まだ、追いついておらず」
言い淀む文官に、エグバートは即座に言い放つ。
「じゃあ、俺がやる。部屋を案内しろ」
「お、待ちください。記録業務は本来、第七課の所掌で──」
「形式より先に、やることがあるだろう」
冷えた声音に、誰も言葉を継げなかった。
実際、この場にいる誰もが知っていた。
第七課が動くには、手順を確認し、許可を得て、様式を整えてから。
だが──そんな余裕は、今はない。
「王太子殿下の命による臨時措置だ。文句があるなら、あとで正式に抗議すればいい。今は、記録を残す」
その口調に押されるように、近衛のひとりが小さく頷いた。
「……こちらへ」
それは“押し通す”のではなく、“当然のように引き取る”態度だった。
記録は混乱の只中でこそ価値を持つ──それを誰よりも理解している者の動き。
応接室の一角、扉の先にある小間。
その中に、ひとりの少女が座らされていた。
侍女服に身を包み、蒼白な顔。
両手は拘束されているものの、その震えからは抵抗の気配はない。
「氏名、部署」
その一言に、少女は肩をびくりと震わせた。
喉が詰まったように言葉を探し、ようやく小さな声を落とす。
「……エルマ。……王女宮付きの、侍女です」
エグバートは頷くと、すぐさま記録帳を開く。
「最後に王女殿下と接触したのは、炎月五日の午前十一時頃。部屋の場所、渡した物品、そのときの第三者の有無──順を追って、教えてもらおう」
「……はい。……あの、渡したものは……なくて。私は、ただ……お部屋まで……」
一言ごとに声が細くなっていく。
「……鏡は、最初から……そこに」
エルマの答えに、エグバートの眉がピクリと動く。
「あの部屋は王妃殿下が亡くなられてから封鎖されていた。それを改装していた最中と記憶している。職人も入っていたはずだ。それなら鏡がある記録は残る。だが──なかった」
「……」
「……そうか。“自然にあるはずのないもの”がそこにあった。それが問題なんだ」
問い詰められ、エルマは唇を噛み、首をすくめた。
小さな肩が震えている。
「……べつに黙っててもいい。けどな、そのとき全部背負うのは、お前だ」
冷えた声音に押されて、少女の瞳に涙がにじむ。
やがて諦めるように、途切れ途切れの声が落ちた。
「……数日前、“殿下がお気に召すはずだから”って……。……鏡を……持っていくようにって……家の人から……」
「“家の人”? 誰の指示だ」
「……」
口を開きかけ、ぎゅっと閉じる。
恐怖ではなく──まだ幼いなりに、“言ったらダメだ”と分かっている拒絶だった。
エグバートは記録帳を閉じなかった。
ただ一拍置き、低く告げる。
「わかった。君の口から聞き出すのはやめにしよう」
「え……?」
「だが、掘り起こすのは俺たちの仕事だ。文官ってのは、そういう生き物だ」
静かな声だった。
けれど、その響きは少女の心を十分に圧していた。
「……記録、以上」
室内は静まり返っていた。
威圧はなかった。怒声もない。ただ、静かな圧と理詰めの問いが重ねられただけだった。
なのに──疲弊していたのは、取り調べを受けた侍女だけではない。
同席していた文官たちの誰もが、肩で息をしていた。
「……この場の記録は、責任を持って第六課が引き取る。今後の聴取も、そちらで行う」
誰かが何かを言いかけたが──結局、言葉にはならなかった。
この場の誰もが理解していた。
“この男が来た”という事実が、すでに異例なのだと。
エグバートは静かに立ち上がる。
手元の記録を一冊にまとめ、文官のひとり──後ろについていた若手に手渡す。
「フロイ、これは控えとして課に回せ。……本部の保管庫じゃない。『第六』に、だ」
「っ、は、はいっ!」
エグバートはそれ以上、何も言わずに振り返った。
「侍女エルマ、引き取る。同行者をつけろ」
「グランヴィル文官、しかし……王太子殿下の名の下とはいえ、他局の記録案件を単独で──」
またしても、中堅文官の誰かが口を挟もうとする。
だが──エグバートは、それにさえ立ち止まらずに言い捨てた。
「文官ってのはな、“言葉”で責任を背負うんだ。書いた記録は、背負う覚悟がある奴が取ればいい」
それきりだった。
彼は、扉の向こうへと去っていった。
蒼白な侍女と、フロイを従えて。
◇◇◇
誰もが沈黙していた部屋に、ようやく息が戻ってくる。
「……なんだったんだ、あの人……」
ぽつりと、誰かが漏らした。
文官たちは、それに応じるように小さく首を振る。
そして、誰かがつぶやいた。
「“第六”って、記録だけのなんでも屋じゃなかったのかよ……」
その声に、別の者が応じる。
「……記録を、どこまでも突き詰めれば、ああなるのかもしれない」
小さな会話が、ぽつぽつと交わされる。
だが──最も深い沈黙を保っていたのは、近衛のひとりだった。
彼は、黙って王女宮の扉の方を見つめていた。
そして、ぽつりと漏らす。
「……グランヴィル殿は、殿下の名を使っていたが……あの方が、今、動けるはずがないのに……」
答えは、誰の口からも出なかった。
けれど、皆が心の中で知っていた。
──最も動きたいはずの人間が、最も動けない立場にある。
だからこそ、あの文官が来た。
誰にも言えないことを、代わりに引き受けるために。
殿下の名を借りながら、実際は己の意志で。
沈黙の奥に、火種の匂いがくすぶっていた。
その夜──宮廷はまだ、混乱の只中にあった。