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これが、恋の始まりだった  作者: Aldith
第1章|消えた王女と揺れる宮廷
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第3話|宮廷、乱れる

 王女の失踪から、半日。


 宮廷は、すでに修羅場と化していた。


「誰だ、あの侍女に付き添わせたのは!」

「ちょっと待ってください、指示が出たのは昨日の夕刻──」

「王女殿下が“部屋から”消えたんだぞ!? いつの話をしてる!」

「だから順を追って──!」


 怒号と混乱の応酬が、王女宮の一角を支配していた。

 臨時に設けられた応接室には、文官と近衛、そして数名の侍女たち。誰がどこまで事情を把握しているのかさえ不明なまま、関係者だけが次々に詰め込まれ、気づけば誰も収拾のつけ方を見失っていた。


「第一近衛はなぜ部屋の前を離れていた!」

「正規の交代時間です、巡回報告も記録されています!」

「現場の結界、異常なしって……どういう意味だ!?」

「わたくしは、ただ……案内を、と……」


 混乱の渦中で、若い侍女がぽろぽろと涙をこぼす。

 文官は指示を出す者と記録を取る者に分かれ、それぞれが別の方向を向き、報告は積み上がらずに分散するばかりだった。


「第六課は記録まとまったか!」

「証言数が多すぎて……まだ全体の整理が──」

「だからって、出せない理由にはならんだろ!」


「第七課はどうした! 報告が一枚も上がってこないぞ!」

「様式が未確認のままでは出せません! 記録は後でいくらでも直せますが、形式を外れれば無効になります!」

「杓子定規ばかり言ってる場合か!」

「記録がバラバラなら、そもそも証拠になりません!」


 互いに責任を押しつけ合い、声を荒らげる文官たち。

 第六課は“とりあえず書き残せ”の何でも屋、第七課は“書式を守らねば意味がない”という番人。

 正反対の性格が、この場の混乱をさらに膨らませていた。


 そんな中、廊下の奥から足音が響いた。

 誰かが来る。だが、その足音に応じる者はいない。


「……通せ」


 低く落ち着いた声が、一拍遅れて届いた。

 場の空気が、一瞬、張りつめる。


「お、お名前を──」

「第六文官局、エグバート=グランヴィルだ」


 その名が出た瞬間、応接室の空気が変わった。

 文官に近衛、侍女までもが目を見開き、誰もが言葉を呑む。

 扉が静かに開かれ、長身の男が現れる。黒髪に簡素な上着、左手には革張りの記録帳。


「本日付、王太子殿下の指示により、聴取記録の臨時統括を預かる。状況を」


 声量は抑えめだったが、その語調に“拒めない力”があった。


「グ、グランヴィル文官、ですが……第六が、こうした聴取現場に?」

「この件は“記録に残す”と判断された。だから俺が来た。ただそれだけだ」


 その声音はどこか苦笑めいていた。だが、現実味を帯びたその態度が、場にわずかな冷静さを取り戻させた。

 文官と近衛たちは、顔を見合わせた。

 まるで、異物を前にしたように。


「状況はまだ流動的で……情報が錯綜しておりまして」

「だったら、今ある分だけでいい。手がかりと証言の整理、提出された台帳、近衛の巡回記録──最優先で確認したい」


 ひとり、エグバートは歩を進める。

 まるで、ここが自分の部署であるかのような無遠慮さ。

 けれど、誰も止めなかった。止められなかった。


「姫君に最後に随行した侍女は?」

「エルマです。現在、別室に拘束中──取り調べの途中ですが……」

「記録は誰が?」

「第七課の確認が……まだ、追いついておらず」


 言い淀む文官に、エグバートは即座に言い放つ。


「じゃあ、俺がやる。部屋を案内しろ」

「お、待ちください。記録業務は本来、第七課の所掌で──」

「形式より先に、やることがあるだろう」


 冷えた声音に、誰も言葉を継げなかった。

 実際、この場にいる誰もが知っていた。

 第七課が動くには、手順を確認し、許可を得て、様式を整えてから。

 だが──そんな余裕は、今はない。


「王太子殿下の命による臨時措置だ。文句があるなら、あとで正式に抗議すればいい。今は、記録を残す」


 その口調に押されるように、近衛のひとりが小さく頷いた。


「……こちらへ」


 それは“押し通す”のではなく、“当然のように引き取る”態度だった。

 記録は混乱の只中でこそ価値を持つ──それを誰よりも理解している者の動き。


 応接室の一角、扉の先にある小間。

 その中に、ひとりの少女が座らされていた。


 侍女服に身を包み、蒼白な顔。

 両手は拘束されているものの、その震えからは抵抗の気配はない。


「氏名、部署」


 その一言に、少女は肩をびくりと震わせた。

 喉が詰まったように言葉を探し、ようやく小さな声を落とす。


「……エルマ。……王女宮付きの、侍女です」


 エグバートは頷くと、すぐさま記録帳を開く。


「最後に王女殿下と接触したのは、炎月五日の午前十一時頃。部屋の場所、渡した物品、そのときの第三者の有無──順を追って、教えてもらおう」


「……はい。……あの、渡したものは……なくて。私は、ただ……お部屋まで……」


 一言ごとに声が細くなっていく。


「……鏡は、最初から……そこに」


 エルマの答えに、エグバートの眉がピクリと動く。


「あの部屋は王妃殿下が亡くなられてから封鎖されていた。それを改装していた最中と記憶している。職人も入っていたはずだ。それなら鏡がある記録は残る。だが──なかった」

「……」

「……そうか。“自然にあるはずのないもの”がそこにあった。それが問題なんだ」


 問い詰められ、エルマは唇を噛み、首をすくめた。

 小さな肩が震えている。


「……べつに黙っててもいい。けどな、そのとき全部背負うのは、お前だ」


 冷えた声音に押されて、少女の瞳に涙がにじむ。

 やがて諦めるように、途切れ途切れの声が落ちた。


「……数日前、“殿下がお気に召すはずだから”って……。……鏡を……持っていくようにって……家の人から……」

「“家の人”? 誰の指示だ」

「……」


 口を開きかけ、ぎゅっと閉じる。

 恐怖ではなく──まだ幼いなりに、“言ったらダメだ”と分かっている拒絶だった。


 エグバートは記録帳を閉じなかった。

 ただ一拍置き、低く告げる。


「わかった。君の口から聞き出すのはやめにしよう」

「え……?」

「だが、掘り起こすのは俺たちの仕事だ。文官ってのは、そういう生き物だ」


 静かな声だった。

 けれど、その響きは少女の心を十分に圧していた。


「……記録、以上」


 室内は静まり返っていた。

 威圧はなかった。怒声もない。ただ、静かな圧と理詰めの問いが重ねられただけだった。


 なのに──疲弊していたのは、取り調べを受けた侍女だけではない。

 同席していた文官たちの誰もが、肩で息をしていた。


「……この場の記録は、責任を持って第六課が引き取る。今後の聴取も、そちらで行う」


 誰かが何かを言いかけたが──結局、言葉にはならなかった。


 この場の誰もが理解していた。

 “この男が来た”という事実が、すでに異例なのだと。


 エグバートは静かに立ち上がる。

 手元の記録を一冊にまとめ、文官のひとり──後ろについていた若手に手渡す。


「フロイ、これは控えとして課に回せ。……本部の保管庫じゃない。『第六』に、だ」

「っ、は、はいっ!」


 エグバートはそれ以上、何も言わずに振り返った。


「侍女エルマ、引き取る。同行者をつけろ」

「グランヴィル文官、しかし……王太子殿下の名の下とはいえ、他局の記録案件を単独で──」


 またしても、中堅文官の誰かが口を挟もうとする。

 だが──エグバートは、それにさえ立ち止まらずに言い捨てた。


「文官ってのはな、“言葉”で責任を背負うんだ。書いた記録は、背負う覚悟がある奴が取ればいい」


 それきりだった。


 彼は、扉の向こうへと去っていった。

 蒼白な侍女と、フロイを従えて。


◇◇◇


 誰もが沈黙していた部屋に、ようやく息が戻ってくる。


「……なんだったんだ、あの人……」


 ぽつりと、誰かが漏らした。

 文官たちは、それに応じるように小さく首を振る。

 そして、誰かがつぶやいた。


「“第六”って、記録だけのなんでも屋じゃなかったのかよ……」


 その声に、別の者が応じる。


「……記録を、どこまでも突き詰めれば、ああなるのかもしれない」


 小さな会話が、ぽつぽつと交わされる。

 だが──最も深い沈黙を保っていたのは、近衛のひとりだった。

 彼は、黙って王女宮の扉の方を見つめていた。

 そして、ぽつりと漏らす。


「……グランヴィル殿は、殿下の名を使っていたが……あの方が、今、動けるはずがないのに……」


 答えは、誰の口からも出なかった。

 けれど、皆が心の中で知っていた。

 ──最も動きたいはずの人間が、最も動けない立場にある。


 だからこそ、あの文官が来た。

 誰にも言えないことを、代わりに引き受けるために。

 殿下の名を借りながら、実際は己の意志で。


 沈黙の奥に、火種の匂いがくすぶっていた。

 その夜──宮廷はまだ、混乱の只中にあった。

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