第2話|急報、学び舎へ
──その日、昼休みの終わり。
王立学園の中庭は、初夏の陽光とざわめきに満ちていた。
誰もまだ、このあと訪れる報せを知る由もない。
若葉を揺らす風が、校舎の一隅を撫でていく。
そこでは、互いに気を許し合うように、ふたりの少年が言葉を交わしていた。
ひとりは、王太子エドワルド。
名の重みを当然のように背負いながら、それを誇ることも飾ることもなく──
昼食代わりの果実を、淡々と口に運ぶ姿には、気負いの気配は見えない。
その向かいにいるのは、セイル=クレイド。
今春、庶民枠から首席で入学した新入生。
身分差など最初から存在しないかのように、彼はごく自然にそこにいた。
すでに王太子に信頼され、“話し相手”としての立場を確立しつつある。
「昨日の試作、起動はしたけど、三秒で過熱しました」
「そうか? ひょっとして、魔核が未調整のままだったのか?」
「はい。……ただ、配列は安定してました。理論通りなら、再調整すれば持続するはずです」
「なら仕方ない。……帰ったら、再構築しておく」
軽口を交わすふたりの間には、肩肘張った空気は微塵もない。
その穏やかさは、信頼と実力に裏打ちされたものだった。
──だが、そんな空気を断ち切るように、従者の足音が近づいてくる。
駆け込んできたのは、王家直属の従者。側近のひとりだ。
「エドワルド殿下──!」
その名を呼ぶ声が響いた瞬間、周囲のざわめきがぴたりと止まった。
学園の昼下がりに、目に見えない緊張が走る。
エドワルドは声の主をひと目見ただけで、立ち上がる。
その眼差しには、さっきまでの柔らかな光がすでに消えていた。
「……なにがあった」
静かに問うた声は、鋭く張り詰めている。
従者はひと呼吸おき、言いにくそうに告げた。
「……姫様が……姿を消されたと!」
「姿を消した、だと?」
「は、はい……目撃した者はおりません……」
「馬車を回せ。すぐに城へ戻る」
「すでに手配済みです。正門前に──」
「殿下……」
隣から声をかけたのは、セイルだった。
心なしか、いつもより低く沈んだ声。
「何もなかった。おまえは、ここに残れ」
エドワルドは、振り返らずに告げる。
「……はい」
セイルは短く返し、深く頭を下げた。
自分の立場では王城への同行は許されない。そして、エドワルドは「何もなかった」と告げた。
それがすべて──そう理解していたからこそ、彼は口をつぐんだ。
◇◇◇
馬車の車輪が土煙を上げて、王都の石畳を駆け抜けていく。
エドワルドは窓の外を一瞥したきり、一言も発していなかった。
指先に残るのは、握りつぶした果実の香り。昼食の果物の甘い香りが、今となっては場違いなほどに遠かった。
アリシアが──妹が、いなくなった。
どこに、どうやって? なぜ? そもそも、信じられない。
だが、従者の顔つきから見て、ただの取り違えや聞き間違いでないことは明白だった。
(まさか、本当に……)
口の中が、からからに乾いていた。
拳を握る。気がつけば、もう王城の塔が視界に入ってきていた。
◇◇◇
一方、残された学園では、昼休みのざわめきが徐々に戻りつつあった。
けれど中庭の一角──先ほどまで王太子が腰掛けていた場所には、妙な静けさが残っている。まるで、言葉の届かない余韻だけが、そこに置き去りにされたように。
セイルは、芝生の上に伏せられていた本を無言で拾い上げ、視線を避けるように立ち上がる。
そのまま木陰へと歩みを向けた。制服の肩に揺れる木漏れ日が、なぜかひどく遠いものに思えた。
──王女殿下の失踪。
声として交わされたはずの会話は、誰にも聞かれていない。けれど、それでも。
空気が変わったことに気づいた者はいた。不安という名のざわめきが、どこかで芽吹いていた。
「殿下、急に帰られたけど……何かあったのかな」
「やっぱり王族って、ああいうときの顔つきが違うね……」
そんな声が遠巻きに聞こえてくる。
(……王女殿下が、消えた)
自分の耳を疑った。
しかしエドワルドの反応──あの瞬間の眼差しは、ただごとではなかった。
(何が、あった?)
セイルは拳を握った。だが、その手はかすかに震えていた。
胸の奥が熱くなり、喉は焼けつくように乾いていく。
慌てて背中に手を隠しながら、奥歯を噛みしめる。
自分はまだ、なにも知らされていない。知る資格も、立場もない。
それでも──どうしても、ただの“学友”としてやり過ごせる気がしなかった。
いつもなら、エドワルドの帰城は冗談のひとつも言って見送るのに。
今回は、それができなかった。
◇◇◇
馬車が王城の中門に滑り込むと、すでに玄関前には近衛の数人が詰めていた。
その異様な配置に、エドワルドはただならぬ緊張感を読み取る。
「殿下がお戻りになられました!」
その声に出迎えたのは、父王の直属部門に所属する近衛副長。普段はあまり表に出ない人物が直々に立っている。それだけで、事態の深刻さが伝わる。
「報告を」
「王女殿下が……失踪されました」
その言葉に、エドワルドは歩を進めた。
「……場所は?」
「王女宮内の一室。もとは王妃殿下の私室だった部屋です」
「侍女は何をしていた」
「……付き添っていた者の証言では──」
「では、見ていたのか?」
「は、はい。王女殿下が鏡に触れた直後、忽然と姿を消されたと」
「鏡……?」
彼の眉がぴくりと動いた。だが──考えるより先に、足が勝手に動いていた。
妹が消えたといわれた部屋の扉。その前には、近衛とアリシアが信頼している侍女、マティルダの姿が見える。
「……マティルダ!」
呼びかけに応じ、マティルダが顔を上げた。その顔に、いつもの凛とした影はなかった。
「……アリシアは」
一瞬、彼女は言葉を失う。唇が震え、沈黙ののちに絞り出す。
「……お姿は、どこにも」
その言葉に、エドワルドは扉の向こうを見つめた。
まだ幼い妹。その姿が、跡形もなく消えた?
信じられない。信じたくない。だが──事実として、彼女はそこにいない。
「術師は?」
「ただいま調査中です。……術式痕跡は、今のところゼロとのこと」
近衛の淡々とした口調での報告。だが、語られる言葉は異常でしかない。
ゼロ──つまり、最初から、そこに存在しなかったかのように。
「……ありえない」
低く呟いた声に、傍らの近衛が思わず息を呑んだ。
その声音には、まだ十七の若者に似つかわしくない硬さが宿っていた。
扉を開けた瞬間、室内は不自然なほど整っていた。
倒れた椅子も、破れた帳もない。まるで、誰もいなかったかのように。
「……この部屋には、誰が最初に入った」
絞り出す声に、マティルダが応じた。
「わたくしと、第一近衛の副長です」
「その時、アリシアは?」
「すでに……姿はありませんでした」
一瞬、空気が凍りつく。
エドワルドは目を伏せ、深く息を吐いた。
術師の報告では、転移痕跡も魔力の乱れもない。
だが──そんなはずがあるものか。
「……偶然などではない」
言葉と同時に、彼の眼差しが鋭く光を帯びる。もはや少年と呼ぶには遠い気配だった。
「誰かが、仕組んだ」
王宮の内部で、魔力の痕跡すら残さず、王女が“消える”など──常識的に考えてあり得ない。
ならば、常識では測れない何かが、ここで起きたということ。
「……エグバートを呼べ」
「第六課の……ですか? ですが、あの課はこういう事態には不慣れでは──」
「不慣れでも構わん。彼なら必ず見抜く。王太子の命だ、すぐに動かせ」
近衛の問いかけに、エドワルドは即答した。
「解析と報告、両方だ──同時に進めろ」
その瞬間、王女宮に重い緊張が走った。
──兄としての動揺を、封じ込めるように。
──王太子として、己の務めを全うするために。
エドワルドは、唇を噛みしめた。
(アリシア……必ず見つけ出す。どんな手を使ってでも)
この事態をこのままにしておくことはできない。
彼自身の知らぬ鍵が王宮の”内”にある──直感が、そう告げていた。
窓の外では、初夏の陽がまだ明るく差している。
だがその日、王宮の空気は、誰もが息を呑むほど重く、冷たかった。