第1話|消えた王女
その日、王都には柔らかな陽光が差し込んでいた。
初夏の風がそよぎ、炎月五日の空は澄みきっている。
王宮の中庭には花々が咲き誇り、芝生を踏む侍女たちの足音が遠くから淡く響いていた。
午前の講義を終えたアリシアは、侍女とともに宮内の小間で軽い昼食をとっていた。
温かなポタージュに焼きたてのパン。小皿には果実のコンポートが彩りを添える。
食卓のそばで、ふと髪に揺れる白百合の飾りに気づく。
今朝、マティルダが編み込んでくれたものだった。王家の象徴でもある花は、金色に輝く髪に映え、幼い横顔をいっそう可憐に見せていた。
「……姫様」
おずおずと声をかけてきたのは、付き添いの侍女エルマだった。
落ち着かない声音に、アリシアはぱちりと碧の瞳を瞬かせる。
「どうかしたの、エルマ?」
「その……ご案内したいお部屋がございます」
「お部屋? 今日はそのようなお約束はなかったはずよ」
「はい。ですが……王太子殿下より、ぜひ姫様にご覧いただきたいと伺いました」
アリシアは小首を傾げ、柔らかな金髪が肩で揺れる。
本来なら女官長フェルミナを通すべき話。けれど「お兄さまから」と聞いた瞬間、胸の奥に小さな灯がともった。
「お兄さまから……? 本当に?」
「はい。王太子殿下からのお使いが参りましたので」
「そうなのね……じゃあ、ちょっと見に行ってみたいわ」
そうして二人は、人目の少ない廊下へと足を向ける。
向かう先は王女宮の奥、普段は使われていない小部屋だった。
「このお部屋……?」
「はい。亡き王妃様のお部屋だったそうです」
エルマは小さく俯き、声を落とす。
「改装が済んでいるそうで……正式にお使いになる前に、ご覧いただきたいと」
「お母さまのお部屋……」
アリシアの胸に、不思議な緊張と、どこか懐かしい響きが芽生える。
「けれど……鍵は閉まっていないの?」
「はい。作業の出入りが多く、今は施錠されていないと伺いました」
アリシアは小さく息を吸い、不安げに、けれど確かな意志を宿して扉へと手を伸ばした。
磨かれた木の扉は年季を感じさせつつも、軽い音を立てて静かに開く。
中に広がっていたのは、まるで時間が止まったかのような空間だった。
日差しに照らされたレースのカーテン。金糸を織り込んだクッション。壁際の化粧台には、古風な銀の手鏡がぽつんと置かれている。
「……なんだか、絵本の中のお部屋みたい!」
アリシアは碧の瞳をきらりと輝かせ、小走りに部屋の中へ。
エルマが慌てて追いかけるが、アリシアは化粧台にあった手鏡を手に取っていた。
「ほら、見て。縁に百合の模様が……わたしの髪飾りとおそろいみたい!」
嬉しそうに笑いながら、銀の鏡を覗き込む。
「姫様、その鏡は──!」
エルマの声がわずかに裏返った。
胸の奥で黒い言葉が蘇る。
(“鏡に触れさせろ。その後は、お前が私のところへ持って来ればいい……それだけでいい”)
「え? どうして? ただの鏡よ」
無邪気な笑みを浮かべて振り返るアリシア。
「……っ、いえ……っ!」
エルマは手を伸ばそうとしたが、一歩遅かった。
空気が凍り、光が揺れ、アリシアの小さな身体が掻き消える。
「姫様ぁぁっ!!」
エルマの悲鳴。床にカラン、と乾いた音を残し、銀の手鏡だけが転がった。
「うそ……」
蒼白になったエルマが膝をつき、震える指で鏡を拾い上げる。
(どうしよう……どうすれば……っ! で、でも……鏡だけでも……!)
よろめきながら部屋を飛び出し、廊下で叫んだ。
「姫様が──姫様が消えましたっ!」
その声が反響し、扉の外にざわめきが走る。
「今の声は!?」「何が──」
侍女たちがざわめき、廊下に緊張が走る。
「姫様が──姫様が消えましたっ!」
泣き声混じりに叫ぶエルマ。胸に抱えた鏡が小刻みに震えている。
「なにを言っているの、エルマ!」
真っ先に顔色を変えて飛び出したのはマティルダだった。
「姫様はどこ!? 答えなさい!」
「わ、わたし……わからなくて……っ!」
エルマが言葉を詰まらせた瞬間――
「止まれッ!」
近衛兵の怒声が廊下を裂いた。
強い腕に掴まれた拍子に、エルマの手から鏡が落ち、硬い音を立てて石畳に跳ねる。
「下がれ! 近衛以外は近づくな!」
「医務官を呼べ!」「術師もだ、魔術の気配がある!」
怒号と指示が飛び交い、侍女たちの悲鳴が重なる。
「姫様を……っ!」
エルマは涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら、その言葉しか紡げなかった。
「誰か、部屋を封鎖して!」
マティルダの声が、かき消されそうになりながらも響いた。
「お願いです、あの部屋には誰も入れないで! 姫様が、そこに……!」
廊下の空気が張り詰める。
剣の鞘が鳴り、足音が響き、次々と人が集まってきた。
混乱の渦のただ中で、マティルダは震える指先を必死に握りしめる。
(私がすぐ外にいたのに……どうして守れなかったの……!)
涙をこらえ、足を踏みしめる。
王女付きとして──現場を守る責務がある。
マティルダは近衛の前に一歩進み出る。
「……私がここに立ちます。どうか扉の内には誰も入れぬように」
混乱と怒号の中、彼女の声だけが硬く張り詰めていた。
炎月五日。
王女アリシア失踪の第一報は、まもなく王女宮の上層へと届けられる。
しかし、現場はいまだ混乱のさなかにあった。
「……この鏡、触らないで。慎重に布で包んで、術師の確認が終わるまで誰にも渡さないでください」
指示を飛ばしながらも、マティルダはその場を動こうとしない。
どんな些細な手がかりも見逃さぬよう、扉の前で気配を探る。
だが、内側からはアリシアの気配も、魔力の余韻すらも感じられなかった。
そこにあるのは、ただ空虚だけ。
(本当に、痕跡ひとつ残さず……?)
胸の奥に言いようのない不安が広がる。
目の前から主が消えた──その現実を、心が拒んでいた。
「……そんな……」
震える手を胸元に当てたとき、背後から女のすすり泣きが聞こえた。
捕縛されたエルマが、座り込んだまま鏡を見つめ、呆然としている。
「わたし、なにも……あの、ただ……言われた通りに……」
その声に、マティルダの眉がわずかに動く。
だが、いまは問い詰めている場合ではない。
すでに近衛が動いており、エルマの身柄は保護され、事情聴取のために別室へと連れて行かれる。
廊下に重々しい足音が響き始めた。
王宮内の騎士、文官、そして王立魔術院の術師たちが、次々と現場に向かってくる。
王女が消えた──その報は、まだ正式には広まっていない。
それでも、異様な空気が王女宮全体をゆっくりと包み込みつつあった。
「……誰か、急報を第六課へ。上申文の準備を」
侍女のひとりが小声で告げると、すぐさま別の侍女が問い返した。
「で、でも本当に……姫様が消えたのですか?」
「目の前で、忽然と……! もう確認するまでもありません!」
声が重なり、周囲の空気はさらに張り詰めていく。
マティルダは扉を振り返りながら、低く言い放った。
「今は動揺している場合ではありません。ここは──現場です。侍女たちは一歩も近づかないように」
「は、はい……!」
鎧の擦れる音、巻物を抱えた文官の息切れ。
「王女殿下は……?」
「失踪だ。詳しいことはまだ……!」
「封鎖を優先しろ、誰も入れるな!」
廊下には怒号と足音が渦を巻き、秩序は瞬く間にのみ込まれていく。
そして──その知らせは、数分後。王城から少し離れた王立学園に届くこととなる。
中庭に駆け込んだ従者が、肩で息をしながら声を上げた。
「殿下──姫様が……姫様が行方不明に!」
「なに……?」
一報を受けた相手は目を細める。
「もう一度言え」
「姫様が……王女アリシア様が、忽然と姿を消されたと……!」
短い沈黙。
周囲のざわめきが、潮のように引いていく。
「……アリシアが?」
まだ少年の面影を残す青年は、静かに立ち上がった。
その声は低く、だが確実に中庭全体を震わせていた。