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これが、恋の始まりだった  作者: Aldith
第0章|白い花の贈りもの
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【前日譚SS】白い花の贈りもの④ お姉さまと呼んで、いいですか?

 午前の授業が終わったあとの静けさは、宮のどこか遠くで響く鐘の音にさえ気づけるほどだった。

 春の陽射しが射し込む王女宮の小部屋で、アリシアは椅子にもたれ、机の上に広げたままの本とペンを見つめていた。すぐそばの窓では、カーテンが風に揺れ、葉擦れの音がささやくように重なっている。


 十歳になって三日目。

 王女宮での生活にも、ようやくわずかな慣れが生まれはじめていた。

 今日は、朝から礼法の授業があった。

 挨拶の角度、目線の合わせ方、指の揃え方。細やかな所作ひとつひとつに意味があり、相手への敬意が宿るのだと先生は繰り返し話してくれた。

言葉を思い出しながら、アリシアは自分の手元に視線を落とす。揃えたはずの指先、意識して伸ばした背筋。

けれど──どこか、まだぎこちない。

それは体ではなく、心にあるのかもしれない……そう感じている自分に気づく。


 王女宮が正式に与えられてからというもの、訪れる人も、話しかけてくる人も増えた。

 誰もが丁寧で、敬意をもって接してくれる。彼女の前では、ひとりの少女ではなく“王女アリシア”として振る舞おうとする大人たち。

 それは誇らしいことだった。けれど──

 時折、心のどこかがきしむような感覚に襲われた。


(こんなふうに感じるのは、贅沢なのでしょうか)


 自分で自分に問いかけてみても、はっきりした答えは返ってこない。

 気づかれないように笑って、きちんとお辞儀をして、話すときは優しく──

 誰にでも好かれる王女であろうと努める──けれど、そのたびに胸の奥が少しずつ擦り減っていくのを感じていた。


 もう少し、誰かの声が聞きたかった。

 そう思ったとき、自然と心に浮かんだのは、いつもそばにいる侍女──マティルダの姿だった。


 彼女は控えめで、必要以上の言葉は発さない。けれど、気づくべきことはいつも気づいてくれる。

 今朝も、支度の途中で背中のリボンが少し緩んでいたのを、何も言わずに直してくれた。

 その手つきが、まるで羽根のように優しかったことを、アリシアは思い出していた。


 立ち上がると、部屋の入口の方を向いて声をかける。


「……マティルダ」


 ほんの少しの間を置いて扉が静かに開く。

 いつもと変わらぬ穏やかな顔のマティルダがすっと入ってくるのを見て、アリシアは胸の奥がふっと軽くなるのを覚えた。


「お呼びですか、アリシア様」


「はい。あの、少しだけ──わたくしとお話、していただけませんか?」


 思いのほか自分の声が柔らかかったことに、アリシア自身が驚く。


「……ねえ、ここに座ってくださらない?」


 ソファをぽんぽんと小さく叩いてみせる仕草は、ほんの少し子供っぽい。

 マティルダは一瞬だけ目を見開いたが、すぐに柔らかな笑みで従った。


「もちろんです。お茶をお持ちしましょうか?」


「ううん、今日は……そういうのではなくて」


 アリシアは、そっとソファに向かう。

 その歩みを見守っていたマティルダも、少し躊躇うような間のあと、静かに隣へと腰を下ろした。


 ふたりの間には、しばし静かな沈黙が流れた。

 ソファに腰を下ろしたアリシアは、膝の上で手を重ねたまま、何度か迷うように口を開きかけて──それでも、すぐには言葉にできなかった。


 部屋の奥では、窓からの光が壁を這い、花模様の刺繍が影を帯びて揺れている。

 その穏やかなゆらめきが、ほんの少しだけアリシアの心を押してくれた。


「マティルダは……わたくしのこと、どう思っていらっしゃいますか?」


 それは、王女から侍女へ向ける問いとしては異質だった。

 けれどマティルダは眉ひとつ動かさず、静かにアリシアを見つめ返した。


「アリシア様のこと、ですか?」


「はい……“王女”として、ではなくて。……いまのわたくしのことを」


 言ってから、思ったよりも声が震えていたことに気づいた。

 胸の奥に、まだ見えていなかった不安のしこりがあることを、アリシアはようやく知った。


 マティルダは何も言わず、ほんのわずかに姿勢を整える。

 指先が膝の上で静かに揃え直されるのを、アリシアは横目で捉えた。


「アリシア様は……毎日、よくがんばっていらっしゃいます」


 その声は、柔らかく、そして真っ直ぐだった。


「どなたにでも笑顔を向けて、敬意を忘れず、よく耳を傾けていらっしゃる。それがどれほど立派なことか、皆さまもきっとお気づきのはずです」


「……でも、それが“王女”であるなら、“アリシア”は……どこへ行けばよいのでしょうか」


 ぽつりとこぼれた言葉に、マティルダの視線が一瞬だけ揺れた。

 けれど、彼女はすぐにその微細な揺れをたたみこみ、かすかな笑みを返す。


「どちらも、アリシア様です」


「……え?」


「王女としての振る舞いも、少女としての揺らぎも、どちらも今のアリシア様の一部ですわ。無理に切り分けようとしなくていいのです」


 その言葉は、押しつけがましくなく、ただ真実だけを静かに伝えていた。

 アリシアは息をひとつのみこみ、それから、視線をそっとマティルダへ向け直した。


「……マティルダは、わたくしが八歳のときから、ずっと一緒にいてくださっていますね」


「はい。初めてお目にかかったときのこと、よく覚えております」


「あのとき……わたくしが転びそうになったのを、咄嗟に支えてくださった。……あれが、最初でしたわね」


「ええ。お膝をすりむかずに済んだのは、今でもよかったと思っております」


 ふたりの間に、ふっと微笑みが生まれた。

 そして、アリシアはまっすぐにマティルダを見つめながら、そっと言葉を続けた。


「そのときから──わたくしは、ずっと……マティルダのことを、お姉さまのように思っておりましたの」


 その一言は、彼女の胸の内に長くあったものだった。

 ようやく言葉にした今、胸の奥に張りついていた重さがすうっと溶けていく気がした。

 言い切ったあと、アリシアは無意識にマティルダの袖を指先でつまんだ。

 子供の頃のように、安心を求めるような仕草だった。


 マティルダの表情が、わずかに揺れる。


 いつもの整った微笑みの奥に、言葉にできない何かが浮かんでは消えた。

 それでも、彼女はすぐに落ち着いた声音で答える。


「アリシア様……それは、たいへん光栄なお言葉にございます」


 姿勢を正し、視線をまっすぐに戻すと、深く礼を取る。

 けれどその所作は、いつもよりどこか柔らかく、どこか――あたたかかった。


「では……わたくしが、“お姉さま”とお呼びしても……?」


(もちろん、正式な呼び名ではない。けれど、マティルダはわたくしにとって──特別な人だった)


「はい。よろしければ、そう呼んでくださいませ」


 ゆっくりと、確かに頷くマティルダの声には、ほんのわずかな震えが混じっていた。

 アリシアの言葉が、それほどまでに彼女の胸に届いていたのだ。


 アリシアは小さく息をこぼし、微笑みながら立ち上がった。

 窓辺に歩み寄り、カーテンの隙間から外をのぞく。

 午後の陽射しに照らされて、小さな白い花が揺れる。

 それを見つめながら、彼女はひとつ息を吸い、つぶやく。


「今日は、少しだけ……自分のことを好きになれた気がします」


 その背に向けて、マティルダは言葉を返さず、ただ静かに微笑んでいた。


 王女としての責務。

 それを背負っていくには、まだ道は遠い。

 けれど、今のアリシアには確かに“よりどころ”がある。


 ──それが、たったひとつでも、心に差す灯になるのだ。


 やがて、部屋の時計が一度だけ小さな音を立てる。

 午後の予定までは、あと少し時間がある。


「お姉さま」


 ぽつりと呼びかけた声は、少し照れたようでもあり、それでいて誇らしげでもあった。


「今日は……ここで、少しだけお話してもいいですか? ……眠くなってきちゃったけれど」


 マティルダは頷き、静かにソファの隣を示した。

 アリシアはその隣に腰を下ろすと、少しだけ身体を預けるように寄り添う。


 ふたりのあいだには、言葉よりも静かなぬくもりが流れていた。


 窓の外では、風が枝葉をゆらし、白い花がまた一輪、揺れた。


 アリシアの世界は、またほんの少し、あたたかく広がっていく。

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