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これが、恋の始まりだった  作者: Aldith
第5章|選ぶ者と、選ばれる者
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第5話|交わる視線

 楽の音が収まり、広間に新たな気配が流れ込んだ。舞踏が終われば、次は挨拶の時間である。

 最初に祈りを捧げたのは、ロズベルグ侯爵。

 白薔薇の御名が告げられた瞬間、場の空気が静かに引き締まった。


「やはり最初はロズベルグですわね」

「当然ですわ。聖堂の加護なくしては王家も成り立ちませんもの」

「白薔薇の御加護が、殿下をお守りくださいますように」


 扇の影に交わされる囁きは、敬虔な響きを帯びていた。

 アリシアは胸を張り、兄と並んで応じる。定型の言葉ながら、老侯爵の穏やかな眼差しに包まれると、不思議と緊張が和らぐ気がした。


 続いて二番手、三番手と、高位貴族たちが順に進み出る。

 祝辞は整いすぎて温度を欠くものが多いが、声の張りや沈黙の長さ、差し出す視線の角度が、それぞれの家の思惑を雄弁に物語っていた。


「……でも、まだグラナートが動いていませんわ」

「ええ、公爵家がどう出るかで、この夜会の色合いも決まりますもの」

「嫡子ゼノ様が、どのように振る舞われるのか……皆、注目していますわね」


 扇の陰で交わされる噂は、次第にひとつの名へと収束していった。

 光の下に立つアリシアは、笑みを絶やさぬまま応対を続ける。

 隣の兄エドワルドは、すべてを自然に受け止め、時に短い言葉で場を和ませていた。


 その姿を横目に、アリシアは胸の奥に小さな不安を抱えながらも、王女としてまっすぐに立ち続けていた。


 祝辞の列は途切れることなく続いていた。

 ひとりが進み出て祝辞を述べ、またひとりが深々と頭を垂れる。

 整った言葉が重なり合い、広間の空気は少しずつ重みを増していった。


「殿下のますますのご健勝を――」

「王家のご繁栄をお祈り申し上げます」


 言葉はどれも似ているが、声の張りや姿勢、わずかな間合いの違いに、それぞれの家の色が滲んでいた。


 アリシアは兄と並んで立ち、笑みを崩さずに応じ続けていた。

 口にするのは定型の答辞。ぎこちなさは残るが、崩れることはない。

 隣のエドワルドは自然体で、時折短い言葉を添えるだけで場を和ませていた。


「さすが殿下ですわね」

「妹君も、よくお務めを果たしていらっしゃる」

「ええ……少し緊張しているようにも見えますけれど、それがまた初々しいこと」


 婦人たちの囁きに混じって、若い声も響く。

「王女殿下と直接言葉を交わすなんて……」

「僕なら緊張で噛んでしまうな」

「羨ましいですよ、順番が早い家は」


 くすくすと笑う気配に、場が少し和らいだ。

 同年代の令嬢たちは憧れを隠さず、小声で囁き合う。


「お美しい……本当に」

「隣に立つのが王太子殿下ですけれども、まるで物語の姫君みたいで……羨ましいですわ」


 その声に、アリシアの胸の奥が小さく揺れる。

 注がれているのは“同年代の仲間”としての眼差しではない。

 光の下に立つ王女としての姿だけが見られているのだと、敏感に感じ取っていた。


「……表情が硬いのでは?」

「でも仕方ありませんわ。これほどの場ですもの」


 扇の陰でまた囁きが重なる。

 アリシアは笑みを崩さずに言葉を返し続けた。

 すぐそばの兄の横顔は落ち着き払っていて、その存在が支えとなり、張り詰めた呼吸がわずかに整っていった。


 ――やがて列の先に、ひときわ重い沈黙が落ちた。

 次に歩み出たのは、グラナート公爵家の嫡子、ゼノ=グラナート。

 若き公爵家の後継者として、そしてかつて王女の護衛を務めた人物として、広間にいる誰もが注目していた。


 低く響く靴音が、石床に規則正しく刻まれていく。

 扇の陰に隠された視線も、杯を傾ける仕草も、次第にその一歩に吸い寄せられていった。


「……とうとう」

「やはり、避けては通れませんわね」

「若い頃から殿下のお傍にいらした方……」

「あれほど異例の立場、忘れられるものではありませんわ」


 囁きが波のように広がっていく。

 異例の立場にあった若者が、公爵家の嫡子として表舞台に歩み出る――その一瞬に、場の空気がわずかに揺れた。


 定められた位置に立つと、ゼノは深く頭を垂れる。

「王女殿下のご健やかな成長を、心よりお喜び申し上げます」


 抑えられた声が、広間の空気を震わせた。

 形式に徹した一言。それ以上でも、それ以下でもない。


 アリシアは微笑を保ったまま、定型の言葉を返す。

「ご厚意に、感謝いたします」


 視線がわずかに交わる。

 ほんの一瞬のことだったが、銀青の薔薇を縫い込んだドレスに差し込む光が、その瞳の奥の色を鮮やかに照らした。


 誰もが礼儀正しいやり取りを見たにすぎない。

 だが、その短い一瞬に、空気がかすかに張り詰めたのを感じ取った者もいた。


「……簡素すぎるのでは?」

「いいえ、公爵家の嫡子としては、あれ以上は不要ですわ」

「むしろ、礼を欠かさぬ姿勢が伝わります」


 婦人たちの囁きが、すぐに広間のざわめきへと溶けていく。

 ゼノは深々と礼を終えると、再び静かな歩みで列を離れた。


 その背を見送るように、アリシアはそっと瞬きをした。

 何も言葉を交わさず、ただ定められた挨拶だけ。

 けれど、その視線が確かに自分へ注がれていたことだけは、胸に残っていた。


***


 ゼノが列を離れると、広間に再びざわめきが戻った。

 止まっていた呼吸が一斉に解かれたように、杯が持ち上がり、扇が開く。


「……あれほど簡素な挨拶で」

「それでも強く残りましたわね」

「やはり、ただの護衛では終わらないお方」

「でも、余計なことは一言も口にされなかったでしょう?」

「むしろ、それが潔くて見事でしたわ」


 婦人たちの声が連なり、視線はなおその背を追っていた。


「随分静かな方だな」

「けれど、立っているだけで重みがある」

「羨ましいよ、あの落ち着き。俺なら震えてしまう」


 若い令息たちの囁きは、素直な畏れと羨望を帯びていた。


「無口なお方ほど、余計に気になりますわね」

「ええ……一歩ごとに物語の人物のよう」

「まあ、本当に……胸が高鳴りますわ」


 令嬢たちの憧れの声も重なり、広間のざわめきは円を描くように広がっていく。


 楽師が軽やかな旋律を奏で、杯が触れ合う澄んだ音が響いた。

 アリシアは笑みを崩さずに立ち続けていたが、ほんのわずか前に交わした視線の余韻が胸に残っていた。

 儀礼の一つにすぎなかったはずなのに、その印象は鮮やかすぎて――。


 けれど、顔に出すことは許されない。

 すぐそばではすでに別の当主格が歩み出てきていた。


「殿下、今宵のご健勝を祈り――」

「王家の末永い繁栄を――」


 形式張った言葉が再び続き、広間の空気は次の段階へと移ろっていった。


***


 そして列の終わりを締めたのは、ロズベルグ侯爵。

 白薔薇の名を冠する祈りに、広間全体が静まり返った。


 厳かな言葉に、広間全体がしんと息をひそめる。

 続く侯爵夫人もまた、柔らかな声で祈りを捧げた。

「神々の御加護が、この夜と王家を包みますように」


 その響きに合わせるように、婦人たちの扇が揃って閉じられた。

「やはり白薔薇のお言葉は重みが違いますわね」

「ええ……あの家が語ると、夜会そのものが引き締まりますわ」


 囁きが柔らかな波紋となって広がっていく。


 次々に続く挨拶は形式に徹していたが、その一つひとつに、この夜会が「節目」であることが刻まれていた。

 若い令息たちは杯を傾けながら、互いに視線を交わす。

「……やはり王女殿下は特別だ」

「この先、誰が隣に立つことになるのか」

「考えるだけで緊張しますよ」


 令嬢たちの囁きもまた、熱を帯びていた。

「羨ましい……今夜は物語そのものですわ」

「きっと、この場にいたことを一生語り継ぎますわね」


 ざわめきと祝辞の重なりが、広間を満たしていく。

 楽師が明るい曲を奏で始め、人々の笑みがようやく緩んだ。


 その中心に立ちながら、アリシアは静かに息を整えていた。

 胸に残っているのは、ひとときの視線の余韻。

 けれど今は、王女として、この祝夜を全うすることだけが務めだった。


 光の下で交わされる言葉、杯の澄んだ響き、重なる笑み――

 そのすべてが一つに溶け合い、翠月の祝夜は王都の社交を揺るがす熱の中、盛大に幕を開けた。

 その中央に立つ王女アリシアの姿は、この一夜をいっそう鮮やかに彩っていた。

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