【前日譚SS】白い花の贈りもの③ 扉がひらく、そのまえに
王女アリシアの“新しい朝”は、仄かな花の香りとともに始まった。
十歳の誕生日から一夜明けたこの日、彼女はそれまでの「仮宮」から「王女宮」と呼ばれる空間で目を覚ました。仮宮の頃よりも広く、天井の装飾も少しだけ煌びやか。そして、窓から差し込む朝の光が──これまでよりもずっと明るく感じられた。
新しく集められた侍女たちは少し緊張していた。今日からアリシアは「王女」としての正式な日々を過ごすことになる。衣装も言葉遣いも、些細な振る舞いも、少しずつ変わっていくのだ。
「アリシア様、こちらが本日よりお仕えする女官長でございます」
マティルダの案内で現れたのは、深い紫の正装に身を包んだ、背筋の真っすぐな女性だった。口元にかすかな笑みを浮かべながらも、瞳には品格と責任の色が宿っている。
「はじめまして、アリシア様。わたくし、王女宮の女官長を務めるフェルミナと申します。これから、日々のご生活をお支えしてまいります」
柔らかな声。けれど、言葉の端々にしっかりとした節度があった。アリシアは自然と背筋を伸ばし、深く一礼する。
「……どうぞ、よろしくお願いします」
そのやり取りを見守っていたマティルダが、どこか嬉しげに頷いた。昨日までのアリシアであれば、きっと少し照れたように言葉を濁していたかもしれない。けれど今は──ほんのわずかに、確かに変化していた。
「さて、本日は新しいお衣装をいくつかご確認いただきます。お部屋の衣装棚には、日々のお召し物が揃っておりますが、まずは本日のお散歩用の一着をご用意しております」
そう言って差し出されたのは、淡いクリーム色に金糸をあしらったワンピース。裾には控えめなレースが揺れていて、軽やかな印象を与える。
マティルダに手を引かれ、着替えを終えたアリシアが鏡の前に立つと──
「……わたくし?」
小さな声が漏れた。ふくらはぎまで届く丈、優しく波打つ生地、そして、髪を軽く整えて飾りを添えた後ろ姿。どれも、仮宮で過ごしていた頃とは違っていた。
それでも不思議と、背筋が自然と伸びる。
「とてもお似合いです、アリシア様」
「本当?」
ちょっと不安気なアリシアの声にフェルミナが微笑む。そのまま、衣装棚に並ぶドレスへとアリシアを導いていく。
「こちらのドレスはどれもアリシア様のためにご用意されたものです。最初はわたくしがご一緒に選びます。そうやって、少しずつ覚えていきましょうね」
衣装棚に並ぶドレスたちは、色も形も多彩なもの。アリシアの王女としての時間が、いま静かに動き始めようとしていた。
新しい衣装に身を包んだアリシアは、女官長フェルミナの案内で王女宮の一角に設けられた談話室へと向かっていた。
談話室には、すでに今朝から仕える侍女たちの姿が整然と並んでいる。アリシアの年齢に合わせてあるのか、少女という印象の強い侍女たち。だからこそ、ざわついた雰囲気もある。だが、アリシアが入ると同時に一斉に礼を取る姿。
その仕草は整っていて、練習を重ねてきたことがうかがえた。
「皆、本日よりアリシア様にお仕えいたします。どうぞ、よろしくお願いいたします」
フェルミナの言葉に合わせて、侍女たちが声をそろえて頭を下げる。アリシアはわずかに目を見張った。
──ほんとうに、今日から変わるのだと。
胸の奥で、目には見えない何かがすっと張り詰める。
「これから、お世話になります。……どうぞ、よろしくお願いしますわ」
その返礼は、昨日までのアリシアならためらったかもしれない。だが今は違う。
誕生日の夜、家族だけの祝宴の席で父と兄に言葉を届けたあの瞬間──
あの小さな一歩が、確かに背中を押してくれていた。
「では、次に控室へまいりましょう。午前中に予定されているのは、身の回りの調度品や化粧箱、文机の使い方のご説明です」
フェルミナは常に穏やかだった。言葉遣いも所作も柔らかい。今まで乳母しか知らなかったアリシアには頼りになる大人の女性という印象が一段と強くなった瞬間だった。
それだけではない。彼女のすべてがきちんと「王女に仕える者」として揺るぎない。
その佇まいは、アリシアにとって新しく、そしてどこか頼もしくもあった。
控室の奥には、新調された化粧箱が並んでいた。
蓋を開けると、中には少女向けの香油や、王女用に選ばれた筆記具の数々が整然と収まっている。
「こちらはアリシア様専用の筆箱です。文字の練習やお便りの際は、こちらをお使いくださいませ」
フェルミナがひとつを取り出して差し出すと、アリシアは目を丸くした。
「わたくしの……? ほんとうに?」
「ええ。どれも『王女アリシア様』のために誂えられたものです」
マティルダが隣で微笑む。アリシアは恐る恐る筆箱を開き、羽根ペンをそっと取り出してみた。
「わぁ……軽い! ばあやから借りていたものとは違うわ」
「材質を工夫した特注品でございます。まだ小さな手でも扱いやすいように、との配慮で」
フェルミナの穏やかな声に、アリシアの頬が一気に赤くなる。
「そうなの? ……すごい、本当にわたくしのために」
アリシアの声には驚きと嬉しさが混じっていた。小さな胸がふくらむのを、彼女自身が感じていた。
「こちらの香油も、甘すぎず落ち着いた香りを選んであります。気分を整える時に使いましょう」
フェルミナの説明に、アリシアは小瓶を手に取り、蓋を少し開けてみる。
「……花の匂い。でも強すぎないのね」
「はい。王女にふさわしくありながら、まだお年に合う穏やかさを選びました」
「ふふ……なんだか、ちょっと大人になったみたい」
アリシアの無邪気な声に、マティルダがそっと頷き、フェルミナも口元を柔らかくほころばせる。
昼下がりの陽射しが、王女宮の中庭をゆっくりと照らしていた。
白い小道を歩くアリシアの足元には、花が咲き始めた鉢植えが等間隔に並び、控えめながらも彩りを添えている。散歩用の軽やかなドレスが風に揺れ、金の髪に添えられた白ユリの髪飾りが、きらりと陽を受けた。
朝からの対面と衣装や調度品の確認を終え、ようやくひと息つける時間。けれど、身体の疲れよりも先に、彼女の胸の奥にあったのは、まだ言葉にならないざわめきだった。
(……王女って、思っていたよりも忙しいのね)
そんな呟きが、ふと心の中に浮かぶ。
けれど同時に、「でも、がんばらなくちゃ」とも思う。
今朝、鏡の前で見た自分。そして──昨日、兄が見せてくれた顔。
そのすべてが、アリシアに「もう一歩、前へ進め」と背を押している気がした。
アリシアは、庭の端に設けられたベンチに腰掛け、胸元でひとつ深呼吸をする。
着慣れぬ新しいワンピースにも、少しずつ身体がなじんできた気がした。
ふと、風に乗って聞こえてくる鳥の声に耳を傾けながら、視線を遠くへ向ける。
──昨日とは違う場所。昨日とは違う自分。
けれど、不思議と怖くはなかった。
「アリシア様、温かいお飲み物をどうぞ」
そっと現れたマティルダが、銀の盆を静かに差し出す。
白磁のカップには、花の香りの立つ薄い紅茶。
アリシアは微笑みを返しながら、両手で包むようにしてカップを抱えた。
「……ねえ、マティルダ」
「はい、アリシア様」
「わたくし、ちゃんと王女らしくできているかしら?」
問いかけは、どこか頼りなく、それでいて真剣だった。
マティルダは小さく微笑み、アリシアの隣に立ったまま静かに答える。
「ええ、十分すぎるほどです。ご自身でそう問いかけられる、そのお心こそが“王女らしさ”なのですわ」
紅茶の湯気が風に溶け、空には柔らかな雲が流れていく。
アリシアはそっと頷き、もう一口、慎重に口をつけた。
今日だけで、たくさんの新しいが押し寄せた。
すべてが重なって、心の奥は少しだけくたびれていた。
けれど──それでも、笑顔を忘れなかった自分を、ほんの少しだけ誇らしく思う。
ふと立ち上がると、アリシアは庭の小道をゆっくりと歩き出した。
午後の予定はまだ続く。けれど、その一歩を踏み出す心の準備はできていた。
アリシアは足元の石畳を見下ろしながら、そっと歩き出した。
一歩ごとに、心の奥で何かが整っていく気がする。
「午後はどんな出会いがあるのかしら」
ふとそんな思いが浮かび、アリシアはひとり小さく笑った。
新しい一日は、まだ始まったばかり──。