第4話|名前を呼ばないで
その朝も、控えの間にはいつもの気配があった。
ゼノ・グラナートが静かに入室し、壁際に控える。足音はほとんど聞こえず、背筋はぴんと伸びたまま動かない。
それを目にしたアリシアは、自然と胸の奥がすっと落ち着くのを感じていた。
「おはよう、ゼノ……様」
少しだけ間を置いて、敬称を添える。
ゼノは静かに一礼しただけで、何も言わない。
「……今日も変わらず、無口ですね」
ぼそりとこぼしたアリシアの独り言に、隣にいたマティルダがそっと笑った。
「殿下のほうが、ずいぶんお慣れになりましたわ。初めての頃は、すごく緊張なさってたのに」
「え……そんなにだった?」
「ええ。それはもう、ぎこちないご挨拶に、こわばった笑顔に……侍女たち、みんな心配しておりました」
「うそ……」
アリシアは思わず肩をすくめた。ゼノの前に立ったときのあの感覚は、今でも少し覚えている。大きな壁みたいで、声をかけていいのかもわからなくて。
でも今は、違う。無言の仕草や視線に、少しずつ意味が見えるようになってきた。
ゼノが立ち位置を変えれば、そこには近づかないように気をつける。
目線がわずかに和らいだら、今の自分は疲れて見えるのだと、ちょっとだけ休むようにする。
──言葉はない。でも、ちゃんと伝わってくる。
だからこそ──いま、名前を呼ぶのが、すこしだけ難しかった。
「……あの、マティルダ。最近、なんだか変な感じしませんか?」
「変な、ですか?」
「ううん、気のせいかも。なんでもないわ」
そう言いつつも、アリシアはそっとゼノの方を見た。彼の表情は、いつもと変わらない。けれど、たまに感じる、あの“間”のようなもの──ほんの少し、手が届かないような距離感。
それが、名前を呼ぶときに喉の奥で引っかかる理由なのかもしれない。
「ゼノ様。……本日はこのあと、図書館ですよね?」
「はい、殿下」
短く、でもはっきりと返ってくる声。淡々としていて、まるで水のようだ。
「図書館では、昨日の視察報告の文書を確認します。えっと……護衛の位置は……」
「正面出入口に二名。殿下の閲覧位置から、目の届く距離で一人控えます」
アリシアは、小さく息をのんだ。まだ言われる前に説明されることもあるのだと、少しだけ驚いた。
「……ありがとう。わたくしより詳しいかも」
「それが任務ですので」
あくまで冷静。けれど、ほんの一瞬だけ、ゼノの目が柔らかくなったように見えた。気のせいかもしれない。でも、その気のせいが、なんだか嬉しかった。
マティルダが、そっと近づいてきて小声でささやいた。
「殿下、あまりお話が弾まないときは、質問をなさるとよろしゅうございますよ」
「質問……?」
「はい。たとえば、“どうしてそんなに静かなの?”とか、“好きなものは何?”とか──」
「それ、訊いたら困らせません?」
「困るかもしれませんが、それもまた一興でございますわ」
マティルダの軽口に、アリシアはくすっと笑った。
「……じゃあ、今度、試してみる」
そう返したとき、ゼノがふっとこちらを見た。会話の内容は聞こえていなかったはずだが、気配で何かを察したように一瞬だけ目が合う。
──だから、呼べなかった。
(……名前って、呼んだだけで、たぶん気持ちが伝わっちゃうから……だから、怖いのかもしれない)
そう思うと、言葉が喉の奥に引っかかってしまうのだった。
まだその「変わる」が、いいことなのかどうか、アリシアにはわからなかった。
***
午後の陽がやわらかく傾く頃、アリシアは小さな庭園の縁石に腰を下ろしていた。
足元には整えられた芝と春の花々。
護衛のゼノは、少し離れた木陰に控えている。騎士のように立つ姿は変わらず静かで、声をかけるタイミングを迷わせる。
そこへ、マティルダが戻ってきた。銀の盆を片手に、にこやかな笑顔で近づく。
「殿下、お疲れではありませんか? 冷たいお茶と……こちら、甘い干し果実でございます」
「ありがとう、マティルダ。……うん、ちょっと休憩したかったの」
「お庭の風、気持ちが良うございますものね」
彼女は隣にしゃがんで、お茶を注いでくれる。ふんわりとした香りが広がり、アリシアはほっと息をついた。
「ねえ、マティルダ。わたくし、ちゃんと“王女様”に見えるかしら?」
「突然、どうなさったんです?」
「……なんとなく、今日はそういう日なの」
マティルダは一瞬だけ目を細めて、笑った。
「はい。とても。お姿も、振る舞いも、すっかり立派な姫様ですわ」
「……うーん」
アリシアは頬杖をついた。マティルダがいった『立派な姫様』からは外れているかもしれない。でも、それでもいいかという気持ちもある。
「でも……なんていうか、立派に振る舞うのって、ちょっとだけ苦しいの」
もやもやとした気持ちがするっと言葉になったのだろう。
アリシアの気持ちに気が付いたのか、マティルダは言葉を挟まず、静かに聞いてくれる。
「たとえば、“ゼノ様”って呼ぶとき。ちゃんとしてる言い方なのは分かってるけど……本当は、もうすこしだけ……やわらかく接することができたらいいのにって、思ったりして」
「……あら」
「変かな? わたくし、変なこと言ってる?」
「いえいえ。全然変ではありません。むしろ、よく分かりますわ」
言ってから、マティルダは少しだけ声を潜めた。
「ゼノ様って、無口ですし、見た目もちょっと……怖く見えますものね。ああ見えてとてもまじめなお方ですが」
「そうなの。あまり喋らないけど、気をつかってくれてるのは分かるの。でも……話しかけるのって、ちょっと緊張するの」
「では、いっそ、思い切って“ゼノ”とだけ呼んでみては?」
「だって……わたくし、ゼノ様を“ゼノ”なんて、呼べないもの」
「どうしてですの?」
「だって、あの人、ちゃんとした家の跡継ぎよ? それに、なんとなく……“呼び捨てにしちゃいけない”って、身体が覚えてる感じ……変かしら?」
「……変ではありませんわ。むしろ、とてもアリシア様らしいお気持ちです」
そう言って、マティルダは穏やかに微笑んだ。
「でも、そうやって“本当はどう呼びたいか”を考えられるのも、すてきなことだと思いますわ」
アリシアは顔を赤くした。
「……べ、別に、そんなつもりじゃ……!」
「大丈夫です。誰にも言いませんから」
そう言ってマティルダが微笑むと、アリシアは困ったように唇を引き結んだ。
──そのとき。
「……殿下」
不意に、ゼノの声がかかった。
二人が同時に振り向くと、彼は木陰から一歩だけ前へ出て、控えめに口を開いた。
「そろそろ、屋内へお戻りを。風が少し、冷たくなってきました」
「……あ、はい。ありがとう」
アリシアは立ち上がり、軽くスカートの裾を払った。
「ゼノ様、わたくし、もう少しだけ歩いてもいい?」
「もちろんです。お気をつけて」
アリシアが歩き出すと、ゼノは自然とその横に並ぶように歩調を合わせた。ほんの一歩後ろ、半歩だけ外側。
相変わらず何も言わない。けれど、足音が響かないように芝の上を選んで歩いているのがわかった。
「……ねえ、ゼノ様」
アリシアがふと立ち止まると、ゼノも同じように足を止めた。
「はい、殿下」
「いつも、ありがとう。……今日は、お話できて、うれしかったわ」
一瞬、彼の表情がごくわずかに緩んだように見えた。
「……それは、何よりでございます」
言葉は変わらないのに、ほんの一瞬、ゼノの視線が揺れた気がした。
なにかを言いかけて、飲み込んだような……そんな気配。
短く返されたその言葉は、確かに柔らかさを帯びていた。
アリシアは胸の奥が少しだけあたたかくなるのを感じた。
──たぶん、今はこれでいい。名前の呼び方も、距離も、もうちょっとだけこのままで。
そう思いながら、再び歩き出した。
背後から、ゼノの足音が追いかけてくる。とても静かで、でもちゃんとそこにある。
その気配が、なによりも頼もしく感じられた。




