第1話|記録に残されたこと
それは、夜が明けきらぬ早朝のことだった。
宮廷中央庁舎の政務棟、その一角にある会議室では、既に何人もの文官たちが顔を揃えていた。
蝋燭の灯が揺れる中、重々しい空気をまとった長机の中央には、綴じられたばかりの分厚い報告書。
その表紙には――
《王女殿下誘拐事件・最終調査報告書(機密)》
と、黒インクで明記されていた。
「……第十七記録課の廃止が正式に決定されました」
小声で誰かが呟いた。
第十七。王宮内でも一部の者にしか知られていなかった、特務系の記録課。
そして今回の調査の結果、その部署が、フォーゲル家の意向を受けて秘密裏に動いていたことが判明したのである。
「これが、最大限の“穏当な処分”ということか」
「表立った粛清はできんでしょう。五大家ともなれば……」
「フォーゲル家現当主の隠棲表明と、第十七の解体。その二点で、今回は手打ちという形になるそうです」
室内には、どこか釈然としない空気が漂っていた。
だが、それ以上に強かったのは、張り詰めた緊張の糸がようやく緩んだという安堵。
「……王女殿下が、ご無事だったことが、なによりでした」
そう口にした若手の文官に、上席が静かに頷いた。
事件は未曽有のものだった。
王宮内の自室で、王女が忽然と姿を消す。
侵入の痕跡もなく、魔術の残滓もない。
そして発見は、三日後。
鏡を媒介とした転移術式――ヴァルド式の古術に酷似した痕跡が確認された。
そして、その背後で暗躍していたとされるのが、王宮付き侍女・エルマ。
王女の侍女として正式登用されたばかりの、あどけなさすら残る十歳前後の少女であった。
「結局、彼女は……?」
「第六での聴取が続いたそうだが、現在の消息は不明」
「釈放されたとしても、無事には済んでいないってことですか……」
重たい沈黙。
ようやく“王女が帰ってきた”今となっては、事件そのものの詳細を掘り下げようとする声も少なくなっていた。
だが、その中で一人、上席の文官はぽつりと呟いた。
「……彼女が戻らなかったら、この国はどうなっていたか」
ひとりの老文官が、無意識に胸元をなぞる。
事件の報がもたらされたあの夜──
王宮記録室は、突如押し寄せた混乱の渦に呑まれた。
規定の再確認、未決の案件の棚上げ、緊急連絡系統の書き換え。
誰が指示を出すのか。何を最優先とすべきか。
その判断すらも宙づりとなり、文書だけが容赦なく積み上がっていった。
最初の三日間──
王宮中枢は、沈黙と疑念と、抑えきれぬ動揺に揺れていた。
動かない軍部。指示を出せぬ政務官たち。内密に動く貴族派。
そして、憔悴した王太子と、沈黙を貫く王。
あの時、誰もが思い知ったのだ。
たったひとりの不在が、これほどまでに国を脆くするのだと。
──だが。
その王女は、帰ってきた。
人々の視線が集まる場所へ、静かに歩みを戻した。
まるで、何もなかったかのような笑顔で。
まるで、それが“当然の居場所”であるかのように。
あの日の朝を、忘れる者はいない。
***
その朝、王女宮の前庭には、どこか張り詰めた空気が漂っていた。
敷石は早朝のうちに磨き上げられ、花壇には侍女たちの手で摘み取られた朝露がまだ残っている。控えの侍女が何度も出入りし、部屋の空気を整え、椅子の位置や布のしわまで念入りに整えられていく。
──姫君が、戻ってくるのだ。
王女宮は正式稼働こそしていたが、実態はまだ仮設に等しい状態だった。女官は、監督役のフェルミナ女官長ただひとり。日常の世話や雑務は、古くから仕える乳母と、姉侍女マティルダ、そしてアリシアと同年代の少女侍女たちによって支えられていた。
その中には、いまだ戻らぬ者もいる。
かつて、姫の傍に仕えていた、もう一人の少女の姿はなかった。
静かな時間が流れる。
けれどその沈黙の中には、抑えきれない緊張と、どこか切実な祈りのようなものが込められていた。
この一週間、“主を失った王女宮”を維持し続けてきた者たちにとって──今日という朝は、特別な意味を持っていた。
もうすぐ。
あの扉の向こうから、姫が帰ってくる。
──そして。
庭の向こう、白い回廊を挟んだ通路に、ふいに気配が生まれた。
足音は、二人分。けれど決して急かない。静かで、迷いのない、落ち着いた歩みだった。
一人目に現れたのは、深い藍色の礼服に身を包んだ若き王太子。
その傍らには、小柄な少女の姿。
金糸の髪は丁寧に梳かれ、足元まで届く薄衣に包まれている。
だが、どこか色彩が淡く感じられるのは、朝の光のせいか、それとも――。
「……っ、アリシア様」
マティルダが小さく叫ぶようにして、数歩、前に出た。
だが、すぐには駆け寄らない。何か、確認を待つように立ち止まる。
王太子は、その視線を受けてわずかに頷いた。
それを合図に、マティルダがそっと少女の手を取る。
冷えてはいるが、震えてはいない。
その手の感触に、マティルダはようやく、わずかに息を吐いた。
「……おかえりなさいませ、姫様」
アリシアは、かすかに頷いた。
そのまま、彼女は歩を進め、静かに王女宮の敷居をまたぐ。
振り返ることなく、けれど、まるで“初めからそこにいるべきだった”かのように。
王太子は、それを見届けると、少女の背にそっと目を向け、低く呟いた。
「……頼んだぞ、マティルダ」
その一言を残し、彼は回廊を背に歩き出した。
***
その同じ朝、王宮政務棟の一室では、別の静けさが支配していた。
窓の外が白み始める中、執務室の一角では、文官たちが静かに手を動かしていた。
記録課第六室。日常の政務記録や連絡文書の処理に加え、臨時の措置や記録補填までを担う、いわば“記録課の何でも屋”である。
この朝、執務机の一角では、若手書記官が政務通達を手に困惑していた。
「“随行者一名”。……これだけ、ですか?」
隣でそれを聞いていた青年が、無言で眉をひそめる。エグバート=グランヴィル。調書と事実照合の現場でなら、誰もが頼る存在だ。
「名がない。役職もない。“許可”だけで、帯同が正当化されている……」
手元の記録簿を見つめながら、エグバートはぽつりとこぼす。
「これは記録じゃない。──印象操作の一種だ」
上席の記録官は、やや苦笑しながらも手を止めなかった。
「そうだな。だが、これを“処理”するのが、うちの役目だよ」
最終的な筆を走らせたのは、別の書記官。エグバートの手は動かない。
それでも、彼は黙って処理を見届けた。帳尻を合わせることに納得はしていない。だが、ここが今の“王政”なのだと、彼は理解していた。
《王女殿下・随行者一名(帯同許可)》
《所属:非公式》
《補記:宮内より継続確認あり、異議なし》
それは、何も語らないようでいて、すべてを語っていた。
***
同じ頃、王宮西側の控え棟では、ひとりの少年が文書に目を落としていた。
ゼノ・グラナート。
本来ならば、学園に登校する時刻だ。だがこの日は、政務官室からの呼び出しを受け、王城へと登城していた。
名目は、王女殿下帰還に際しての関係者顔合わせと、随行候補者への“口頭確認”。
彼の手元にあるのは、第三政務官名義の通達文だった。
《王女殿下の移動にあたり、政務官判断のもと随行を命ず》
文末には、記録課第六室との連携確認の指示が小さく添えられている。
正式な辞令ではない。だが、それが意味するところは、彼には分かっていた。
ゼノは、一度だけその文書を見つめたのち、無言で折りたたむ。
それが“命令”であるかどうかは、問題ではなかった。
──そこに、彼の名が書かれていないことこそが、意味を持っていた。
既に、彼はそこに“在る”者として扱われている。
その事実を誰もが受け入れているのなら、もはや証明など不要だった。
彼は、もう迷わない。
今日からは、“そこ”に在り続ける。
あの少女の隣に、誰よりも自然に──そうあれるように。




