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これが、恋の始まりだった  作者: Aldith
第0章|白い花の贈りもの
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【前日譚SS】白い花の贈りもの① 白き花の、ひとひらを

 まだ夜の匂いが残る早朝だった。


 空はかすかに白み始め、王都を囲む城壁が淡い光の中に浮かび上がっていく。

 その静けさを切るように、制服姿の少年が仮宮の裏門を抜けた。


 王太子エドワルド。

 十六歳。王立学園に通う身でありながら、すでに政務の一端を担う若き後継者。


 だがこの朝は、王太子としてではなく──兄として、ここに立っていた。


 手に持つのは、小さな箱。

 白い布に丁寧に包まれたそれは、城下の仕立て屋に無理を言って用意させた特注品。

 昨夜、王宮の自室で仕上がりを確かめながら、何度も蓋を開けては閉じた。


「……大げさかもしれないけどな」


 ひとりごちて、歩を進める。

 自分の部屋から仮宮まで、わずか数分の距離。けれど、その足取りはいつになく慎重だった。


 今日、アリシアが十歳になる。

 王家に生まれた妹が、子どもから王女として認められる日。


 公の祝典こそないが、今日の朝議で彼女が第一王女として正式に位置づけられることは決まっている。

 父は、華やかな儀式よりも家族での祝いを選んだ。裾を長くした新しいドレスも、その気持ちの表れだった。


 この日を境に、妹は一歩──大人の世界へ近づく。

 その節目に、何かひとつ、自分の手で贈りたかった。


 朝の冷気を含んだ扉が、軽やかな音を立てて開く。


「……こんな朝早くに、まったく」


 出迎えたのは、アリシア付きの乳母だった。

 眉をひそめながらも、どこか呆れたような優しさを含んだ声。


「ばあや。すまない、無理言って」

「まったく……仮にも男子禁制の宮に、よくもまぁ当然の顔で入ってこられるものです」

「今日だけは、勘弁してほしい」


 エドワルドは、胸元の小箱を軽く持ち上げて見せた。


「顔を見て、渡したくて」

「……坊っちゃんは、変わりませんねぇ」


 乳母は小さく笑った。

 王太子殿下に向ける言葉ではない──それでも、彼女は昔からずっと、こうだった。


「アリシアさまは、まだおやすみですよ」

「やっぱりか。昨日は浮かれてたからな」

「はい。寝る直前まで、鏡の前でスカートを揺らしておられました」


 想像して、思わず吹き出しそうになる。

 ふわりと広がるドレスの裾をつまみ、くるりと回る妹の姿。


「……あいつ、本当に嬉しそうだったから」

「そうですね。アリシアさまは、今日のことをずっと心待ちにしておりました」


 エドワルドは、ふっと目を伏せる。


 祝いの食事は、父が用意した。

 ドレスも、マティルダが用意した中から、彼女が気に入ったものを。

 だからこそ──たった一つ、自分だけの「贈り物」を手にしてほしかった。


「……まだ寝てるなら、無理に起こすわけにもいかないな」


 ぽつりとつぶやき、小箱をそっと乳母に渡そうとした、そのとき──


「……お兄様?」


 寝室の奥から、小さな声が聞こえた。


 扉の隙間から、金の髪がのぞく。

 寝間着のまま、目だけぱっちりと開けて、こちらを見ていた。


「おはよう、アリシア。起こしちゃったか」

「ううん。目が覚めただけ」


 ぱたぱたと素足で駆け寄ってくる妹の姿に、エドワルドは思わず笑みをこぼす。


 昨日の夜は、鏡の前で何度もくるくると回っていたらしい。

 それが嘘ではなかったことは、浮かんだ寝癖と頬の赤みで十分に伝わる。


「髪、すごいことになってるぞ」

「え……うそっ」


 手で押さえても跳ねたままの髪に、アリシアは「やだぁ……」と顔をしかめた。


「まだ早いんだし、別にいいさ。着替えはこれからだろ?」

「……もう。お兄様に言われると、くやしい」


 小さな反撃を交わしながらも、アリシアの目は兄の手元にある包みへと向いていた。


「それ、なに?」

「……誕生日だからな。ちょっとだけ用意してみた」


 エドワルドは白い小箱を差し出した。

 アリシアは目を丸くして、両手でそっと受け取る。


「……開けてもいい?」

「ああ」


 ゆっくりと蓋を開ける。

 中にあったのは、白ユリを模した髪飾り──金の細工と淡い白が重なり合う、小さな装身具。


「……!」


 小さく息をのむ音。

 アリシアは思わず、その場に立ち尽くしたまま、しばらく見つめていた。


「きれい……」

「今日のドレスに、合うと思って」

「……お兄様が選んでくれたの?」

「自分で見て、決めた。仕立て屋の人には、ちょっと迷惑かけたかもしれないけどな」


 笑いながら言うと、胸の奥にあった緊張がようやくほどけていく。

 その横で、アリシアはそっと髪飾りを手に取った。

 小さく息をつきながら、まだ寝癖の残る髪の上に、おそるおそる乗せてみる。


「どう? 変じゃない?」

「変なわけないだろ。……よく似合ってるよ」


 その言葉に、アリシアは小さく笑った。

 けれど、その笑顔は少しだけ──いつもより大人びて見えた。


「こんなのもらえるなんて、すごくうれしいな」

「大げさだな。ただの贈り物だよ」

「でも、お兄様がこの日のために選んでくれたんでしょう?」

「……まあな」


 うれしさを隠すでもなく、誇らしげに頷く兄。

 ふたりの間に流れる空気は、どこまでも穏やかだった。


「じゃあ、あとで髪をちゃんと整えて、これつけて……今日はがんばるね」

「うん。楽しみにしてる」


 エドワルドは、小さく頷いた。


「……じゃあ、そろそろ戻らないと」


 エドワルドは時計も見ずにそう言った。

 朝の鐘の音がまだ聞こえないうちに出たのだから、今のうちに戻れば余裕はあるはず。護衛たちには話を通している。けれど、あまりに長居すれば朝の準備にやってきた近侍にばれる。


 そして何より──


 この時間が、何か特別なもののように感じられるからこそ、余韻のまま立ち去りたかった。


「ありがとう、お兄様」


 アリシアがそっと頭を下げる。


「……そんなにかしこまるなよ。誕生日のお祝いなんだから」

「うん。でも、ほんとにうれしかったの」


 照れたように微笑む顔には、まだ子どもらしさが残っている。

 けれど、その言葉の奥に、王女としての自覚が少しだけのぞいていた。


「今日は大変だろうな。朝議にも出るんだろう?」

「そうなの。ばあやが、宰相さまが名前を呼んでくれるって教えてくれたの。」


 アリシアの声に、エドワルドは思わず笑みをこぼした。小さな頭をポンと叩きながら言う。


「うん、そうだよ。呼ばれるだけだから、大丈夫だ。それから、夜の食事は父上も一緒だ。いろいろ話せるといいな」

「うん。ドレスも、髪飾りも、準備してあるんだって。あ、髪飾りはこれに変えてもらわなきゃ」

「ばあやも、マティルダも気合い入れてるからな」


 二人は小さく笑い合った。


「じゃあ……また夜に迎えに来るよ。兄として一緒に祝えるのは、そう何度もないだろうから」

「……迎えに来てくれるの?」


 ぱっと顔を明るくする妹に、エドワルドは苦笑を浮かべる。


 ふと手を差し出しかけ──やめた。

 その代わりに、軽く手を振る。あくまで、兄らしく、いつも通りに。


「ちゃんと楽しめよ、アリシア」

「うん。楽しみ!」


 扉が閉まると、部屋に静けさが戻る。

 けれどそれは、いつもの朝とは違っていた。

 空気に残った温度が、胸の奥に優しく沁みてくる。


 手のひらにある白い花の髪飾りが、指先に冷たく、そして柔らかい。


「お兄様も似合うって言ってくれたし……きっと大丈夫よね」


 ぽつりとつぶやいて、アリシアはそっと髪に当てる。

 小さな光を帯びたそれが指先で揺れた瞬間、胸の奥がふわりと膨らんだ。

 鏡も使わず、寝癖も直していないのに、それでも自然と背筋が伸びる。


 この花は、王女の証なんかじゃない。

 ただ、兄が自分のために選んでくれた、ひとつの贈り物。


 手のひらにある白い花の髪飾りが、指先に冷たく、そして柔らかい。


「お兄様も似合うって言ってくれたし……きっと大丈夫よね」


 ぽつりとつぶやいて、アリシアはそっと髪に当てる。

 小さな光を帯びたそれが指先で揺れた瞬間、胸の奥がふわりと膨らんだ。


 鏡も使わず、寝癖も直していないのに、それでも自然と背筋が伸びる。


(わたくし……本当に王女になれるのかしら)


 その答えはまだわからない。

 けれど、この白い花を髪に飾れば、きっと少しは近づける気がした。

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