10-3 そこに居たものは
朝陽の呆れた呟きに誰も返さず、沈黙が落ちる。息を飲むように見つめた道の奥――。進んだ先は、まるでダンジョンの中にぽっかりと穿たれた“異物”だった。なんだか、空間が歪んでいるような。……景色が薄く靄がかかったような。視界の端がじわじわと滲む感覚。
足元に視線を落とせば、破られた文献や呪符の切れ端、インクの染みた古びた帳面が落ちている。それも、地面にある硬い煉瓦にインクが移っていることから、最近のものではない。誰かがここで、何かをしていた痕跡だ。
「……なんか、ここだけおかしくない?」
私はその痕跡を見ながら、ぽつりと呟いた。
「このダンジョンって、入るたびに形が変わるんだよね?」
「って話だったと思うけど。そうだよな、イサハヤ」
「……ああ」
朝陽から続くイサハヤさんの声も、いつになく硬い。
「でも、この部屋だけまるで変化してなくない……?」
だって、本当に変化しているのならこの辺りは綺麗になっている筈だ。逃げ出したミミックの反応を見ても、ここだけが偶然残ったと考えるよりも、此処が特別な空間で変化をしていないと考える方がしっくりくる気がする。
……でも、果たしてそんなことがあるのだろうか。イサハヤを見ても、彼は表情を硬く結んでいる。まるでこの場所だけが世界のルールから外れているかのような、異質な静止。その時、ミズキが足元に落ちたあるものを拾い上げて、小さく息を呑んだ。
「……ねぇ、これ……」
差し出されたのは、小さなお守りだった。
赤い生地に、見覚えのある文字が、擦れた布地の上に辛うじて残っている。
「神代神社……って、つまりこれ、千歳さんの……?」
「これは……確かにうちの神社のものですね……」
「じゃあ、やっぱり此処だけ……変わってないってこと……?」
ちらりとイサハヤを見る。彼の口元は相変わらず硬く結ばれている。でも動揺を示すような石飾りの揺れは、確かにこの部屋の異変を報せている。その言葉を最後に、辺りに張り詰めたような静寂が訪れる。
そして──空気の裂け目を歩くように、硬質な足音がやってきた。
ああ、この音を私たちは知っている。
「……ロマネルク……!」
指先から感じ取る、深い痺れと耳に残る硬い足音。私の言葉を皮切りに、みんなが一斉に武器を構えると、やがて暗い闇の中から、音もなく悠然と黒衣を纏った細身の男が現れた。ロマンスグレーの髪に、耳元で揺れる赤い玉石のイヤリング。──男はひどく懐かしそうな声色で言った。
「おやおや……青い鳥だけかと思いましたが、随分と懐かしい者がいたものだ。……久しぶりですねぇ」
愉悦を滲ませて、しみじみと噛みしめるような言葉がイサハヤに向けられる。まるで旧友にあったそれだ。
その割に、言葉には確かに笑いが滲んでいる筈なのに、空気を冷やす冷たく、重い。
「どうして此処に……!」
一歩下がりながら名を呼ぶ。ガントレットを手に構えるものの、足を下げたのははたして体勢を整えるためだと言い切れるだろうか。無意識に力いっぱいに握りしめた手の平が白くなる。
途端に周囲の空気が重くなり、静かに歩み寄るその姿に誰もが息を飲む。足音は静かで、地面を踏んでいるはずなのに、どこか現実みがない。
イサハヤが目を細め、低く呟く。
「…………サウディ……」
その名を口にした瞬間、ロマネルクの足がピタリと止まった。
張り詰めた空気が、まるで細いピアノ線のように空間を震わせる。
次の瞬間、ローブの奥の唇が緩やかに吊り上がり、静かに笑みを刻んだ。
「……その名前を、覚えていましたか。驚きですねぇ」
イサハヤの手が、音もなく刀の柄へと添えられる。
しかしロマネルクは、その警戒を楽しむかのように、やや首を傾けると、まるで舞台役者のように両腕を広げた。
「ふふ……ねえ、どうです? 似合っていますか?」
そう言いながら、くるり、くるりと軽やかに一回転、二回転。
まるで新しい衣装を披露する子供のように、はしゃいだ動きで自分の姿を見せつける。
「あなたが思っている私とは、少し違うでしょう?でも、それでも分かってしまうなんて……さすがですねぇ」
「…………」
「私とあなたは、随分と長いお付き合いになりますから。忘れられていたら……と思っていましたが、どうやら杞憂だったようですね」
だが、イサハヤは笑わない。
鋭く、冷たく、その奥を見据える。
「…………ふざけた真似を」
その声に、ロマネルクの目の奥――いや、その奥に潜む何かが、うっすらと笑った。
ほんの一瞬、そこにあったロマネルクの姿が誰かと重なる錯覚。
そんな、理屈を超えた寒気が、背筋を這い上がるが、ロマネルクは口角を吊り上げて笑い混じりに言った。
「……フフ……私はいつでもロマネルク、ですよ。ずっと……ね」
“ずっと”に込められた意味深な響きは、重い。それでいて、この場限りではない時の彼方から響いてくるようなそれは背中を撫でつけるような冷たさがある。
張り付いたその笑みは、不気味で、冷たく、そしてどこまでも深い闇のようだった。




