第5話:盤上の策士
森へと向かう道中は、当然ながら、気まずい沈黙に満ちていた。
エルネストは、ロウの指揮下に入ったことが不満なのか、むっつりと押し黙っている。時折、俺を責めるような視線を送ってくる。ロウは、そんなエルネストを意にも介さず、淡々と周囲の警戒を続けている。
石畳から土の道に変わり、やがて森の入口が見えてきた。夕陽が木々の間から差し込み、長い影を落としている。
「そ、それにしても、いい天気だな。絶好のグリフォン……偵察日和というか……」
俺の渾身の場繋ぎは、二人に完璧に無視された。ですよね。俺は心の中で涙を流した。
やがて、森の木々が密集し始めると、ロウが手を上げて俺たちを制止した。
「ここからは、本格的にヤバい領域だ。エルネスト、魔力感知を頼む。何か感じたら、すぐに知らせろ」
「……分かった」
エルネストが短く答え、目を閉じて集中する。彼の周囲に、淡い青白い光がゆらめき始めた。それは魔力感知の際に現れる、アードラー家に代々伝わる特殊な魔法陣の光だった。
俺は息を呑んだ。前の時間軸でも見たことのある光景だが、改めて見ると、エルネストの魔力の純度と規模に驚かされる。この年齢で、これほどまでに精密な魔力制御ができるのは、まさに天才の証だった。
しばらくして、エルネストがはっと目を開ける。
「いる…! 北西、約八百メートル。非常に強大な魔力反応だ。それと…」
彼の顔が、困惑に歪む。
「複数の、小さな反応も感じる。恐らく…」
「雛か」
ロウが、低く呟いた。その表情から、先ほどまでの皮肉な態度は完全に消え失せ、ただ純粋な「戦士」の顔つきになっていた。
俺は内心で戦慄していた。
(雛がいる…前の時間軸では誰も気づかなかったのか。俺たちは親グリフォンにばかり注意を向けていて、雛の存在を見落としていたんだ…!)
親を守る魔獣は、通常よりも遥かに凶暴化する。前回の悲劇の真の原因が、今になって明らかになった。
(そうだ…思い出した。前の時間軸で、エルネストが強力な攻撃魔法を放った時、グリフォンが異常なまでに激昂した理由がこれだったんだ。俺たちは知らずに雛の近くで戦闘を始め、親グリフォンを狂乱状態に追い込んでしまった…)
森の奥深く。ロウの慎重な先導で、俺たちはついにグリフォンの巣らしき断崖の下にたどり着いた。岩陰に身を潜め、三人で崖の上を伺う。
そこに、奴はいた。
鷲の上半身と、獅子の下半身を持つ、気高き魔獣、グリフォン。その翼を広げた時の幅は優に八メートルを超えるだろう。黄金に輝く羽毛と、鋭く光る琥珀色の瞳。まさに「空の王者」の名に相応しい、威厳に満ちた姿だった。
だが、問題はそこではなかった。
巨大な親グリフォンの傍らで、まだ産毛に覆われた、飛べそうにない三羽の雛が身を寄せ合っていたのだ。親鳥は、時折優しく雛たちの頭を羽繕いしている。その光景は、確かに美しく、平和的ですらあった。
「おい……聞いたか?」
ロウが、エルネストと俺を振り返った。その声は、普段の飄々とした調子から一変し、深刻さに満ちていた。
「状況が変わった。これより、偵察任務を継続するが、新たな問題が発生している」
ロウが厳しい表情で続ける。
「雛がいるということは、このグリフォンは長期間この場所に留まる可能性が高い。そして、雛が飛べるようになれば、一家で縄張りを拡大し始める。その時、村への被害は確実に発生する」
エルネストが青ざめる。
「それは…いつ頃になるのか?」
「グリフォンの雛の成長期間を考えると、長くて二週間程度だろう」ロウが答える。「つまり、騎士団の正式な討伐隊編成を待っていては手遅れになる可能性が高い」
共通の、そして想定外の脅威を前に、俺たち三人の心が、初めて一つになった。
だが、俺の脳裏には、前の時間軸での記憶が蘇っていた。
あの時、俺たちは雛の存在に気づかないまま戦闘を開始した。そして、エルネストの魔法攻撃が雛の近くで炸裂した瞬間、親グリフォンは理性を失い、狂乱状態に陥ったのだ。
その結果として起こった大惨事。村々への無差別攻撃。数十人の犠牲者。
全ては、俺たちが雛の存在を見落としたことから始まった悲劇だった。
「待て」
俺が小声で二人を制止した。
「作戦を変更する前に、一つ確認したいことがある」
ロウとエルネストが、怪訝そうに俺を見る。
「俺の戦術眼で見る限り、あのグリフォンは現在『育雛期』に入っている。雛を守るために、基本的に巣から離れない状態だ」
俺は、前の時間軸で得た知識を総動員して説明する。
「ただし、これは一時的な状況だ。雛が成長して飛べるようになれば、一家は縄張りを拡大し、より広範囲に渡って狩りを行うようになる。その時、村々への脅威は現在の比ではなくなる」
「つまり、今なら被害を最小限に抑えて対処できるが、後になればより困難になるということか?」
エルネストが確認するように尋ねる。
「その通りだ。さらに言えば、雛が三羽もいるということは、将来的にこの地域にグリフォンの群れが形成される可能性もある。そうなれば、もはや騎士団でも対処困難になる」
「どういう意味だ?」
ロウが眉をひそめる。
「親グリフォンを刺激し過ぎれば、逆に攻撃的になる。特に、雛に危害が及んだ場合、奴は狂乱状態に陥り、周囲の村々を無差別に襲撃する可能性がある」
エルネストの顔が青ざめる。
「それでは、どうすれば…」
「三つの選択肢がある」
俺は指を立てて説明した。
「一つは、騎士団の到着を待つこと。ただし、その間に雛が成長し、事態がより深刻化するリスクがある」
「二つ目は、学院に戻って状況を報告し、緊急討伐隊の編成を要請すること。最も安全だが、時間がかかりすぎる」
「そして三つ目は?」
「我々が今、慎重に行動してグリフォンを無力化すること。リスクは高いが、被害を最小限に抑えられる可能性がある」
三人は、しばらく沈黙した。
やがて、エルネストが口を開いた。
「……僕は、村の人々を見捨てることはできない。たとえリスクがあろうと、我々で何とかするべきだ」
ロウも頷く。
「俺もそう思う。だが、お前の言う通り、慎重に行動する必要がある」
そして、二人とも俺を見つめた。
「クレイド、お前の『戦術眼』で、最適な作戦を考えてくれ」
俺は深く息を吸った。
これが、運命の分岐点だ。
前の時間軸では、俺は何もできずに見ているだけだった。だが、今度は違う。
俺には、未来の知識がある。そして、親友を救いたいという、強い意志がある。
「分かった。完璧な作戦を立ててやる」
俺は、未来で起こった悲劇を決して繰り返さないと、心に誓った。
今度こそ、全員で生きて帰る。
そのために、俺は全てを賭ける。