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第3話:星詠みの書

 王立魔導学院の午後の授業。


 あの日、俺が地獄のような記憶を取り戻したのと同じ、退屈な魔法史の時間。しかし、今の俺の意識は、かつてないほどに冴え渡っていた。


 この世界の理を、その残酷な仕組みを、もう一度正確に理解するために。


 隣の席では、エルネストが昨日とは打って変わって、生き生きとした表情でノートを取っている。時折、頬を染めながら何かを思い出しているようだ。セレスティアとの会話のことだろう。


 微笑ましい光景だが、俺の心は複雑だった。


 なぜなら、今日老マクレー教授が語るのは、この世界を支配する根本的な思想——『星詠みの書』についてだからだ。


「——すなわち、我々が聖典と呼ぶ『星詠みの書』。そこに記された『預言シナリオ』こそ、我々が辿るべき未来を示した唯一無二の光である」


 老教授は、まるで祈りの言葉を口にするかのように、厳かに語る。その皺だらけの顔には、盲信者特有の恍惚とした表情が浮かんでいた。


「預言は詩的、象徴的に記されており、その解釈は専門の詠み手——『星詠み司』に委ねられる。だが、示された道筋は絶対だ。個人の感情や功名心で道を外れることは、世界の調和を乱す最も愚かな行為とされる」


 教授の声が、教室に響く。


「良き臣民とは、良き帝国の歯車であること。預言に示された己の役目を、滞りなく、そして忠実に果たす者だけが、その名誉を許されるのだ。これこそが、我が帝国が千年にわたって栄えてきた根本理念である」


 教室は静寂に包まれていた。


 ほとんどの生徒が、それを疑うことのない「常識」として、あるいは退屈な講義として聞き流している。中には、既に居眠りを始めている者もいた。


 隣の席では、エルネストが真剣な表情で教授の言葉に頷いていた。『定められた役目を果たすことこそが貴族の務め』——彼のその生真面目な横顔は、まさしくこの教えの模範的な体現者だった。


(そうだ、この教えが、この思想が、エルネストを縛り、追い詰めていったんだ……)


 俺は奥歯を強く噛みしめる。


 エルネストが未来で「世界の敵」と呼ばれるようになったのも、全てはこの『星詠みの書』に、彼がその役を担うという『災厄のシナリオ』が記されていたからだ。


 正確には、『深層預言』と呼ばれる、一般には公開されない高位の預言書に。


 そして、王家や教団の上層部がその預言を盲信し、エルネストをその道へと巧みに誘導していった。運命に抗うことなど考えもせずに。誰も、そのシナリオを疑いすらしなかった。


 なんて、ろくでもない世界だ。


 個人の意志も、感情も、夢も希望も、全てを『預言』という名の檻に閉じ込めて、人を操り人形のように扱う。


 授業の終わりを告げる鐘が鳴り、俺は深い思考の海から引き上げられた。


 教室を出て廊下を歩いていると、生徒たちが掲示板の一角に集まって、何やら楽しげに話しているのが見えた。彼らが見ているのは、週に一度更新される「今週の預言ウィークリー・オラクル」だ。


 まるで占いコーナーのような、カラフルで親しみやすいデザインの掲示板。


「見て、今週の私の恋愛運、『追い風の兆し』ですって!」


「本当だ。俺は商業区で『新たな商機あり』か。帰りに新しい魔導書の素材でも見ていくか」


「私は『学業に集中せよ』って……つまらないわ」


 新聞の星座占いのような、気軽で、ありふれた光景。生徒たちは笑い合いながら、軽い気持ちで預言を受け入れている。


 この世界では、「預言」は国家の指針であると同時に、人々の日常にまで深く、そして当たり前のように浸透している。揺りかごから墓場まで、生まれた瞬間から死ぬ瞬間まで、全てが『星詠みの書』によって決められている。


 その光景が、今の俺にはひどく歪んで見えた。まるで、檻の中で自由を謳歌していると錯覚している鳥たちのように。


 俺は、その掲示板の隅に書かれた、不吉な一文を見逃さなかった。


 『西の森に災厄の火種。放置すれば、炎は野を焼く』


 その抽象的な言葉の意味を、俺だけが正確に知っていた。


 そして、その時は、思ったよりも早くやって来た。


 和やかな雰囲気を切り裂くように、メインホールに緊急の鐘が鳴り響いた。生徒たちの笑い声が一瞬で止み、緊張が走る。


 学院長の厳格な声が、魔法で増幅されてホール全体に響き渡った。


「全校生徒に告ぐ。学院近郊の西の森に生息するグリフォンの活動が活発化。昨夜、隣村ミルフォードにて家畜の被害が確認された。全生徒は、追って通知があるまで、許可なく森周辺に近づくことを厳禁とする」


 ホールは、不安げな囁き声で満たされる。


「やっぱり、『今週の預言』にあった『災厄の火種』って、このことだったのね…」


「グリフォンって…あの翼を持つ魔獣よね?」


「騎士団は、まだ動かないのかしら……」


「でも、預言に従えば、まだ『放置』の段階なのかも」


 そのざわめきの中で、俺はエルネストが掲示板を睨みつけているのに気づいた。


 その表情は、恐怖ではない。


 決められたことに従うしかない無力感と、目の前の危機を救えないことへの、純粋な憤り。そして、預言の『放置すれば』という条件に対する、抑えきれない焦燥感。


 彼の正義感が、この「預言で示されたが、すぐには解決されない危機」に、どうしようもなく疼いているのだ。


 『グリフォンがミルフォード村を襲った』


 この事実が、前の時間軸での悲劇の発端だった。エルネストは、預言の『放置すれば』という文言に苦悩し、村人たちの安全を第一に考えて、独断で行動を起こしたのだ。


 そして、その行動が『預言に逆らう不敬』として糾弾され、彼の転落の始まりとなった。


 やがて、エルネストは何かを決意したように、固く拳を握りしめると、踵を返してその場を去っていった。


 その、迷いのない、真っ直ぐな背中。


 俺だけが知っている。


 その一歩が、彼を輝かしい未来から引きずり下ろし、破滅へと向かわせる、運命の序曲であることを。


 そして、その背中を見送ることしかできなかった、かつての自分の後悔も。


 だが、今は違う。


 俺は、静かに彼の後を追った。


 もう、お前を一人にはしない。


 預言なんかに、お前の運命を決めさせるものか。


 エルネストが向かったのは、学院の聖堂だった。


 美しいステンドグラスに囲まれた静謐な空間で、彼は膝をつき、神に祈りを捧げていた。


「……どうか、お導きください。民を守ることと、定められた秩序を守ること。その間で揺れる僕に、正しい道をお示しください」


 その祈りの声が、俺の胸を締め付ける。


 こんなにも純粋で、こんなにも優しい男を、なぜ世界は『敵』にしたがるのか。


 俺は静かに聖堂に歩み入ると、エルネストの隣に膝をついた。


「クレイド…?」


「俺も、一緒に祈らせてくれ」


 エルネストが驚いたような顔で俺を見る。


「お前が祈るなんて、珍しいな」


「ああ。でも、今は祈らずにはいられない」


 俺は真剣な顔で答えた。


「親友が苦しんでいる時に、何もしないでいられるほど、俺は薄情じゃない」


 エルネストの瞳が、温かい光を帯びる。


「ありがとう、クレイド」


 俺たちは並んで祈った。


 ただし、俺が祈ったのは神にではない。


 時間を巻き戻してくれた、この不思議な運命に対してだった。


 今度こそ、絶対に彼を救ってみせる。


 どんな預言があろうと、どんな運命が示されていようと、俺が必ず、新しい道を切り開いてやる。

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