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第2話:親友の恋と、お節介なキューピッド

 昨日の衝撃が嘘だったかのように、学院の朝は平穏そのものだった。


 木漏れ日が差す石畳の並木道、生徒たちの楽しげな話し声、そして隣を歩く親友との他愛ない会話。前の時間軸で、俺が何年も前に失ってしまった、当たり前の日常。その一つ一つが、今はどうしようもなく輝いて見えた。


 朝露に濡れた芝生の匂い、食堂から漂ってくる焼きたてのパンの香り、遠くから聞こえる鐘楼の時報。こんな些細なことが、こんなにも尊いものだったなんて。


「クレイド、昨日はちゃんと眠れたか? ずいぶんとうなされていたようだったが」


「ああ、お陰様でな。ぐっすり眠れたさ。お前こそ、昨日、中庭でロウと打ち合っていたようだが、疲れは残っていないか?」


「ふん、あれくらいで疲れていては、ロウに笑われる」


 少し得意げに胸を張るエルネストの横顔に、俺は思わず口元を緩ませる。


 そうだ。こいつはこういう奴だった。真っ直ぐで、純粋で、少しだけ負けず嫌いで。そして、自分の実力を過小評価する癖がある、不器用な完璧主義者。


 この笑顔を、この何気ない会話を、俺は二度と失うわけにはいかない。


 学園の中庭を通り抜けようとした、その時だった。


 前方の白大理石の噴水広場で、ひときわ華やかな一団が目に入る。まるで絵画から抜け出してきたかのような、優雅で気品に満ちた光景。その中心にいるのは、柔らかな金色の髪を朝の風になびかせる、一人の女子生徒。


 セレスティア・フォン・リンドバーグ。


 リンドバーグ侯爵家の令嬢にして、その美貌と気品、そして聡明さから学園中の男子生徒の憧れの的となっている少女。だが彼女の真の魅力は、その外見だけではない。古典文学に精通し、慈善事業にも熱心で、何より誰に対しても分け隔てなく接する、心の美しさにあった。


 途端に、隣を歩くエルネストの動きが、まるでブリキの人形のようにぎこちなくなった。


(分かりやすすぎだろ、お前……)


 俺は心の中で盛大にツッコミを入れる。


 無理もない。前の時間軸でも、エルネストは卒業するまで、彼女にまともに話しかけることすらできずにいたのだから。その不器用すぎる想いは、やがて運命の歯車が狂い始めたことで、取り返しのつかない悲劇的な結末を迎えてしまった。


 ――セレスティアは、政略結婚を強いられ、心を病んでしまったのだ。


 エルネストの失脚と共に、アードラー家という後ろ盾を失ったリンドバーグ家は、政治的な立場を失った。そして彼女は、父親によって帝国東部の老侯爵の元に嫁がされることになった。


 俺が最後に彼女の姿を見たのは、修道院の庭だった。かつての輝きを失い、人形のように虚ろな表情で花を摘んでいる彼女の姿を。


 そんな未来は、絶対に繰り返させない。


 俺は意を決し、エルネストの背中を軽く押して、セレスティアたちの方へと歩みを進めた。


「おはようございます、セレスティア様」


 俺が声をかけると、彼女は気品のある微笑みでこちらを向いた。朝日を受けて、金色の髪が天使の輪のように輝いている。


「ごきげんよう、クレイド様。それから、エルネスト様も」


「お、おはようございます……」


 エルネストの声が完全に裏返っている。頬も耳まで真っ赤に染まって、まるで湯だったエビのようだ。俺は内心で苦笑いを浮かべながら、構わず続けた。


「実は、俺の親友のエルネストが、近々新しい魔法を披露するらしくて。もしよろしければ、セレスティア様にも見ていただけないかと思いまして」


「ク、クレイド! 俺はそんなこと一言も……!」


 俺の脇腹を、エルネストが必死の形相で小突いてくる。その力が思った以上に強くて、俺は思わず「うっ」と息を詰まらせた。うるさい、黙ってろ。これも全てお前のためなんだ。


 セレスティアは、俺たちのそんなやり取りを見て、クスリと品のある笑い声を立てた。その笑顔が、花が咲くように美しくて、俺も思わず見とれてしまう。


「まあ、エルネスト様の新しい魔法ですの? それはぜひ拝見したいですわ。楽しみにしておりますね」


 その言葉に、エルネストは完全に機能停止していた。口をぱくぱくと動かすものの、言葉が出てこない。


 一方で、セレスティアの取り巻きの令嬢たちが、ひそひそと囁き合っているのが聞こえる。


「あら、エルネスト様ったら可愛らしい」

「普段はあんなに堂々としていらっしゃるのに」

「やっぱりセレスティア様の前では、男性はみんなこうなっちゃうのね」


 俺は頃合いを見て、エルネストの腕を掴んだ。


「それでは、セレスティア様、失礼いたします。エルネスト、行くぞ」


「あ、は、はい……失礼いたします……」


 エルネストは深々とお辞儀をして、俺に引きずられるように去っていく。振り返ると、セレスティアが小さく手を振ってくれていた。


-----


 昼休み。案の定、俺はエルネストに教室の隅へと引きずられていた。


「クレイド! なぜあんな勝手なことを!」


「いいから落ち着け。これはお前のための、第一歩なんだよ」


「第一歩も何もない! 僕はただ、遠くから見ているだけで……」


「その間に、他の誰かに取られてもいいのかって聞いてるんだよ」


 俺が低い声で言うと、エルネストは「ぐっ……」と息を詰まらせる。図星だったようだ。


 実際、前の時間軸でも、セレスティアには何人もの求婚者がいた。だが彼女は、誰の求婚も受け入れなかった。なぜなら……。


 口論の最中、俺の脳裏に、前の時間軸の記憶が一瞬だけ蘇った。


(アードラー家は、リンドバーグ家の主要な政治的後ろ盾だった。エルネストが悪の道に進み、アードラー家が断絶したことで、リンドバーグ家は政治的な力を失い、セレスティアは望まぬ政略結婚を強いられた。その果てに、彼女は心を病み……)


 そこまで思い出して、俺は思考を振り払った。そんな未来は、もう来ない。来させない。


「いいか、エルネスト。お前はもっと自信を持つべきだ。……そうだ、一ついいことを教えてやる」


 俺は声を潜めて、エルネストの耳元で囁いた。


「セレスティア様は、街の『銀の鈴』っていう店の焼き菓子が好物らしい。特に、ラベンダーのクッキーがお気に入りだとか。あと、意外と古代詩にも詳しくて、特にエルフ語で書かれた恋愛詩の研究をしているそうだぞ。共通の話題があれば、話も弾むだろ?」


「な……なぜお前がそんなことを?」


「姉さんから聞いたんだよ。貴族の令嬢ネットワークをなめるな」


 もちろん、真っ赤な嘘だ。これも、前の時間軸で、後悔に苛まれる俺が偶然知ってしまった、数多の知識の一つに過ぎない。


 当時、俺は彼女について可能な限り調べ上げていた。もし自分がもっと彼女のことを知っていれば、エルネストの背中を押してやることができたのではないかと、そんな無意味な後悔に囚われて。


-----


 放課後の図書室。


 夕日が差し込む、静寂に満ちた聖域。書架に並ぶ無数の書物が、知識の宝庫としての威厳を放っている。


 柱の陰からこっそり見守る俺の前で、エルネストが意を決して、古代詩の書架の前で本を探しているセレスティアに歩み寄っていく。


 彼の足取りは、まるで死地に向かう騎士のように重い。


「あ、あの、セレスティア様!」


 エルネストの裏返った声に、セレスティアが優雅に振り返る。夕日が彼女の金髪を照らし、まるで絵画のような美しさだった。


「あら、エルネスト様。古代詩の研究でいらっしゃるの?」


「その…実は、これはクレイドから聞いたんだが、セレスティア様は古代詩にもお詳しいと。それで、もしよろしければ、ご一緒に……と…」


 緊張のあまり、正直に情報源まで暴露してしまった親友に、俺は思わず額に手を当てた。お前、そこは嘘でも自分で調べたって言えよ……。


 だが、セレスティアは嫌な顔一つせず、むしろ嬉しそうに答える。


「ええ、少しだけですけれど。エルネスト様も、古代詩にご興味がおありなのですか?」


「は、はい! 特にこの、愛の詩ではなく、星の運行を詠ったものではないかと解釈されている詩が……あ、でも、セレスティア様がお詳しいのは恋愛詩の方でしたよね」


 おい、エルネスト。お前、俺の情報をそのまま使うな。もう少し自然に会話しろ。


 だが、セレスティアの瞳が、興味深そうに輝いた。


「まあ、よくご存じですのね。確かに私、エルフ語の恋愛詩を研究しておりますの。でも、星詠みの詩も興味深いですわ。よろしければ、お互いの研究について、お話しませんこと?」


 会話が、始まった。ぎこちないながらも、確かに続いている。


 二人は並んで書架の前に立ち、古い詩集を開きながら、小声で語り合っている。セレスティアが何かを説明すると、エルネストが感心したように頷く。エルネストが意見を述べると、セレスティアが楽しそうに微笑む。


 よしよし……いいぞ、エルネスト。その調子だ。


 俺は満足げに微笑み、その場を静かに立ち去ろうとした。


 その時、ふと、セレスティアがこちらに視線を向けた。


 まずい、とっさに柱の影に身を隠す。心臓が跳ねた。


 柱の隙間から覗き見ると、セレスティアは不思議そうに首を傾げ、そして小さく、意味深な微笑を浮かべていた。


 その表情は、俺の存在を訝しむというよりは、何か面白いものを見つけたかのようだった。


 ――クレイド様は、どうして私の趣味をあんなに詳しくご存知だったのかしら……?


 彼女の唇は動かなかったが、その瞳がそう問いかけているような気がした。


 そして、その瞳に浮かんでいたのは、単なる疑問ではなく、むしろ好奇心にも似たものだった。


 俺の小さな介入が、未来に新たな、そして予期せぬ波紋を広げ始めていることを、この時の俺はまだ知らなかった。


 だが一つだけ確かなことがあった。


 今日という日は、前の時間軸では決して起こらなかった、小さいけれど確実な奇跡の始まりだということだ。

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