第11話:星詠み司の影
グリフォン事件から一週間が経った。
学院内でのエルネストの評価は、これまでになく高くなっていた。廊下を歩けば下級生たちが尊敬の眼差しで見つめ、同級生からは「さすがアードラー家の嫡男」と称賛の声が聞こえる。
だが、俺はどこか落ち着かない気分でいた。
前の時間軸では、この頃から少しずつ、エルネストを取り巻く環境に変化が生じ始めていたのだ。それは表面上は些細なことだったが、やがて彼を破滅へと導く大きな流れの始まりだった。
今回は、グリフォン事件の解決により、その流れを変えることができたはずだ。だが、本当にそれで十分なのだろうか?
「クレイド、どうした? ぼんやりしているぞ」
魔法史の授業中、隣に座るエルネストが小声で話しかけてきた。体調はすっかり回復し、いつもの真面目な表情で授業に集中している。
「ああ、なんでもない」
俺は首を振って、前方の老マクレー教授に視線を戻した。
「——そして、『星詠みの書』の解釈において重要なのは、預言の多層性である」
教授の単調な声が教室に響く。
「表層預言は一般に公開されるが、深層預言は星詠み司のみが知る秘奥である。この深層預言こそが、帝国の真の針路を決定するのだ」
俺の背筋に冷たいものが走った。
深層預言——それこそが、エルネストを「世界の敵」として定めた、忌まわしき文書。
前の時間軸では、この深層預言の存在を知ったのは、もっと後のことだった。エルネストが既に破滅の道を歩み始めてからだ。
だが今回は、俺は最初からその存在を知っている。
問題は、どうやってその内容を確認し、対策を講じるかだった。
授業が終わると、俺たちは図書館に向かった。エルネストはセレスティアとの約束があるため、先に街へ出かけることになっている。
「それでは、俺は先に失礼する」
図書館の入口でエルネストが俺とロウに頭を下げる。
「お疲れ様」俺が手を振ると、エルネストは嬉しそうに微笑んで去っていった。
「あいつ、すっかり恋する乙女だな」
ロウが皮肉っぽく呟く。
「いいことじゃないか。セレスティア様も悪い気はしていないようだし」
「そうだな」ロウが珍しく素直に同意する。「あの二人は似た者同士だ。きっとうまくいく」
俺たちは図書館の奥へと向かった。今日の目的は、『星詠みの書』に関する文献を調べることだ。
もちろん、深層預言の内容を直接知ることは不可能だろう。だが、星詠み司の制度や預言の仕組みについて理解を深めることはできるはずだ。
「おい、これを見ろ」
しばらく調べていると、ロウが一冊の古い書物を持ってきた。
「『帝国預言史概論』だ。星詠み司の成り立ちについて詳しく書かれている」
俺はその本を受け取り、ページをめくった。
『星詠み司の職務は、天体の動きと魔力の流れを読み取り、未来の可能性を預言することにある。特に深層預言は、帝国の存亡に関わる重大事項を扱うため、皇帝直属の最高位星詠み司のみがその権限を有する』
俺はその記述に目を止めた。皇帝直属の最高位星詠み司——。
前の時間軸で、エルネストの運命を決定づけた深層預言を下したのは、確かにその人物だった。
『現在の最高位星詠み司は、アステリア・ヴォン・エクリプス』
その名前を見た瞬間、俺の記憶が鮮明に蘇った。
アステリア・ヴォン・エクリプス。前の時間軸で、エルネストに「世界の敵」の烙印を押した張本人。
美しい外見に隠された冷酷な野心家で、預言を政治的道具として利用することに長けていた。彼女の策謀により、多くの貴族が失脚し、エルネストもその犠牲者の一人となったのだ。
「どうした? 顔色が悪いぞ」
ロウが心配そうに俺を見つめる。
「いや、なんでもない」
俺は本を閉じて、深く息を吐いた。
敵の正体が分かった。だが、それと同時に、事態の深刻さも理解した。
アステリア・ヴォン・エクリプスは、単なる預言者ではない。帝国政界の重鎮で、皇帝すら彼女の意見に左右される。
そんな相手に、学生の身分で立ち向かうことなど可能なのだろうか?
「おや、こんなところにいらしたのですね」
突然、背後から上品な女性の声がした。
俺たちが振り返ると、そこには一人の美しい女性が立っていた。
年齢は二十代半ばほど。深い紫色の髪を優雅に結い上げ、星と月の刺繍が施された高級なローブを纏っている。その瞳は神秘的な紫色に輝き、まるで宇宙の深淵を覗き込んでいるかのようだった。
俺の血が凍りついた。
アステリア・ヴォン・エクリプス。
なぜ、この女がここに?
「初めまして」アステリアが上品に微笑む。「私は星詠み司のアステリア・ヴォン・エクリプスと申します。この度の事件の調査に参りました」
ロウが緊張した面持ちで立ち上がる。
「星詠み司様がわざわざ…」
「ええ。グリフォン事件の解決方法が、あまりにも見事だったものですから」
アステリアの視線が、俺に注がれる。
「特に、アシュフィールド君。あなたの戦略眼には、大変興味を抱いております」
俺は必死に平静を装った。
「恐れ入ります。しかし、今回の成功はエルネストの判断力と、ロウの実力があってこそのものです」
「謙遜なさらずとも」アステリアが首を振る。「あの状況で崖を利用した退路の確保を思いつくなど、並の発想では不可能です」
彼女はどこまで知っているのだろうか? 俺の心臓が激しく鼓動する。
「ところで」アステリアが続ける。「アードラー君はいらっしゃらないのですか?」
俺の警戒心が最大に高まった。やはり、彼女の真の目的はエルネストか。
「エルネストなら、街に出かけています」
俺は短く答えた。
「そうですか。残念です」アステリアが小さく息を吐く。「実は、彼の今回の活躍について、直接お話を伺いたかったのですが」
「何か、問題でもあったのでしょうか?」
ロウが身を乗り出す。
「いえいえ、問題などありません」アステリアが手を振る。「むしろ、素晴らしい成果だったと評価しております。ただ…」
彼女が言いよどむ。
「預言との関連で、少し気になることがありまして」
俺の背筋に、再び冷たいものが走った。
「預言…ですか?」
「ええ。『災厄の火種』の件です。確かに解決されましたが、その方法が…少し、想定と異なっていたのです」
アステリアの瞳が、一瞬だけ鋭く光った。
「もしかすると、新たな預言の解釈が必要かもしれません」
俺は拳を握りしめた。
これだ。これこそが、エルネストを陥れる罠の始まりなのだ。
前の時間軸では、グリフォン事件の後、アステリアが「新たな預言の兆し」を理由にエルネストを監視下に置いた。そして、些細な行動の一つ一つを「預言への反抗」と解釈し、徐々に彼を追い詰めていったのだ。
だが、今度は俺がそれを阻止する。
「星詠み司様」俺が立ち上がった。「もし何か問題があるようでしたら、俺からエルネストに伝えておきます」
「ご親切にありがとうございます」アステリアが微笑む。「では、よろしくお願いいたします」
彼女が去っていく後ろ姿を見送りながら、俺は心の中で誓った。
今度こそ、エルネストをお前の策謀から守り抜く。
そのためなら、俺は何でもする覚悟だった。