第1話:そして、時は巻き戻る
# 第1話:そして、時は巻き戻る
王立魔導学院の午後の授業は、眠気との戦いだ。
特に、この魔法史という科目は性質が悪い。羊皮紙をめくる乾いた音、老マクレー教授の鼻にかかった単調な声、そして窓から差し込む暖かな春の陽光。それらは極上の子守唄となって、生徒たちの意識を容赦なく刈り取っていく。
俺、クレイド・アシュフィールドも、その例外ではなかった。
成績も家柄も中途半端な伯爵家の三男坊。魔力量は学年で中位、剣の腕も人並み程度。特別な才能も、際立った特徴もない。良くも悪くも目立たない、その他大勢の一人。
そんな俺にとって、この退屈で平和な日常は、ある意味で分相応な居場所だったのかもしれない。
机に肘をつき、頬杖をつきながら、俺は窓の外をぼんやりと眺めていた。中庭では下級生たちが基礎魔法の練習に励んでいる。手のひらに小さな光の球を浮かべては落とし、また浮かべる。単純な魔力制御の反復練習だが、皆必死に取り組んでいる。
ああ、俺にもあんな時代があったなあ。
隣の席では、親友が背筋をぴんと伸ばし、美しい銀色の髪を揺らしながら熱心にペンを走らせている。
エルネスト・フォン・アードラー。
アードラー公爵家の嫡男にして、次期聖騎士団長の最有力候補。学院始まって以来の天才と謳われる膨大な魔力量を誇りながら、誰よりも真っ直ぐで、誰よりも優しい、俺の自慢の親友。
彼の手元を盗み見ると、美しい文字で丁寧にノートが取られている。『帝国歴782年、聖騎士ガラハドの東方遠征における戦術的革新』『古代魔導技術の復活と近世社会への影響』。俺が半分居眠りしている間に、講義はこんなにも進んでいたのか。
エルネストは時折ペンを止めて、教授の言葉を反芻するように小さく頷く。その横顔は真剣そのもので、まるで未来の聖騎士団長としての責務を既に背負っているかのようだった。
……ああ、眩しいな、お前は。本当に。
そんなことを思いながら、俺の意識は、とうとう抗うことをやめて闇の中へと沈んでいった。
そして、“あの地獄”が、鮮明に蘇る。
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降りしきる冷たい雨。鉄錆と血、そして焼け焦げた肉の匂いが混じり合った、地獄のような臭気。
崩れ落ちた王城の玉座の間。かつて栄華を誇った黄金の柱は折れ、美しいステンドグラスは砕け散っている。紅蓮の炎に包まれた帝都の残骸が、窓の向こうに広がっていた。
もはや悲鳴も聞こえない。ただ、雨だけが、全てを洗い流そうとするかのように降り続けている。
その惨劇の中心で、血の海に沈むエルネストの姿があった。
虚ろなアメシストの瞳。その胸には、英雄ロウ・クローヴィスの聖剣『ルミナス』が深々と突き刺さっていた。かつて神聖な光を放っていた白金の刀身は、今や暗い血に染まって鈍く光っている。
『……これで、よかったんだ、クレイド』
親友の最後の言葉が、雷鳴のように脳に焼き付いて離れない。
その口元には、安堵にも似た、穏やかな微笑みが浮かんでいた。まるで、長い悪夢からようやく解放されたかのように。そう、彼にとって死こそが、唯一の救いだったのだ。
『世界の敵』と呼ばれ、全てを失い、全てを憎んだ彼にとって。
違う。違う、違う、違う!
俺は叫びたかった。だが、声は出ない。体が動かない。瓦礫の陰に隠れ、恐怖に竦んで親友を見捨てて逃げ出した、あの瞬間の無力な俺が、そこにいた。
エルネストの瞳から、最後の光が消えていく。彼の顔が、安らかな死者のそれに変わっていく。
そして俺は、ただ見ていることしかできなかった。
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場面が切り替わる。
路地裏の腐敗臭。衛兵のブーツが石畳を叩く音に怯え、ドブネズミのように息を潜める日々。水溜りに映る、光を失った目をした痩せこけた男の顔。
それが、親友を失った後の俺の姿だった。
アシュフィールド伯爵家は、エルネストの「共謀者」として断罪された。父と兄たちは処刑台の露と消え、母と姉は修道院への強制収容。俺だけが、価値なき三男として命からがら逃げ延びた。
いや、正確には「逃げ延びた」のではない。「見捨てられた」のだ。もはや何の利用価値もない、哀れな負け犬として。
何度も、何度も、同じ悪夢にうなされた。エルネストを見捨てて逃げた、あの雨の日を。
もし、あの時、俺がもっと強ければ。
もし、あの時、俺がもっと賢ければ。
もし、あの時、俺が最後まで彼の隣にいることができていれば。
「もし」という言葉だけが、俺を生かし続けた。そして、同時に殺し続けた。
それから五年。ようやく這うようにして辿り着いた王城の跡地で、俺は瓦礫の山の中から一つの石を見つけ出した。泥に汚れ、ひびの入った、小さな青い石。
それは、子供の頃にエルネストと一緒に作った、お揃いのお守りだった。
かつては魔力に反応して不思議な光を放っていた、二人の友情の証。だが今では、ただの冷たい石ころと化していた。
あれが、俺の、俺たちが辿り着いた未来の、全てだった。
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「―――クレイド・アシュフィールド!!」
老教授の雷鳴のような怒声が、俺を悪夢の深淵から現実へと引きずり出した。
「エルネストッ!」
反射的に叫んだ親友の名前に、教室中の視線が一斉に突き刺さる。
心臓が破裂しそうなほど激しく鼓動していた。俺は椅子から飛び上がるように立ち上がっていた。額に汗が滲み、それが頬を伝い落ちる。クラスメイトたちの怪訝そうな視線が、逃亡生活で浴び続けた侮蔑の眼差しと重なって見えた。
「お、おはようございます…いえ、すみません…」
どうにか言葉を絞り出すと、老教授は深い溜息をついた。
「まったく…最近の若者は授業中に悪夢でも見るのかね。席に着きたまえ」
俺がふらつきながら席に戻ると、隣からエルネストの心配そうな声が聞こえてきた。
「クレイド、大丈夫か? すごくうなされていたぞ。顔色も真っ青だ」
地獄にいたはずのない、親友の澄んだ声。
エルネストが、本気で心配そうな顔で俺を覗き込んでいた。その清澄なアメシストの瞳には、まだ絶望も、憎悪も、諦めも宿っていない。ただ純粋な、友への心配だけがあった。
その優しさが、何年ぶりかに触れる温かい光のように、俺の胸を締め付ける。
「……ああ。なんでもない。最悪な夢を、見ていただけだ」
そう答えるのが精一杯だった。声が震えていることを、彼に気づかれないよう祈りながら。
授業が終わると、俺はトイレに行くふりをして教室を抜け出した。
まだ全身の震えが止まらない。足がふらつく。あれは確かに夢だった。だが同時に、俺が確実に体験した、紛れもない現実でもあった。
廊下を歩いていると、掲示板が目に入る。学園祭のお知らせを告げる、色鮮やかで楽しげなポスター。
『第127回 王立魔導学院 春の学園祭』
華やかな装飾文字が躍る、平和そのものの告知。
だが、俺の目は、その隅に小さく記された日付に釘付けになった。
――帝国歴1025年、芽吹き月12日。
嘘だろ……。
手が震える。何度も、何度も、その数字を確認する。だが、何度見ても同じだった。
エルネストが「世界の敵」として英雄ロウに討たれたのは、帝国歴1028年、枯葉月の終わり。
ここは、3年と7ヶ月も過去。
彼がまだ、運命の歯車に巻き込まれる前の。俺たちが、何の屈託もなくただの親友として笑い合えていた、あの輝かしい時間。
震える手で、制服の胸ポケットを探る。
そこには、冷たくて硬い、小さな石の感触があった。エルネストと二人、子供の頃に作った、お揃いのお守り。未来では、俺が廃墟の中から見つけ出した、唯一の形見。
石を取り出してみると、それは微かだが確かに青白い光を放っていた。魔力に反応する鉱石の、生きた証のような輝き。
未来では、この光は完全に失われていた。石は死んでいた。
ということは、これは…本当に…。
「戻ってきたんだ…」
声が震える。涙が、止めどなく頬を伝い落ちた。
廊下の窓から中庭を見下ろすと、ロウと剣の稽古に打ち込むエルネストの姿が見えた。
まだ英雄でもなく、世界の敵でもない。ただの、真っ直ぐで、少し不器用で、でも何より優しい、俺の最高の親友の姿がそこにあった。
太陽の光を受けて、彼の銀髪が風に踊っている。汗を流しながらも、楽しそうに剣を振る彼の笑顔が、こんなにも美しく見えるなんて。
その光景に、涙が止まらなくなった。
ああ、こんなにも尊い日常を、俺は失ってしまったのか。
だが、今度は違う。
世界の敵? 大罪人? 運命の歯車?
知ったことか。
俺にとって、お前はずっと、たった一人の、最高の親友だ。
今度こそ、俺はもう逃げない。
お前の隣で、最後まで一緒に戦ってやる。
どんな運命が待ち受けていようと、どんな預言が示されていようと、俺がお前を護り抜く。
だから、見てろよ、エルネスト。
お前が辿るはずだった最悪のシナリオは、この俺が、全て叩き潰してやる。
この小さな石に誓って。
俺たちの、決して失われることのない友情に誓って。
今度こそ、お前を独りにはしない。