接触
絢爛豪華なシャンデリアが煌めき、色とりどりのドレスが光に揺れる。まるで一時の夢のような夜会に、その令嬢はいた。
ゆるく巻かれた蜂蜜色の髪。マーメイドラインの、黒から紫へのグラデーションが鮮やかなドレスは、彼女のスタイルの良さを際立たせている。
ほうと息をつく声が聞こえてくる。月もかくやな美しさとは誰が言ったか。"イグニスフィアの月"は今日も今日とて沈魚落雁、羞月閉花の美しさであった。
(ステラも来れたらいいのに。あぁ、でもステラが傍に控えていたら、きっとマリーナ嬢は近寄っても来ないでしょうね)
誰かに罪を着せるなら、相手が単独でないとやりづらいだろう。そんな事を考えながら、ルーナはついとワインのグラスを手に取った。
白魚のような指がグラスを滑り、ワインの芳醇な香りに形の良い唇がゆるく弧を描く。一幅の絵画のようなそれに、人々は皆揃って羨望の息をついていた。
「御機嫌よう、ルーナ様!」
「……あら、マリーナ嬢」
人波を裂き、マリーナが姿を現した。ピンクを基調としたドレスは、幾重にもレースが重なり、幼くも大変可愛らしい印象を受ける。
(思いの外、早く釣れたわね)
まぁこうなることは予想できていたので、散々待たされるより早いほうがいいのだが。ルーナはぱちんと扇を鳴らすと、非の打ち所のない微笑みを浮かべた。
「素敵な挨拶をありがとう。とっても可愛らしいドレスですわね。どちらのブランドで仕立てられたの?」
「うふふ。これは、ある人からの贈り物なんです。ルーナ様、どなたからか分かりますか?」
(嫌味はあまり理解できていないようね)
ルーナは内心落第の判子をぺんと押す。この貴族社会で生き抜くためには、言葉の裏にあるものを理解することが必要不可欠だ。もっとも、ルーナとて物事を有利に進めるために、あえて言葉の裏を読まないこともあるが。
自信満々に胸を張る姿を見るに、恐らく本気で褒められたと思っているのだろう。ルーナはそうね、と少し考える素振りをした後、困ったように微笑んだ。
「あなたの好い人、かしら? 婚約者様からですか?」
「うふふ、実はまだ婚約者ではないんです。いずれそうなる予定なんですけど……」
「あらそうなの。それはおめでとうございます」
ルーナは白々しくそう言って微笑んだ。どうせなら、コーディ様から頂いたのよ!と大声で叫んでくれたなら、支度金からドレスを贈っている証拠となるものを。
周囲の人々の視線は、やがてどんどん離れていく。曲が変わり、ダンスが始まる頃には、周囲の視線は殆ど感じなくなっていた。
(仕掛けてくるならそろそろかしら……)
ルーナは一瞬マリーナから視線を外した。その視界の端に、ニヤリと微笑むマリーナの顔が映り込む。ついで、マリーナはグラスを持ったまま床へと倒れ込んだ。その刹那、手を離れたグラスは、ルーナの方へと飛んでいき、ばしゃりと水音を立てる。
「きゃあ!」
「マリーナ嬢!?」
ルーナのドレスにワインの染みが広がっていく。ルーナはそれを気にせず、マリーナの隣へと膝をついた。マリーナは大きな瞳を揺らし、やおら声を張り上げる。
「ひ、酷い……! ルーナ様、私を突き飛──」
「まぁまぁ大丈夫? 急に転んでしまうなんて驚いたわ」
「は……?」
「あぁいいのよ。私のドレスのことなら気にしないで。ドレスの一枚や二枚、あなたが無事ならなんてことないわ」
ルーナの凛とした声が響く。見れば、ざわざわと集まってきた人だかりが、ルーナとマリーナを見比べてヒソヒソと声をひそめて何事かと囁きあっている。
「ご自分のドレスが台無しになったにも関わらず、なんとお優しい……」
「流石グラシエス公爵令嬢」
「あの倒れた娘は一体どこの令嬢だ?」
「非難めいた声が聞こえたと思ったんだが、どういう状況なんだ?」
「酷いって声が聞こえたが……」
野次馬がわらわらと集まってくる。目に涙を溜めて呆然とルーナを見る令嬢と、汚れたドレスを気にすることなく令嬢に寄り添うルーナを交互に見て、皆口々に噂話に花を咲かせる。
「言うほど酷いかしら……この程度なら落ちると思うけど」
「あ、あの…!」
「あなたはドレスのシミの酷さを見て、思わず"酷い"と口にしたのよね?」
「そっ……」
「あら、それ以外に何かお有りになって?」
ルーナはマリーナの青い瞳をじっと見つめた。ぱらりと扇子を開き、優雅に口元を隠す。
「ぜひお聞きしたいわ。それによって穏便に済ませるか、あなたのお家に何かしらのご連絡を入れるか考えなくてはならないもの」
「わ、私は……」
「自分で、ふらついて転んで。私のドレスにワインをぶち撒けて。まさかわざとじゃないわよね?」
ひゅっとマリーナの喉が鳴った。とんでもないやつに手を出してしまった、と脳内で警鐘が鳴る。下手をすればこの令嬢の一声で男爵家など簡単に取り潰される。
「も、うしわけありません……決して、わざとでは……」
「そうよね?うふふ、びっくりしたわ。次からは気をつけてくださいましね」
──二度目は許せるかお約束できませんもの。
ぞわりと恐怖心が足の先から這い上がってくる。口の中がカラカラに乾いて声が出ない。頭の芯が痺れて思考が止まる。
目の前の令嬢は、その見目と能力の高さから"イグニスフィアの月"と名高く、求心力も頗る高い。
この人には、一人では勝てない。
「ルーナお嬢様、こちらへ」
「うふふ。それでは皆様、失礼いたしますわ」
優雅についと頭を下げ、ルーナは流れるように身を翻す。別室へと案内しようとするメイドに断りを入れ、ルーナは待機させている馬車へと歩き出した。
成る程、仕掛けてきたか。気の弱い令嬢ならあの手にまんまと乗せられてしまうのも無理はないだろう。だが今回は、運良くワインがこちらのドレスにかかってくれた。どちらが被害者かは一目瞭然だっただろう。
「ただいま、ステラ」
「お嬢様……!? 一体何が──」
「ちょっと不運な事故に巻き込まれたのよ。気にしないで」
ステラは実に面白くなさそうに眉根を寄せた。夜風にステラの藍色の髪が揺れる。琥珀色の瞳が剣呑に細められるのを見て、ルーナは困ったように笑った。まったく、この専属騎士は少々過保護が過ぎる。
「マリーナ男爵令嬢絡みですか」
「えぇ、まぁ。でも本当に大丈夫だから。男前が台無しよ?」
「……お嬢様をそのような目に遭わせた輩が、私には許せません」
「ふふふ、とりあえず屋敷に帰るわ。馬車を出してちょうだい」
「……畏まりました」
不服そうに、しかし流れるようにステラは頭を下げた。ついと差し出された手に手を重ね、馬車へ乗り込もうとステップに足をかける。ばたんと扉が閉められ、ルーナは窓から見える夜の景色に、ほっと一人息をついた。
「不貞の証拠も、この調子なら続々と集まってくれそうね」
先ほどの騒ぎは、なかなかいい噂の種になっただろう。噂話が好きな貴族たちのことだ。男爵令嬢にワインをかけられながらも、罰することなくその身を案じるルーナの姿と、夜会で転び、公爵令嬢にワインをぶち撒けたマリーナの話を面白おかしく語ってくれるに違いない。
「マリーナ嬢は、これで少しは懲りたかしら。やり方を変えてくるとは思うけど……ふふ、どう転ぶのか楽しみね」
「ルーナ嬢……」
屋敷の中から、一人の青年がそっと抜け出してくる。月の光に、肩口で切りそろえられた白銀の髪が揺れ、翡翠の瞳が愛しいものを見るようについと細められる。
「ルーナ嬢……あなたのことは私が必ず救い出してみせます」
仄暗い瞳が、遠くなる馬車を見つめていた。