転校生は帰国子女だった
1970年代の高校生たち…
「転校生の永瀬水希さんだ。これまでアメリカとかヨーロッパに住んでいた。いわゆる帰国子女だ」
「オーッ!」
「可愛いじゃん」
「胸、大きくね?」
「外国に住んでいたってーっ」興味と卑屈な軽蔑の視線が教壇の横に立っている少女に注がれた。
「静かに。ご両親の仕事に関係で日本に戻って来た。久しぶりの日本なので慣れないこともあるだろうから、みんなよろしく頼む」担任の那須が真面目に言った。
「永瀬水希です。6年ぶりの日本なのでわからないことがたくさんあります。よろしくお願いします」転校生は緊張しながらフワフワの髪を下げて挨拶した。
「席は廊下側の一番後ろの山口久志の隣だ。山口、いろいろと彼女に教えてあげるように」
「ヒューヒュー、ひさしちゃん優しくしてねぇ」
「怖い顔したら水希ちゃん、泣いちゃうよーっ」馬鹿な林と藤本が喜んでいる。
「アメリカやヨーロッパだってぇ・・・」何人かの女子の妬みを含んだ嘲るような声も聞こえた。
俺の隣に座った転校生はニッコリ笑って言った。
「山口・・・くん」
「あっ、ああ」
「これからいろいろ迷惑かけるけど、よろしくね」
「あっ、ああ・・・」俺が曖昧な返事をすると、転校生はクスクスと笑った 何が面白いのだろう?
帰国子女は珍しいのか、2-Bクラスのミーハーな奴らは転校生に群がってあれこれと訊いている。俺は自分の席を離れて廊下に出た。俺の通っている高校は海の近くにあり二階の廊下からも見晴らしが良い。梅雨の晴れ間に瀬戸内の海は穏やかな光を放っている。その水面は白い靄がかかっているように曖昧だ。
「せっかくカワイ子ちゃんが隣に来たのに、なに離れてるんだ?」クラスメートの原拓海は少し色が入っている眼鏡を動かしながら青い空を見た。
「オイ、誰だよカワイ子ちゃんって? それより久志ぃ、トイレ」2-Cの片田幸太郎は車椅子を両手で動かしながら寄って来た。
「俺も行こう」
俺たち三人はトイレで用を足すと再び同じ場所にもどった。
「山口、レッド・ツェッペリンの二枚目聴いたんだろ? どうだった」原は眼鏡をハンカチで拭きながら訊いてきた。
「ああ、この前の日曜に買った。あんまり分かんないな。俺はパープルの方が良いなぁ」
「ジミー・ペイジのレスポールよりリッチーのストラトキャスター方が良いか? 俺はツェッペリンの方が好きだけどな」
「ツェッペリンのギターとかボーカルって粘くない? ちょっとしつこい感じがするんだけど」
「それがいいんだよ。リッチーの方がジミー・ペイジより上手いけどな」
「原は粘い方が良いのかよ?」
「ブルースっぽいギターはカッコいいぜ」原はギターが超うまいのだ。こいつはバンドのリードギターをしてるけど、インプロビゼーションのフレーズが勝手に出て来るって言ってた。訳わからん。
「お前ら、よくあんなうるさい音を聴けるなぁ。変態じゃねーのか?」幸太郎は車椅子の肘掛けに右ひじをついて呆れていた。
「幸太郎こそ、アイドルの下手な歌をよく聴けるなぁ。今は誰のファンだ?」拓海がニタニタ笑ってる。
「アグネス様じゃあー! おっかのうえーひんなげしのはながぁー」幸太郎はマイクを持つように両手を重ね、体を左右に揺らしファルセットボイスでアグネス・チャンの歌真似をした。
「ヒャヒャヒャー、何、その下手くそな歌は、気色悪っ。それに片田、お前はやっぱ変態か?」突然現れた2-Dの北川舞が馬鹿にしたように片田を覗き込んだ。
「バーカァ、お前なんかにアグネスの可愛らしさが分かるか。アホ。それより舞、お前はやけにスカート短いなぁ。おう、分かった。俺にパンツ見てもらいたいのか?」幸太郎は少し不自由な左手で北川のスカートをめくろうとした。しかし北川はサッと身を翻すと幸太郎の左手は空を切った。
「バーカ、片田のスケベ! 自分でマスかいてろ」
「な、な、な、な、なにおー、このドブス!」幸太郎は車椅子で目の前の舞を目がけて突進しようとした。しかし彼の車椅子は急に止まってしまった。
「誰じゃー!」幸太郎振り返ると生徒会長の麻倉遥が車椅子のグリップと介助用ブレーキを握っていた。
「遥ちゃん!」幸太郎は微笑んでいる遥を見るとだらしなく笑った。
「相変わらず片田君と舞は仲が良いのね」麻倉の落ち着いた声を聞くと幸太郎は慌てて右手を振った。
「だ、だ、だ、だれがあんなイカレポンチと。遥ちゃん、それは誤解ですゥ」
「幸太郎、お前はホントに遥の前では態度が変わるなぁ」北川は呆れていた。
「それより山口君、先ほど2-B覗いたけど、あなたの周囲はうるさくて大変ねぇ」麻倉遥は涼し気な眼差しで俺を見た。同じ高校二年生とは思えない大人っぽい瞳の色だと俺はいつも感心している。
「別に・・・、どうせ直ぐ静かになる・・・」俺はつまらなそうに言った。
「フフッ、そうね。あと数日したら元にもどるかも。でも永瀬さんはバイリンガルだから大変かも、ねえ拓海?」
「・・・そうだな」拓海は瞳を閉じ少し考えて返事をした。俺と北川、幸太郎はそれぞれ不思議そうに顔を見合わせ、そして麻倉と拓海を見た。
数日後、潮が引くように転校生の周りには人がいなくなった。授業中、俺と長瀬は机をくっつけている。彼女の教科書がまだ届いていないからだ。忘れ物をした小学生みたいで、最初はクラスの奴らが面白半分で俺たち二人を見ていた。数人の女子は意地悪そうな視線を投げかけていた。そんな状況で俺はとても緊張したが、永瀬は平然としていた。俺と二人で教科書を見るのが、さも当然と言う雰囲気なのだ。周りの奴らはとても緊張している俺と自然体の転校生のコントラストが面白かったのかもしれない。だが奴らが面白がったのはほんの数十分だけだった。俺はクラスの奴らの無関心さに心底安堵した。
永瀬水希は俺が教えることなどないほど聡明だった。英語の発音などは明らかに教師より上手い。長瀬の英語を聞くとみんな最初は「ほぉー」と感嘆の声を上げた。だが彼女の素晴らしく美しい英語の発音が一部の人間にとっては妬みや悪口の対象にもなった。そのざらついた負の感情に永瀬は戸惑っていた。
長瀬が転入して三日後の昼休みだったと思う。俺は自分の席でロック雑誌を読んでいた。
「ねえ、山口君。山口君ってロック好きなの?」いきなり右隣から柔らかい声が俺の頭に入ってきた。
「あっ、あ、ああ・・・っ。まあ、好きだけど」
「どんなバンドが好きなの?」永瀬は少しだけ右に顔を傾けて、少し銀色がかっている瞳で俺を真っ直ぐ見つめた。
「え、え、えっと・・・あのぅツェッペリンとかパープルが気に入ってる・・・」俺は自分じゃない声が外から聞こえているようだった。
「エッ、そうなの? 私もツェッペリンとかパープルは大好きだよ」目の前の大人しそうな少女の口からハードロックバンドの名前が出たことに俺は驚いた。そしてチャーミングな彼女が楽しそうに俺をじっと見つめているので、俺は何処を見ていいのか全くわからないでいた。
「永瀬さんはさぁ、外国にいたんだろ。だったら外国のバンドのコンサートに行ったことある?」俺は視線をあちこちに飛ばしながら訊いた。
「うん、いろいろ行ったよ。レッド・ツェッペリンのライブはとても良かったよ」
「エーッ! ツェッペリンのライブ行ったの。すげえ! やっぱりジミー・ペイジのギターはカッコよかった。ロバート・プラントはあんな声が出るのかな?」俺は興奮した。
「そうだね。ジミー・ペイジもロバート・プラントも良かったけど、私が一番凄いと感じたのはジョン・ボーナムのドラムかな? ドスン、ドスンってお腹に響くの」帰国子女は両手で自分のお腹をそっと押さえた。
「へぇー、ジョン・ボーナムのドラムかぁ」俺はボーッとして目の前の銀色がかった瞳を見ていた。
「久志ぃー、しっこー!」教室の後ろの入り口からダミ声が響いた。
「うるさいな!」俺は幸太郎と車椅子を押している北川を睨んだ。
「トイレくらい一人で行け!」
「ほうほう、この子が山口久志クンの大好きな永瀬水希ちゃんですか? なるほどなるほど、うんうん。あっ、あたしは北川舞。よろしくね、水希ちゃん」北川はそう言うと俺にウインクした。
「な、な、な、何を言ってるんだ、北川! お前は!」俺は頭に血が上るのをハッキリと感じ口が上手く動かない。
「ヒャヒャヒャー、図星だ図星。オイ幸太郎、見ろ。久志が真っ赤だぞ」
「ギャハハハ―ッ、水希ちゃん、気を付けてねーっ。こいつ巨乳好きだから夜中に水希ちゃんを想いながらアヘアへしてるぞ」幸太郎の奴、手を叩いて喜んでいる。それに何が水希ちゃんだ、この野郎!
「アヘアへ、ンン?」北川が白々しく首を捻っている。
「アヘアへ、ドッピュン!」幸太郎は白目をむいて口を開け恍惚の表情をつくった。
「アハハハ―ッ」今度は北川が喜んで手を叩いている。
「お前ら、あっち行け! 俺は永瀬さんとロックの話をしているんだ!」デリカシーの欠片も無い奴らだ。
「そんなぁー、久志くーん。僕がおしっこするの、優しく手伝ってぇー」猫なで声だ。
「気色悪い声だすな。北川にしてもらえ」
「舞ちゃーん、俺のおしっこするの手伝ってーぇ。僕のプリプリスベスベのお尻が見れるよーぅ」
「ヤダ、死んでもヤダ!」北川はツインテールをブンブン振った。
「わかったよ、もう・・・。永瀬さん、ゴメン」俺は椅子から立ち上がり、車椅子のグリップを握ろうとした。
「ちょちょちょちょチョット、久志、ちょっと待てよ、コラァ」幸太郎は振り返り右手を上げた。
「ごめんごめん、山口。幸太郎はもうトイレ一人で済ませたんだ」北川が真顔になっている。
「んん?」俺はあっけにとられた。
「あたしら水希ちゃんに会いにきたんだよ。どんな子かなぁって」
「うん、そうだ。まいったか?」幸太郎、偉そうだぞ。
「この不愛想で無表情な山口をアタフタさせた可愛い帰国子女を見に来たんだ。ゴメンね、水希ちゃん」北川は永瀬に右手を差し出した。長濱は嬉しそうに北川の右手を握り立ち上がった。そして彼女は北川をそっと抱きしめた。
「はぁー、水希ちゃん、いい匂い。それとさすが外国育ちだねーっ、ハグするのが上手」
「ミーツ―、ミーツ―。俺も水希ちゃーん」幸太郎が騒いでる。何がミーツ―だ。
「ナイスッミーチュー」永濱は幸太郎の右手を握った。
「ガッカシ・・・」と言いながらも幸太郎は嬉しそうに笑った。
「山口君のお友達は楽しいね」
「エッ、そうかな」
「それから山口君にも挨拶していなかったよね」
「ウン?」俺が彼女の言葉を疑問に思ったとき、柔らかい体が俺を抱きしめていた。
「・・・・・・」目も眩む真っ白な世界の中、俺は何も言えなかった。しばらくして現実世界の映像がもどってきた。俺が最初に見たのは、幸太郎と北川のポカンと口を開けた顔だった。
「さあ、着いたわよ」
幸太郎の母は白いトヨタ・カローラを映画館の前につけた。俺はカローラのトランクから車椅子を抱えコンクリートの地面にそれを置いた。助手席のドアが勢いよく開いた。助手席に乗っていた幸太郎は「ウウーッ」と唸りながら、両足を何とか九〇度回転させた。それから奴は開いたドア窓のふちを両手で持って全身に力を込め少し膝を曲げて立った。俺は奴の後ろに素早く車椅子を滑り込ませた。「もういいぞ」という俺の声とともに幸太郎はゆっくりと車椅子のシートに腰を下ろした。そして両手で右腿を抱え上げて右足をフットサポートに置き、左足も同じ動作をした。それから奴は助手席ドアを力強く閉めた。「バタン!」という怒気を含んだような音が響く。
「久志ぃー、オッケー」
「じゃあ、おばさん、行ってきます」
「久志君、いつもありがとね。幸太郎、あまりワガママ言って久志君に迷惑かけるんじゃないよ!」
「うっせい、ばばあ。はよ行けや!」
「コラァ! なんじゃあーっ、その言い方は。迎えに来てやらんぞ!」
「アッ、スイマセン、ごめんんさい、お母さま」また猫撫で声・・・。
「ウム、分かったらよろしい。それじゃ、久志君、バカ息子をよろしくね」幸太郎の母親はそう言うとカローラのハンドルを回し颯爽とその場を離れて行った。
「おー怖っ」幸太郎は顔を歪めて言った。
「お前、あんな良い母ちゃんに酷いこと言うなよ」
「あれは俺たちの挨拶みたいなもんじゃ。ヒャヒャヒャー」
「まあ、そうだけど・・・」俺と幸太郎はゆっくりと映画館の中に入って行った。まだ誰も来ていない。
俺たち二人が映画館一階エレベーター前で待っていると、背中から「ワッ!」と弾んだ声がした。北川の両手が幸太郎の両肩を強く叩いた。
「うおおおぅー」幸太郎の右手が反射的に上がりブルブルと震えた。
「ヒャヒャヒャー、お前、顔がタコみたいだから、ホントのタコ踊りだなぁ」北川が楽しそうに幸太郎の顔を覗き込んだ。
「コラァ、舞! 何すんじゃ、てめえは。心臓止まるかと思ったわい。あーっビックリしたぁ」幸太郎はオーバーに右手で胸を押さえていた。
「おはよう、山口君、片田君」ピンクのワンピースに白いカーディガン姿の永瀬が少し照れながら言った。
「お、おう」俺は挨拶が苦手だ。
「おはようーっ、水希ちゃーん。ナイスミーチュー」幸太郎の奴、図々しく右手を出して握手を催促している。永瀬は笑いながら腰を屈めて握手した。
「水希ぃー、幸太郎を甘やかすと、こいつベタベタと触ってくるぞ」
「うるせー、ブス! またそんな短いスカート履いて。やっぱりてめえは、俺様にパンツ見てもらいたいのか?」
「バーカ、あたしの健康的で美しい足を披露するのは世の男性に対する義務なのだ」紺色のデニムのジャケットとミニスカート姿の北川は右足を前に踏み出し、背を伸ばしたポーズをした。
「ケッ! 誰がてめえの太っとい足なんか見るか。オエーッ、気色悪ぅー」
「何だと、幸太郎! 何言ったぁ」北川は幸太郎の後ろに回ると車椅子のグリップと介助用ブレーキを握りティピングレバーを右足で踏み込んだ。幸太郎の車椅子の前輪が四十五度浮き、北川は車椅子を前後左右に揺らした。
「ワーッ! 怖―い怖っ! 舞、馬鹿っ。止めろう!」
「舞? 馬鹿? 何だぁ、その言い方はぁ?」北川は相変わらず幸太郎の乗っている車椅子を揺らしている。
「あぅ、舞様ですぅ、舞様、許してくだされぃー。お願いしますだぁ」
「あたしの足を何て言った?」
「舞様のおみ足はとても美しゅうございます。世の男の憧れでしゅー」
「よーし、許してやろう」北川はゆっくりと車椅子の前輪を床に着けた。永瀬は少し驚いたように俺を見た。俺は「こんなもん」と答えると転校生は小さく笑った。
「オーッ、怖ッ。舞、怖ッ」幸太郎は息を吐き出した。
「片田と北川は何処にいてもうるさいな」拓海の声が後ろから聞こえた。拓海の奴、黒い詰襟の制服を着てる。隣にはアイボリーのチノパンツに白いブラウス、それから薄い緑のジャケットをクールに着こなした麻倉が立っていた。
「ちょうど良い時間ね。じゃあ行きましょうか」麻倉の一声でごちゃごちゃしていた俺たちは、その声に従いスッとエレベーターに乗ったのだった。
俺はホラー映画を基本的に観ない、というか観ることができない。生理的に受け付けないのだ。だが今は何故かホラー映画を観ている。俺の左座席には永瀬が潤んだ瞳で楽しそうに大画面を観ている。彼女の左隣は麻倉がいて、その左隣は拓海が座っている。幸太郎と北川は前方の車椅子用のスペースに行っている。
その映画は頭のオカシイ母親に変なふうに育てられた超能力のある少女の物語だ。怪しい宗教にハマっている母親は娘に生理の処理も教えていない。だから彼女は学校の友達からもいじめられている。暗い話だ。それでも優しい彼氏ができてパーティに招待されるが、いじめっ子たちの策略で豚の血を頭からかけられる。(ゲッ、ひどい! あ・・・、気持ち悪い・・・。意識が飛びそうだ)すると俺の左手に小さく柔らかな手が触る感触があった。俺はぼんやりとした頭で左を向くと心配そうな永瀬水希の瞳があった。
「山口君・・・、大丈夫?」
「あっ、ああ・・・」全然大丈夫じゃない。
「辛かったら外に出て休憩しない?」
「いや、大丈夫・・・」俺は息を吐きながら言った。永瀬は納得していない表情を浮かべると、彼女の指が俺の指に絡みついた。俺は驚いて左隣の少女を見ると、彼女は俺を見て微笑んだ。すると俺は左手から温かいものが全身に広がっていくのを感じた。それまで強張っていた体がユルユルと解けていく。それはとても嬉しいことだったけど、俺は自分の臆病さに落胆もした。だが永瀬に元気をもらったのだから、ここは男としてカッコいいところを見せねばならぬと決意した。だから前方の大画面を凝視したのだ。だけどやはり苦手なものは苦手で、衝撃のクライマックスの場面では俺の心臓は止まりそうになり体に力が入らなくなった。
上映が終わり観客たちはパラパラと館内から出て行く。
「さあ、行きましょうか。アレッ?」麻倉が蒼い顔をしている俺に気づいた。
「ハハーン、やっぱり久志はホラー駄目だったんだな」拓海の奴、ニヤニヤしている。
「この映画、そんなに怖かったかしら?」
「久志は幽霊とか怖い話とかすると何気にシカトしてたからなぁ」こいつ、まだ笑ってやがる。
「山口君はクールで表情にはあまり出さないけど繊細だからね」麻倉は美人で飛びぬけて頭も良いけど優しい。彼女に欠点なんてあるのか? といつも思う。俺や幸太郎、北川は勉強が苦手で他に取柄もない劣等生なのに、どうして麻倉遥は俺たちと仲良くしているのか 不思議だ。
「久志、お前、ココでもう少し休んでいるか?」ニヤついている拓海の言葉に俺は小さく頷いた。腰が抜けて立てないとは言えないのだ。
「じゃあ、私たち待合室で待っているわ。永瀬さん、山口君をお願いね」そう言うと二人は出口に向かって歩いて行った。
「ごめん、永瀬さん・・・・・・」情けない俺は自分に心底がっかりした。
「んんん、そんなことないよ。山口君、気分は悪くない?」優しいクラスメートは俺の眼を覗き込んだ。銀色がかった瞳がとても綺麗だ。
「もう少し休んだら立てる・・・」俺は何とか眼を開けて呟いた。
「山口君、深呼吸をゆっくりとしてみたら」俺は永瀬の言う通り深呼吸を何回か繰り返した。すると体が少し楽になってきた。
「ねえ、山口君。私に何かしてほしいことはない?」
「・・・キス・・・、アワワッ、イヤ何でも何でもない!」愚かで馬鹿な俺は何故かそう言ってしまった。
「フフッ」永瀬水希は小さく笑うと、その柔らかいピンクの唇で俺の乾いた唇を塞いだ。俺はあまりの出来事にまた頭の中が真っ白になった。そして胸の奥から熱いモノが体の隅々まで広がっていった。
いったいどれくらいの間、俺と水希はキスをしていたのだろうか? 気がつくと目の前に頬をピンクに染めた彼女が嬉しそうに笑っていた。
十六歳の俺にとって、世界は謎に満ちていた。だけどその未知の世界の中に想像を超えるとても素晴らしいことがあることも今、少しだけ分かった・・・・・・。
呆然としている俺だけど、恋に落ちるってこういうことかなって考えることはできた。そしてよく分からないけど俺は、恐れのような頼りない不安な気持ちも同時に感じていた。
俺たちは映画を観たあと拓海の提案でパスタが美味しいと評判のレストランに入った。楕円形ケーブルで昼食をとりながら先ほど観た映画のことを話していた。
俺はホラー映画の影響と水希のキスのショックでまだボーッとしていた。俺は普段から口数が少ないので大体は聞き役だ。だから俺の振舞は、いつもとそんなに変わらないと思っていた。
「舞があんなにビビりだとはようーっ、思ってもいなかったぜ、ヒャヒャヒャ―」俺の右隣の幸太郎はピラフを頬張りながら言った。
「うるさい! それよりも幸太郎、食べながら喋るなよ。汚いな・・・」北川の言葉にいつもの勢いがない。
「オイ、久志ィ。舞の奴、ちょっと怖い場面とか不気味なシーンがあると俺様にしがみつくんだぜ」幸太郎は両手でしがみつく真似をして分厚い唇を何故か鳥の嘴のように尖らせた。
「ふーん」俺はトマトソースパスタを食べながら適当に相槌を打った。パスタの味が分からない。
「そういう話はやめろよ、幸太郎!」北川は左手で幸太郎の背中を思い切り叩いた。
「痛ってぇーっ。何すんだよ、このブス。俺様が優しく抱いてやったのによ」
「幸太郎のバカ! お前はホントに女の子の心が分かんないな!」
「何ぃ?」またいつものように二人の口喧嘩が始まった。
「まあまあ、二人ともお辞めなさい。今は食事中よ。でもホラー映画をチョイスした私が悪かったわね」麻倉が少し申し訳なさそうに言うと、直ぐに幸太郎が反応した。
「いやいやいや、そんなことないです、遥ちゃん! グッドチョイスです。映画、面白かったです、なあ久志?」
「あっ・・・・・・、ああっ」俺は曖昧に答えるしかなかった。
「何だよ、相変わらず愛想ないなぁ。アレッ、ひょっとして久志もあの映画にビビったのか? 腰でも抜かしたのか?」幸太郎はニタニタと笑い出した。
「ブブッ」拓海の奴、吹き出してやがる。
「あーっ、そういえば映画終わってからあたし達がトイレに行ったじゃん。幸太郎が遅いから時間がかかって待合室行ったけど、お二人さんはまだ来てなかったねーぇ。へへへッ、どうしたのかなぁ? 水希ちゃんと久志クンはぁ」北川も意地悪そうに俺と永瀬を見ている。
「山口君は繊細だからホラーは駄目だったのね。やはり私のチョイスが悪かったのよ」麻倉は本当に良い奴だ。
「あの映画で怖がって腰を抜かす奴は久志だけだな」拓海の奴、分かっていたのか!
「山口! 腰抜かしたの?」
「エーッ! グァハハハ―ッ」
麻倉が「もう、拓海は」と怒ると拓海は珍しくバツの悪い表情を浮かべた。それから爆笑していた幸太郎と北川は麻倉に睨まれると、お互いの肩を叩きながら笑いを必死に噛み殺していた。ホントに繊細さの欠片もない奴らだ。俺は顔が赤く火照るのを感じた。
「久志君、そのトマトソースのパスタ美味しいかな?」俺の左隣に座っている水希の声が優しく滑り込んできた。
「あっ、まあまあ・・・、かな」
「私のボンゴレも美味しいよ。ねっ、少しだけ交換しない」
「あっ、ああっ? い・・・いいよ」俺はカクカクと頭を上下に動かした。水希は器用にフォークで俺と自分のパスタを交換した。他のメンバーはあっけにとられたように彼女の動きを目で追った。
「うーん、美味しい。久志君のパスタは美味しいねぇ」予測不可能なことをする転校生は満足そうな笑みを浮かべた。
「水希ちゃん、それって間接キッスじゃない?」幸太郎は呆れたように言った。
「フフッ、そうかなぁ」水希は左目で幸太郎にバチッとウインクした。
「ヒャー。おい久志ぃ、早く水希ちゃんとの間接キッスパスタ食えよ」幸太郎に言われるまでもなく俺は慌ててボンゴレビアンコを口に入れた。だが慌ててパスタを食べたので、何処か変なところにそれが引っかかったみたいで喉に痒い違和感を覚えた。
「ゲホゲホゲホゲホ!」俺は顔が熱を持つくらい激しく咳き込んでしまった。
「久志君、大丈夫?」水名は俺の背中に右手を当てて左手にはピンクのハンカチを持って俺を見た。
「ハアーッ、だいじょーぶぅー。ハァーッヒーッ」俺は涙を浮かべながら情けない息を吐きながら何とかそう答えた。
「久志ぃ、お前、今日変だぞーっ。どうしたぁ? 何かあったのかぁ」無神経な幸太郎もさすがに何か気づいたみたいだ。
「あーっひょっとして、さっき水希が山口を介抱してたんだろ。それからぁ、お前たちキスしたんじゃないか? へへへっ」北川は高校の勉強は苦手だが勘はとても鋭い。俺は「ゲホゲホ」とまた咳き込んだ。
「フーン」麻倉の低い声が聞こえた。俺の唇を水希がピンクのハンカチでそっと拭いてくれたからだ。
俺は大人しそうな水希の時折見せる大胆な行為に混乱しつつも激しく喜んでいた。そして俺は自分の存在が何故かとても力ないものに思えてしまうのだ。
「じゃあねーっ、水希ぃー、バイバーイ」
「水希ちゃーん、またねーっ、チュチュチュ―!」
「コラ、うるさい、バカ息子!」
「アハハハ―ッ。叩かれてやんの」幸太郎と北川を乗せたカローラが走り去った。
「俺、遥を送っていくわ」白い乗用車を見送った拓海が麻倉の方を向いた。
「ありがとう拓海・・・。ところで永瀬さん、急にあなたを誘ったけど今日は楽しめたかな?」
「ええ、とっても。こちらに来てから今日が一番楽しかったです」永瀬水希は遠くを眺めているような瞳をしている。
「そう、それは良かったわ。それでね、もし良かったら、またこのメンバーでいろんなことしない?」
「ええ、喜んで」(水希は言い淀んだりしないのだろうか?)俺は驚いた。
「おい久志、良かったな・・・ンン、それだと永瀬さんとデートする時間が減るから良くないか?」
「ンーン・・・・・・あっ・・・っと」俺は話すのが下手だ。
「拓海、そんな意地悪言わないで。あなたは山口君の優しさに寄りかかり過ぎよ」麻倉は拓海を優しく睨んだ。
「フフフッ、大丈夫ですよ」水希の小さくて少しだけ湿った左手が俺の右手を包んでいた。
麻倉と拓海は驚いて顔を見合わせた。そして美しい生徒会長は切れ長の右の瞳を少しだけ見開いた。
「じゃあ、永瀬さん、山口君、また明日」麻倉遥はそう言い終えると「帰ろう」と拓海に囁いた。
「久志、お楽しみはこれからだぞ。じゃあな」長身のカップルは俺たちに背を向けて歩いて行った。
「・・・・・・」俺は拓海が言った言葉を頭の中で繰り返した。だけど頭の半分は右手に意識がいっている。
「久志君、五時を過ぎているのに、まだ全然暗くないね」俺の右腕に柔らかい水希の体の感触があった。それでもまだ俺は拓海の言葉のことを考えていた。
西に傾いた陽の光はオレンジ色に街を染めつつあった。
「あのさ・・・・・・永瀬さん」俺はチャーミングな転校生の顔を見ることができない。
「うん、何。久志君?」
「お、俺にいろんなことしてくれて、あの・・・、えっと、あ、ありがとう」俺の頭の中は燃えている。
「フフフッ、どういたしまして」水希はますます可愛く綺麗になっている。俺は驚いた。
「あのさ、俺、勉強もそんなにできないし、運動も駄目だし、えっと、拓海みたいにギターも弾けないし・・・話すのも下手だし。良いとこ、ない気がする」俺は何を言っているのだ? だけど素敵な転校生は俺の頼りない右手を白い両手で包んでくれた。
「久志君はねぇ、とても大切なものを持っているよ。自分だけの世界を。それってとても素敵なことだと思うんだ」
「あっ、ありがとう」俺はやっと水希の銀色がかった瞳を見ることができた。
「久志君、お楽しみはこれからよ」素敵な少女は二〇〇パーセントの笑顔を持っている。そして味気ないモノトーンの世界を美しく変えることができる。それから未成熟な俺に暖かいヒントを届けてくれる。
「うん、分かった。うーん、でも何処に行こうか?」俺には目の前のピンクの唇と白い歯が眩しかった。
「何処にでも」
「そうだな。何処にでも行くことができる」
「イエス、フフッ」
そのとき六月の風は、爽やかに俺と水希の間を吹き抜けていった。
もうすぐ新しい夏が来る。俺と二〇〇パーセントの転校生は茜色に染まり始めた西の空を見上げていた。