勇者と聖女と婚約破棄と。
それは忘れもしない、13の秋。
討伐演習もいよいよ本格的になり、厳しい場所へと変わってきた頃のこと。
演習地に選ばれたのは、魔獣の出現が多い西の森。
それは数日間に渡る過酷なものだったが、実戦でも私達の力は通じることがわかったと同時に、経験を糧として凄まじく成長できた得難い機会でもあったといえる。
だが──最終日を目前に、野営地近くの川に水を汲みに行った際、魔獣に襲われてしまった。
「私のことはいいからヤツを!!」
群れで暮らす魔獣、ヘルハウンド。
賢く、役割を決めて動く性質を持つだけに、おそらく先鋒──ここで逃がせば仲間を呼ばれ、あっという間に囲まれてしまうだろう。
襲われた拍子に足を挫いてしまった私は足手まといだった。
聖女の能力と言われる癒しの力は自らに使えない。私の為に常備してある回復薬はテントの荷の中。
「馬鹿を言うな! 乗れッ!!」
勇者はしゃがみこみながら怒声と共に背中を私に向ける。
戸惑いながらも、背負われることを躊躇っている場合ではなく、その背に身体を預けた。
「しっかりしがみついていろ!」
片手に大剣を携えそう一言だけ言うと、よもや人ひとりを背負っているなどとは感じさせない程のスピードで森を駆ける。
あっという間にヘルハウンドに追い付くと、ほぼ同時の一撃──それはまさに電光石火。
「──ふう」
ひとつ安堵の息を零して、そっと私を下ろす。
私は、再生することのないよう慎重にとどめを刺す勇者の姿を見ながら、不覚にも泣いてしまっていた。
「ごめん……怖かったよね」
さっきまでとはうってかわって優しい口調で声を掛けられ、私はただ首を横に振る。
「ちっ違う、悔しくて……! あ謝るのは私の方だ、足を引っ張ってばかりでゴメン……」
泣いてるのがみっともなくて俯く私の頭を、おずおずと触れる大きな手のひら。
それは遠慮がちで、優しく心地よくて。撫でられることに居たたまれなさはあったものの、涙が止まるまでそうされていた。
「……足を引っ張られたことなんて一度もない。 いつも助かってるんだ、本当だよ」
慰めにしてもなんの捻りもない不器用な言葉に顔を上げると、勇者は真面目な顔をしていて──森よりも深い緑の瞳が私をじっと見詰めていた。
ドクン、と胸が強く弾む。
あの日、私は初めて勇者を異性として意識した。
そしてそれが恋だと理解するまでに、そう時間はかからなかった。
***
──10年前。
神託に従い魔界の扉の封印の為に『勇者』『剣士』『魔導士』『聖女』の四人を王宮に招請することになった。
指名された四人のうち二人はなんと、まだ8歳の子供……そのひとりがナディーヌであり、また、もうひとりは第一王子クロヴィスだった。
四人は互いに励まし合いながら、共に研鑽を積んだ。
そして3年前。
神託通りに魔界へと繋がるダンジョンが現れる。四人は扉の封印の為に旅立ち、ダンジョンを攻略制覇。最奥の扉を封印し、半年後には無事帰還を果たした。
その後なんやかんやあって、『勇者』と『聖女』である二人の婚約が決まる。
ナディーヌは2年前に王立学園に編入し、現在に至る。
──そんな晴れがましい、王立学園での卒業パーティーでのこと。
ナディーヌを待っていたのは苦労を無に帰すクロヴィスの一言だった。
「ナディーヌ! 君との婚約を破棄する! 君は次代の国母に相応しくない!」
サラサラとした金の髪を靡かせ、高らかにそう宣ったのは卒業後にこの国の王太子になる第一王子であるクロヴィス。
美姫と謳われし王妃から受け継いだ儚げな美貌……そのエメラルドの瞳は憂いを帯びて、そこはかとない色気を醸している。
その傍らには嫋やかでありながら理知的な見た目に相応しく凛々しい、堂々たる佇まいの令嬢。ナディーヌが婚約者となる前には、クロヴィスの婚約者候補として囁かれていた公爵家の娘マリリン。
柔らかな面立ちのクロヴィスとは対照的なクールビューティーだが、二人が並ぶととてもバランス良く美しい。
そんな二人を前に、婚約破棄を告げられたナディーヌは卒業パーティーで出された肉を食っていた。
マナー教育は散々受けさせられただけあり、食べ方はとても美しく、音もない。
しかし、よもや立食とは思えない程の量の小皿が彼女の目の前のテーブルに積まれている。この世界にないにせよ、それはまるで回転寿司店が如し。
今しがた平らげた皿を積まれた皿の上に音もなく重ね、口の中のモノを嚥下したナディーヌはこう返した。
「……ですよね~」
クロヴィスとナディーヌは8歳の時から共に研鑽を積み、苦楽を共にした仲間なこともあって、婚約自体はすんなり決まった。
ただ、ナディーヌの方は最初から言っていたのだ。
『いや、クロヴィス様っていずれ王になるんですよね? 私に王妃とか無理では』と。
ついでに『なに血迷っているのですか』挙句の果てには『国、大丈夫ですか?』とも。
それでもなんとかかんとか履修を終えて今に至るが、ナディーヌの成績は当然ギリギリ。
なにしろ婚約してから入学したのだ。しかもクロヴィスの立太子に合わせる為に飛び級して。
まあ、馬鹿でも貴族で金があり素行が悪くなければ卒業はできるにせよ、ナディーヌの場合は前提が違う。
相手が第一王子というだけではない。
そもそも8歳の時に王宮に召し上げられたとはいえ、そこでなにをしてたかといえば当然ながら概ね修行……勉強を全く教えられなかったわけではないが、その比率は低い。
学園では一般的な学問だけでなく、常にマナー教育を兼ねており、同級生を通した貴族との交流といったややプライベートに近い部分までもが勉強。それも分刻みでスケジュールが組み込まれていた。
『優良可/不可』の『可』と補習・補講による辛うじての卒業とはいえ、ナディーヌは滅茶苦茶頑張ったと言っていいだろう。
ぶっちゃけ、無理だと思っていたのだ。
皆……当の本人ですら。
『よくぞ2年も、しかも卒業まで持ったよね』というのが本音で総意。
だが、何故か真実を突き付けた側のクロヴィスだけは傷付いた顔をしながら酷く動揺し、声を荒げた。
「それだけか……!?」
ナディーヌは自分を睥睨するクロヴィスに向かってへにょりと笑った。
「そりゃなにを今更、とは思いましたけど……だって最初からそう言ってるじゃないですか」
「そっ、そんな言い方することないだろう!」
「殿下……落ち着いて下さい」
「……はっ! そうだった」
のっけからのグダグダ感に、はらはらしていた周囲はなんとなく安堵したものの、マリリンがクロヴィスを諌めたことで流れは大きく変わることになる。
「ナディーヌ! き、君……いや、貴様がここにいるマリリンに度重なる嫌がらせをしたことは明白!」
「「「「「「えっ」」」」」」
驚いたのはナディーヌだけではない。
クロヴィスとマリリンを除く、この場にいるほぼ全員。
あまりに無理筋である。
「……嫌がらせ……」
ナディーヌは考えた。
マリリンとの思い出を。
頭はいい方ではないけれど、記憶力は普通にある。
「そう、ですか……そんなつもりはなかったけれど、最早全て言い訳でしょう。 申し訳ございませんでした、マリリン様」
「「「「「「えっ」」」」」」
今度はナディーヌ以外の皆が驚いた。
「婚約破棄は承ります。 皆様も、お時間を取らせて申し訳ございませんでした」
ナディーヌは学園生活により培った美しい淑女の礼をふたりに披露すると、頭を上げることを許されてないのを理解しながらも頃合いを見てくるりと生徒達へと向きながら姿勢を正す。
そしていつものように、弾けんばかりの快活な笑顔を見せた。
「この一件はどうぞ卒業パーティーの珍事とご笑納くださいませ。 では!」
そう言って颯爽と去っていく彼女を、誰も止めることはできなかった。
「あ~あ、これからどうしよっかな~」
学園を出たナディーヌがそう独りごちると、馬車がやってきて止まった。
「よう!」
出てきたのは『剣士』として選ばれし男。『自由騎士』の称号を賜りし、バスチアン・クローイ。
騎士団には所属せず、強い敵が現れし時招請される……つまり戦闘狂筋肉馬鹿である。(※酷いようだが概ね事実)
「バスチアン!」
「卒業おめでとう、ナディーヌ。 迎えに来たぜ」
「……ん?」
「もしなんかあったら保護しろって」
「あはは……」
(想定されてたんだな……そりゃそうか)
傷付いてないようでいても、やはりナディーヌはそれなりに傷付いていた。
選ばれし者達を囲い込みたい王国側としては、王家にお迎えするのは当然の流れ。
その点で言えばクロヴィスが選ばれたのは幸運だが、なにぶん第一王子。
ナディーヌとの婚約は勿論、最初から討伐メンバーとして組み入れることへの反対もあった。
さて、ナディーヌとクロヴィスの婚約だが。
他国で当人の意思を無視して無理矢理縁を結んだ結果、国が滅んだということがあったらしく、強引な囲い込みは固く禁じられていた。
バスチアンは『結婚はまだいい』と拒み、魔導士のディディエは既に妻帯者だった為(※それなりの爺様)、それぞれが希望したかたちでの報奨を与えられている。
そんなわけで勿論、双方合意の上である。
ナディーヌは恋とかあまりわからないけれど、クロヴィスには特別な気持ちがあったのは確かだ。
だからこそ『無理だ』と言ったし、だからこそそれでも承諾し、自分なりに精一杯努力をした。
……まあ、基本的になにかに向かって邁進するのは嫌いじゃないから、学園生活もそれなりに楽しんではいたのだけれど。
特にマリリンには滅茶苦茶世話になったというか、世話を掛けたというか。
邁進するのは嫌いじゃなくとも、机にしがみついて勉強をする習慣が全くなかったナディーヌに集中力は続かず、面倒を見てくれたマリリンにはとても苦労を掛けた。
そんなわけで先の言い掛かりも、それを『嫌がらせ』と取られたのだと納得してしまったのである。(※それくらいできなかった)
「で、なにがあったんだ?」
「ん~、なんもないよ~。 あるべきモノがあるべきカタチに戻っただけ」
へへ、とナディーヌは笑う。
ずっとナディーヌは笑っているが、そういう時は大概なにかあると、付き合いの長いバスチアンは知っている。
だが彼は脳筋でもそれなりに大人なので、それ以上聞かなかった。
「どういうことなんですか!」
「発言を撤回してください殿下!!」
できるできないは兎も角として、ナディーヌが非常に努力家だったことは間違いない。
それを見ていた皆も、今回の件にはそりゃ同情もするというもの。
しかもマナーや所作は良くなれど、変わることなく豪快で飾ることのないナディーヌは男女共に人気があるのだ。
なので卒業パーティーは荒れていた。
ナディーヌがあっさり認め、あまりにも鮮やかに立ち去ってしまったせいで止められなかった皆は、今更ながらもクロヴィスにこの茶番の意図を厳しく問う。
呆然としているクロヴィスを横目に、公爵令嬢マリリンがすっと前に出て、それを諌めた。
「皆、下がりなさい……殿下が一番お辛いのです」
「「「「「「えっ」」」」」」
『辛いのは殿下』と言いつつも、マリリンのクロヴィスへ向ける視線は非常に冷めており、呆れすら感じられた。
クロヴィスとマリリンは理由があってナディーヌに『婚約破棄』と『冤罪』を突き付けるつもりでいた。
それはそれとして、クロヴィスのなにが辛いってナディーヌがあっさり受け入れてしまったこと。
いや、最終的には受け入れて貰うつもりだったし性格的に受け入れるだろーなとは思ったけれど、あまりにもアッサリすぎてもう。
そんなわけで呆然としてしまったクロヴィスだが、いつまでも凹んでいられない。
我に返ると、盛大にこう宣った。
「皆、卒業パーティーを台無しにしてしまってすまない。 ナディーヌには『未来の国母として』などと言ったが、私こそ王太子にすら相応しくない……! 此度のことを以て、謹んで辞退致す!!」
「「「「「「ええぇぇぇえええぇぇぇ!?」」」」」」
わざわざあからさまな『冤罪』を突き付けたのは、これが目的である。
クロヴィスがこの決断に至る迄、相当な葛藤があった。
彼は第一王子なのだ。
やがて立太子し、王になる者として育てられてきたのだから。
神託により何故か男の自分が『聖女』として選ばれた時も、『国を背負う者』として役目を果たすつもりだった。
──そう、ナディーヌは『勇者』であり、クロヴィスは『聖女』である。
『聖女』について別の言い方があるにせよ、神託での指名的には『聖女』とのことなので仕方ない。
そんな誇り高き『聖女』クロヴィスだったが。
西の森での演習時……ナディーヌに背負われて恋に落ちた。
元々特別な想いのあった相手だ。
それが恋情へとスライドしてしまえば、後はもうお察しの通り。
頼れる広い背中。
ときおりチラリと見える、見事に割れた腹筋。
大剣を振るう剛腕──
一度ときめいてしまえば、もうときめかざるを得ぬというもの。
ちなみにナディーヌは180以上あるガチマッチョ女子である。
婚約の話が出た際、一も二もなく受けた。
家臣達からは『マジかよ』『オーガじゃないか』などの声も上がったが、全部黙らせた。
なんなら物理的にも黙らせた……クロヴィスもそれなりに鍛えているのだ!
ナディーヌが婚約を承諾してくれた時、『全てを手に入れられるのでは』という欲が出た。
ナディーヌは努力をしてくれたし、彼女の至らない部分を自分が埋めればいいのだ、と彼も努力した。
ただ、本当にそれで全てが手に入るのか。
クロヴィスは気付いてしまったのだ。
『勇者』たるナディーヌを、『王妃』という別次元の存在に据えることへの矛盾に。
ナディーヌは『勇者』だ。
王妃となれば戦いには行けない。
よしんばそれが許されたとしても、王たる自分がそれを一番近くで助けることは不可能。
──そんなワケで、これはまさに茶番劇なのだった。
「全く、馬鹿としか言えんな。 何故相談せぬのだ」
王宮、謁見の間。
事の次第を耳にし、クロヴィスとマリリンのふたりを回収して話を聞いた国王陛下は呆れていた。
「私も『陛下に相談なさったら』『せめてナディーヌ様に計画をお話になったら』と申しましたが……」
「……自信がなかったのです」
そう、別に所謂『試し行動』的な意味でナディーヌに言わなかったわけではない。
自分との婚約のせいでナディーヌに大変な思いをさせてしまっていることに罪悪感を抱えつつも、彼女の努力を目にしているだけに言うことができないという負のループ。
ギリギリまで悩みに悩んだせいで、結局それを一番台無しにする方法を選択する羽目に陥った自縄自縛なクロヴィスは、『いっそ嫌われてしまおう』という破滅的思考に囚われてしまったのである。
また、王太子にならない自分と『共に生きてくれ!』とかなんとか言う自信もなかった。
彼のアイデンティティは『王太子になる』と『聖女である』ことの二点に強く支えられていたのだから。
ただナディーヌは兎も角として、王には相談することができた筈……しかし普通に考えたら『馬鹿じゃねぇの』と思うような行動を敢えてしてしまうのが、追い込まれている人間の不思議。
そう──クロヴィスは追い込まれていたのだ。
だが追い込まれているからだけではなく、純粋過ぎる程の気持ちが根底にあった。
「陛下!! この『聖女』クロヴィス一生の願いにございます! せめて……ナディーヌの自由意思にて選択を!!」
結局のところコレが一番の気持ちだ。
ナディーヌの気持ち……クロヴィスの気持ちや立場を含めた全ての外圧を無視し、彼女の望むままにさせてあげたいのだ。
ナディーヌに言えなかったのはその為。
きっと自分の希望と向き合うより先に、誰かのことを考えてしまう、そういう人だから。
「愚かな……」
王は嘆息した。
この一言に尽きる。
「貴様は自らが吐かした通り、王太子にすら相応しくない! 王命のなんたるかもわかっていない愚か者めが!!」
「……」
「『勇者』と『聖女』の婚姻は王命である! 」
「!?」
「よいか、反逆罪に問われたくなければ王命を遂行せよ。 貴様はなんとしてでも『勇者』を口説き落としてこい」
「……!」
瞠目し混乱を隠せないまま、クロヴィスは思わず頭を上げた。
父である王と目が合うと、彼を睥睨したまま静かに王は告げる。
「──クロヴィス。 彼女の幸せは、貴様がなんとかするのだ。 まだ『聖女』への報奨は与えておらん」
クロヴィスは父の想いと優しさを察した。
「…………!」
臣下を見渡すも、皆温かい目で見守ってくれている。
「拝命……致しましたッ……!」
クロヴィスは感動し涙を流しながら立ち上がり、駆け出した。
愛しい勇者の元へ。
勝手に追い詰められて自ら地位を失う暴挙に及んだ挙句、他人に強く背中を押されるまで動けなかった情けない自分のまま。
まずは、そのありのままの言葉を伝えに。
「殿下、勇者様は陛下のご意向で剣士様が保護を!」
「な……なんだと!?」
謁見の間の扉を出てすぐ。
クロヴィスの側近がしたこの報告に、彼はとても焦った。
バスチアンに保護を命じたのは王。
クロヴィスはクロヴィスで婚約破棄後に出て行ってしまった場合を想定し、保護を命じてはいたが……保護する先はマリリンの生家である公爵家。
バスチアンとナディーヌの間に恋情などないにせよ、クロヴィスにしてみれば『なんで他の男のところに行かせねばならん』という話でしかない。
「馬車……いや、早馬を!!」
「御意!」
グダグダ悩んでいる場合ではなかったのだ、と改めて後悔しながらも、今度は立ち止まらない。
それにクロヴィスだけでなく、当然他のふたりともナディーヌは仲がいい。
祖父のような爺様のディディエは兎も角、バスチアンはまだ30代……身から出た錆とはいえ、悲しんでいるところに大人の包容力を以て優しくされたら彼女もくらっときてしまうかもしれない。
大体にして、バスチアンはナディーヌより更に背が高く、ムキムキなのだ。
クロヴィスは、自分よりナディーヌの背が高くムキムキなことは全く気にならないのだが、ナディーヌより自分の背が低くヒョロいことはとても気にしている。
男心は複雑なのである。
クロヴィスは、ナディーヌを巡って戦闘狂筋肉馬鹿と決闘という最悪の想定(※妄想とも言う)も視野に入れ、剣を携え早馬でバスチアンの邸宅へと駆けた。
しかしその道中──
「ッアレは?!」
自分と同じ進行方向へと飛ぶ、二羽の光る白い鳥のようなモノ。
それは魔術による、鳥を模した緊急書簡……突発的な魔獣出現の報せを物語っていた。
魔界の扉の封印はそこから国が滅ぶ程の魔獣が現れ、蹂躙されることを防ぐ為。
扉を封じても魔獣はどこからか出現するし、またそれは資材となり討伐を生業としている者もいる。
自由騎士である剣士バスチアンは冒険者やギルドが持て余す事態に対応するのだ。
「クソッ……!」
クロヴィスは急遽馬を止め、踵を返した。
一羽目は討伐要請書簡、そして二羽目は転移スクロールだ。ならばクロヴィスが邸宅に着く頃に彼等は既にいない。
どこに行ったか把握し追い掛けるなら、王宮の魔導塔の方が早いに違いない。
「──殿下ッ!」
「マリリン?!」
急ぎ王宮へと戻るクロヴィスの前に現れたのはマリリンだった。まだ遠くながらも、猛然と彼の方へと近付いて走る馬車の中から、身を乗り出すようにして声を張り上げている。
「討伐と聞き、魔導塔からスクロールをぶんどってきましたわ!」
「ぶん……?!」
普段とは乖離したおよそ淑女とは思えない言動でマリリンは馬車から飛び降りると、慌てて馬から降りたクロヴィスをひっ掴みスクロールを開く。
「行きますわよ!!」
「たっ頼もしいな?!」
そう、マリリンは頼もしいのだ。
グズグズうじうじ悩むクロヴィスとは違い、恋に邁進する乙女であるが故。
──少し前のこと。
「……ちと甘すぎるだろうか」
王は玉座の傍らについていた宰相に小さく零した。
「宜しいのでは? 元より殿下に預けた荷が多かったのです。 もっと早目に分けるべきだったのでしょう、判断が遅かったのは我々大人の責任ですから──それに」
宰相は宮廷に集まっていた重鎮らを一瞥し、言った。
「あのお二方の婚姻に文句を言う者は、もう誰もおりませんし」
クロヴィスが見回した臣下達からの(生)温かい目──水を差すようなことを言うならば、そもそも婚約の時点で色々言ってた者はクロヴィス自ら黙らせたのだ。
まあそうもなるだろ、という。(※当人はスッカリそんなこと忘れた模様)
「で、マリリン。 そなたは何故クロヴィスの稚拙な目論見に加担した?」
ナディーヌの努力は認めるが、やはり未来の王妃としては厳しい。
元々クロヴィスが王太子にならない、と言うなら受け入れるつもりでおり、そうでないならこの先どうするか厳しく問う予定でいた。
いつまで経っても決断どころか相談もしないクロヴィスを、苛苛しつつも見守っていた王である。最近のふたりの妙な行動から『婚約破棄』の想定もしていたが、敢えて放置していたに過ぎない。
だが、マリリンはそれも理解していた。
「はい。 私は立太子すべきは第二王子殿下であると愚考致しました。 ただし、『勇者』ナディーヌ様と『聖女』クロヴィス殿下は婚姻すべきかと。 しかしながらお二人が想いを交わさず、ただお立場などの外因の強さ故結ばれることは、あまりに危険……陛下のお叱りも想定し、殿下に協力することに致しました」
「ふむ……今回の件についてはわかった。 だが、そなたの利があまりにない」
マリリンはにこりと淑やかに笑い、再び口を開く。
「神託後のお子であらせられる為、王太子教育も踏まえた教育をされていると伺っておりますが、なにぶん第二王子殿下はまだ10歳……クロヴィス殿下とナディーヌ様には別のかたちで治世を担うお二人として、確固たる地位と第二王子殿下からの尊敬と信頼が必要かと。 微力ながら私もお支え致したく存じます」
「それは……第二王子との婚約を望む、ということか?」
ないことではないが、マリリンは第二王子の8つ上。
家柄だけでなく王妃となるだけの素養のある娘として婚約者候補に名が挙がっていたのは事実だが、それを自ら望むとなると些か心象は悪い。
此度の件も野心の為に動いたと王が感じるのも仕方なく、問う声も剣呑さが滲む。
だが、マリリンの答えは違っていた。
「いいえ、第二王子殿下の婚約者の教育係をお任せくださいませ。 あのナディーヌ様を無事卒業させた手腕を買っていただきたく」
「なんと……?! そ、それは願ってもないことだが」
やはりマリリンの利が見えず、皆困惑した。
しかしコレは、彼女にとっては充分に旨みのある話なのだ。
何故なら、彼女は麗しく賢しい公爵令嬢。
まだ婚約者不在のマリリンには既に山のような釣書が送られている。両親は今のところ任せてくれてはいるが、一切興味はない娘を心配している為、先行きは不安。
仕事があるとないとでは大きく違うものの、なまじ公爵家のご令嬢であるだけに、容易に職などは見つからないし就けない。
それに王宮には魔導塔がある。
いち早く緊急討伐を嗅ぎつけることができる環境──
なにしろそこには心に決めた男がいるのだ。
転移されたのは港近くの神殿──
「だぁあああぁぁぁりゃぁぁぁぁ!!」
マリリンが心に決めた男……戦闘狂筋肉馬鹿は、突如海から現れ浅瀬で猛威をふるうクラーケンに、今一太刀浴びせたところだった。
「滾るぜェ!」
「バスチアン、ここは港が近過ぎる! 魔導士達が集まるまではじっくり攻めるよ!!」
「チッ、まだるっこしいな……!」
ある意味それ自体が防壁でもあるダンジョン内では頼れるバスチアンの剣技だが、大剣に魔力を含む渾身の力を込める為に殺傷能力が高すぎて周囲の被害も凄い。
森ならまだしも、港はまずい。
特に、被害額的な意味で。
ダンジョンを出てからの魔導士ディディエは主に防壁生成係であったが、『余生を楽しむ』と言って不在がち。なにぶんお年であるのでダンジョン攻略に付き合ってくれただけ有難く、それを責められる者はいない。
「もう始まってますわ! 殿下、お早く!!」
「わかってる!!」
ふたりは急いで戦闘場所へと向かうと、マリリンが詠唱を行う。
「我が身を包みし精霊の加護をもって、魔の者の力渦巻く空間を拒絶せん!魔力よ、防壁となり、不浄の手を阻むがよい!」
展開された魔術は強固な防壁結界。
本来ならば魔導士がそれなりに揃い、力を合わせてかける類のモノだ。
「マリリン……! いつの間にそんな力を?!」
「ふっ。 自慢したいところですが、長くは持ちません……ッ」
勤勉で努力家で魔力量も多いマリリンだが、彼女は選ばれし者ではないのだ。
なにしろそれなりに広域な上、『クラーケンVS勇者と剣士』である。
「ッ任せろ!」
クロヴィスは無詠唱で飛翔すると、クラーケンの触手を捌きながら闘うふたりの元へと急ぐ。
「しつッこいなぁもう! ヌメヌメしてるし!!」
「クソッ! あとで下足焼きにしてやる!」
悪態を吐きながら戦う二人だが、クラーケンの巨大な触手に手間取っていた。
浅瀬とはいえ海。やはり二人も飛翔魔術を展開しながらの戦い、しかも触手のヌメりが攻撃の威力と命中率を著しく下げている。
「──はっ?!」
突如背面の触手から放たれた雷撃。
ナディーヌは咄嗟に身体を翻し、剣でそれを受ける。
──バチバチバチッ!!!
「うわっ?!」
「ナディーヌ!」
雷撃は相殺したものの体勢と魔力均衡を崩したナディーヌは、飛翔状態を維持できなくなり、衝撃から水面へと落とされた。
「ッぷはっ……バスチアン!長いのに気を付けて! ああもう、ドレスって邪魔!」
水面下で襲いかかる触手を捌き再び舞い上がったナディーヌは、ずぶ濡れで重くなったドレスの裾を絞りながらバスチアンに警鐘を鳴らす。
胴体から太く繋がった他の触手とは違い、少し距離を取り海底から出現した、とりわけ長く他より細い二本の触手──『触腕』と言われる部分。
餌を捕獲するのに一番活躍する部位である。
どうやらクラーケンは、ここから雷撃を放つようだ。
「──お?! やっとか!」
苦戦というよりは『苛立つ戦い』を強いられていた中、ようやく展開された防壁魔術。
「行くぜ!」
凄まじい闘気を放ったバスチアンは魔力を大剣に込める。
クラーケンもまだ失っていない触手で海面を激しく波立たせながら、バチバチと音を鳴らした二本の触腕を大きく振りかざした。
おそらくこの一刀では決着は付かない。
トドメを刺すべく、すかさず後方へ回るナディーヌの身体が急に上へと引き上げられる。
「──殿下?!」
「……在りし日において、我は宇宙の営みを見据え、星々の輝きを感じる者となりし。光輝くる精霊たちよ、我が肉体を介し彼の者に聖なる力を!」
クロヴィスがナディーヌの大剣に聖力付与を行うと、彼女の身体と剣を美しい光が覆う。
しかしそれはすぐに、バスチアンの剣とクラーケンの触腕のぶつかりあう閃光によって消された。
ビリビリと激しく空気が震え、魔術防壁に沿って不自然に荒ぶる波。
爆発のような光と水飛沫の輝きとは別の、儚げな光が剥がれ落ちるように柔らかく消えていく。衝撃で結界が瓦解したのだ。
「ああぁぁぁあぁぁぁあ!!!!」
ナディーヌは急速に落下するように、クラーケンの身体目掛けて刃を立てた。
それは一瞬だけ。
クロヴィスと視線を合わせた後のこと。
──ドシャアァァッ!!
高く高く、飛沫と光が上がる。
「きゃあっ!」
「うわぁぁ!?」
クラーケンが絶命し、その巨躯が無造作に倒れたことによる衝撃に港は揺れた。
だが、それは軽微な地震と突風程度だ。
奇跡的にも被害はほぼないと言っていいが、それはマリリンの防壁とクロヴィスの聖力付与のおかげである。
「殿下!」
「はは……皆ずぶ濡れだな。 バスチアン、港のマリリンを保護してくれ。 倒れてるかも」
「はぁ?! 従者も付けずになにやってんだ!」
文句を言いながらも、慌てた様子でバスチアンは港のマリリンの元へと向かい、進路下には白い飛沫が二本の線を作る。
その音を耳に入れながら、クロヴィスはクラーケンの遺骸の上に立ちバスチアンを笑いながら見送るナディーヌを見つめていた。
「……殿下」
振り返ったナディーヌはしょぼくれた表情で、クロヴィスは少し前に自分がしたことを急に思い出す。
久しぶりに戦闘に参加し、なんとなく以前のような関係に戻れた気になっていたが、まだ謝罪も弁解もしていない。
「ナディーヌ……」
「ごめん」
「え?」
「ドレス。 汚さないように返そうと思ってたんだけど」
しょんぼりしながら出たナディーヌの言葉にクロヴィスは一瞬驚いて、すぐに首を横に振った。
「そんなの……いや、遅くなったけどとても似合っていた。 今は……海から出し女神のようだ」
クロヴィスの瞳にやや合わせた深緑(※エメラルドだと似合わなかった)のドレスは、水を吸って黒のように見える。
勿論ビッタンビッタンで、しかも立っているのはクラーケンの遺骸の上だ。
どちらかというと『海から出し魔王』。
とんでもねぇ褒め言葉に妙な冗談だとでも思ったのか、ナディーヌは「わあ」と一言漏らす。
しかし次の瞬間に同じ感嘆詞を今度は疑問符付きで叫んでいた。
何故かクロヴィスが跪いて頭を垂れたのだ。
「私の我儘で大変な思いをさせてすまない」
「そんな! いい……いやっいいのですわ?! あっ、もう~戦闘なんてしたモンだから、つい……やだやだ頭上げて、私が王太子妃に相応しくないのは事実じゃないですか!」
「別にいいんだ、そんなの。 君は立派な勇者だ……勇者ナディーヌ様、どうか私をお傍に置いて頂けませんか」
「へっ?! だって王太子は?!」
「王太子も王太子妃も、代わりはいる。 もしかしたら王や王妃も、神託で選ばれし勇者や聖女ですらそうかもしれないが……」
そこまで言うと、クロヴィスは顔を上げて手を差し出した。
「……ナディーヌの代わりはいない。 少なくとも、私にとって」
「殿下……」
「クロヴィスと」
ナディーヌは恋愛に疎いけれど、クロヴィスの目を見ればそれがどんな意味で、差し出す手がどんな意味を持つのかわかる気がした。
だがクロヴィスがそうだったように、ナディーヌもまた彼のこれまでの努力を見ていたのだ。それだけにこの手を取っていいものかわからず躊躇ってしまう。
それでも向けられた気持ちが嬉しくて、戸惑いながらも僅かに足を一歩──
「あっ」
「うわっ」
──踏み出したところでクラーケンの身体の粘膜で滑ってしまい、クロヴィスを巻き込みながら二人、海の中に落ちた。
「ぷはっ!」
「は……うわっ! なんかヌルヌルする!」
ただでさえずぶ濡れな上、クラーケン滑り台により全身ヌメヌメになった。
気恥ずかしさから、一旦先程のことを流そうとしたナディーヌは、「このまま泳いで戻ろっか?」とお道化た口振り。
しかし、その頬が赤いのをクロヴィスは見逃さず、腕を引いて抱き寄せる。
「で、デデデデデデ殿下……!」
港からは、遺骸を回収しにこちらに近付く小舟が数隻。
クラーケンの胴体と触手の間にいる二人のことは見えないだろうが、ナディーヌはハッキリと衆人環視だった卒業パーティーの婚約破棄の時よりも遥かに動揺し、ドラムロールのような声を発しながらクロヴィスを諌めた。
「王太子じゃない私だけれど、結婚して欲しい」
「結婚?!」
「駄目なら聖騎士になるので、傍に置いてくれ……!」
「突然の二択が重い!!」
そう言いながらも、結局ナディーヌはその場でプロポーズを受けた。
唇が重なるだけの軽い、初めての口付けは……なんかヌメヌメしていた。
──クロヴィスは臣籍降下し、瘴気の濃い森があることで一番開発の進んでいない西の地の、新たな辺境伯となった。
その妻は勿論、勇者ナディーヌ。
辺境の地の開発は順調に進み、領民も増えている。
辺境伯邸のある街には大きな公園もできた。
クロヴィスは公園の中心に勇者像を建てようとしたが、ナディーヌに猛反対されて噴水となった。
二人がこの地にやってきた初夏になると、毎年祭りが開催され大賑わい。
「どれも美味そうだなぁ」
「バスチアン、この祭りに来たらまずアレよ!」
沢山の屋台にはこの地でとれた食材(※魔獣肉を含む)で調理された名物料理が並ぶ。しかし何故かこの地でとれない筈のイカの下足焼きがこの祭り一番の名物だったりするのだが……
その理由を知っている者は少ないという。