1-3
翌日。
校舎内、隠花のクラスにて。
「授業を始めます。数……」
「せんせー!」
「何でしょうか? 輝木さん」
紫陽花は高らかに右手をあげながら壇上の教師へと呼びかけると……。
「私の事をみんなにもっと知って貰いたいので時間が欲しいですが、よろしいでしょうかっ!」
「……分かりました。ホームルームにしますので自由に使ってください。私は職員室に戻りますので、何かあれば連絡下さい」
「ありがとうございますっ!」
生徒の意見で授業のカリキュラムが変わる事は本来ならありえない。
だがこの紫陽花なら、それすらも可能にしてしまう。
それだけアイドルのショウカの影響力は大きく、絶対なものだ。
当然、これに異を唱える生徒も居らず、紫陽花の提案はあっさりと受け入れられた。
授業をするはずだった教師は教室から出て行き、職員室の方へ向かっていく。
歩くときに発していた靴の音が次第に遠くなっていき、それらが聞こえなくなった頃……。
「隠花ぁ!」
「は、はいっ!」
先ほど教師に見せていたキラキラした笑顔からは、まるで想像もつかないほど醜く怒りと不快感に満ちた表情をした紫陽花は、怒声まじりに隠花を呼びつけた。
隠花は恐る恐る紫陽花のもとへ歩いて行く。
それと同時に、クラスカースト底辺の冴えない男生徒の一人は扉の方へ行き、クラスカースト上位の生徒は紫陽花の周囲へと集まっていく。
「てめえ、よくもチクってくれたな?」
「えっ、そんな事……」
「はぁ? とぼけてんじゃねえよ! 保健室の教師に言っただろ!」
この時、隠花は困惑していた。
絶対の信頼を置いていた保健室の教師からばれる事を考えておらず、予想外の事が起きたからだ。
そして隠花は、何故ばれたかを考えたがまるで想像がつかず、涙目になりながら体を震わせていた。
「何? 保健室の教師なら大丈夫と思ったわけ? そんなわけないじゃん馬鹿じゃないの?」
「うぅ……」
「じゃ、判決。Rね」
判決の内容を聞いた瞬間、隠花の顔が青ざめた。
紫陽花の下す判決には様々な種類がある。
Rとは、受刑者が紫陽花の決めた相手を強制的に性行為を行う、このクラスの中では最も残酷な罰だ。
過去に隠花は刑が執行される場面を目撃した事があった。
その様子を見た隠花は吐き気を催し、わずか数分程度しか直視する事が出来なかった。
執行された少女は登校拒否となって戻って来ず、今も詳しい状況は分からない……。
当然、紫陽花や他のクラスメイトは何のお咎めも無い。
「相手は……、豚でいっか。お互い最底辺だし、気持ち悪いもの同士だし」
紫陽花はそう言うと、教室入り口を見張っている生徒とは別のクラスカースト底辺の男子生徒が、小太りな男子生徒を連れてきた。
「ふ、ふひぃ」
「相変わらずくっさ……、でもオタクの隠花とお似合いかもね!」
小太りな生徒は、常に汗をかいており、シャツの腋がうっすら黄色く変色していた。
顔もニキビだらけで、半開きの一重の目からはギラギラとした光を宿らせている。
常に開いた口から見える歯は茶色く変色していた。
毎日風呂に入っているか疑うくらいに鼻をつく臭いを周囲をまき散らし、隠花も思わず顔をゆがめてしまう。
それら生理的嫌悪感を催す要素ばかりの彼はだらしない表情のまま荒く口呼吸をしながら、ゆっくりと隠花に迫っていく。
隠花はそんな彼の行動と、彼の股間がズボン越しだが僅かに膨らんでいる事を知って、酷く恐怖した。
「勿論ゴム無しな? 妊娠するかもねー? 少子化対策に貢献とか私すごいよねー! ギャハハハっ!」
「ふひぃ……」
「い、いやああぁ……」
小太りな生徒が、隠花の両腕を掴もうとする。
掴まれたら最後、押し倒されて刑を執行されてしまう。
普段は大人しく、何をされても黙って従う事しか出来なかった隠花。
今回もまた、無事に刑が執行されるものだとクラス内の誰もが思っていた最中。
「いやあああ!!!」
「あ、こら待て!」
だが隠花はこの状況に抗った。
小太りな生徒を両手で突き飛ばし、とっさに教室内から逃げ出したのだ。
幸い突き飛ばした生徒が紫陽花にぶつかった事、突然の出来事で見張りの生徒が驚いていた事が功を奏して、隠花は教室内から脱出する事が出来た。
「てめえら! 何逃がしてるんだよ!! 追えよ早く!」
紫陽花の怒声が廊下に響いたが、隠花は怯まなかった。
隠花は後ろを振り返らず走り続けたのだ。
カバンは置いたままで、常に持っている財布とスマホ以外は全て学校に置いてきたが、それも気にせず走った。
校舎を抜け、運動場を抜け、学外を抜け……。
そして、近所の公園まで走った隠花は、息を切らせながら物陰にあるベンチへ座ると。
「ううぅ……、もう嫌だよ……」
頭を抱え、泣きながらそう一言だけ漏らした。
隠花は思った。
もう学校へ行く事は出来ない。
共働きで帰りに遅い両親にも心配をかけてしまう。
だけど両親に相談したところで、学校が紫陽花を守っているから解決なんて絶対しない。
「おい学生、何か困ってるのか?」
低い声で誰かが隠花へと話しかけてくる。
「ひっ、だ、誰……」
隠花は咄嗟に顔をあげて目を擦って涙を拭い、辺りを見回した。
「俺が質問してるだろ、先に俺の問いかけに答えろよ」
「…………」
低い声の主。
それは隠花よりも一回りも二回りも年上の、大人の男性。
ツーブロックの髪型と切れ長の目、服装は白いシャツに黒いベスト、胸元には黒いタイ、白手袋……と、どこかのウェイターか執事のような格好をしている。
少し癖のある髪の毛とあごに点々と残った髭から、どこかだらしなくぶっきらぼうな印象を他者に与える。
「まあそうだな、俺は蝕美だ。この近くで喫茶店やってる」
「は、はぁ……」
隠花は元々人と会話するのが得意ではない。
だからこそ、全くの初対面であるこの男性が話しかけてきても、ただ戸惑うだけだった。
「で、今度こそ答えろよ。何か困ってるのか?」
「べ、別にっ!」
「いや泣いてるだろ。目も赤いし、まぶた腫れてるし」
「うぅ……」
泣いている事を隠し切れなかった隠花は、その場で俯いてスカートの裾を握りしめた。
「……もう学校いけないんです」
そして、少しの沈黙の後にそう一言だけ蝕美に伝えた。
「いじめられたか?」
「…………」
隠花は下唇を噛んで、それ以上何も言わなかった。
理由を言ったところで誰も解決できないし、信頼していた保健室の教師からでも漏れるなら、この一見関係なさそう男の人も紫陽花と繋がりがあるのではないかと、疑心暗鬼に陥っていたからだった。
「君の名前、なんて言うの?」
蝕美はそれ以上詮索する事はせず、そう問いかけた。
「隠花……、咲良倉 隠花」
「ふーん、なるほど」
名前を聞いた蝕美は、どこか遠くを見つめていた。
その間、二人は何も会話をせず、公園には他に誰も居ないので沈黙が訪れていた。
「……なあ隠花、最後に一ついいか?」
「はい」
「今を、変えたいか?」