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短編

実家のシェパードに会いたい限界OLと、近所の同犬飼い主さん【第三回ワケあり不惑女の新恋企画 参加作品】

作者: 津月あおい

「はあ、はあ……。もうダメ……もう限界。早くお風呂入って寝たい……」


 朝日が目に染みる。

 わたしは疲れ切った体をなんとか動かして、自宅のある町まで帰ってきた。


「あと、あともう少し……」


 眩暈を覚えながら、どうにか前に進む。

 駅から徒歩十分。

 自宅のアパートは、わりとアクセスしやすい場所にあると思っていた。しかし、体力の限界を迎えた今となってははるか遠くに感じられる。


「うう……お腹、減った……」


 コンビニでおにぎりでも買おうかと思ったけど、今のわたしは徹夜仕事を終えたばかりの満身創痍状態だった。

 髪もぼさぼさだし、メイクも崩れまくっているし、店員さんになんて思われるかと思うと寄る気にならなかった。

 足が重い。頭も重い。肩なんてフライパンみたいにがっちがちだ。

 ああ、どうしてあんなにブラックな会社に入ってしまったんだろう。

 いつか転職する、いつか転職する、と思いながらすでに十数年。恋活や婚活もしている暇もなく、気付けば独身のまま、仕事以外やることのない40歳になっていた。


「でも、明日は休み! そう、お休みなんだから! がんばるのよ、美優!」


 最後の気力を振り絞って、小さな公園を突っ切る。

 ここを抜ければ念願の自宅だ。

 ふらふらしながらようやく公園を抜けると、どこからともなく犬の鳴き声が聞こえてきた。

 「わんっ」というよりは「ウォンッ」というような低い声。

 なんだか懐かしいその声は、実家のマロンを思い出す。


「ああ、マロン……。もう、二年くらい会ってないわ……」


 わたしの実家は東北の片田舎にある。

 両親と弟の四人家族。そして、広い庭でジャーマンシェパードを飼っていた。

 いわゆる警察犬で有名な、大型犬だ。

 見た目に反して、従順で人懐っこく、わたしはマロンと一緒に散歩したり毛並みを撫でたりするのが大好きだった。


 でも、あのモフモフは、今わたしのまわりには無い。

 独り暮らしのアパートに帰っても、空虚な部屋が待っているだけだった。


「ああー、思い出したらすっごく会いたくなってきた。くそっ、コロナさえなければ……」


 仕事がずっと忙しかったのもあるけれど、家族に感染させるのが怖くてここ二年程は実家に帰省できずにいた。

 そろそろ精神的にも我慢の限界である。

 癒されたい。実家のマロンに会って、この疲れ切った体と心を癒したい!

 でも、しばらくはそんな予定すら立てられないのだった。


「ウォン、ウォンッ!」


 だんだん、犬の鳴き声が近くなってくる。

 早朝の住宅街で、その声は驚くほどよく響き渡っていた。歩いている人は、わたしを含め、早朝ランナーなどほんのわずかな人たちしかいない。


「こらっ、ロッキー! 待てっ!」


 何かの名を呼ぶ、男性の声がした。

 状況からして……どうやら散歩中の犬?が逃げているようだ。

 わたしは出くわさなきゃいいなぁ、とひそかに思っていた。


「ウォン!」


 しかし、そんな願いは早々に砕け散り。

 目の前に突如、元気に跳ね回る大きな犬が現れた。


「えっ!? ……ま、マロン?」


 それは、実家のマロンとうり二つの、ジャーマン・シェパードだった。

 こげ茶と明るい茶が混ざった、栗のような色の毛並み。ホウキのようなしっぽをぶんぶん振り回している。

 その犬は、わたしの存在に気付くと、こちらへ一直線に走ってきた。


「えっ、嘘っ!?」


 マロン以外のシェパードを見たことがなかったので、わたしは一瞬、躊躇した。

 マロンの性格はよく知っているけれど、このシェパードは乱暴な性格かもしれない。万が一噛まれてしまったら……。

 そう思うと、ぞっとした。

 でも、逃げようにもそんな体力はなく、あっさりとその犬に跳びかかられる。


「うわぁっ!」

「ロッキー、こらっ何してるんだ。やめろ!」


 勢いに押されて尻もちをついたわたしの上に、ロッキー?と呼ばれる犬が乗ってくる。

 そして、ペロペロとマスクの上から顔を舐められた。


「わぷっ、ちょ、やめて!」


 どうやら敵意はなさそうだ。

 それがわかると、わたしはそっと犬の顔を両手でつかみ、ぐいと自分から押しのけた。

 そうこうしているあいだに、飼い主と思われる男性が追いついてくる。


「こらっ、やめろったら! だ、大丈夫ですか? お怪我は……」


 ロッキーを力づくで引きはがしてくれた男の人が、仰向けになっているわたしをのぞきこむ。

 ロッキーに勝るとも劣らない、背のものすごく大きな人だった。わたしと同じ年くらいだろうか。

 スクエア型の細い眼鏡ごしに、心配そうな瞳が覗いている。

 わたしはなんとか上半身を起こし、乱れた髪を手で押さえた。


「えっと……。だ、大丈夫です……。すみません」


 着ていたスーツは倒れた拍子にどこかびりっといっていた気がした。でも、わたしはこんな格好になったのが恥ずかしくて、顔を伏せたままぺこぺこと頭を下げることしかできなかった。

 なけなしの力を振り絞って立ち上がる。


「気に、しないでください。わたしもすぐ避ければ良かったのに、どんくさくてできなくて……」

「あの、本当にすみません。最近コイツ、ちょっと太ったみたいで」

「え?」


 わたしは男の人の腕の中にいるシェパードを見つめた。

 たしかにとても体格がいい。


「昨日、首輪の穴を一個ずらしたんです。そしたらちょっと合わなかったみたいで。それで、今日はすぽっと抜けてしまって……。本当にすみませんでした。お怪我がなかったら良かったです。でも……。あ、せめてお詫びにこれ、クリーニング代を!」


 男性は財布を取り出すと、五千円札をわたしに渡してきた。


「いえ、あの、本当に大丈夫ですので。どこも怪我してませんし……汚れも別に。明日は――というかもう今日ですけど。休み、ですし……本当……ふああ~……」


 いけない、眠気が急にきた。

 見ず知らずの人の前で盛大なあくびをしてしまった。

 呆気に取られる男性と、小首をかしげるシェパード犬。

 でも、ああ……本当に限界で。

 わたしはのっそり立ち上がると、目の前のマロン(・・・)の頭をそっと撫でた。


「よしよし……ありがとうね、マロン。それじゃあ、おやすみ……」


 わたしはもう一度しゃがみこむと、地面にどさっと横になった。



 □



「ふぁっ!?」


 気が付くと清々しい青空が目に飛び込んできた。

 わたしはあわてて起き上がる。


「あ、良かった。ようやく起きてくれましたね」

「えっと……」


 わたしは公園のベンチで横になっていた。

 目の前には太いリードにつながれたシェパードと、背の高い男性が立っている。


「どこか頭など打ってませんか?」

「えっ? いえ……大丈夫です」

「そうですか。目の下のクマが少し濃く見えたので、もしかしたら寝落ちしただけかもしれないと、そう思いまして。救急車は呼ばずに少し様子を見ていました」

「……はあ」


 わたしは、後頭部を触っていたが、言われてすぐに目の下を両手で押さえた。

 えっ、ちょっと待って。なにこの状況。この男の人と犬は何?

 シェパード犬……? とってもマロンに似ている。

 あ。

 思い出した。

 わたし、徹夜明けで眠気MAXのときにこの犬に押し倒されたんだった。


「自分も普段から寝不足気味でして。ほら」


 そう言うと男性は細いスクエア型の眼鏡をはずし、わたしに向かってくっきりとしたクマを見せつけてきた。


「なので、もしかしたら――と。あ、やっぱり救急車呼んだ方が良かったですか?」

「いえ。そこまでは……。ええと、お気遣い、ありがとうございます」

「路上にそのまま放置するわけにもいかなかったですしね……失礼ながら勝手にここに、運ばせていただきました。あ、それ以外は別に何も変なことはしてませんよ。それとも、これから警察を呼びますか? 傷害といえば傷害、事件ですからね。でもそうすると、コイツが……」

「大丈夫ですよ。そんなことしません。その子はわたしを噛みもしなかったんですから。だからわたし、通報なんかしませんよ」

「そうですか。良かった……」


 男性はわたしの言葉にほっと胸をなでおろしたようだった。

 それから急に姿勢を正し、わたしに向き直る。


「改めて。この度は、本当に申し訳ありませんでした!」

「いえ……」


 いい年をした男性に深々と頭を下げられると、どうしていいかわからなくなる。

 こちらも一応謝っておこうと思った。


「あの、すみません。なんだかわたしの方こそ、逆にご迷惑をおかけしてしまったみたいで。仕事の疲れで限界だったといいますか……あ。わたし、どれくらい寝てました? 今、何時ですか」

「ええと、眠っていたのは五分くらいでしょうか。なのでまだ六時過ぎくらいですよ」

「そうですか」


 わたしはそばにあった荷物をまとめると、すぐに立ち上がった。


「シェパードに久々に触れられて、良かったです。ありがとうございました。では」

「えっ? 久々……? あの、あなたも昔、シェパードを飼っていたことが?」

「ええ。実家に。最近帰れてなくて、触れられてないんですけどね」


 わたしは、もう一度目の前の犬を見つめた。


「じゃあね」


 これ以上近くにいると、実家のマロンが恋しくなってしまう。

 わたしは「ロッキー」に手を振ると、公園を後にした。



 □



 ふらふらしながら帰宅したわたしは、それからお風呂にも入らず半日近くソファで眠っていた。

 夕方ごろにようやく起き出し、冷蔵庫の牛乳を飲む。それからシャワーを浴び、部屋着に着替え、冷凍チャーハンをレンジであたためると胃の中に収めた。


 あのシェパード、マロンみたいで可愛かったな……。

 そう思いながらわたしはその夜をダラダラと過ごした。

 明日にはまた会社に行かなくてはならない。


 そんな夜を幾度も越えて、わたしはまた地獄のような一週間を生きぬいた。



 □



「もう~~~ダメ、もう無理!!」


 自宅の最寄り駅に降り立ったわたしは、今日こそ駅前のロータリーでタクシーを拾おうと決意していた。たった十分でさえ、もう歩く気力がなくなっている。

 どうしてわたしは毎日、こんなつらい思いをしているんだろう。

 実家の父母、弟、マロンが恋しい。


 ロータリーに行くと、なんとあの夢の乗り物はすべて出払っていた。


「どうして……」


 いつもなら一台くらいは停まってるはずだ。

 けれど、どこをどう見てもタクシーはない。


「くそ……またか」


 明日は休み。そうわかっていても、重い体をひきずっていくのが辛かった。

 なにより自宅に帰るモチベーションがまるで枯渇している。

 あそこに帰っても、なんにもないのだから。


 ああ、だれか。

 なんでもいい。

 心がほっとするような、なにかを。わたしに与えて欲しい。


 ようやく、自宅近くの小さな公園に到着する。

 まぶしい朝日の下で、カラフルな遊具たちがきらきらと輝いていた。


「あれっ? あなたは……」


 ウォン!と低い犬の鳴き声がした。

 そこには以前会ったシェパード犬と、その飼い主の男性がいた。


「お、おはようございます……」

「おはようございます」


 挨拶をすると、笑顔でそう返される。

 まさかまた会えると思っていなかった。


「今、お帰りですか?」

「ええ……」

「以前も、この時間帯でしたよね」

「……」

「あ、すいません。いろいろと。詮索するみたいに……」

「いえ。別に、でも色っぽい話とかじゃないですよ。単なる残業です」

「残業」

「ええ。うちの会社、かなりブラックなんです。まあ、今日はこれから一日お休みだからいいんですけどね」

「それは……なんというか、大変ですね」


 まただ。

 眼鏡のレンズ越しに、心配そうな瞳が向けられる。

 足元ではハアハアとシェパード犬が……(たしかロッキーという名だったか)ロッキーの荒い息使いが聞こえてくる。わたしは軽くかがみながら、撫でていいですか?と男性に聞いた。


「いいですよ。でも、怖くないですか?」

「言ったでしょう。うち実家にシェパードがいるんです。それに前、噛まれませんでしたし。大丈夫でしょう」

「なら、いいんですけど」


 わたしは飼い主の男性に見守られながら、ロッキーの前にしゃがんだ。

 透き通った二つの茶色の目玉。

 それがじっとわたしを見つめている。


「よし、よし……」


 そっと頭に手を置いて、耳と耳の間をなでる。

 それからあごの下。

 首。

 思う存分触らせていただくと、わたしは自分のこわばっていた心がだんだんとほぐれていくのを感じた。


「ありがとうございました」

「いえ……」


 立ち上がると、わたしより高い位置に男性の目がある。

 わたしはそれをじっと見つめた。


「何か?」


 男性が不思議そうに首をかしげる。

 そういえばこの人は、いったいどんな人なんだろう?


「あなたは……どんなお仕事してるんです?」

「えっ」

「すいませんわたしも。詮索するような真似……。答えたくないならいいです。ただ、ちょっと気になって」

「自分は……その、自宅でイラストレーターをしてます。でも、そんないいものじゃないですよ」

「そうなんですか? 自宅でって、時間が自由そうでいいなって思いましたけど」

「煮詰まると、いつも朝方まで仕事をしちゃうんです。だから、残業するのが会社か、自宅かってだけの違いですよ」

「はあ……なるほど」


 だから、目の下にわたしと同じようなクマがあるんだ。

 わたしはその話に妙な共感を覚えた。


「いつも仕事がひと段落してから、こいつの――ロッキーの散歩をしてるんです」

「だから、この時間帯にいるんですね……あなたも」


 わたしは足元のロッキーを見下ろして言った。


「そっか。ロッキー、大変だねえ、君のご主人様も」


 ロッキーはわたしの声に答えるかのようにウォンと一鳴きしてくれた。

 本当に、マロンによく似ている。


「でもあなたにはまだこの子がいるから幸せですよ。わたしには、今、なんにもないです」

「なにも?」

「はい。毎日、無味乾燥な日々を送っています。自宅と会社の往復だけ……」


 視線をそらした。

 この人には、関係ないことだ。

 でも、男性は思わぬことをわたしに言ってくれた。


「今日はこれから何かご予定はありますか?」

「えっ? いえ。あとは自宅に帰って寝るだけ、ですけど……」

「お疲れのところ恐縮ですが……あの、良かったらこれからうちに遊びに来ませんか? あ、別に変な意味はないです。何もしませんよ。このあいだのお詫びに、せめて珈琲を一杯ごちそうさせてほしいと思いまして」

「……」


 呆気にとられていると、目の前の男性は慌て出した。


「あっ、すいません、変なことを……言いました。その、忘れてください」

「いえ。お誘い、ありがとうございます。そうですね……では、その珈琲を飲んでいる間、ロッキーくんのことをいろいろと教えてくれますか?」


 わたしはそれから、その男性の家に行った。

 とても眠くて疲れていたけど、なぜかついていきたくなったのだ。

 家は、目と鼻の先だった。

 というか公園のすぐ裏手だった。

 表札には緒方と書いてあり、一軒家で、彼以外の家族はいなかった。わたしは彼の家のリビングで、丁寧に焙煎された珈琲をいただいた。

 ロッキーはソファのすぐ近くにいて、何度もその頭を撫でさせてくれた。


 そして――。


 わたしは、彼と、キスをした。


「何もしないって言っていたのに、すみません……」

「わたしもそういうつもりじゃ、なかったんですけどね……」


 珈琲の香りが漂っていた。

 彼は大型犬みたいな人だと思った。

 大きくて、純粋で。

 いい大人なのにどうしてこんなに不器用なんだろう、と思った。


 相手も、わたしに対して同じようなことを思っていたんじゃないかと思う。

 この歳までどうして――と。


 でも、いいじゃないか。

 今は幸せをこんなに感じられているんだから。


 ロッキーは知らない間に別の部屋に行っていた。

 わたしは彼の家のリビングの、大きなソファの上で、今実家のマロンはどうしているだろうと思いを馳せていた。





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― 新着の感想 ―
[良い点] しょっぱなからすごい展開、ラストはニヤッとしてしまいますね( *´艸`) とってもお似合いな二人で、出会ったのは運命ですね♡ 企画に参加くださって、ありがとうございましたー!
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