歌劇
大和のホムラ殿をもてなしてから五日後の九月二十日、朝。
皇帝陛下から呼び出しを受けた。
何事だろうと驚き、応じるために急いで着替えて、メイクをして爺を従えて内宮の巨大な居館へと入る。
通路の左右、絵画をついつい見てしまう。
ああ……クリフトの右を向いた少女という絵画いいなぁ……いかん、遅れる!
急がねば。
通路の中央に、執事の方がおられて一礼でわたしを迎えた。
「こちらへどうぞ」
陛下の書斎に通されると、陛下ご夫妻がおわした。
わたしは入り口で立ち止まり、膝を曲げて名乗る。
「アメリア、まかりこしました」
「入りなさい」
皇妃陛下の声で、わたしは室内へと進む。
書斎には、珍しい書籍の原本がいくつも並べられていることがひと目でわかった!
……読みたい。
「アメリア?」
「は! はい」
いかん……。
「そこに掛けて」
よかった。
お許しあるまで立っていたと理解してもらえたようだ。
二人の対面に腰掛ける。
皇帝陛下と皇妃陛下が、わたしをじっと見ている。
……そんなに見られても、太っているのは見間違いじゃありませんよ……。
「アメリア、今日、そなたをここに呼んだ理由はわかる?」
エリザベス様に問われ、わたしは悩む。
やらかした記憶はないんだけど……なんだろう?
「申し訳ございません。わかりかねます」
皇妃陛下は頷くと、扇子を広げた。
そ……それは! 大宋国の劉氏が描いた絵! って、いかん。今はそれどころじゃない。
エリザベス様がその扇子で、口元で隠しながら言う。
「アメリアどの、そろそろ皇太子の妻として、そなたらの順位を決めねばならないのだけれど、希望の順位はありますか?」
そういう用件だったか。
希望? あるわけねーだろ。わかってんだ、こっちは。
わたしは一礼して答える。
「ございません」
「では、わたくしどもに一任するという意思でよろしい?」
「はい」
ご夫婦が黙る。
わたしも沈黙し、お二人を交互に見つめた。
皇帝陛下が口を開く。
「おぬし、男に生まれておればな」
「……お言葉を返すようですが、わたしは女である自分が好きなのです、陛下」
「ハハッ」
陛下は笑い、エリザベス様もくすりと笑った。
「そなたらの様子、わたくしたちの耳に常に届いております。実は、夫婦の意見はもう決めているのよ」
「はぁ……」
だったら最下位でと、さっさと言ってくれればいいんですけど。
「アメリア、キングスレイが帰ってきてから最終調整をするが、我らはそなたを一位にしようと思っている」
「ありがたきしあ……ひぇ!?」
変な声が出た。
慌てる。
「あばばば……ももも申し訳ございません。あまりにも冗談がすぎます陛下、わたしが一位だと皆様がひっくりかえって驚かれますので――」
「お黙りなさい」
エリザベス様にぴしゃりと言われて、口を閉じる。
「シンクレアの嫌がらせの件、謝るわ。わたしが招待状を出せばよかったのを、息子に頼んだせいで……あれも細かい作業だからと妻に頼み、シンクレアは顔合わせの時に、自分には見せない息子の笑みを見て、嫉妬したのでしょう」
「……」
「あれはとくに、女として他人に勝ちたいという気持ちが強いのでしょうね……」
美人がブサイクに嫉妬するっておかしくない?
皇妃陛下が言を続ける。
「……それから、貴女の人柄、博学であること、そして皆への心遣いは近衛や城中の者たちから聞いております。なにより、相手の身分など関係なく接する貴女を、皇宮の者たちは皆、慕っております。それでこそ皇帝の妻になる者に相応しいと思います。皆の助けを得ることを当然のように勘違いしている愚かな者たちは、飾りの妻でちょうどよいわ」
「皇妃陛下、ですがクローネ様は素晴らしい御方です。あの方よりもわたしが上にというのは納得いきません」
「そなたは先ほど、わたくしたちに一任すると申したではないかえ?」
ぐ……それは、最下位だろうと思ったからよ!
エリザベス様はそこで微笑んだが、涙を溜めた。
え?
「クローネと仲良くしてくれてありがとう……あの娘は、もうすぐ去ってしまうの」
「え? ……国にお戻りに?」
お妃様は口をつぐみ、皇帝陛下が代わりに言った。
「もう、もたぬのだ……心の臓がな」
わたしは頭を鈍器で殴られたようにぐらつく。
でも、朗読の時は元気に……。
昨日も、わたしの作っている歌劇の脚本を読んでくれて……続きが楽しみだと言ってくれて……嫌だ。
嫌です。
そんなの絶対に嫌です。
「嫌です。クローネ様がいなくなるのは嫌です」
思わず、口にしていた。途端、目頭が熱くなって涙がこぼれ始める。堪えようとしても無駄で、ハンカチはたちまち重くなる。
皇妃陛下が、ご自分のハンカチをわたしに差し出しながら優しく声をかけてくれた。
「アメリア、すぐにというわけじゃないのよ」
「とってもお優しいのに……なんでクローネ様が……」
「アメリア……」
「嫌です……嫌だ嫌だぁ」
涙がとまらない。
お二人の前で、失礼なほどに泣いてしまう。
メイクも剥がれて、付け睫も取れてしまっても、わたしは泣くことを止められない。
エリザベス様が、肩を抱いてくれた。
「貴女を正妻にと、クローネも言ってくれたのよ、アメリア」
わたしは、声をあげて泣いた。
-アメリア-
「あら、それでそんな顔で訪ねてきたの?」
クローネ様が微笑む。
もともと痩せてらしたから、そんなに悪くなっているなんて思わなかった。
「クローネ様、身体によい食べ物をアーサーに作ってもらいますので」
「いいのよ、アメリア……大丈夫。わたくしはそんなすぐにってわけじゃない。絶対に……この子が産まれるまで、わたくしはきっと生きます」
クローネ様の微笑みに、わたしは彼女の腹部を見つめる。
え?
侍女のテスラどのが慌てていたが、クローネ様が「アメリアはいいのよ」と言ってお水を口にした。
懐妊なされていた?
「お……おめでとうございます!」
「待って、まだ誰にも伝えていないの……わたくしの勘違いかもしれない。でも、月のものも……つわりらしきものも最近は……」
「殿下は? 陛下御夫婦はご存知なのですか?」
「まだ……貴女が最初」
「でも、これはすぐに……」
「変な期待を……させたくないのです。ただでさえ……でも、わたくしは頑張ります。子供の頃から病で、それでもキングスレイ様と会えて、この子を授かることができた……アメリア、応援してもらえる?」
「もちろん。もちろんです」
見れば冷徹の侍女が、顔を伏せて肩を震わせている。
「アメリア、安定期に入るまでは伏せておきたいの……お願い」
「……かしこまりました」
「よかった。せっかく来たのだから、朗読の相手をしてくれない?」
「もちろんです」
それから、クローネ様と朗読をして過ごす。
帰ろうとした時、彼女の侍女であるテスラどのが、わたしの化粧を直してくれた。
「アメリア様、いつもありがとうございます」
テスラどのにそう言われると照れる。
なんせ、シンクレアを呼び捨てにするすごい人だからね!
帰路につき、歩きながらクローネ様のために何かできないだろうかと考える。
「クローネ様、最後に歌劇を観賞されたのはいつなんだろう? 帝国にいた時は抜け出して……それくらい、お好きだったのに」
歩きながら、また涙がこぼれ始めた。
「ど! どうしました?」
いつも散歩の時に挨拶を交わす兵士の方が、わたしが通路で泣いてるものだから、慌てて駆け寄ってきた。
「な! なんでもないの」
「なんでもないことありません! また意地悪な娘たちに嫌がらせでもされましたか?」
すっかりと、嫌がらせをされていることは有名になった……。
舞踏会シカトされた事件は、それほど宮中で大きな波紋となったようだ。
「違うのよ……さっき読んでいた本が悲劇だったの……思いだしたらまた泣けてきて」
嘘は嫌いだが、誤魔化すしかない。
兵士の方は苦笑すると、近くの同僚らしき方に声をかける。
「おまえ、ハンカチもってるか?」
「ない……あ! アメリア様に失礼なことをしたのか!?」
「ちがう、俺じゃなくてその――」
「違うのよ。わたしが勝手に……」
事情を話し、誤解させたお詫びを言って、さらにいつもポッケに忍ばせているチョコレートの包みを二人に差し上げて別れた……甘くないお菓子だけど、よく噛めばじんわりと甘味が出るのよ!
ああ……早く砂糖が入ったチョコレートを食べたい……おっと、そうじゃなくて歌劇のことだ。
歩きながら、クローネ様に歌劇を観賞してもらいたいと考えた。
連れ出すわけにはいかないから……。
自室に戻り、劇場支配人に手紙を出すことにした。
今はもう劇場へ足を運ぶことができないクローネ様の為に、最高の歌劇を観賞してもらおうと決めたのである。
少しでも、元気になってもらいたい。
少しでも、喜んでもらいたい。
劇場支配人への手紙を書き終えて、次はこれまで交流があった医師の方々への手紙を書く。
できることをしたいと思った。
わたしは全力でクローネ様をお支えする。
そう、決めたのだ。
-ニールセン-
ニールセンは、舞踏会で使う大広間の中央で、周囲へと睨みをきかせる。
「もっと右に寄せろ!」
「客席はテラスに!」
「楽器の配置は劇団の者が到着してから確認するから空けておけ」
彼の指示で、官僚や使用人たちがあれこれと動く。そこにアメリアが、イエッタと共に大きな籠を抱えて現れ、皆にチーズタルトの差し入れだというので歓声があがった。
皇室警備連隊の騎士であり、主任であるニールセンは、下々で働く者たちに囲まれて笑うアメリアに見入る。
彼はこれまで、皆の前であんなに楽しそうな笑みを見せる貴族の姫君を知らなかった。
休憩にしようと皆に声をかけた彼は、広間の隅に集まる彼らから視線を転じた。
視界の隅に、広間へと入ってきた人物を捉えたのである。
彼は、現れたのがシンクレアだと知って驚いた。
ニールセンはすぐに、彼女へと駆け寄ると一礼し片膝をつく。
「ただいま、作業をしておりますのでご遠慮くださいませ」
「ほう……騎士がわたくしに意見か?」
「とんでもございません。ですが――」
彼の言を、シンクレアは問いでさえぎる。
「なにをしておるのじゃ? 誰の許可を得てのことじゃ?」
ニールセンは、シンクレアの背後にアニータもいることに気付いた。
「答えよ。答えぬのなら舌はいらぬであろう? 引っこ抜いてやるぞ?」
彼は肩越しに、広間の奥で休憩を取ろうとしていた皆を見る。そしてアメリアがこちらへと近づいてきていると知り、慌てて口を開いた。
「歌劇を上演いたしますゆえ、準備をしております」
「誰の許可を得てのことじゃ?」
「皇妃陛下でございます」
「嘘を申すな。わたくしは何も聞いておらぬ。中止じゃ。元に戻せ」
シンクレアはそう言うと、困惑するニールセンを無視し、チーズタルトを分け合う集団へと大股で近づきながら声をはりあげた。
「そのほうら、中止じゃ! アメリアはまだホムルズ伯爵家の女子じゃ! このように広間を勝手に使うなどあり得ぬ!」
シンクレアに続いて歩くアニータは、歩み寄ってくるアメリアへ向けて、ざまぁみろという顔をつくる。
ニールセンは、アニータが大広間の様子を見て、使用人の誰かから何が起きているかを聞き、シンクレアに告げ口をしたから今があるのだと理解した。
聞けば、使用人や騎士、兵士、官僚たちから慕われるアメリアの評価が、皇帝夫婦の間でも高まっている。それを察したその他大勢が、アメリアへの嫌がらせに協力関係となっているのだろうとニールセンが推測した時、おずおずとシンクレアの前に立ったアメリアが、チーズタルトを差し出した。
「シンクレア様、いかがですか?」
「な! このようなもの、ここで食べるなんてはしたない! それよりも作業をやめよ!」
「エリザベス陛下からお許しを得ておりますので」
「嘘じゃ! わたくしは何も聞いておらぬ」
「では、ご確認頂ければわかることでございます」
ニールセンは、いつもに比べて強いアメリアに驚く。
そして、その理由を理解しているからこそ、彼女の優しさに応援の気持ちを強くするのである。
彼はアメリアが、クローネのために歌劇を大広間でと企画したことを知っている。だから、今のアメリアはクローネのために、ひかないのだわかっていた。
アメリアが口を開く。
「シンクレア様、アニータ様、どうかエリザベス陛下にご確認くださいますよう……わたしどもは何も悪いことはしておりませぬゆえ」
深く一礼し、再度、チーズタルトを差し出したアメリアを前に、シンクレアはわなわなと震えると、チーズタルトを手で掴む。
「こんなもの! お前が食べておれ! 豚!」
シンクレアは暴言とともに、手にしていたチーズタルトをアメリアに投げつけた。
顔でチーズタルトを受け止めたアメリア。
ニールセンが慌てた時、アメリアがわずかな手の動きで彼を止め、シンクレアに一礼する。
ひるまない相手に、シンクレアはわなわなと震えると舌打ちを発して踵を返した。
その場を辞したシンクレアに、金魚の糞のようにつき従うアニータが退散する。
アメリアは慌てる周囲に笑みを向け、顔についたチーズタルトを指でふきとり、それを舐めて「美味しいのにぃ!」とおどけてみせた。
「もう! もったいないからペロペロするぅ。皆さん、あとひと仕事、お願いしますね」
アメリアが微笑み、顔と衣服に付着したチーズタルトを指でふきとり、皆へ頭を何度もさげながら去った。
ニールセンは、煮えくり返る腹の中を落ち着かせようと深呼吸し、この怒りは機会さえあれば必ず晴らすぞと決める。
彼は、作業再開を告げようとしたが、すでに皆は仕事に戻っていた。
もくもくと、怒りを押し殺して働く彼らを見た騎士は、全員が同じ気持ちだと思えたのである。
-アメリア-
いくつもある歌劇場の中でも、芸術都市オーギュレーンのフォンテーヌ歌劇場は随一だと思う。その劇団の方々がクローネ様のために、三日という道のりを旅して皇都ワーレンハインに来てくれた。
彼らを呼ぶのに、貴重な本を何冊も売ったのは仕方ない。彼らとて収入がないと困るのだ。
二十万リーグを支配人に渡したところで、半分をつき返された。
「新作の脚本料として、十万リーグをお返しします。お納めください」
「ありがとう……質に入れた本、いくらか買い戻せます」
「ご実家に頼めばよろしかったのに」
「金銭的な援助であまり迷惑をかけたくありません」
実際、生活費だけでも、けっこうな額を送ってもらっているのだ。
こうして、午後七時に開演を迎える運びが滞りなく終わり、クローネ様を主賓席にお招きした。ここで私は、本当はタブーなんだけれど、アーサーに頼んで作ったもらった料理を並べた。片手で摘まんで食べられるように、アーサーは工夫をしてくれている。
食が細い彼女に、少しでも栄養をとってもらおうと思った。もちろん、お菓子も用意している。
そして客席には、シンクレア、アニータ、ローズマリー、パメラもいる。
最後に、皇帝ご夫妻がお見えになった。
「アメリア、素晴らしい舞台ですね?」
エリザベス様のお言葉に、わたしはうやうやしく一礼した。
シンクレアの舌打ちが聞こえた気がしたけど、わたしとクローネ様の席に、お二人が当然のように着席したことで、彼女たちの驚愕が沈黙となって示された。
会場が暗転し、舞台上のみ照らされる。
昼間、皆が懸命に準備してくれたおかげだ。
本当にありがとう!
感謝で胸をいっぱいにした時、壇上に一人の男性が現れた。
支配人だ。
「我が国で最も高貴な場所にて、皆様にお目にかかることができるこの機会に心から感謝申し上げます。皇帝陛下、皇妃陛下、皇太子妃さま、皆さま、今宵、当劇団が披露いたしまするはかの女性の伝説でございます。王の娘でありながら、王族と政敵に命を狙われた王女と、彼女を助けた亡国の大軍師と呼ばれた男性の物語、三章部分を披露いたしまする。おや? なにやら音が聞こえてきました……これは、戦いの音です。それがし、退散いたしまするぅ」
支配人が一礼し、つつつとそでに消えた。
音曲が激しくなり、声が大きくなっていく。
そして、複数の演者が現れ、舞い歌いながら、激しい戦いを表現していた。
クローネ様は、目を輝かせて見入っている。
わたしは、彼女の横顔を見つめた。