クローネ
翌日も舞踏会が開催されているので、散歩は朝から遠慮しておくことにした。昨日の片付けや当日の準備などで、皇宮で働く人たちの邪魔になってはいけないからだ。
ベルギモ先生が来る日で、今日はいつもの食事内容や運動時間、歩いた距離などを記録した用紙を見せたところで、新たに腹筋と背筋の運動を追加されてしまった……。
「アメリア様、随分と体つきが変化されておられます」
「お世辞がお上手で困ります。一か月でそうそう変化があるわけがないでしょ」
「はははは! 体重が落ちて激変するという意味では仰るとおりでしょうけど、引き締まってきていますよ。これから体重が順調に減ります……と言いたいところですが、一度、停滞するでしょう。それでも継続することが大事ですよ」
ベルギモ先生を玄関まで送り、さっそく教わった運動を始める。
体幹を鍛える? ……こんな楽な姿勢で本当に鍛えられ……うぐぐぐぐぐ!
「ふおぉ……」
きつい!
この体勢はきっつい!
「アメリア様、三十数えます!」
「は! は! は! く! はやく!」
楽な運動なんてないのだ……。
この日は室内でできる運動を重点的におこない、わたしはイエッタに脚本の読み上げをしてもらいながら、階段をのぼり、おりる、といった動作を繰り返す。
腕を回したり、伸ばしたり、血液の流れをよくするためだという動作も繰り返した。
その後、昼食をとり、午後は脚本の直しをして、フォントワーヌ劇場の支配人宛の手紙を書いて、脚本も同封する。夏までにひとつ、新しい脚本を頼まれていたので、歌劇版と演劇版のふたつを送った。
好きなほうをどうぞ、とも書いた。
今はなきレイム帝国時代の人物たちの恋愛模様を物語にしたのである。
手紙をイエッタに預け、今日も宮のほうは宴で賑やかだろうなと思いながら、爺相手に碁でも打とうかと考えていると、イエッタが来客を告げた。
「クローネ様の侍女がお見えです」
……一番目の奥方じゃん。
わたしは失礼がないように、玄関まで迎えに出た。
相手は品のよい壮年の女性で、教育係から侍女になったのだろうなと想像する。
「クローネ様におかれましては、アメリア様と語らう時間が欲しいとのことで、わたしがまかりこしました。聞けば、アメリア様は舞踏会にはお出にならないそうなので、今晩、クローネ様のお部屋で如何でございましょうや?」
これ以上、なにを嫌がらせしようっていう魂胆なのか?
だけど、断ることはできない。
それにしても、クローネ様は舞踏会に出ない? お身体が弱いというのは聞いていた以上なのかもしれない……。
「承知しました」
答えたわたしは、完璧な一礼をして去るクローネ様の侍女を見送る。
それから、クローネ様に失礼がないように、来ていく衣装を選び、メイクをイエッタに任せ、アクセサリを用意し、さらされた肌にムダ毛があれば剃る。剃った後は化粧水をぬって……大変なのよ!
だいたい、メイクだけで一時間以上はかかるんです。
こうして、内宮の皇帝家族が暮らす大きな屋敷に入ったわたしは、皆が宴会だ舞踏会だで出払って静かな内部をしずしずと進み、階段をのぼり、その空間に入った。
わたしが暮らす家よりも広い空間が、皇太子の正妻とされるクローネ様の居住空間だった。
彼女を応接間で待っていると、少しして、現れた。
ん? 笑顔? どういうことだ?
「アメリア様、お呼びたてしてごめんなさい。あまり身体が強くないから、出歩くのも大変なの」
「いえ、お招き頂きまして光栄でございます」
「殿下から聞きました。招待状、届いていなかったこと……わたくしの落ち度です。申し訳ありません」
「姫様!」
侍女の声。
彼女は、そこでわたしを見て口を開く。
「姫様に代わり、姫様には落ち度はありませんことをお伝えいたします!」
「あ、あの結構ですから……そもそもわたしは、女性というよりも、知識人の方々をお迎えするために皇室に入るようにと聞かされておりますので、舞踏会などは好みではありませんから」
好みではないけど、無視されるのはつらかったわよ、もちろん。ただ、いちいち言うのは恥の上塗りだ。
「ちがいます」
侍女は、まごまごとするクローネ様を見つめ、その視線をわたしに転じて言った。
「姫様はお身体が弱く、招待状を書くまではよろしかったのですがお渡しするのは難しかったので、そのお役目をシンクレアに頼みましてよ」
侍女が二番目の妻を呼び捨て。
この侍女、できる!
ということは、シンクレアがわたしを無視したってことか。
侍女は続ける。
「昨夜、殿下より事情を聞き、姫様はすぐに誰の仕業かわかりましたが、それを表立てるにはいろいろと複雑ですので、こうしてお詫びをしたいというお気持ちと、貴女様とお話をしたいというご期待で、お呼び致しました」
「テスラ、もういいわ。二人だけにして」
クローネ様の言葉で、侍女が一礼をして去る。
わたしは、手ずから緑茶を淹れてくれるクローネ様の所作に見入った。
美しい。
彼女が言う。
「わたくし、歌劇がとても好きなの。それで、初めてお会いできた食事のときに、お名前を聞いて……ホムルズ伯爵家の方だと聞いていたので、ああ、もしかしたらと思っていたの……」
「ありがとうございます。わたしの歌劇、ご観賞くださったのですか?」
「ええ、まだ帝国にいた頃は……今よりもずっと歩けたし、お出掛けもできた頃に……水の乙女と火の青年という歌劇がいちばん好きで何度も劇場にお忍びで通いました……ふふふ、お母様に抜け出すところを見つかって怒られたのもいい思い出です」
「ああ……あれは苦しんで生まれた歌劇なのです。お気に召してよかった」
「殿下から聞きましたが、多くの本をお読みになられているとか……よかったら朗読の相手をしてくださらない? それくらいしか、わたくしが楽しめるものがないの」
「もちろんです。喜んでお相手を……クローネ様、もしご迷惑でなければ、わたしが作る新作の朗読をされませんか? それでわたしも、内容の修正をおこなえます」
「本当に? そんなことができるの?」
「ええ、ただ、完成までお付き合いいただきますが?」
「喜んで! ああ! 勇気をだしてお誘いしてよかった」
クローネ様が笑顔になる。
お身体が弱いのに、政略のために嫁いで来られたのだと思うと、なんだかとても悲しい人に思えたのは傲慢だろうか?
とにかく、クローネ様はいい御方だとわかっただけでもシンクレアの嫌がらせはいい作用もあったと思うことにしよう。
-アメリア-
クローネ様に招待してもらった日の二日後、わたしの屋敷に殿下が訪ねて来られた。
イエッタに知らされて驚きながら階段を降りると、間違いなくキングスレイ殿下が玄関に立っていてわたしを見ていた。
慌てて駆け寄ると、散歩しようと誘われる。
彼の足元には、あの日の黒茶の犬がおすわりをしていた。その子はお腹と四肢の先、そしてしっぽの先が白い。
「君、毎日のように散歩してるんだって? たまには俺と一緒にしてもいいだろ?」
断られることはないという自信に満ちた誘い方は、イケメンで皇太子でなければできないことだろうと思う。
わたしは、ここで彼と散歩をしたら、それを目撃でもされるとまた嫌がらせをされてしまうと思い迷ってしまった。
「迷うのかよ……」
やばい! 怒らせてしまった! と慌てて彼を見ると、笑っていた。
「アメリア、散歩に付き合ってくれませんか?」
「えっと……あ、はい。支度して参ります」
「そのままでいいよ。俺とジャンと君だけだ」
「はぁ……」
ジャンがわたしに尻尾をふってみせると、くるくると回って庭へと駆け出す。そしてピタリと止まり、伏せの状態でわたしたちを見つめていた。
「かわいらしい」
「ウサギ狩りをするために譲ってもらったんだけど、ウサギを追いかけないで一緒に遊んじゃうからお役御免にして近くにおいてるんだ」
「なんていう犬種なのですか?」
「ビーグルだよ」
初めて聞く犬種だ。
ジャンは尻尾をぴんとたてて、わたしを見つめると鼻を鳴らす。
早く行こうと誘われているみたいで、殿下に誘われるがままに庭へと出る。
ジャンの先導で、キングスレイ殿下と内宮の庭園を歩く。
池から小川が流れていて、小さな橋を殿下に続いて渡った。
大量のチューリップに囲まれて、溜息が出るほどに美しい。
「アメリア、クローネから聞いたよ。いろいろと気遣いをさせて悪い」
「いえ、とんでもございません」
「彼女はとてもいいコなんだ……主神も残酷なことをする……」
「どちらの具合が?」
「心臓だ……医師からは肥大していると聞かされている」
こう話す殿下はつらそうだ。
心臓が肥大すると、血液を押し出す力が弱くなってしまうと聞いたことがある。
「君がクローネを訪ねてくれて、彼女の顔に笑顔が増えた……ありがとう」
「いえ、わたしのほうこそクローネ様が誘ってくださって、お人柄を知ることができたのは嬉しく思っています」
キングスレイ殿下が、チューリップの花をひとつ摘み、わたしの髪にさしてくれた。
驚いて固まると、彼は微笑む。
「君の人柄だろうな……騎士たち……近衛の者達が俺のところに来たよ……君が不当な扱いを受けるのはおかしいとね」
「……そうでしたか」
わたしは散歩で毎日のように挨拶を交わしている人たちが、わたしのためにそういうことをしてくれたと知って嬉しく感じた。ここにきて、皆から嫌われているのではないかと思っていたけどそうではなかった。皆から笑われているのではないかと心配してたけど、そうではなかったとわかって、ホっとして、涙がでそうになる。
だけど、泣かない。
わたしは、こういう時、笑うようにしている。
笑顔で殿下に言った。
「教えてくださりありがとうございます。皆様のお心遣いに深く感謝します」
「でも、俺はこうも思う。もう少し我儘を言ってもいいんじゃないか?」
「我儘ですか?」
「あるいは、怒ってもいい」
わたしは、足元に駆け寄ってじゃれついてきたジャンの頭を撫でながら、そのさわり心地の良さにとっても癒された。
「殿下、わたしだって意地悪をされたら悲しいし、腹をたてます。ですがそれをそのまま、表に出したところでなんの解決にもなりません……」
「君のその優しさは称えられるべきだろうと思う。だけど、俺は改めてこう提案するよ。君が大人の対応をすることにつけこむ図々しい相手もいるから、遠慮なく俺に言ってくれればいい」
わたしは、真剣な殿下の表情に頷きを返した。
「かしこまりました。本当に困った時は頼らせてください」
「うん……頼ってください」
こう言って笑う彼は、とても素敵な人だと思えた。
この後、クローネ様と三人でお茶をどうかと誘われたけど辞退した。
ご夫婦の時間を邪魔するのはお行儀がよくないと思う。
帰路についた時、殿下が真面目な顔で口を開いた。
「俺は明日、南部国境に行く。ゴート共和国軍の北進を迎撃中の南部方面軍へ援軍を率いていく」
「ご武運を」
「必ず無事に帰るよ」
「はい」
笑顔で殿下を見送り、自分の屋敷へと帰る途中、お茶会の準備をしているリーダー伯爵家の執事と会った。彼女たちは三人でつるむけど、決してわたしを誘わない。
認めたくないのだろう。
おデブが自分たちと同じ候補としてここにいることを……。
「こんにちは」
執事さんに挨拶をすると、彼も笑みで会釈を返してくれた。
わたしは当然ながら、そのまま通り過ぎようとしたけれど、彼はサっと周囲を窺うとわたしへ近づき、声をひそめる。
「お願いがございます」
「はい?」
「ローズマリー様と仲良くしてあげてもらえませんか?」
……どういうこと?
嫌われているのはわたしなんですが……。
「どういう意味ですか?」
「姫様は、いちばん年下ということで面倒な役回りを押し付けられて、苦手なこともさせられて疲れています。私どもがお手伝いできるこのようなことであればいいのですが、舞踏会では両陛下の近くでご機嫌をうかがう役目を押し付けられて、しつこいですよと注意されてしまったと泣いておられたのです」
三人娘の中にも序列があるのか……。
この時、当人であるローズマリー様と、アニータ様が一緒に席へと歩み寄ってきているのを見たので、わざと声を大きくする。
「ご丁寧に美味しいお茶の淹れ方を教えてくださってありがとうございました。失礼いたします」
リーダー伯爵家の執事さんが、機転をきかせてくれてありがとうという意味での会釈を返してくれた。
彼から離れて自邸へと向かうわたしは、二人とすれ違う。
「ごきげんよう」
挨拶をしたわたしに、「ごきげんよう」と返してくれたのはローズマリー様で、アニータ様は「ふん」という音が聞こえてきそうな態度……。
わたしは、こんな人を妻に迎えることになる殿下を気の毒に思ってしまった。