犬と遭遇
ギュレンシュタイン皇国は中央大陸で一、二を誇る大国だ。南のゴート共和国とライバル関係にあることは大陸の者ならば知らない人はいないだろう。
大国の皇太子殿下ともなると、自分で結婚相手を選べないなんて気の毒だなと思う。
まして、このわたしなんかと結婚させられるんだから!
周りの人たちが、外交の場で恥をかかない女を探せっていって、皇室の方がわたしを見繕ったのだろう。
どういう理由であれ、父上を安心させてあげられそうで良かった。家のことは、弟だけに負担をかけちゃうけど、行き遅れの姉が領政にあれこれと口を出すよりマシでしょう。
皇都ワーレンハインに到着する。ひさしぶりに来ると、大都市はさらに華やかになっていてびっくりした。
食べ物、こっちのほうがたくさんありそうだ。
しっかし、建物がどれも高い!
馬車の窓から高い建物を眺めながら揺られ、皇宮に入る。
皇宮……行政府、立法府、中央裁判所のほか、皇室の方々が仕事をしたり客と会ったりする外宮、そして皇室の方々が暮らす内宮をまとめて皇宮と呼ぶが、とんでもなく広い。わたしの実家の屋敷がいくつ入るのか想像もつかないくらいに広い。なんならホムルズ伯爵領の中心都市ウェリアズの市街地がすっぽり入っちゃうのではないか? と思うくらいに広い。
門をいくつもくぐり、馬車はここまでですと降ろされたのは内宮入り口で、外宮との連絡通路……通路というには巨大な建物で、一階部分が回廊になっているそこで馬車を降りて、歩いて案内されて目的地を目指す……歩いて! 歩いてぇ……きつい!
デブなわたしは、目的地に行くまでに汗だくとなる……。
こ……これはきつい!
これから、この広すぎるところで生活を? するの?
呼吸が……呼吸がうまくできない……。
少しは痩せないと移動で殺される……。
「じ……ふぅふぅ……爺!」
「は!」
わたしが爺と呼ぶアル・ギュンターはわたしが子供の時にお世話になった学問の師であり、今は相談役として同行をしてもらった。そして身の回りの世話をしてくれる侍女には、付き合いが長く気心のしれたイエッタを選んだ。
わたしは呼吸を整えるために立ち止まり、それでもはぁはぁと苦しみながら爺に依頼をする。
「ちょっと……ダイエットするわ……移動で死ぬ……いい先生を見つけて」
「承知しました」
爺に任せれば大丈夫。
皇宮の内宮はとてつもなく広い庭園があり、そこに大きな建物がいくつもあるがそれぞれが適切な距離を保ち、自然と人工物の調和がとれているように感じた。
敷地内を通る遊歩道は季節の花々で囲まれて、余裕さえあれば目を楽しませてくれるにちがいない。
余裕さえあれば……。
今のわたしには余裕がない。
懸命に、その建物へと進む。
ここで、美しく着飾った女性たちがわたしを見ていることに気付いた。
ひそひそとされて、笑われた。
慣れている。
地方領主と家族が集まる舞踏会や晩さん会でも、似たようなことはたっぷりとされた。そして、そういうことがあったから、都で催される宴には参加しないようにしていた。都は遠いから断るにも理由が簡単だ。でも地方だと近所なので、出ないと開催者に恥をかかせてしまうから……。
「姫様、行きましょう」
「イエッタ、ちょっと押してもらえないかしら?」
「……姫様、朝食後のデザートをお控えになられては?」
「バナナは朝、食べたいの」
「しかし、房をまるごとはちょっと……」
「じゃ、明日から半分にするわ」
「……かしこまりました」
イエッタに押してもらって、なんとか目的地である内宮の、その建物へとたどり着いた。
わたしは内宮に建つ建物のひとつを与えられた。
二階建ての屋敷は、玄関から正面奥へと伸びる廊下の先に二階へとつづく階段がある。この廊下の左右には室があり、応接間、書斎、厨房、手洗い、浴室……普通に家じゃないのよ。
二階には部屋が四つと衣装部屋がある。
爺とイエッタに一部屋ずつ使ってもらうことにした。
しばらくすれば、荷物がたくさん届く。
ともかく、最低限の生活家具は用意されているが、好きなものに買い替えてよいとも言われていた。
「街から商人を呼びつけて買い物ができるそうですよ、アメリア様」
イエッタはきっと買い物をしたいのよ。だからこう言うのよ……。
「別に今の家具でいいじゃない? 使えるんだし。それにこの家に似合うような色調で統一されているわ。きっと選んでくれたに違いないのよ。あ、でも買いたいものはあるわね」
「ね! そうですよね!」
わたしは紙に、精肉店、酒屋、青果店、野菜店などなど飲食に関する店を書き、イエッタに渡した。
「これ、呼んでもらって。それから、料理を担当する人たちはどこから?」
「しばらくしたら挨拶にみえられるそうですけど」
わたしは、嫌いな食べ物である魚を紙に書き、イエッタに渡した。
「この川魚系は料理しないでと伝えておいて。あと、三度の食事の後はデザート。朝はバナナの房を半分。寝る前に書斎で読書をするから、そこにアイスクリームを運ぶこと。ちゃんと言っておいてね」
「承知しました。しかし姫様、ダイエットなさるのでは?」
「するわよ」
「……」
わたしは、自室にしようと思う部屋へ入る。
窓からの見晴らしがいい。少し小高い丘の上だから、都の景色がよく見える。
それにしても、皇太子殿下ってどんな人なんだろうか。
二十五歳と聞いているけど、会ったことないし噂で聞くくらいの情報しかない。
イケメンで、剣豪で怖い人。
これが噂程度の情報だ。
そのうち会うにしても、もう少しどんな人なのかを知りたいなぁ。
あ!
「イエッタ!」
「はい! ただいま!」
「手持ちで運んだ本、持ってきてもらえない? わたし、もう動けないの!」
「承知しました!」
「おねがぁい! 助かるわ!」
疲れたぁ。
こんな時は、ベッドに転がってルメウスの定理を研究しよう。
数学は謎解きみたいでおもしろいのだ。
-アメリア-
内宮生活七日目。
ダイエットが始まっている。ベルギモ先生は中年の男性だけど、女性になりたくて女装をしている人だ。筋肉をつけながら計画的に痩せましょうと言われて、食事の制限をされてしまった。そしてさらに、バナナを食べ過ぎだと言われて、一日一本だけにされてしまった!
バナナを一本、房からもぎる。
食べる。
すぐなくなる……。
これが一番つらぁい!
チョコレートは許可してくれたが、カカオばっかのやつでと料理人のアーサーに約束させられていて、しかたなく砂糖たっぷりのチョコレートとお別れしている。
朝と夕方の散歩は必須で、広い皇宮の中を詳しくなるのに役立つかと思い前向きに取り組んでいる。見回り中の騎士や兵士の方たちと挨拶を交わし、道を教えてもらうことで迷わなくてすむようになってきた。
ただ、このわたしが内宮内をうろうろとしているので、わたしと同じ立場のお嬢様方三名からはそれはもう笑われ、馬鹿にされているのである……。
体当たりすんぞ、こら! お? やんのか? と睨みたい気持ちをこらえて、ワンツーワンツーと散歩にいそしむ。
そして今日、散歩をしていたら黒と茶の犬が内宮を走り回っていたので、呼んだら駆け寄ってきた。
抱きあげる。
顔を舐めてくる。
かわいい。
「お前、どこから来たの?」
十キロのお肉の塊よりも少し軽いから、七、八キロってところね。
わたしは、内宮に住むお嬢様方を一人ずつ訪ねて、犬の飼い主を探した。
ヴェルズ伯のご三女アニータ様は十八歳の美女。出るところが出て、ひっこむところがひっこむスタイルがうらやましい。
「わたくしの犬ではありませんわ。あなた、汗臭くてよ、近寄らないで」
すみません。散歩してましたので……違うと。
次は、リーダー伯爵家のご長女ローズマリー様。十六歳の可憐な女子。
「わたしの犬ではありません。そもそも、犬は苦手なのです」
違うと。犬が苦手なんて可哀想だ……。
ワーデン伯爵家のパメラ様は才色兼備の十七歳。
「わたくしがそのようなこぎたない犬を飼うわけがありませんでしょう? わたくしの犬はこのように美しいトイプードルなのよ。そんな庭を走るような犬ではありませんわ」
違うのか……というか、犬は庭を走るもんじゃないの?
わたしは困った。
三人ではないと。
内宮から外宮へ出るのは気がひけて、どうしたものかとうろうろしていると、犬が地面へと降りたがるので降ろしてやった。すると、尻尾をふりながら走っていく。
うん。その速度は無理だ。追いつけない。さようなら。
わたしは散歩コースへと戻ろうとしたが、後ろから声をかけられた。
「君、ジャンを見つけてくれたのか?」
振り返ると、犬を抱いた男性が立っている。優しそうな眼差しは知的で、イケメンの代表格だ。
「あ、内宮を走っておりましたもので」
「内宮を? 勝手に離れては駄目だと言っただろ」
男性が犬の頭を撫でながら叱るが、言葉が通じるわけないだろという目で眺めた。
ふと、男性が脇に挟むようにして持つ本に目がとまる。
「そ……それ! それはどこで?」
思わず尋ねたわたしに、男性はジャンを地面へと降ろし、本を手にとった。
「これは城の図書室で……物理がお好きなので?」
「はい。そのひも理論の本、ずっと読みたかったんです」
「ランドー先生の本はすぐに売れてしまって、写本が追いつかないから……ジャンのお礼に貸してあげよう」
「いいんですか!?」
男性が差し出した本を受け取る。
ランドー先生のひも理論の本、ゲットよぉ!
「ありがとうございます。読んだら図書室にお返ししておきます!」
「あ、ちょっ――」
男性にペコリと頭をさげて、自邸までさっきの犬よりも早い速度で帰った。