いいことと、わるいこと……
一月二日、南で戦っていた皇太子殿下がお還りになられた。
戦争は、両軍ともに開戦前の支配地に落ち着くも、内海の海運はほぼ皇国側が握ったことから勝ちといえる。この条件で停戦を整えて帰還した殿下を、民は歓声と花吹雪で迎え、ワーレンハインは新年早々、寒さを忘れるほどの熱気に満ちた。
キングスレイ殿下はすぐにクローネ様の部屋を訪れ、妊娠した妻を気遣い、喜びを伝える。そして同時に、クローネ様が子供を産むということは、彼女との別れにもつながる確率が非常に高いことを理解し、真剣な表情で彼女を抱きしめていた。
殿下が訪れたことで、わたしとローズマリーはクローネ様との朗読を中断し、それぞれの自邸へと引き上げている。
そのわたしを、殿下が訪ねてきたのは夕刻前のことだった。
応接用の部屋へお通しし、アーサーがお菓子と飲み物を運ぶ。化粧を落としたのにすぐにまた化粧をしないといけないことへの愚痴は、殿下がクローネ様の次に訪ねてくれたことへの感謝で飲み込んだ。
少し待たせたことへの詫びを口にしながら、室の扉を開いたわたしは、窓からの景色を眺める彼の横顔に見惚れた。
凛々しい、という方は彼のような人のことをさしていうのだろう。
「お待たせいたしました」
キングスレイ殿下が、視線を転じてわたしを見る。
「アメリア、少しやせたか? 病気になどなっていないよな?」
病気じゃないちゅうに!
「健康のために、体重を落としました」
「いい心がけだけど、やりすぎは駄目だよ? 君は十分に個性的で綺麗だから」
こ……この男、デブ専か!?
いや、クローネ様は痩せているし、他の女性陣も……あれだ。彼はわたしの容姿を他の人たちと違って揶揄して笑わない人なだけだ……。
「ありがとうございます」
彼が長椅子に座るのを待って、わたしは彼の対面に腰掛け――。
「アメリア、こっちに」
彼が、自分の隣をポンポンと叩く。
はぁ……それはかまわないけど、真ん中に殿下が座ると、わたしがその端っこの狭いところに収まるわけが……座れた! 痩せていることを実感した!
ここで室へとイエッタが現れ、向かい合うように用意されていたお菓子と飲み物を、わたしたちの目の前に置いて整えると辞した。
キングスレイ殿下が、緑茶を飲み、果物のモナカを食べて目を輝かせる。そして緑茶をまた飲み、頷きながら口を開いた。
「アーサーを君のところにやって正解だった。食べ物に厳しい姫君と聞いていた母上が、アーサーをアメリアの担当にしたんだ。彼、腕はあるだろ?」
ありがとうございます! 本当に毎日のご飯が楽しくて最高!
「お礼を申し上げます。彼のおかげで、つらいはずの減量が楽しいです」
「他の姫君たちは、自分のところから料理人も連れてきていたけど、君はそうしなかった。どうして?」
……深い意味はない。ホムルズ家の料理人は味付けが薄くて、わたしはテーブルの下に隠した調味料で味を濃くして食べていたので、これを機会にお別れできると思っただけなのだ……。
「深い意味はありません。その庭に植える苗は、その庭の土で選べといいます」
彼は頷く。
……顔が近い!
やばい……恥ずかしい。
汗臭いとか、デカイとか思われたくない……けど、逃げる余裕が心にも場所にもない。
「アメリアの手紙、助かった」
……あ、あの手紙、役に立ったのだ! よかった……。
「君の期待に応えることができてうれしいよ……愚かな男であれば、あの手紙を読んでも理解できないだろう……あれは、わざとそうしたのか?」
……優しい目から、厳しい目に急変する。
もしかして、試したと思われている?
そんな失礼なことをするわけがない! と言いたいけど、それは彼が求める回答ではないだろう……理由を知りたがっているに違いない。
「ご気分を悪くされたのでしたら申し訳ございません。ただ、わたしがあの手紙の内容にしたのは、差し出がましいことをつらつらと記す勇気がなかったからです。他意はございません」
「……それなら安心した。君は、この手紙に気付かないようなら駄目だと、俺を試しかねないからな」
「そのようなことは……」
「オズワルドから聞いたよ……過去、軍学校にも出入りする才女で、都でも有名だったと」
きゃああああああああああ! という心の叫びを飲み込んだ顔はきっと間抜けな表情のはず……。
「それで、その……どうしても理解できないから訊こうと思った。君の過去を責めたりするつもりはないと先に言っておく。これは、俺が不安だから尋ねることだと思ってほしい」
なに? なにを訊かれる?
苦手な食べ物は、川魚です……。
「その……オーリエ候と婚約をしていたのに、破談になったのはどうしてだ? 身長のことだけか? 君が断ったのではなく、あちらが断ったのは本当なのか?」
きゃああああああああああ!
心の傷が!
わたしも心の臓が痛い!
あわあわとしながら、口を動かす……。
「そ……そそです。こと……断られました……背が高いから……目が一重で切れ長……だから」
「本当に? いや……嫌な過去を思いださせたね……すまない。でも、信じられない。君のような女性を断るなんて……信じられない。もしかして、家同士が揉めたから破談になったという可能性は?」
わたしは、断られた後のことを思いだす……。
父上が怒りくるい、母上が倒れた……領地の民たちも怒って、戦争だと大騒ぎになった……家宰のエドや爺が奔走し、父上が冷静になって……なんとか武力衝突にはならなかったのは、今では家族内で笑い話になるほどだけど、当時はまったく笑えなかった……とくにわたしは!
父上は、冷静になったとはいえ、オーリエ候に厳重な抗議をした。以来、我がホムルズ伯爵家は、オーリエ候との交流を一切やめて、特産品のワインやオリーブ油をオーリエ候の領地には売らないことを徹底している。
「……断られてから、父上はそれはもう抗議しました。現在の両家の関係が悪いのはそのせいです……はい……オーリエ選帝侯との経済的な繋がりも断つほどに悪化しています」
「そうか……悪かった」
キングスレイ殿下はそう言うと、ズイっとわたしに身を寄せる。
目を丸くするわたしは、抱きしめられていた。
顔が熱くなる!
こ……これが抱きしめられる効果なのか?
いかん……体温が高くなる……汗をかいたらどうしよう? 臭いと言われたくない。
「殿下……その……困ります」
「あ……すまない」
殿下が離れ……ても、髪に触れられた。
駄目だ……こわい。
汗臭いとか、目が怖いとか思われたくない。
顔を伏せると、殿下の声が届く。
「いきなりで悪かった。詫びを伝えようと思っただけだ……俺のことは嫌いか? もし、皇室の頼みを断れないから、仕方なく来てくれたのであればそう言ってくれないか? 母上に相談して、君が困らないようにするから」
あわてて顔をあげた。
彼は、優しい目でわたしを見ている。
「ち……ちがいます」
ち……がうことはなかったというより、父上が喜んでくれるから、女としての評価でないとわかっていてもここに来た……でも、それは最初のことだけで、今はとても幸せだ。家族とは会えていないけど、ここで過ごす日々がとても楽しい。
それになにより、わたしは殿下に魅かれているのだ。
太っていても、少し痩せた今でも、変わりなくわたしという人間と接してくれる彼を、わたしは人として好きだし、男性として意識している。
わたしは、彼に誤解なく伝わるように、丁寧に言葉を選んだ。
「ちがいます、殿下……わたしは自分の意思で参りました。そして、ここで皇室だけでなく、皇国のために働く機会を得ることができて光栄に思っております。それに、両陛下、殿下の奥方様の親切もあって、ここに来てよかったと思いますし……殿下を前に、このような距離で会話ができる今がとても幸せです」
キングスレイ殿下が、少し照れた顔で笑う。
「安心したよ……俺、嫌われているのかなと思っていたから」
「まさか!」
「ほら……君はなんというか、距離をとる人だから」
わたしは、もう言ってしまおうと決めた。
「殿下……わたしは太っています。過去……過去に心が疲れて、それで食べることで癒しを求めたことで太りました……いいのです、事実ですから……しかし、そのことでやはり多くの人たちから、揶揄され、笑われ……汗臭いと言われたことは何度もあります。気にしないと思っていても、それはどうでもいい他人だからですが、殿下には……そう思われたくないので……つい」
彼は瞬きし、次に俯くわたしの顔を覗き込む。
わたしは、首のたるみを見られたら困ると思って、顔をあげた。
キングスレイ殿下が、笑みのまま頷くと、わたしの両手を包むように握ってくれる。
「アメリア、君は太っていても、仮に痩せたとしても、素敵な人だと俺は思う。これは、社交辞令じゃなくて、そう思う……だから、減量を頑張りすぎて身体を壊さないようにしてほしい」
「ありがとうございます……ですが、わたしはもう三十ですし、背も高――」
わたしの発言を遮って、キングスレイ殿下が口を開く。
「それは、アメリアという人を嫌う理由になるのかい?」
「……」
「君らしくもない。君は知性と品を備えた素晴らしい女性だけど、自己評価が低すぎる。いや……これまで君の周りに現れたくだらない人たちのせいかもしれないが、そのような者たちの評価が君の心を縛っているのならば、俺は悲しいよ……だから、あえて言うよ、アメリア……減量、がんばったね? ますます美しくなったよ。容姿も人柄も素晴らしい君を妻にできる俺は幸せ者だと思う。来てくれてありがとう、アメリア」
ポー……。
その後、殿下と楽しく会話をしたのだけど、まったく覚えていない。
彼がお帰りになるので、室の扉を開けると、アーサー、爺、イエッタが揃って一礼した。
あなたたち、そこで聞いていたのね……。
去り際、キングスレイ殿下が、思いだした! という顔で言う。
「先に言っておく。父上と母上、二人と相談してから決定になるけど、俺は君をクローネの次にしたいと思う。それじゃ」
笑顔で去っていった彼を見送るために、わたしは姿が見えなくなるまで、その場に立っていた。
一と二。
一と二!
最下位確定だった、接待担当のわたしが一と二……これは、ある意味では選考に問題があったのではあるまいか……。
だけど、嬉しいという気持ちが、今はあまりわかない。
それは、キングスレイ殿下がクローネ様を一番にしている理由に、彼の弱い部分があるのではないかと勘ぐってしまうからだ……。
殿下は、クローネ様に最悪のことが起きるはずもないと、信じることで逃れたいのだ……彼は彼女を大切に想っているから、願望のように、希望にすがるように、その順位にしているんだろう。
クローネ様がいなくなるという前提で順位をつけることなど、彼はしたくないというよりも、できないのだ。
わたしだって、彼女に最悪なことなどおきるはずもないと信じたい。だけど、わたしはホウコ先生の言葉を覚えているので、信じられないのだ。
時間を伸ばすことはできると、ホウコ先生は言った……。
その意味を、わたしは理解している。
だけど、殿下はそうではない……彼はクローネ様に関することに限っては、奇跡が起きるものと信じているようだ……。
万が一の時、子供を生かす。
クローネ様の決断だ。
その万が一が起きないことを、殿下は信じたいのかもしれない。
……わたしだって、信じたい!
殿下とクローネ様、若様に歌劇を観賞頂きたいんだ!
お金の工面は、少し前から始めている。
そうだ。
どうせなら、新作をご覧になってもらいたい!
わたしは劇場の支配人に長いながい手紙を書いて、イエッタにそれを手渡したところで疲労を覚えた。
疲れた……。
歯磨きをして、いつもよりも早くベッドにもぐりこみ、本を読む余裕もないまま眠っていた。
……。
ん?
なんか痛い。
あれ? 寝返り? うてない。 ……ちょ?
「え?」
痛みで目を醒ますと、両手を縛られ口を塞がれ、数人に抱えられて馬車へドーンと押し込まれたところだった。
「出せ!」
鋭い声。
ちょっと!
これは何ですか!?
目隠しもされた。
男、見覚えもない。
でも、内宮に入ることができるなんて限られる。
わたしはそのまま、どこかに連れ去られたのだった。