ー草原の中の砦ー
地平線からゆっくりと朝陽が昇る。
見渡す限り遮る物が何もないこの場所では、昇りゆく朝陽がそのまま草原全体を照らし出し、全てのものに等しく朝を告げていく。
昔から幾度となく見てきた光景ではあるが、久しく草原から離れていた身には、すべてが懐かしくもあり新しくもあった。
「…今日も旅日和になりそうですね…」
昇りゆく太陽を天幕の小窓から眺めつつ、ひどく穏やかにそう呟いたのは、かつてこの草原の支配者とまで呼ばれた男であった。
彼は寝台から半身を起こしただけの状態で、身につけている物も夜着のままであった。
そして彼の長い亜麻色の髪が、窓から射し込む朝陽に透けて、美しく金色に輝いている。
しばらく無言で朝陽を眺めていた男は、ふいに視線を天幕の中へと戻し、そのままそっと自らの隣へと視線を落とした。
彼の隣にはまだ穏やかな寝息を立てながら、一人の黒髪の少女が眠っている。
男は射し込む朝陽で少女を起こさないよう、さり気なく自らの影で庇いながら、そっとその頭を優しく撫でた。
するとそれが気持ち良かったのか、少女は寝ぼけながらもその手を取り、実に幸せそうな顔でそれに自らの頰を寄せる。
ふいに暖かく柔らかな肌が男の掌に押し付けられ、しかも逃さないようしっかりと両手で握り締められ、男は思わずくすりと笑った。
まさかこんな些細な事で、ここまで自分の心が穏やかになるとは思いもしなかったが、不思議とその事に納得もしている自分も居た。
ずっと何の感情も持たずに生きてきて、それはこの先も永遠に変わらないだろうと思っていたのに、彼女はいとも容易く自分の中に入り込み、そのまま世界を変えてしまった。
自分に生まれて初めて宿った、一つの想い。
執着とも取れるその感情は、それまで無機質で不変的であった自分の世界を打ち破り、鮮やかで激しく美しいものへと変貌させた。
彼女と出逢うまで、自分はこんなにも美しい光景を見ても、何の感慨も抱かなかった。
物事のすべては、ただ目の前を通り過ぎていくだけで、そこにどんな感情や光景が含まれていたとしても、それは一切自分には関係のないものだと思っていた。
そんな彼…緫 璉瀏を変えたのは、今 彼の隣で眠る一人の少女の存在であった。
艶やかな黒髪に滑らかな真珠色の肌、今は眠っているため閉じられているが、誰よりも意志の強さを感じさせる美しい金の瞳。
かつて絶世の美女と讃えられた母親譲り容貌もあるが、それにもまして人々の心を捕らえて離さないのは、彼女の誰よりも純粋で真っ直ぐなその気性であった。
『花胤の陽の姫』と呼ばれ、各国にその名を轟かせてきたこの少女の存在が、それまでの自分のすべてを変えてしまった。
『戦場の鬼神』、『風嘉の白龍』などと呼ばれ、常に周囲から怖れられ一目置かれてきた自分だったが、この少女の前だと何の変哲も無い一人の男になってしまう。
「…まさかこの私が、誰にも渡せなくなるほど捕らわれようとはね…。想定外も良いところですよ」
誰に聞かせるでもなくそう呟くと、璉は自らの手を握り締め続ける少女、鴻夏へと優しい視線を落とす。
するとその呟きが聞こえたのか、それとも璉の視線を感じたのか、ふいに鴻夏の閉じられていた瞼がぴくりと動いた。
そしてほどなくして、すうっと開かれた鴻夏の瞳がそのまま隣の璉の姿を映し出す。
まだ寝ぼけているのか、鴻夏はしばらくの間は何の反応も示さなかったが、ふいに瞳に理性が戻ると、突然ガバッと起き上がった。
「れ…璉っ⁉︎」
「おはようございます、鴻夏」
「お、おはようございます…じゃ…なくてっ!え、あれ?ご、ごめんなさい!わ、私なんで璉の手を握ってんのっ⁉︎」
寝起きで混乱しているのか、真っ赤になって焦りまくる鴻夏がひどく愛しい。
慌てて璉の手を離そうとする鴻夏の手を逆に握り締め、璉はそのまま鴻夏に口付けた。
そして思わず固まる鴻夏に対し、璉は安心させるかのように、鴻夏の髪を優しく撫でる。
すると思ったより何の抵抗もなく、鴻夏はそのまま大人しくされるがままになっていた。
そっと口唇を離すと、鴻夏は照れ臭そうにしながらも、璉の胸に擦り寄ってくる。
そのいつもとまるで違う反応に、そっと抱き締め返しながら、璉はこう呟いていた。
「…珍しいですね。怒らないんですか?」
優しく髪を撫でつつ、冗談めかしてそう言うと、途端に璉の腕の中で鴻夏が膨れる。
「も…もう!私だっていつも怒るわけじゃないわよ!い、一応これでも璉の奥さんだし?その…嫌…じゃないし…」
ボソボソと最後の方は小さい声になっていたが、それでも鴻夏なりに精一杯、璉へと気持ちを伝えようとしているのがよくわかった。
それを受けて、璉がひどく優しく微笑む。
そして璉はそっと鴻夏の顎を捉えると、もう一度優しく彼女に口付けた。
今回も特に何の抵抗もなかったが、ゆっくりと口唇を離しがてら璉が囁いた一言で、途端に鴻夏が反応する。
「…惜しいですねぇ…。今ならこの先に進めそうな気がするんですが、残念ながら時間切れですね」
ニッコリ笑ってそう言うと、腕の中の鴻夏が一瞬で茹でダコのようになる。
「な…っ!は⁉︎え…っ⁉︎」
「この続きは今夜また…」
ひどく艶っぽく鴻夏の耳元でそう囁くと、璉はスッと寝台から立ち上がり、天幕の出入り口に向かって歩きながら、こう声を掛けた。
「…何事です、嘉魄?」
その呼び掛けに対し、すぐ天幕の外から嘉魄の声で応えがある。
「朝早くから申し訳ありません、主」
いつの間に来ていたのか、どうやら天幕の外には嘉魄が控えているようだった。
鴻夏はまったく気配を感じ取れなかったが、璉はすでに気付いていたらしい。
そのまま天幕の外へと出て行った璉の後ろ姿を見送りながら、鴻夏は今更ながらに正気に戻って真っ赤になる。
『あ、危なかった…。嘉魄が来なかったら、あのまま私…』
そう考えたところで、鴻夏ははたと気付く。
「あ、あれ…?さっき璉、『今夜また』とか言ってた…⁉︎え、嘘…どうしよう…⁉︎」
思いっきり動揺しながら、鴻夏は一人 寝台の上でわたわたとする。
何となくあの艶っぽい雰囲気に流され、あっさりとそのまま一線を越えてしまうような気がして、鴻夏は心底焦っていた。
「ど、どうしよう…。わ、私は一体何をどうすればいいの…?」
まったく経験のない鴻夏に対し、相手は百戦錬磨の色事のプロである。
多分、何も知らなくても手取り足取り上手くやってくれる気はするが、何をされるのかもわからないのは、やはり怖い。
「で…でもこんな事、他の誰かに相談も出来ないし…。そもそも男同士でって、一体何をどうするものなのかしら…?」
確か以前に上とか下とか言われたが、正直何の事だか鴻夏にはさっぱりわからなかった。
今更ながらだが、嫁入り前にもう少し閨事の事も学んでおけば良かったと後悔する。
そして鴻夏は密かに思った。
色々な意味で、自分はかなり厄介な夫を持ってしまったと。
でもそう思いつつも、今となっては璉以外の夫など考えられもしないのだから、鴻夏はひどく複雑な思いで顔を伏せた。
こうして南方領への旅の三日目も、朝から波乱含みで始まったのである。
日が完全に昇りきった後、視察団と南方軍の迎えの一行は、砦に向けて旅立った。
相変わらず南方軍の兵士達は璉の周りを取り囲み、誰も近寄れないようにしていたが、今の鴻夏にとってそれは実に有難い事だった。
正直今朝の事を考えると、今でも顔から火が出そうなほど恥ずかしい。
毎回毎回 流れるように自然に迫られ、気が付いたら璉に戴かれる一歩手前になっているので、一体いつまで清い関係で居られるものかと鴻夏は不安に思っている。
しかも今朝、璉に予告めいた事まで言われてしまい、鴻夏は心底困り果てていた。
『もぉ〜、一体どうすればいいのよ〜⁉︎』
誰にも話せないものの、恥ずかしさのあまりに叫び出したい衝動に駆られながら、鴻夏は一人 輿の中でジタバタしていた。
璉の事は多分 恋愛的な意味で好きだと思う。
だから手を出される事自体は、嫌だとは思わないのだが、何というかこの埋めきれない経験値の差をどうしたらいいのかわからない。
しかも皇女として育てられたとは言え、自分も身体は男なわけで、そもそも同じ男性の璉と何をどうしたらいいのかもわからない。
『や、やっぱり私が、その…女役やるんだろうけど、い、痛いのかな…?女性でも初めては相当痛いみたいな事聞いたし…』
チラッとそう考え、鴻夏は自分で自分の身体を抱き締めながら身震いをする。
やっぱりある程度は覚悟していたとは言え、怖いものは怖い。
璉が自分に酷い事をするはずもないが、それでもどう考えても痛そうな気しかしない。
『いっそ経験ある璉に聞きたいかも…。あ、でも経験あるからこそ、痛くならない方法も知ってるのかな…?』
自分でも訳が分からなくなってきていたところで、ふいに横の暁鴉から声が掛かる。
「鴻夏様?何か今日はエラく大人しいけど、どうしたんだい?また何か色々と悩んでんのかい?」
「…あ、いえ、その…今日には南方領の砦に着くんだなぁと思ってただけで…。ほらそこに着いたら、璉の信奉者がさらに沢山いる訳でしょ?」
「あぁ、まぁね。ああいうのがもっと沢山居ると思うと、ちょっと憂鬱だよね…」
珍しくもっともらしい言い訳が出来た事で、暁鴉はすぐに納得したようだった。
確かに昨夜まではその事で悩んでいたが、今は別の事で頭が一杯だとはとても言えない。
それにそれは何だと突っ込まれても困るので、鴻夏はそのままそっと話題を変えた。
「ねぇ、暁鴉。昨日 璉と夜刃将軍との話でも出てたけど、南方領では未だに月鷲の襲撃が続いているの?」
「襲撃ってほどの規模でもないけど、多少の小競り合いはまだ続いてるみたいだね。主に友好的な鴎悧帝が皇帝に立ってから、随分マシにはなってるけど、元々が好戦的な民族だからね。隙あらば…ってやつさ」
そう暁鴉言うと、鴻夏は少し眉を顰める。
「じゃあ、南方領の人々は未だに不安な日々を過ごしているのね…」
「まぁ、でも慣れてるからね。昔に比べたら平和なもんだし。だから砦には兵士の家族も暮らしてるけど、女子供に至るまで慣れたもんで、ちゃんとヤバい時は砦から出ないよ」
「えっ!女性や子供も居るの⁉︎」
思わず鴻夏は驚いて声を上げた。
まさか月鷲との最前線とも言える場所に、女子供が居るとは思わなかったのだ。
だがそれが当たり前のように、暁鴉は言う。
「そりゃ居るよ。むしろ砦の中に居てくれた方が安全さ。草原だと男達が留守の時に攻めて来られたら、身を守る術もないからね」
「で、でも危険なんじゃ…」
そう鴻夏が言うと、溜め息をつきつつ暁鴉がこう答える。
「鴻夏様…ここは南方領なんだよ?危険じゃない場所なんてないのさ。だから女達が砦で暮らすのも、それなりに考えての事さ。誰でも自分の子供達が生き残る確率が高い場所を選ぶだろう?それだけの事さ」
さらりとそう言われ、鴻夏はそれ以上、何も言えなかった。
自分が思っている以上に、ここは厳しい土地なのだと、さすがの鴻夏でも実感する。
おそらく長年に渡って戦い続け、もはや何の希望も持てなくなっていた頃に、璉がやってきたのだろう。
そしてもう死ぬしかないというドン底の状態から、あの月鷲を相手に連戦連勝を重ね、故郷を取り戻しついには停戦にまで持ち込んだ璉は、まさに生ける伝説だったに違いない。
“闇夜に浮かぶその白き姿に 敵は慄き
味方の士気は鼓舞される
その闘う姿は まさに天に昇る龍の如く
その場に居並ぶ者達を 否が応にも
平伏させる”
そう叙事詩で謳われたように、この地に真の平和をもたらしてくれた璉は、彼等にとっては神にも等しい存在で、だからこそ彼等は誰よりも璉の事を慕い崇めるのだと思った。
『そう考えたら、彼等の璉に対する過剰な態度も当たり前の事なのかもね…。あと突然やって来た、政略結婚の花嫁が気に入らないのも当然なのかも…』
何となく妙に納得出来てしまった鴻夏は、砦に居る間くらいは、彼等に璉を譲った方がいいような気がしてきた。
もちろん昨夜のように寂しく感じるのは間違いないが、いつでも璉と会える自分と違い、彼等は今しか璉と居られないのだ。
しかも次に会えるのは一年後だなんて、多分自分だったら耐えられない…。
もはや璉に出逢う前、自分がどうやって日々を過ごしていたのかもわからないほど、璉の存在は鴻夏の中で大きなものとなっていた。
まるで最初からそうであったかのように、璉の傍は居心地が良くて安心出来るのだ。
『ま、まぁ…思ったより手が早かったのは、ちょっと…その、何だけど…。でも別にそれも嫌…ではないし、大事にしてもらってるし…』
そう考えると政略結婚ではあったが、自分にはかなり過ぎた相手と結婚出来たと思う。
璉が自分のどこに惹かれたのかはわからないが、鴻夏にとっては理想を遥かに越えた相手と言っても過言ではなかった。
ふと前を見ると、屈強な男達の間から白馬を優雅に操る璉の姿が見えた。
たったそれだけの事で、鴻夏の心臓は無意味に大きく跳ね上がる。
初めて会った時は、人混みに紛れたらすぐに見失いそうなほど印象が薄い人だと思った。
各国の要人達のような威圧的な雰囲気はまるでなく、むしろ野に咲く名もない花のように、ひっそりとした印象だった。
でもそれはそう見せかけていただけで、実際の璉は誰よりも輝かしい存在であった。
今となっては、どうやって正体を隠していたのかと思うほど、圧倒的な存在感である。
そしてその時ふと鴻夏は気付いてしまった。
長年この南方領を治め、老若男女を問わずモテる璉に、恋人が居なかったはずはないと。
しかもこれから行く南方領の砦には、女子供もかなり居るという。
もしかしたらその中に、璉の昔の恋人も居るかもしれないと思った途端、鴻夏は言い様のない不安と怒りに駆られた。
もちろん実際に居たとしても、それは自分と出逢う前の話なのだから、正直仕方のない事なのはわかっている。わかってはいるが、それでも面白くないものは面白くない。
「こ…鴻夏様?どうしたんだい、急に…?」
ふいに鴻夏から抑えようのない怒りの気配を感じ、暁鴉が恐る恐る問いかける。
するとゆらりと不気味な気配を発しながら、鴻夏が低い声でこう問いかけてきた。
「…ねぇ、暁鴉。砦には女性も沢山いらっしゃるのよね?中には、璉と良い仲だった方もいらっしゃるのかしら…?」
「あー…うん、まぁ主も男だし、それなりに居た事は居た…かな…」
普段にはない妙な迫力に負けて、思わずぽろりと暁鴉が正直に話してしまう。
すると更にゆらりと鴻夏の迫力が増した。
「そう…やっぱりいらしたの。なるほどね…」
「あ、あー…、でも鴻夏様?言っとくけど、付き合ってたとかじゃなくて、その場限りと言うか、ほら男性特有の生理現象でのお相手と言うか…」
「別にいいのよ?私と出逢う前のお話だし、あれだけモテる璉が、今まで一人だったはずはないですものね…」
ニッコリと微笑みながらも、かつてないほど迫力に満ちた鴻夏に、暁鴉は気圧される。
どう頑張っても、過去の事は今更どうしようもないのだが、それでも実際に居たと言われると腹が立ってしょうがない。
『わかってるわよ。璉は私よりずっと大人で、仕事とあれば男女問わず誰のお相手でもしてたって事も聞いてる。でも実際にそういう関係にあった人達と会うのは…嫌だ』
ドロドロとした何とも言えないドス黒い気持ちが、急激に鴻夏を支配していく。
自分で自分が嫌になりながら、鴻夏はそれっきり黙り込み、キツく目を閉じた。
…そして鴻夏は知らなかった。
生まれて初めて感じるその感情の正体を。
それが『嫉妬』という感情だと鴻夏が知るのは、もっと後の事であった。
幾度かの休憩を交えながら、余裕のある速度で砦へと向かっていた一行は、順調に旅程を終え、陽が傾き始める前に砦へと到着した。
噂には聞いていたものの、こうして実際に砦と国境の外壁とを目にした鴻夏は、その予想以上の壮大さに圧倒される。
特に草原を縦断するように連なる石の外壁は、まるでそこだけが異質なもののように感じられ、その存在を否応なく主張していた。
「す…ごいのね…。これが璉が作ったという、月鷲との国境…」
茫然としながらそう呟くと、隣の暁鴉がこう付け加える。
「ああ、これが鴻夏様の旦那の偉業の一つ。国境の外壁さ。これが出来るまでは、月鷲の奴等に好き放題に侵入されてたんだが、これが出来てからは大規模な侵入は一度もない。これもうちの主が、先を見越してこの外壁を作ってくれたお陰だよ。大したもんだろ?」
「え、ええ…。本当にすごいわ」
改めて璉の偉大さに感動しつつ、鴻夏は空に聳え立つ頑強な石壁を見つめる。
高さが数十メートルにも及ぶ外壁は、ただそこにあるだけで月鷲の騎馬隊の侵入を防ぎ、盗賊等の行き来を制限する。
まさに攻守どちらの役割も担っているのだという事は、戦略に疎い鴻夏にも理解出来た。
そしてそうなるのが分かっていながら、この厳しい条件を呑まざるを得なかったという事は、それだけ璉の存在が月鷲側にとって脅威であったという事に他ならない。
知れば知るほど凄い人なのだと思うが、普段の璉はただひたすら穏やかで、とてもそんな偉業を達成するような人物には見えない。
だが時折垣間見せる、あの冷たくも美しい獣のような璉ならば、こういう事もするのだろうという事は容易に想像出来た。
そして鴻夏はポツリとこう呟く。
「ねぇ、暁鴉…。こんな偉大な夫に、私はどうやって追いつけばいいのかしら…?璉の事を知れば知るほど、その隣に立つのが自分で良かったのか不安になるの。こんな役立たずの正妃で、本当にいいのかしら…?」
不安そうにそう呟く鴻夏に、暁鴉はさらりと答える。
「…鴻夏様は役立たずじゃないよ。前にも言ったけど、あんたはあんたにしか出来ない事をちゃんとやってる。少なくとも主の側近連中は、あたしも含めてあんたが主の奥さんで良かったって思ってるよ」
「暁鴉…」
「…そもそも主が優秀過ぎるんだよ。あれだけ嫌味なくらい、何でもこなせるのはそうは居ないよ。あと旦那が偉大だからって、別にその奥さんまで偉大である必要はないだろ?むしろ夫婦としてバランス取るには、鴻夏様はもっと抜けててもいいくらいさ」
ガシガシと頭を掻きながらそう言われ、鴻夏は思わず吹き出してしまう。
でも暁鴉のお陰で、重圧で挫けそうになっていた気分が、楽になったような気がした。
「…ありがとう、暁鴉。私も風嘉の皆が大好きよ。ここに嫁げて良かったわ」
晴れ晴れとした笑顔で暁鴉にそう告げると、鴻夏は再度 外壁を見上げる。
この外壁のように、容易に超えられない問題は、これからも沢山出て来るのだろう。
でも自分一人では無理でも、皆の助けさえあれば、それも容易に超えられる気がした。
そうこうしているうちに陽が傾き始め、鴻夏は侍女等に呼ばれその場を後にする。
そして皇都を旅立って三日目、ついに鴻夏は南方領の砦に入ったのだった。
パチパチという松明の爆ぜる音を聞きながら、薄暗い石畳の廊下を通り抜けると、ふいに広々とした大きな広間に到達した。
そこには老若男女を問わず、たくさんの人々が集まっていて、鴻夏を含めた視察団の一行を大歓声と共に迎え入れてくれる。
そして鴻夏は、その予想外の人の多さに圧倒され、しばし呆然としてしまった。
ここは南方領の砦の中。
外観はどちらかというとこじんまりとした、石造りの素朴な建物であったが、その中には予想外にたくさんの人々が集っていた。
まるでここが一つの街であるかのように、老人から子供に至るまで、実に様々な年齢の人々が居て、さらにその間を縫うように犬や猫、鶏や山羊などの動物も駆け回っている。
まるでびっくり箱のように突然現れたたくさんの人々に、鴻夏が唖然としていると、隣に立つ璉がくすくすと笑いながらこう言った。
「驚きましたか?思ったよりたくさんの人が居るでしょう?」
「え、ええ…。外観から想像してたより、ずっとたくさんの人が居るのね…」
素直にそう感想を述べると、穏やかな口調で璉が答える。
「…この辺りは、まだ月鷲からの侵入が絶えなくて、何かと物騒なんですよ。だから人々は安全のため、砦で暮らしているんです」
「つまりこの辺りに街や村はないって事?」
「そうなりますね。もっと国境から離れた場所にはありますが、この辺りの人々は放牧や畑仕事の時のみ外へ出て、寝起きはすべてこの砦でしているんです」
なるほど…だからこんなに人が居るのかと、鴻夏は妙に納得したが、それでもどこを見ても人、人、人で、まるでちょっとしたお祭りにでも来たような状態である。
こんなただでさえ人だらけなのに、自分達の泊まれる部屋はあるのかと思ったが、その考えを読んだかのように璉がこう言った。
「これだけ人が居るので、当然 部屋数は足りません。だから大半の人々は、砦の中庭などに天幕を張って暮らしています。でも私達は客なので、ちゃんと部屋が用意されていると思いますよ」
「そ、そうなのね…」
それでもすごい状態だわと思いつつ、鴻夏は改めて周りを見回す。
満面の笑みを浮かべた人々が、口々に隣に立つ璉に向かって『白龍』と叫んでいた。
後宮での人気振りも凄いが、ここではさらにその上を行く熱狂振りが伺える。
それを確認し、チラリと隣に立つ璉に視線を送ると、璉はにこやかに彼等に向かって手を振り返していた。
その姿がいつもより多少 砕けているように感じられて、そこはやはり古くからの付き合いがそうさせているのだろうと鴻夏は思う。
『覚悟はしていたけど、本当に凄い人気振りね…。やっぱりこの砦に居る間は、璉の隣には居られないかも…』
仕方ないと諦め気味にそう思った途端、グイッと鴻夏は隣の璉に肩を引かれる。
「え、ええっ⁉︎な、何…?」
驚いて隣に立つ璉にそう尋ねると、璉はさも当然のようにこう言った。
「ダメですよ、鴻夏。私の隣に居るんだったでしょう?」
「え…でもあの…南方領の皆さんが、璉を待ってるわけで、私が居たら邪魔なじゃ…?」
思わずそう言うと、璉がスッと鴻夏に近付きその耳元でこっそりこう囁く。
「…関係ありません。私にとって、鴻夏以上に優先すべき事項はありませんからね。あと私が貴女を離したくないんです」
ニッコリと艶っぽく微笑まれ、鴻夏が一瞬で茹でダコのように赤くなる。
相変わらず天然タラシのこの夫は、とんでもない時にとんでもない事を言ってくれる。
恥ずかしくて倒れそうになりながら、鴻夏が困っていると、突然誰かがクイクイッと鴻夏のドレスの裾を引いた。
驚いてそちらに目を向けると、頰を真っ赤にした可愛らしい五〜六歳くらいの女の子が、小さな花束を手に鴻夏の足元に立っている。
目が合うと、その少女は手にした花束を鴻夏に差し出しつつ、満面の笑顔でこう言った。
「これあげる、お姫様」
「あ、ありがとう。えっとお名前は?」
「宝砂!」
「そう、宝砂と言うの。ありがとう、とても綺麗な花束ね、宝砂」
鴻夏が少女と視線を合わせるため、笑顔でその場に屈み込むと、宝砂の方も実に嬉しそうにニコッと笑う。
そして宝砂はとても無邪気な様子で、隣に立つ璉に向かってこう問いかけた。
「ねぇ、『白龍』。このお姫様が『白龍』のお嫁さん?」
「そうですよ、宝砂。この姫の名は鴻夏と言います。綺麗で優しいでしょう?」
「うん、すっごく綺麗!今まで見た人の中で一番綺麗!宝砂、鴻夏様が大好き!『白龍』とお似合いだね」
「…それはどうも、宝砂。私もね、鴻夏の事が大好きなんですよ」
悪戯っぽくそう答えた璉は、いつの間にか宝砂に合わせてその場に片膝をついていた。
何となくほのぼのした雰囲気の中、宝砂の母とおぼしき女性が慌てて駆け寄ってくる。
「まぁ、宝砂!す…すみません、『白龍』、お妃様。うちの子がとんだご無礼を…!」
「いえ、宝砂は鴻夏に花束を渡してくれただけです。何も悪い事はしていませんよ」
ニッコリ笑って璉はそう答えたが、宝砂の母は皇帝夫妻に膝をつかせてしまった事に恐縮し、ひたすら謝り続けている。
このままでは、この小さな少女が叱られてしまうと思った鴻夏は、恐る恐る母親に向かってこう声をかけた。
「あの…どうぞ、面を上げてください。宝砂は本当に何も悪い事はしていません」
「で…でも、『白龍』とお妃様に膝をつかせてしまうなど…恐れ多い…」
そう言って母親は石畳の上で土下座をしていたが、鴻夏はその手をスッと取ると、その場に居る者すべてに聞こえるようこう言った。
「いいえ…私が彼女に、ちゃんとお礼を言いたかっただけなんです。とても優しい素敵なお嬢さんですね」
そう言ってニコッと鴻夏が微笑むと、鴻夏に手を取られた母親は、相手のあまりの美しさに呆然として固まってしまう。
そしてそれを見た宝砂が、実に子供らしく素直にこう叫んだ。
「あ〜、お母さんだけズルい〜!お花あげたのは宝砂なのに、なんでお母さんだけ鴻夏様に手を握ってもらってんの?」
「こ、これ、宝砂!」
真っ赤になって母親がそう言うと、その場にドッと笑いが溢れる。
それを見てもう大丈夫だろうと思い、鴻夏はそっと母親の手を離すと、今度は不平を漏らす宝砂に向き直りこう言った。
「じゃあ綺麗なお花をくれた宝砂には、特別にギュッてしてあげる!おいで」
ニコッと鴻夏が両手を広げて呼ぶと、パアッと輝くような笑顔で宝砂が飛びついて来る。
それを優しく受け止めると、鴻夏は少女を抱き締めながら、優しくその頭を撫でた。
その姿を見ながら、広間のあちこちで鴻夏に対する感嘆の声が上がる。
「おぉ…何とお優しい…。さすが『白龍』の選んだお妃様だ」
「綺麗でお優しくて、まるで女神様みたいだねぇ…。あんな綺麗な方、初めて見たよ」
ワイワイとそう語り合いながら、砦の住人達がひたすら鴻夏に感心する。
そしてあっという間に住人達の心を掴んだ鴻夏に、璉も穏やかな眼差しを向けた。
そんな中、人混みのあちこちからいくつかの厳しい視線が鴻夏を射抜く。
それは先程、鴻夏も初めて抱いた『嫉妬』と言う名のドス黒い感情だった。
賑やかな音楽が、草原の砦に流れていた。
様々な世代の人々が、全員実に楽しげに歌い騒ぎ踊っている。今この砦の住人達は、久し振りの『白龍』の帰還に喜びに沸いていた。
その大騒ぎの中、鴻夏は周囲の熱気に圧倒されつつも、璉の隣で困り果てている。
それというのも、今日に限って璉がまったく鴻夏の事を解放してくれず、それを不満に思う砦の住人達から、殺されんばかりの嫉妬の眼差しを受けていたからだ。
お陰で先程から鴻夏は、ひどく居心地の悪い思いをしながら、璉の隣に座り続けている。
そしてついにそれに耐え切れなくなった鴻夏は、周囲に聞かれないよう注意しつつ、そっと小声で璉に何度目かのお願いをした。
「れ…璉。その…そろそろ離してもらえないかしら?私ずっと睨まれてるんだけど…」
「…ダメです。鴻夏は私の妃なんですから、私の隣に居るのが普通でしょう」
さらりとそう言われ、確かにそうなんだけど…とは鴻夏も思う。
璉の言う通り、正式な場での正妃の席は皇帝の左隣と決まっており、妃は皇帝の許しなくして勝手に席を立つ事は許されない。
だからこの場合、鴻夏が席を離れるには璉の許可が必須なのだが、その璉が何度お願いしてもまったく許可をくれないのだ。
何で今日に限ってこうなのか、さっぱりその理由がわからない鴻夏は、それでもしつこく璉に喰い下がってみる。
「で…でも、ほら砦の皆さんが璉と会うのは一年振りなわけだし、私が璉の傍に居たら、近寄り難くて困ってるみたいじゃない…?」
やんわりとそう言ってお願いしてみたが、言われた璉の方は取り付く島もない。
冷たいくらいにあっさりと、こう言ってその願いを却下した。
「別に…気にしなければいいだけでしょう。私の方は特に気にしません」
「れ、璉…っ、私が気になるんだってばっ!さっきから私、璉の信奉者達に殺されそうな勢いで睨まれてるだけど…?」
「そうですか。まぁ仕方ないですね」
「そうですかじゃなくてっ!」
一体今日に限ってどうした?と思いつつ叫んだ瞬間、急にふわりと鴻夏の身体が浮いた。
そして自分の身に何が起こったのか理解する前に、ストンと鴻夏はとんでもない場所に降ろされる。
「…周囲の視線が気になるなら、こうすればいいでしょう?これで解決ですね」
ニッコリ笑いながら意地悪くそう言った璉に、鴻夏は驚きのあまりぽかんとする。
何と鴻夏は選りに選って、璉の左隣から璉の膝の上へと移動させられていた。
そしてそれにやっと気付いた鴻夏が、真っ赤になってこう叫ぶ。
「ちょ…っ、ちょっと璉っ⁉︎な、何考えてんのっ!さっきより悪くなってるじゃない⁉︎」
そう叫ぶと同時に、周囲からも野次が飛ぶ。
「お〜、さすが新婚だねぇ!月鷲から怖れられた『白龍』も、奥さんには形無しかぁ!」
「あっつい、あっつい!何だよ、『白龍』。視察じゃなくて、奥さん見せびらかしに来たんじゃね〜のぉ?」
そう言われて、チラリとそちらに視線を向けた璉は、ニッコリ笑ってこう答える。
「そうですよ。鴻夏は私の自慢の妃なので、片時も離したくないんです」
その発言におお〜っ⁉︎と周囲は異常に盛り上がったが、鴻夏は恥ずかしいやら怖ろしいやらで生きた心地がしなかった。
それなのに璉は、鴻夏を腕の中に閉じ込めたまま、まったく解放してくれない。
唯一の救いは、璉の膝に乗せられてしまった事で、璉以外の相手をまったく見る必要もなくなった事だろうか?
だがそれも緊張のあまり心臓がバクバクして、まったくもって落ち着かなかった。
だから鴻夏は気付かなかった。
一見 妃を熱愛する夫を演じながら、璉が嘉魄と暁鴉に密かに指示を送っていた事を。
誰にも悟られないよう、目線だけで行われた指示に二人はスッと頷くと、誰にも気付かれないようその場から消える。
そして宴は誰にも悟られる事なく、最高潮に盛り上がったのだった。
続く