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風嘉の白龍 〜花鳥風月奇譚・2〜  作者: 緋影 あきら
7/12

ー始まりの場所ー

盗賊(とうぞく)襲撃事件(しゅうげきじけん)からほどなく、岩と砂ばかりが続いていた砂漠地帯を抜け、視察団(しさつだん)一行は当初の目的の草原地帯へと辿(たど)り着いた。

辺り一面どこまでも続く緑の絨毯(じゅうたん)に、鴻夏(コウカ)が呆然としていると、横から自分の影である暁鴉(ギョウア)が、親しげに声をかけてくる。

「いよいよ南方領の本拠地である、草原地帯に入ったよ。初めて見る南方領はどうだい、鴻夏(コウカ)様?」

「…す…ごいのね。(はる)彼方(かなた)まで、ずっと草原が続いているわ…」

そう答えると、暁鴉(ギョウア)が楽しげにこう答える。

「はは、そりゃそうさ。この草原は風嘉(フウカ)だけじゃなく、隣の月鷲(ゲッシュウ)にまで続いてるからね。そして此処(ここ)こそが我らが(あるじ)の始まりの場所。『風嘉(フウカ)白龍(はくりゅう)』の本拠地さ」

「ここが(レン)の…本拠地…」

どこか夢見心地(ゆめみごこち)でそう答えながら、鴻夏(コウカ)は何故か目の前の光景から目が離せない。

ほぼ起伏(きふく)のない地形が延々と続く中、それを(いろど)るかのように、足首まで届くほどの丈の草が、ただひたすら大地を(おお)い尽くしている。

陽が傾いてきた事もあり、どこからか(かす)かな虫の声が聞こえ、(わず)かではあるが生き物の存在を感じさせていた。

それでも一番強く思うのは、この自然の雄大さとそれに比べた人という存在の(はかな)さ。

この大地の上では誰もが平等で、運命の示すままに生きるべきだという気がしてくる。

まさしくすべてが『神の(おぼ)し召し』で、それに(あらが)う事など無駄(むだ)だとさえ感じていた。


『ここが(レン)の…始まりの場所…』

ボンヤリと胸の奥から、何とも言えない複雑な想いが込み上げてくる。

まだ十四歳の無名(むめい)な少年であった(レン)が、先帝の(めい)を受け、派遣(はけん)されたという場所。

当時は国一番の激戦区(げきせんく)であったという。

そんな所に一人派遣された(レン)は、初めてこの光景を見た時に、一体何を思ったのか…。

そう感慨(かんがい)(ふか)く思いながら、ふと視線を元へと戻した鴻夏(コウカ)は、(はる)か前方で馬を進める(レン)を見つけてドキリとする。

少し赤みを増してきた陽の光に照らされ、優雅(ゆうが)に白馬を(あやつ)る姿は、まるで一枚の絵画のように幻想的で、見る者の心を()きつけた。

そして(レン)の長い亜麻色(あまいろ)の髪が、夕陽に()けてまるで金色の稲穂(いなほ)のように(なび)いている。

『…綺麗(きれい)…。あの夜と同じ…』

確か風嘉(フウカ)に来るまでのお忍び旅の途中で、鴻夏(コウカ)()()(あか)りに()ける(レン)の髪に、ひどく見惚(みほ)れた事があった。

今思えばあの時から、自分は(レン)の事を意識し始めていたのかもしれない。

そう思った時、ふいに鴻夏(コウカ)の視線に気付いたのか、(レン)鴻夏(コウカ)の方へと振り返る。

そして驚き(あせ)鴻夏(コウカ)を見とめると、(レン)はふわりと優しげに微笑んだ。

それを見た瞬間、急に鴻夏(コウカ)は自分の記憶に、明らかな違和感(いわかん)を覚える。

『…あ…れ?私、前にもこんな光景を見た事が、あったような…?』

ぼんやりとした記憶であったが、確かもっとずっと小さかった頃に、どこかでこのような光景を見たような気がした。

そして朧気(おぼろげ)な記憶の中から、脳裏(のうり)に優しげな声が(よみがえ)ってくる。


『…貴女がそう望むのなら、いつかどこかで()えますよ…』

夕陽に長い髪を(なび)かせながら、穏やかにそう語ったあの人は、一体誰だったのか…?

顔は思い出せないが、優しく自分の頭を撫でてくれた、白い手の感触は覚えている。

そしてあの人の髪も、今の(レン)のように夕陽に()けて、美しく金色に輝いていた。

という事はあの人の髪の色も、(レン)と同じ亜麻色(あまいろ)だったという事だろうか…。

結婚するまで一度も城から出た事がなかったのだから、自分とその人が出逢(であ)った場所は、間違いなく花胤(カイン)皇城(おうじょう)内という事になる。

だが鴻夏(コウカ)の記憶する限り、亜麻色(あまいろ)の髪の女官・侍女(じじょ)は存在せず、父皇帝の側室の中にも、亜麻色(あまいろ)の髪の妃は一人も居なかった。

そうなると、たまたま皇城(おうじょう)に来ていた来客者の一人だったのだろうか…?

詳細はまったく思い出せなかったが、何故か鴻夏(コウカ)はチクンと胸が痛むのを感じた。

どうして今の今まで忘れていたのか、そして何故今になって思い出したのか…。

そこに何か意味があるような気がして、鴻夏(コウカ)は思い出そうと必死に記憶を辿(たど)ったが、それ以上は何も思い出せなかった。



鴻夏(コウカ)様…?疲れたのかい?」

ふいに隣から、暁鴉(ギョウア)の声が聞こえた。

その声にハッと我に返ると、暁鴉(ギョウア)が少し心配そうに鴻夏(コウカ)の様子を(うかが)っている。

それに気付いた鴻夏(コウカ)は、慌てて暁鴉(ギョウア)に向かってにこやかに返答した。

「…あ、ごめんなさい、暁鴉(ギョウア)。ちょっと思い出したい事があって、つい考え事に夢中になってしまったわ」

「本当に…?具合が悪いとかじゃなくて?」

「ええ、本当に元気よ。ごめんなさい、心配させちゃって…」

重ねてそう言うと、やっと暁鴉(ギョウア)も安心する。

そして暁鴉(ギョウア)は、鴻夏(コウカ)がそこまで気を取られていた内容について、率直(そっちょく)にこう(たず)ねた。

「…何を思い出そうとしてたんだい?」

「うーんとね…。さっき夕陽に照らされている(レン)の姿を見てたら、小さい頃にこれと同じような光景を見た気がしたの。うまく思い出せないのだけれど、長い亜麻色(あまいろ)の髪の人だったような気がするわ。あれは…誰だったのかしら…?」

再び考え込む鴻夏(コウカ)に、暁鴉(ギョウア)が重ねて問う。

亜麻色(あまいろ)の髪…ねぇ?風嘉(フウカ)じゃ珍しくもない色だけど、花胤(カイン)の後宮にも居るのかい?」

「ううん、そういった髪色の女官や侍女(じじょ)は居なかったはずなのよ。あとお父様の妃の中にも、そういった方は居なかったはず。だからお客様とかじゃないかと思うのだけれど…」


自分でそう語りながらも、実は鴻夏(コウカ)自身もその見解(けんかい)に納得出来ていなかった。

そして同じように、鴻夏(コウカ)の話を聞いた暁鴉(ギョウア)も、首を(ひね)りながら疑問を投げかける。

「…でも普通の客は、鴻夏(コウカ)様が居た花胤(カイン)の後宮にまでは、入って来れないだろ?それに夕陽と共に見たって事は、歓迎の宴って訳でもなさそうだし…一体どこで会ったんだい?」

「そう、それなのよね。その場所がどうしても思い出せなくて…。あれは、どこだったのかしら…?」

そう鴻夏(コウカ)(つぶや)いたところで、ふいに列の前方がワッと盛り上がる。

思わずそちらの方に目をやると、夕陽を背に十騎ほどの騎馬の集団が、(すご)い勢いでこちらに向かって近づいて来ていた。

それを見て、また賊の襲来(しゅうらい)なのかと鴻夏(コウカ)は身を固くしたが、そんな鴻夏(コウカ)を安心させるかのように暁鴉(ギョウア)が力強く説明する。

「大丈夫、鴻夏(コウカ)様。あれは味方だよ。南方領の砦からの出迎えだ」

そう聞いてホッとした鴻夏(コウカ)は、すぐに緊張(きんちょう)()いたが、続けて思わずこう呟く。

「まぁ…!わざわざ外まで出迎えに…?」

「多分、待ちきれなかったんじゃないかな?ここでの(あるじ)の人気は、絶対だからね」


そう暁鴉(ギョウア)が言い終わるが早いか、騎馬(きば)の集団が視察団の最前列と合流する。

そして彼等は荒っぽく馬を止めると、一斉に馬から飛び降り、そのまま最前列で待ち構えていた(レン)の足元へと(ひざまず)いた。

それを受けて穏やかに微笑みながら、(レン)が南方軍の兵士達に(ねぎら)いの言葉をかける。

「久しぶりですね、夜刃(ヤト)将軍。わざわざの出迎えご苦労様です」

そう(レン)が声をかけたのは、(ほお)に大きな傷のある、筋骨たくましい強面(こわもて)の男だった。

浅黒く焼けた肌に無数(むすう)に走る古い傷痕(きずあと)が、何も言わずとも男の武勇伝(ぶゆうでん)を物語っている。

ところがそんな誰もが一目で強者(つわもの)とわかるほどの男が、その大きな身体に似合わずひどく恐縮した様子で、(レン)に向かってこう答えた。

「いえ、本来ならばもっと早くに出迎えに行くべき所…、遅くなり申し訳ありません」

「いいんですよ。相変わらず月鷲(ゲッシュウ)との小競(こぜ)り合いは続いているみたいですし、その影響で盗賊(とうぞく)も増えているみたいですね…?」

淡々と(レン)がそう答えると、夜刃(ヤト)と呼ばれたその男は、その大き過ぎる身体を目一杯縮こませながら、(レン)に向かって恐縮(きょうしゅく)する。

「…さすが我等(われら)が『白龍(はくりゅう)』、すでにご存知でしたか…。この夜刃(ヤト)の目が行き届いておらず、お恥ずかしい限りです」

夜刃(ヤト)のせいではありませんよ。月鷲(ゲッシュウ)の件は明らかに鴎悧(オウリ)帝の監督(かんとく)不行(ふゆ)(とど)きですし、盗賊(とうぞく)の件にしても、その余波(よは)と言っても過言(かごん)でないでしょう。砦に着いたら私の方からも、鴎悧(オウリ)帝には遺憾(いかん)()を伝えておきます」


そこで一旦言葉が区切(くぎ)った(レン)は、ふと思い出したかのようにこう(つぶや)く。

「ああ…そう言えば、先ほど(おそ)ってきた盗賊の一団を捕らえたんでした。ここは南方領の管轄下(かんかつか)ですので、引き渡しても?」

何気ない言葉だったが、途端に目の前の男達の雰囲気がガラリと変わる。

「…盗賊ですと?『白龍(はくりゅう)』を襲った…?」

ゆらりと怒りの炎を(たぎ)らせながら、夜刃(ヤト)将軍以下、すべての南方軍の兵士達から抑えきれない怒りの気配が(にじ)み出す。

それを感じて視察団の面々は完全に気圧され気味だったが、当の本人だけはまるで気にした風もなく、さらりとこう答えた。

「まぁ襲ってきたとは言え、こちらが何の一団かもわかってなかったみたいですけどね。ああ、安心して下さいね?こちらも怪我人は出ましたが、全員無事です。彼等も私が出たら、すぐ大人しく投降(とうこう)して下さいましたよ」

ニッコリ笑って(レン)がそう答えると、更に男達の気配が物騒(ぶっそう)なものになる。

そしてそれは少し離れた場所に居た鴻夏(コウカ)にもわかるほどで、かなり殺気(さっき)立っている南方軍の兵士達を見ながら、鴻夏(コウカ)は先ほど自分達を襲ってきた盗賊達に心底同情した。

この様子では引き渡された途端、有無(うむ)を言わさず極刑(きょっけい)が待っているのは間違いない。


『…うわぁ。これで私が(レン)の奥さんって言ったら、何か殺されそう…』

蒼くなりながらも、冗談交じりににそう思ったところで、くるりと(レン)がこちらを向いた。

そして鴻夏(コウカ)が嫌な予感に(とら)われた瞬間、いきなり(レン)がにこやかに鴻夏(コウカ)を呼ぶ。

鴻夏(コウカ)、こちらへ」

あまりの事に(こお)りついた鴻夏(コウカ)に対し、一斉にザッと南方軍の兵士達がこちらを向く。

その気配を感じ、思わず鴻夏(コウカ)は頭を抱えて、この場から逃げ出したくなった。

『ちょっとぉぉ〜っ、(レン)⁉︎今は絶対呼んだらダメな時でしょー⁉︎』

心の中でそう叫ぶが、(レン)の方は気付かないのか、そのまま鴻夏(コウカ)が来るのを待っている。

それを見て『終わった…』と一人思いながら、鴻夏(コウカ)は仕方なく暁鴉(ギョウア)に手伝ってもらい、輿(こし)から地上へと降り立った。

途端にザワッと周囲がどよめき立つ。

(くせ)もなく流れる(つや)やかな黒髪に真珠色の肌、夕陽を(うつ)して琥珀(こはく)のように(きら)めく金の瞳。

細い身体の線を活かした風嘉(フウカ)風の衣装は、白を基調としながらも細かく金糸で刺繍(ししゅう)(ほどこ)された物で、上品でありながらも充分な(はな)やかさを兼ね備えている。

そして赤く染まった夕陽に照らされ、白いベールを風に(なび)かせながら、草原に降り立った鴻夏(コウカ)は、母親譲りの端正(たんせい)容貌(ようぼう)(あい)まって、人間とは思えないほど神秘的で美しかった。


思わず南方軍の兵士達も含め、その場に居た全員が鴻夏(コウカ)の美しさに見惚(みほ)れたが、鴻夏(コウカ)自身はかなり動揺していたため、その事にはまったく気づいていない。

そして否応なく周囲の注目が集まる中、内心ひどく緊張しながらも、鴻夏(コウカ)は表面上は何事もないかのように装いながら、実に優雅(ゆうが)な足取りで(レン)の元へと歩いて行く。

そして人々が自然と道を譲る中、鴻夏(コウカ)は誰にも邪魔される事なくその間を通り抜け、すぐに(レン)の前へと辿(たど)り着いた。

すると待ち構えていた(レン)が、スッと鴻夏(コウカ)の手を取り、南方軍の兵士達へと向き直る。

そして穏やかながらもはっきりとした声で、(レン)はその場に居る者達にこう告げた。

「さて皆にも紹介しよう。彼女が私の正妃の鴻夏(コウカ)だ。今回の視察を機に、君達にもきちんと紹介しておきたくて、同行してもらった。鴻夏(コウカ)、こちらは夜刃(ヤト)将軍と南方軍の兵士達。古くから私を支えてくれていた人達だよ」

そう言って(レン)は、にこやかに双方を引き合わせてくれたが、相手の方はそれをどう受け取ったのか、まるで鴻夏(コウカ)の事を品定(しなさだ)めするかのように、鋭い視線を送ってくる。

そして不躾(ぶしつけ)なほど、ジロジロと頭のてっぺんからつま先まで眺められた鴻夏(コウカ)は、そのまま相手にフンと鼻で笑われてしまった。

それを受けて、鴻夏(コウカ)は内心カチンとくる。

それでも彼等の事を、とても大事にしているらしい(レン)と他の皆の手前、鴻夏(コウカ)は冷静に何事もなかったかのように笑顔で応対した。


「南方軍の砦の皆様でいらっしゃいますね?花胤(カイン)国より陛下に嫁がせていただきました、(サイ) 鴻夏(コウカ)と申します。どうぞお見知りおきくださいませ」

そう言いながら優雅(ゆうが)に一礼してみせると、さすがに(レン)の手前、無視は出来ないと思ったのか、皆を代表して夜刃(ヤト)将軍がこう答える。

「…いかにも南方軍の夜刃(ヤト)と申します。陛下のご厚意により、未熟者(みじゅくもの)ながら将軍職を務めさせていただいております。後ろは同じ砦を護る我が配下達です」

そこで一旦言葉を区切ると、夜刃(ヤト)は口元に小馬鹿にしたような笑みを浮かべ、冷ややかに鴻夏(コウカ)に対しこう(のたま)う。

「陛下が御成婚(ごせいこん)されたとの噂は、南方領でも聞き及んでおりましたが、なるほど…確かにお美しい。陛下の権勢(けんせい)(いろど)る宝石としては、一級品でございますな」

何の容赦(ようしゃ)もなく、『お前は見た目だけのお飾りの妃だ』と皆の前でこき下ろされ、さすがの鴻夏(コウカ)もサッと顔色を変える。

すると(レン)がスッと鴻夏(コウカ)(かば)って前に出て、静かに、しかし厳しくこう告げた。

「…言葉が過ぎますよ、夜刃(ヤト)鴻夏(コウカ)は私が選んだ妃です。貴方は私が、見目(みめ)の良さだけで彼女を選んだとでも思っているのですか?」

そう言って静かに見下ろす(レン)の視線に、夜刃(ヤト)将軍が蒼くなってガタガタと震え出す。

どう見ても常人より縦も横もかなり大きい夜刃(ヤト)将軍が、一見すると細身にしか見えない(レン)(おび)える姿は、違和感しか感じなかった。


だがそれだけに(レン)の放つ気は圧倒的で、ただそこに居るだけで、その場の気温が一気に下がったかのような錯覚(さっかく)(おちい)る。

完全に(レン)に主導権を握られた南方軍の兵士達は、全員雷に打たれたかのように、その場で冷や汗を掻きつつ平伏(へいふく)した。

そして震える声で、夜刃(ヤト)将軍がこう呟く。

「い…いえ、失礼しました、『白龍(はくりゅう)』。私が浅はかでございました…」

()びる相手を間違えてますよ、夜刃(ヤト)?私ではなく、鴻夏(コウカ)に対して謝ってください」

きっぱりとそう言われ、実に不満そうながらも、夜刃(ヤト)将軍が鴻夏(コウカ)に対し頭を下げる。

そしてさも仕方ないといった雰囲気で、彼は小さく()びの言葉を口にした。

「…申し訳ありません、お妃様。言葉が過ぎました」

「…いえ…」

そう答えるのが、精一杯だった。

確かに夜刃(ヤト)将軍の言い様には腹が立ったが、ある意味それは真実でもあった。

今のところ、自分は風嘉(フウカ)の皇后として何の役にも立っておらず、彼等の尊敬に値するような事は何一つ出来ていない。

この南方領で妄信的(もうしんてき)とも言うべき人気を誇る(レン)が、明らかに世間知らずだと分かる姫を(めと)った事が、よほど気に入らないのだろう。


『やっぱり付いてくるべきではなかったわ。今の私では、彼等に認められるような事は、何一つ出来ない…』

そう思いながら、鴻夏(コウカ)は泣き出したい気持ちを抑えるのが精一杯だった。

何となく予想はしていたが、南方軍の兵士達の(レン)への心酔(しんすい)ぶりは想像以上で、そしてその(レン)の隣に立つ相手として、自分はあまりにも未熟(みじゅく)過ぎた。

これではお飾りと(ののし)られても、仕方がない。

だがそれでもその場は、夜刃(ヤト)将軍が頭を下げた事により、一応の解決は()された。

そしてもうすぐ陽が落ちる事もあり、一行はそのまま本日の野営の準備に入る。

それを椅子に座って眺めながら、鴻夏(コウカ)は誰もが分かるほどひどく落ち込んでいた。

そしてそれを見兼ねた暁鴉(ギョウア)が、そっと優しく鴻夏(コウカ)(なぐさ)めの言葉をかける。

「気にする事はないよ、鴻夏(コウカ)様。連中は基本誰が嫁に来ようが、気に入らないんだから」

「…でも今の私が、(レン)の妃としてあまりにも不釣(ふつ)り合いなのは事実だわ。(レン)はこの風嘉(フウカ)にとってかけがえのない、唯一無二(ゆいいつむに)の存在なのに、その妃がこんな世間知らずの小娘じゃ、納得がいかなくて当たり前よ」

自分で言っていて泣きそうになりながら、鴻夏(コウカ)が吐き捨てるようにそう答えると、意外にも暁鴉(ギョウア)はそれを全面否定する。


「それは違うよ、鴻夏(コウカ)様。あんたはあんたにしか出来ない事を、ちゃんとやってる。そしてそれは、他の誰にも出来ない事さ」

「…私にしか…出来ない事…?」

まったく心当たりのない鴻夏(コウカ)が首を傾げると、暁鴉(ギョウア)はきっぱりとこう告げる。

「…いつも通りにしてりゃいいんだよ。連中は今会ったばかりで、しかも最初からあんたの事を色眼鏡(いろめがね)で見てる。でもきっとここから戻る頃には、奴等にも鴻夏(コウカ)様の本当の魅力(みりょく)が伝わって、その考え方も変わってるさ」

妙に確信めいた口調でそう言われ、鴻夏(コウカ)は信じられないとばかりに暁鴉(ギョウア)を見返す。

しかしそれっきり、暁鴉(ギョウア)は特に何も教えてはくれなかった。

そうこうしているうちに、あっという間に今夜の野営の準備が終わり、鴻夏(コウカ)は今回の旅に同行してくれた数少ない侍女(じじょ)等に呼ばれて、静かにその場を後にする。

おそらく明日には、本来の目的地である南方領の砦に辿(たど)り着くだろう。

そしてそこには夜刃(ヤト)将軍らのように、『風嘉(フウカ)白龍(はくりゅう)』に心酔(しんすい)している、大勢の南方軍の兵士達が待ち構えているに違いない。

はたして自分は、たった数日の滞在で彼等に(レン)の正妃として認めてもらえるのだろうか?

不安はつきないけれど、それでも鴻夏(コウカ)は強く(こぶし)を握り締め、決意も新たに前を向いた。


『出来なくてもやる!そのくらいの意志で挑まないと、私はいつか(レン)の隣に立ち続けていられなくなる。それだけは嫌だ!私は他の誰にも、この場所を譲るわけにはいかない!』

誰に聞かせるわけでもない、当の(レン)にすらも言えない鴻夏(コウカ)の強く激しい想い。

確かに(レン)との出会いは、単なる運命の悪戯(いたずら)だったのかもしれない。

けれど(レン)という人間に()かれ、彼と彼の仲間と共にこの国を支えて行こうと決めたのは、間違いなく鴻夏(コウカ)自身の意志だった。

今はまだ大した事は出来ないけれど、それでもいつか(レン)の助けとなる人物になりたい。

今は皆に護られてばかりだけれど、いつか自分も大好きな皆を護れるようになりたい。

だからこそ鴻夏(コウカ)は、今こんな事ぐらいで(つまづ)いている暇はないのである。

そして鴻夏(コウカ)は、明夜に砦で開かれるであろう宴に向けて、頭の中で作戦を立て始める。

とにかく今が最悪な状態なら、逆にこれ以上は悪くなりようもないのだから、あとはひたすら上げるのみである。

『見てなさい、絶対彼等にも認めさせてやるんだから!』

すっかり元の元気を取り戻した鴻夏(コウカ)は、意気(いき)(よう)々と天幕の中へと消えて行く。

その後を追いつつ、暁鴉(ギョウア)は一人苦笑しながら同じく天幕の中へと消えていった。




その夜、鴻夏(コウカ)(レン)と二人きりになれたのは、日付が変わろうとしている深夜だった。

おそらく明日も砦に着いたら歓迎の宴があるだろうに、南方軍の兵士達は久し振りの(レン)との再会が嬉しいらしく、『白龍(はくりゅう)』『白龍(はくりゅう)』と(レン)と呼んでは、(レン)(そば)を付いて回っていた。

お陰で鴻夏(コウカ)と視察団の者達は、なかなか(レン)に近づけず、やっと声を掛けれてもあっという間に南方軍の兵士達に邪魔(じゃま)されてしまう。

まるで(レン)は自分達の物だと主張するかのように、彼等は常に(レン)を取り囲み、他の者達を一切(いっさい)寄せ付けようとはしなかった。

もちろんそれは鴻夏(コウカ)に対してもそうで、夕食の時も鴻夏(コウカ)(レン)と話せず、屈強(くっきょう)な男達の壁に阻まれ姿を見る事すら叶わなかった。

正直ここまで徹底的に(レン)に近づけないとなると、最初はなるべく大目に見ようと思っていた鴻夏(コウカ)も、だんだん不安になってくる。

急に(レン)の存在が遠くなってしまったようで、鴻夏(コウカ)は母親を見失った子供のように、寂しくて不安で仕方がなかった。

『思えば私、随分と(レン)に甘えていたのね…。当たり前のように、いつも(レン)(そば)に居てくれていたから、いつの間にかそれが当然だと思ってしまってたわ…』

自嘲(じちょう)気味(ぎみ)にそう思いながら、鴻夏(コウカ)は今更ながらに気付いてしまう。


思えば花胤(カイン)に居た頃は、父皇帝には何ヶ月も会えないのが普通だった。

だが(レン)はいつも忙しい合間(あいま)()って、必ず鴻夏(コウカ)との時間を作ってくれていた。

あの不思議な後宮での暮らしも、最初こそ驚いたものの、慣れてしまえばとても(にぎやかで楽しくて、寂しいなんて思う暇もないまま、毎日があっという間に過ぎていった。

だから今こうして離れてみると、自分がいかに皆に甘やかされていたのかがよくわかる。

シン…と静まり返った天幕の中で、ただ一人取り残された鴻夏(コウカ)は、一人で寝るには広すぎる寝台の上で深い溜め息をつく。

先程なかなか終わりそうもない(レン)と南方軍の兵士達との会話を横目に、鴻夏(コウカ)は一足先に寝所へと戻って来ていた。

ここは皇帝の天幕だから、いずれ(レン)はここに戻って来るのだろうが、あの様子ではそれが一体いつになるのかはわからない。

「…(レン)に会いたいな…」

思わずポツリとそう呟く。

口にしてしまった事で余計に寂しさが(つの)ったが、鴻夏(コウカ)はそれを振り払うように首を横に振ると、そっと寝台に横になろうとした。

すると突然、そんな鴻夏(コウカ)の身体を誰かが背後からふわりと抱き締める。

あまりの事に驚いて振り返ろうとした鴻夏(コウカ)の耳に、聞き覚えのある優しい声が響いた。


「…私も会いたかったですよ、鴻夏(コウカ)

「れ、(レン)っ⁉︎え、いつの間に…?」

振り仰いだ先に見えたのは、間違いなく自分の夫である(レン)の顔だった。

先程まで南方軍の兵士達に囲まれ、かなりの量を飲まされていたはずなのに、顔色は変わらず口調もしっかりとしている。

しかもいつ天幕に入ってきたのか、鴻夏(コウカ)はその気配にまったく気付けなかった。

そしてその段階になってようやく、鴻夏(コウカ)は先程の何気ない呟きを、(レン)本人に聞かれてしまっていた事にひどく(あせ)る。

慌てて誤魔化(ごまか)そうとしたが、そう(やす)々と上手い言い訳など出ては来なかった。

「あ、あの…その…、まだ南方軍の皆さんと話してたんじゃ…?」

「ああ、どうせ切りがないので、強引に終わらせてきました。一年振りなので、しつこく(まと)わり付かれても仕方ないかなと大目に見てたんですけど、そのせいで鴻夏(コウカ)に寂しい想いをさせてしまいましたね…。すみません」

にこりといつも通りの優しい笑顔を見せながら、(レン)が軽く鴻夏(コウカ)の頰に口付ける。

それだけで嘘のように安心してしまう自分が居て、鴻夏(コウカ)は自分で自分の感情に驚いた。


そしてすっかり(レン)に甘えたくなってしまった鴻夏(コウカ)は、(レン)の腕の中で自ら身体の向きを変えると、珍しく自分から(レン)へと抱きつく。

自らの胸に猫のように擦り寄ってくる鴻夏(コウカ)を、(レン)は優しく抱き締め直し、その頭をそっと撫でてくれた。

それがとても気持ち良くて、鴻夏(コウカ)は目を閉じて、しばらくうっとりとその感覚に(ひた)る。

規則正しい(レン)鼓動(こどう)を聴きながら、こうして抱き締められているだけで、鴻夏(コウカ)の機嫌はあっさりと直ってしまった。

すると鴻夏(コウカ)が落ち着いたのを確認したのか、今度は(レン)からこんな言葉が漏れる。

「…今日は本当にすみませんでした」

(レン)…?」

鴻夏(コウカ)には、たくさん嫌な想いをさせてしまいましたね…。彼等も普段はとても気の良い人達なのですが、どうも私に対して思い入れがあり過ぎるようで、基本私に関わる人達に攻撃的なんですよ」

困ったように苦笑して()びる(レン)に、鴻夏(コウカ)は思わずくすりと笑う。

正直あれはもう執着(しゅうちゃく)と言うべきもので、まるで自分の母親を他の子供に取られまいと必死になる小さな子供と一緒だった。

かく言う自分も、先程までは似たような気持ちだったので、あまり人の事も言えないのだが、それでも鴻夏(コウカ)はつい思った事をそのまま口にしてしまう。


「…覚悟はしてたけど、予想以上に南方軍の人達は、(レン)の事が大好きなんだぁって思ったわ。さっき(レン)にまったく近づかせて貰えなかった時、あの人達は私と違って、滅多に(レン)に会えないんだから、仕方がないとは思ってたんだけど…」

「…そうですね。彼等とは長く苦楽(くらく)を共にしてきたので、私も他の領の兵士達とは思い入れが違います。けれど彼等はあくまでも部下で、それ以上でもそれ以下でもありません。だから鴻夏(コウカ)が私の(そば)に居たいのなら、彼等に遠慮(えんりょ)する事なく私の(そば)に居ていいんですよ?貴女は私の大切な…愛しい妃なのですから」

その言葉を聞いた瞬間、鴻夏(コウカ)は一瞬で世界が止まったのかと思った。

ずっと(レン)に大事にされている自覚はあったが、実際に(レン)が自分の事をどう思っているのかは、まったく分からなかった。

むしろ(レン)は優しいから、世間知らずの自分の事を見かねて、保護者のように保護してくれているだけかもしれないとも思っていた。

だから初めて『大切で愛しい妃』と言われた嬉しさで、思わずポロリと涙が(こぼ)れる。

そして鴻夏(コウカ)は、まだその言葉が信じられないといった風に無意識にこう呟いた。

「わ…私が、(レン)の…?ほ、本当に?」

「…言った事、なかったですか…?」

突然泣き出した鴻夏(コウカ)を見て、さすがの(レン)(あせ)ったのか、珍しく感情も(あら)わにそう尋ねる。

『言われた事ない』と素直に鴻夏(コウカ)が伝えると、少々バツが悪そうに(レン)がこう答えた。


「そうですか…。もうとっくに伝えてしまってるものだと思っていました…すみません。でもそれじゃ鴻夏(コウカ)は、何で私が貴女と結婚したと思ってたんですか…?」

そう問われ、鴻夏(コウカ)は少し考え素直に答える。

(レン)は優しいから、世間知らずの私を見かねて、保護…的な…?」

それを聞いた途端、今度は(レン)が額に手をやり、溜め息交じりに天を仰ぐ。

「…あのですね…。いくら私でも、慈善(じぜん)事業で結婚まではしませんよ?まぁ付き合うくらいまでなら一定期間の事なんで、仕事とあらば我慢もしますけど、結婚は別です」

「え…?」

「大体、鴻夏(コウカ)も私を美化し過ぎなんですよ。私はそこまで出来た人間ではないです…」

そう言って珍しく感情のままに、(レン)鴻夏(コウカ)に本音をぶちまける。

それを聞いて鴻夏(コウカ)はますます、なぜ(レン)が自分と結婚したのかわからなくなってしまった。

そして不思議そうにポカンとしている鴻夏(コウカ)に向かって、(レン)が困ったようにこう告げる。

「だからですね…。私が鴻夏(コウカ)と結婚したのは、私がしたかったからなんです。これでも結構悩んだんですよ?年齢差もありますし、私は期間限定の皇帝ですからね」

「え、え?で、でもじゃあ何で『契約結婚』だなんて、言い方を…?」


確か結婚を決めた際に、(レン)には『契約結婚』として持ちかけられた覚えがあった。

それを聞いて、(レン)が素直にこう答える。

「それは…まぁ、確かにそういう一面もあったというのは事実です。ただ私の方としては、別に無理に結婚しなくても、問題はなかったんですよ」

「え、じゃあ何で、わざわざ私と結婚…?」

もっともな疑問を口にした鴻夏(コウカ)に、ますます(レン)が言いづらそうにこう答える。

「それは…私がこの縁談を断ったら、貴女は別の誰かに嫁がなければならなくなるじゃないですか。それはちょっと、私の方が嫌…というか我慢(がまん)出来なかったんですよね…」

ボソッと照れ臭そうに(レン)にそう言われ、鴻夏(コウカ)の顔が()でダコのように真っ赤になる。

けれどすぐに思い直した鴻夏(コウカ)は、率直(そっちょく)(レン)に向かって文句を口にした。

「そ…それならそうと最初から、『結婚してください』って言えばいいじゃない!なんで『契約結婚』だなんて言い方を…⁉︎」

「それは…そう言っておいた方が、鴻夏(コウカ)の方が決断しやすいと思ったんですよ。考えてもみてください。突然出会ったよく知らない男と結婚して、知らない国で暮らす事になるんですよ?普通は迷うし、嫌でしょう」

さらりとそう言われ、確かに最初は(レン)のもっともらしい条件に(だま)されて結婚したようなものだから、グッと鴻夏(コウカ)は言い(よど)む。


でも逆にそう言われた事で、鴻夏(コウカ)はふいに気付いてしまった。

何故 (レン)がそこまでして、自分と結婚してくれたのか、そして何故話した覚えもないのに、(レン)は自分の秘密を知っていたのか…?

考えられる可能性は一つ。

自分は昔、花胤(カイン)皇城(おうじょう)内で(レン)と会っている⁉︎

(レン)…。私と貴方、ずっと昔に会ってる…?」

ポツリと迷いながらもそう呟くと、(レン)は穏やかにこう答える。

「そうですね。確かに会ってますよ。貴女がずっと小さい頃にね」

「え!いつ、どこで⁉︎」

そう言って喰いさがると、くすりと(レン)が余裕の笑みでこう答える。

「…内緒です。まぁ多分わからなくても当然だと思いますよ。当時の貴女はかなり小さかったですし、私も少々変装してましたしね」

「え、ズルい!なんで教えてくれないの⁉︎あ、あと実は出逢ったのは凛鵜(リンウ)の方で、(レン)が私と勘違いしてるって事はないのよね⁉︎」

ふと(レン)と出逢ったのが、自分ではなく双子の弟の凛鵜(リンウ)の可能性もある事に気付いた鴻夏(コウカ)が、慌ててその事を確認すると、くすくすと笑いながら(レン)ははっきりとそれを否定する。

「…凛鵜(リンウ)皇子ではありませんよ。間違いなく貴女です。確かに見た目はそっくりかもしれませんが、鴻夏(コウカ)凛鵜(リンウ)皇子では(まと)っている気がまるで違いますから」

「…(まと)っている…気?」

キョトンとしてそう尋ねると、(レン)がニッコリ笑ってこう答える。

「そう、気です。貴女が『花胤(カイン)()の姫』と呼ばれ、凛鵜(リンウ)皇子が『花胤(カイン)(いん)の皇子』と呼ばれる所以(ゆえん)です」


そう言うと、(レン)はこれでこの話はお(しま)いとばかりに、強引に話を打ち切った。

そして鴻夏(コウカ)が再度反論する前に、その身体を抱き締めたまま、ころりと寝台に横になる。

途端に慌ててもがき出した鴻夏(コウカ)を抑え込み、軽々とその口唇を塞ぐと、あっさりと鴻夏(コウカ)の抵抗はなくなった。

それを確認しそっと口唇を離すと、(レン)は急に大人しくなった鴻夏(コウカ)の頭を優しく撫で、もう一度優しく腕の中に抱き締め直す。

「…もう寝ましょう。明日もまだ砦までの旅が続きます。多分、明日の夕方までには着くと思いますが、少しでも身体を休めておいてください」

「…はい…」

何とかそう答えたものの、しっかりと(レン)に抱き締められている事で、鴻夏(コウカ)はドキドキしてとても眠れる状態ではなくなっていた。

だがすぐに疲れていたのか、(レン)が先に寝息を立て始めると、それを確認した鴻夏(コウカ)も急に安心したのか眠気が襲ってくる。

そして暖かい(レン)の腕の中で微睡(まどろ)みながら、鴻夏(コウカ)は無意識にこう呟いていた。

「…(レン)…大好き…」

そう言い終わるが早いか、鴻夏(コウカ)はスヤスヤと穏やかな寝息を立て始める。

するとそれを確認し、実はただ寝たふりをしていただけの(レン)が、ポツリとこう呟いた。

「…まったくあんな可愛い事言われて、眠れないのはこっちの方ですよ。わかってるんですかねぇ…」

優しく鴻夏(コウカ)の頭を撫でながら、(レン)は仕方なさそうに溜め息をつく。


年齢よりあどけない鴻夏(コウカ)の寝顔を眺めていると、脳裏(のうり)にふと出逢った頃の小さかった鴻夏(コウカ)の姿が(あざ)やかに(よみがえ)ってきた。

「確かまだ十歳ぐらいでしたかね…?あの頃から鴻夏(コウカ)はとても可愛いらしかったですけど、見違えるほど綺麗になりましたね…」

そう言いつつ、(レン)はくすりと笑う。

あの当時、秘密裏に花胤(カイン)の内情を探るため、大胆にも(レン)花胤(カイン)帝の側室の一人に成り代わり後宮へと潜り込んでいた。

そしてその調査の最中に、偶然まだ幼い鴻夏(コウカ)と出逢ってしまったのだ。

たまたま通りがかった後宮の中庭で、(レン)花胤(カイン)帝の子供達が争っている事に気がついた。

よく見ると、大勢でたった一人の子供を取り囲み、数に物を言わせて(いじ)めている。

よくある身分差による(いじ)めかと、自らも体験してきた事だけに、(レン)はさして感慨(かんがい)もなくその場を去ろうとした。

ところがその時に、意味なく他の異母兄妹達に(いじ)められていた子供…鴻夏(コウカ)は、幼いながらも毅然(きぜん)とした態度でこう言い放ったのだ。

『弱い人の気持ちが分からない者に、上に立つ資格などない』と。

そのキラキラした力強い金の瞳に()かれ、(レン)は思わず(かげ)ながら鴻夏(コウカ)を助けてしまった。

多分後にも先にも仕事の最中に、正体がバレてしまう危険を冒してまで、他の事に手を出したのは初めてであった。

そして(レン)花胤(カイン)帝の側室のフリをしたまま、怪我(けが)をした鴻夏(コウカ)の手当てをし、すぐに足が付かないよう花胤(カイン)の後宮を後にしたのだ。

だから鴻夏(コウカ)がその事を覚えていなくても、実はそれは当たり前の事なのである。


『まぁ覚えていられても困るんですけどね。仕事とは言え、女装までしてましたし…』

そう当時二十代前半で若かった(レン)は、その身体の線が細かった事もあり、化粧をして女装をしていれば、意外と何の違和感もなく後宮に馴染(なじ)めてしまっていた。

本来ならこういった仕事は女忍(にょにん)の分野なのだが、当時は花胤(カイン)の後宮に馴染(なじ)めるほど教養のある女忍(にょにん)が居らず、仕方なく(レン)が自ら女装して潜入する羽目になったのである。

だが一番困ったのが、その女装姿が意外と好評で、その後も何件かそういう案件に()り出されてしまった事であった。

『あれは…出来れば忘れたい歴史ですねぇ…。お偉い方々の夜のお相手もそうですが、仕事じゃなければやりませんよ…』

正直今までの人生で、何の(うし)(ぐら)いところもない鴻夏(コウカ)と違い、(レン)の人生はその大半が(うし)(ぐら)いところだらけである。

もちろんそれは育てられた環境に()るところが大きいが、仕事と言われれば何でもやってきた、(レン)自身にもかなりの問題があった。

だからこそ逆に、一点の(くも)りもないほど綺麗(きれい)鴻夏(コウカ)にかえって()かれてしまうのである。

一つ溜め息をついて、(レン)は自分の腕の中で安らかに眠る鴻夏(コウカ)の頭を優しく撫でる。

明日には、いよいよ南方領の本拠地に入る。

自分が十年以上の時を過ごした懐かしい砦だが、今までは特に何の感慨(かんがい)()かなかった。

だが今回は鴻夏(コウカ)が一緒に居るというだけで、まったく違うものに感じている。

漠然(ばくぜん)と何かが変わる予感を感じながら、(レン)も少しでも休もうと目を閉じた。

風嘉(フウカ)白龍(はくりゅう)』の本拠地まで、あと少し。

歴史に残る事件まで、あと数日であった。

続く

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