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風嘉の白龍 〜花鳥風月奇譚・2〜  作者: 緋影 あきら
6/12

ー南方領へー

須嬰(シュエイ)皇都(おうと)に戻ってから四日後、ついに(レン)鴻夏(コウカ)は南方領へと旅立った。

風嘉(フウカ)に嫁いで来る時のお忍び旅行で、最後に立ち寄ったオアシスへと向かいながら、鴻夏(コウカ)は初めて行く南方領へと想いを()せる。

一応授業で風嘉(フウカ)の南方領は草原地帯で、月鷲(ゲッシュウ)と国境を接している関係上、長く激戦区であった事、即位前の(レン)が長く長官を務めていた事などは習ったが、それ以外の事については正直あまりよくわかっていない。

またいくら(レン)の正妃とはいえ、所詮(しょせん)異国人に過ぎない自分が、南方領の人々に受け入れて貰えるのかも不安だった。

『せっかく一緒に行こうと誘ってもらったけど、本当に付いて来て良かったのかしら…』

馬の背に付けられた一人乗り用の輿(こし)の中で、特にやる事もない鴻夏(コウカ)はついつい悪い方向へと考えてしまう。

するとその考えを読んだかのように、隣で馬を進める暁鴉(ギョウア)が、(さば)けた様子でこう言った。

「いつも通りにしてりゃいいんだよ。(あるじ)の方から鴻夏(コウカ)様を誘ったって事は、連れて行っても大丈夫って判断したからさ。ま、難しい事は(あるじ)に任せて、鴻夏(コウカ)様は普通に旦那との新婚旅行を楽しめばいいさ」

「し…新婚旅行って…」

思いもかけない生々しい単語に、鴻夏(コウカ)が真っ赤になって固まると、暁鴉(ギョウア)が何を今更とばかりにこう告げる。

「だってそうだろ?結婚後の初旅行なんだし、誰から見ても仲良し夫婦じゃん」

「そ、そうかしら。私、ちゃんと(レン)の奥さん出来てる…?」

不安そうに尋ねると、暁鴉(ギョウア)が何を寝ぼけた事を言ってるんだとばかりにこう返す。

「あれだけ毎日イチャついてて、何を言ってんだか…。あの璉瀏(レンリュウ)帝が、花胤(カイン)から迎えた妃に夢中だってのは、国内外を問わずに有名な話だよ?うちの(あるじ)は各国から怖れられてるからね。噂が広まるのも早い早い」

「え、ええ⁉︎そんな話になってるのっ⁉︎」

真っ赤になって鴻夏(コウカ)が動揺すると、ニヤリと笑って暁鴉(ギョウア)が答える。


「だから今更だって。数多(あまた)あった縁談を全部 ()ってきたうちの(あるじ)が、ついに結婚したってだけでも注目されてんのに、相手が()の有名な『花胤(カイン)陰陽(いんよう)』の片割れだよ?そりゃあ、あっという間に広まるさ」

「で、でも私、見た目が多少お母様に似ているってだけで、何の取り柄もないただの世間知らずなんだけど…」

オロオロと生真面目に悩む鴻夏(コウカ)に、暁鴉(ギョウア)豪快(ごうかい)にこう告げる。

「何言ってんのさ。あの(あるじ)に選ばせたってだけでもすごい快挙だよ?あたし(あるじ)は一生誰とも結婚しないんだろうなと思ってたし」

「そ、それは私の立場と境遇(きょうぐう)が、(レン)にも都合が良かったってだけで、別に私自身を選んでもらったわけじゃないもの…」

自分で言ってて(むな)しくなりながら、鴻夏(コウカ)がそう呟くと、暁鴉(ギョウア)が真剣な顔でこう返す。

「…本当にそれが理由だと思ってるのかい?確かに鴻夏(コウカ)様と結婚する事で、他の縁談は避けられるかもしれないさ。でも代わりに、主はより複雑な対外情勢にも対応しなきゃならなくなった。これっ(あるじ)にとって、本当に利益がある話かい?」

そう問われ、ふいに鴻夏(コウカ)は考え込む。

言われてみれば結婚前、月鷲(ゲッシュウ)鴎悧(オウリ)帝とオアシスで遭遇(そうぐう)した際に、(レン)は自分との結婚を思い留まるよう説得されていた。

これから荒れるであろう国の姫を、何故わざわざ(めと)るのかと。

だからあの時、自分はこの縁談はこれで破談になるだろうと覚悟したのに、(レン)はそれすらも込みで自分との結婚を決めたと言った。

そしてその言葉通りに、自分を正妃として迎え入れてくれたのだ。

『つまり…(レン)にとって、私との結婚なんて、ほぼ利益はなかったって事…?じゃあ、なんでわざわざ結婚なんて…』

そう思った瞬間、絶対にあり得ないと思っていた可能性が頭を()ぎる。

真っ赤になって急に黙り込んだ鴻夏(コウカ)を横目に、暁鴉(ギョウア)は人の悪い笑みを浮かべていた。




その夜、懐かしい思い出のオアシスで一泊する事になった一行は、かつて鴎悧(オウリ)帝も滞在していたあの湖の側で天幕を建てていた。

そしていくつも建てられた天幕の中でも、一際(ひときわ)豪華(ごうか)な天幕の中で、鴻夏(コウカ)は今、(レン)と二人っきりになってしまい固まっている。

正直うっかりしていたが、(レン)と一緒に旅をするという事は、その間ずっと寝所も共にするという事で、鴻夏(コウカ)は当然のように案内された皇帝の天幕の中で、何をどうすればいいものかとぐるぐるしていた。

それを見て、くすりと(レン)が笑う。

「…鴻夏(コウカ)

「うわ…っ、はいっ⁉︎」

緊張のあまり、ずっと(レン)の方を見れずにいた鴻夏(コウカ)が思わず振り返ると、いつの間に近付いていたのか、(レン)がすぐ後ろに立っていた。

突然の至近距離にドキリとすると、ふわりと夜着(やぎ)の上に外套(がいとう)を掛けられる。

「え…?」

「少し散歩して来ませんか?多分今夜は星が綺麗ですよ」

相変わらず掴み所のない笑顔を見せると、(レン)は自分も軽く外套(がいとう)羽織(はお)り、そのまま鴻夏(コウカ)を天幕の外へと連れ出した。

こっそりと監視の騎士達の目を()り抜け、(あかり)もほとんど届かない湖のほとりへと行くと、満天の星空が頭上一杯に広がり、鴻夏(コウカ)を幻想的な光景へと(いざな)う。


「わぁ、素敵…!」

素直に鴻夏(コウカ)感嘆(かんたん)の声をあげると、(レン)がスッと一つの星を指差し、こう告げた。

鴻夏(コウカ)、あれが北極星です。常に真北にある星なので、旅人にとっては大事な道標(みちしるべ)となる星です。砂漠などで方向を見失ってしまった際は夜を待ち、あの星を探して正しい方向を確認します。だから旅人からは、皇帝の星とも呼ばれているのですよ」

「皇帝の星…?でもあの星より明るく輝いてる星は、他にもたくさんあるのに…?」

不思議そうに鴻夏(コウカ)が聞き返すと、(レン)が穏やかな表情でこう答える。

「…確かに北極星は二等星なので、輝きだけでいうと一等星には負けてしまいます。けれど重要なのは、あの星が常に真北にあるという事実です。旅人を常に正しい方向へと導く星…。だからこそあの星は皇帝なのです」

そこで一旦言葉を区切った(レン)は、スッと鴻夏(コウカ)の方へと向き直る。

そして少し(かげ)のある表情を見せながら、(レン)はまるで独り言のようにこう続けた。

「真に輝くべきは皇帝を支える家臣達です。皇帝とは進むべき方向を定めるだけの存在。それ以上でもそれ以下でもない…。けれどその決断には、自らの命を()けて責任を負わなくてはならない。私はそう思ってますよ」

淡々とした口調ではあったが、まるで自らに言い聞かせるかのような内容だった。

それを受けて鴻夏(コウカ)の口から、思いもよらない言葉が滑り出る。


「…(レン)は、進むべき方向を迷っているの?」

突然投げ掛けられた疑問に、(レン)が意表をつかれたかのように、鴻夏(コウカ)へと視線を向ける。

するとあまりに綺麗な金の瞳が、真っ直ぐに(レン)の姿を(とら)えていた。

それを感じ多少動揺はしたものの、(レン)はすぐに落ち着きを取り戻し、静かにこう答える。

「さぁ…どうなんでしょうね。何が正しくて何が間違っているのかは、正直私にもわかりません。ただ私は自分が最善と判断した道を進むだけです」

「じゃあ、それでいいんじゃないの?」

「え…?」

「人間は万能じゃないんだから、何が正しいのかなんて、誰にもわからないんでしょう?だったらわからない中でも真剣に考えて、それが最善だと判断した事なら、それはそれでいいんじゃないの?例えそれが結果的に間違っていたとしても、決断した時点では誰にもわからなかった事なんだから、それはもうお互い様って事でしょう」

実に簡単にそう言われ、(レン)は目から(うろこ)が落ちたかのように、驚いて固まる。

政治や宮廷のしがらみなど一切知らない、世間知らずな鴻夏(コウカ)だからこそ導き出せた、真実を突いた意見だった。

そのあまりに明快すぎる答えに、思わず(レン)が笑い出すと、鴻夏(コウカ)が慌ててこう聞き返す。

「え?なんか私、間違った事を言った??」

「いえ、なるほどと思っただけです。むしろ私の方が、変に難しく考え過ぎていたのかもしれません…」

しばらくして笑いをおさめると、(レン)は何かが吹っ切れたかのように、とても晴れやかな表情でそう答えた。

それを受けて鴻夏(コウカ)が、可愛らしく首を傾げながらこう尋ねる。

「…よくわからないけど、解決したの?」

「まぁそんなところです」

ニッコリと微笑み即答する(レン)に、何となく鴻夏(コウカ)もホッとする。

(レン)が何を考えているのか、相変わらず何もわからなかったが、ただ彼の表情が目に見えて明るくなっていたので、まぁいいかと鴻夏(コウカ)もそれ以上は追及(ついきゅう)しなかった。



そしてその様子を、静かに見守る影が二つ。

一人は(きた)え抜かれた(はがね)のような肉体を持つ、黒髪に陽に焼けた浅黒い肌が印象的な、威圧感のある壮年(そうねん)の男。

鋭い銀の瞳が獲物を狙う(たか)のようで、見据(みす)えられた途端に、思わず逃げ出したくなる。

そしてもう一人は、(ゆる)やかにうねる長い金髪に日に焼けた浅黒い肌、豊満で(きた)え抜かれた肉体が特徴的な迫力ある美女。

女性にしてはかなりの大柄だが、なぜか受ける印象は明るくさっぱりとしていて、どうにも憎めない雰囲気がある。

そしてその大柄な美女は、見た目通りに豪快(ごうかい)な溜め息をつくと、半ば呆れたように隣に立つ男に向かってこうボヤいた。

「まったく、鴻夏(コウカ)様はあれでイチャついてないつもりなのかね?あたしから見たら、どう見てもベタベタの仲良し夫婦なんだけど…」

「まぁ我々は(あるじ)の性格をよく知っているだけに、余計にそう思うんだろうよ。実は(あるじ)があそこまで楽しそうにしている事自体が、貴重だって事も鴻夏(コウカ)様は知らないだろうからな」

そう言って、もう一人の男がそう答える。

言うまでもなく、影から皇帝夫妻を眺めていたのは、(レン)の影である嘉魄(カハク)鴻夏(コウカ)の影である暁鴉(ギョウア)だった。

二人とも仕事とはいえ、何が嬉しくて単なるデート中の皇帝夫妻を出歯亀(でばがめ)のように見てなきゃならんのだとは思っている。

しかしそれでも目を離した隙に、刺客にでも襲われては敵わないので、仕方なくこうして影からそっと見守り続けているのだが、正直目の前で繰り広げられる甘々な光景に、当てられっぱなしで困っていた。

そしてその(のぞ)き行為に耐えかねたのか、再び暁鴉(ギョウア)がこう呟く。


「ねぇ、嘉魄(カハク)(あるじ)はうちらがここから見てるって事、当然気づいてるよね?」

「…まぁ十中八九、気づいてるだろうな」

「気づいてても、あれってどうなの?見せつけたいわけ?」

そう言って呆れたように暁鴉(ギョウア)が親指を立てて見せた先には、隙だらけの鴻夏(コウカ)を抱き込み、ちゃっかりとその口唇を奪う(レン)の姿。

多分彼の性格上、誰かに見られたところで気にもしないのだろうが、相手の鴻夏(コウカ)が同じかというとそうでもない。

おそらく鴻夏(コウカ)の方は、誰かに見られていると知ったら真っ赤になって動揺する事だろう。

それをわかっていながら、まったく隠す気もない相手に半ば呆れていると、彼の影である嘉魄(カハク)が、苦笑しながらこう答える。

「…案外見られる事より、手を出せる機会の方を逃したくないのかもな。長い付き合いだが、あの(あるじ)にあそこまで執着する相手が現れるとは思わなかった…」

そう言って嘉魄(カハク)が、穏やかな目で仲良く寄り添う皇帝夫妻を見つめる。

それを受けて暁鴉(ギョウア)の方も、仕方なさそうに溜め息をつきながらこう答えた。

「確かにね…。(あるじ)は昔からすっごくモテるけど、いつも相手が熱くなるだけで、本人自身はどこ吹く風だったよね。何ていうか誰に対しても一線引いてる感じで、まさしく色事(いろごと)っていうより、仕事の一環って感じだった…」


そう語る暁鴉(ギョウア)脳裏(のうり)に浮かぶのは、いつも何事にも興味無さそうにしている(レン)の姿。

相手がどれだけ必死に愛を訴えようと、彼の心の琴線(きんせん)にはまるで響かず、まるで流れる水のようにすべてが()り抜けてしまう。

そして彼の気持ちは常に(はる)か遠くにあって、決して目の前の相手に向けられる事はない。

それがあまりにも(むな)しくて、今まで何人もの恋人達が、哀しげに(レン)の元を去って行った。

それに対し、嘉魄(カハク)はこう答える。

「まぁ実際、仕事の一環だったんだろうよ。(あるじ)は先帝の役に立つ為だけに生きてたようなものだから、自国の利益になる相手としか付き合っていなかったし…。誰かと共に歩む未来なんて考えもしなかったんだろうしな…」

淡々とそう語りながらも、嘉魄(カハク)の表情が少し(うれ)いを()びる。

昔から(レン)を間近に見てきただけに、嘉魄(カハク)にはより強く思うところがあるのだろう。

だが暁鴉(ギョウア)にしても、多少人間らしくなってきた(レン)を、それなりに喜ばしく感じていた。

今までの(レン)は、いつこの世から消えてしまってもおかしくないほど、常に存在そのものが不安定で、見ている方が痛ましかった。

まるで全てを諦めているかのように、周囲に何の関心も持たず、一切自分を(かえり)みようともしない(レン)に、彼の周りの人々は不安を覚えずには居られなかった。

しかしそんな(レン)が、初めて損得(そんとく)抜きに手に入れたいと望んだのが、鴻夏(コウカ)だったのだ。


(レン)が一体いつ、どうやって鴻夏(コウカ)の事を知ったのかはわからない。

だが彼は鴻夏(コウカ)との縁談が来た時点で、すでに彼女の秘密も知っていた。

そして最初からそれを承知の上で、何喰()わぬ顔でそのまま縁談を進めたのだ。

「…つまり今回ばかりは、明らかに(あるじ)の方が鴻夏(コウカ)様を選んでるんだよね」

「まぁそうなるな…」

鴻夏(コウカ)様は花胤(カイン)の後宮育ちで、自国の者達ですら滅多に拝顔(はいがん)できないほどの深層(しんそう)の姫君だよね?それなのになんで主は、鴻夏(コウカ)様の秘密を知ってたんだろう…?」

もっともな疑問を口にした暁鴉(ギョウア)に、嘉魄(カハク)は無言で何も答えない。

その様子から、嘉魄(カハク)がその答えを知っている事は間違いなかったが、それを誰かに話す気はまったくないようだった。

こうなるともう、いくら聞いても答えは来ないので、余計な詮索(せんさく)は無駄という事になる。


『まぁいいさ。そのうちわかるだろ』

呆気ないくらいにあっさりと諦めると、暁鴉(ギョウア)はすぐに気持ちを切り替え、遠目から自らの主人である鴻夏(コウカ)を見つめる。

優秀だけれど、人としてはかなり問題のある風嘉(フウカ)の皇帝と、一癖(ひとくせ)二癖(ふたくせ)もあるその側近達に、何の抵抗もなく受け入れられた鴻夏(コウカ)は、実は一番の大物なのかもしれない。

そして本人にその自覚はないようだが、鴻夏(コウカ)はそこに居るだけで、まるで空に輝く太陽の(ごと)く、周りの人々の心を明るく照らし出す。

まさしく『花胤(カイン)()の姫』の名が相応しい、輝くような存在だった。

そしてふと暁鴉(ギョウア)は思う。

風嘉(フウカ)の方は鴻夏(コウカ)を迎えた事で、全てが良い方向に進んでいるように感じるが、逆に鴻夏(コウカ)を失った花胤(カイン)の方はどうなのだろうかと…。

この輝きを失い、果たして今まで通りにいられるものなのだろうか…?

何となく花胤(カイン)が、破滅(はめつ)への階段を登り始めているような…嫌な予感が胸を過ぎった。

特に彼女の双子の片割れである『花胤(カイン)(いん)皇子(おうじ)』こと凛鵜(リンウ)皇子(おうじ)

昔一度だけ見た事があるが、鴻夏(コウカ)の弟でありながらその中身はかなり違う印象を受けた。

あれは間違いなく鴻夏(コウカ)とは真逆の、どちらかと言うとかなり(レン)側に近い人間。

おそらく自らの目的を果たす為ならば、どんな手段も(いと)わず、自らの命も()けてしまうような…そんな(あや)うい存在だった。


ただ(レン)の場合は、何の欲も執着もないが(ゆえ)に自らを(ないがし)ろにしている印象だが、彼の場合はむしろ執着が強い(ゆえ)に、結果としてそうなっているように見えた。

暁鴉(ギョウア)から見れば、凛鵜(リンウ)皇子はいつ自滅してもおかしくない、絶対にお近付きにはなりたくない(たぐい)の人間である。

そして暁鴉(ギョウア)は、鴻夏(コウカ)を見つめながら思う。

鴻夏(コウカ)様が、悲しむ結果にならなきゃいいんだが…』と。

花胤(カイン)国にも凛鵜(リンウ)皇子にも、特に何の思い入れもない暁鴉(ギョウア)だったが、自らの主人である鴻夏(コウカ)には人一倍の思い入れがある。

出会ってまだ日こそ浅いが、すでに暁鴉(ギョウア)にとって鴻夏(コウカ)(うしな)(がた)い存在になっていた。

もはや鴻夏(コウカ)以外の主人は考えられず、(レン)の妃として彼の隣に立つ人物も、鴻夏(コウカ)以外は認められない。

おそらく風嘉(フウカ)の側近達も、すべてが同じ思いで鴻夏(コウカ)を皇后として認めているはずだった。

お互い()えて確認した事もないが、暁鴉(ギョウア)はそう確信している。

だからこそ鴻夏(コウカ)の影として、暁鴉(ギョウア)は命に代えても鴻夏(コウカ)(まも)る覚悟があった。

正直影として、心から仕えたいと思える主人に出逢えた自分は、本当に幸運だと思う。

そして誰よりも大事に思っているからこそ、鴻夏(コウカ)には絶対に幸せになって欲しかった。

ただ相手があの(レン)だという時点で、前途(ぜんと)多難(たなん)である事はわかっている。


唯一の救いは(レン)の方も間違いなく、鴻夏(コウカ)に好意を寄せているという事だった。

おそらく鴻夏(コウカ)ならば、そのうちに必ず本当の意味での正妃になる事だろう。

そう思いながらも、どういうわけかなかなか進展しない二人の関係に、暁鴉(ギョウア)は多少の()れったさも感じていた。

そもそもすでに結婚しているにも関わらず、二人の仲はたまに口付けしてる程度の、まるで婚約前のような初々しいものである。

確かに仕事以外では、何事にも淡白(たんぱく)()ぎる(レン)と超箱入り娘の鴻夏(コウカ)では、こんなものなのかもしれないが、(そは)で見ている者にしてみれば、これでいいのかという疑問が出てくる。

特に(レン)と言えば、男女を問わず出会ったその場で関係を持つ事もザラであったはずなのに、鴻夏(コウカ)に対しては彼女が望まない限り、特に関係を進めるつもりがないらしい。

おそらくその気になれば、いとも容易(たやす)鴻夏(コウカ)を落とせるはずなのに、敢えてそれをしないところに逆に彼の本気度を感じる。

一方そういった事にかなり(うと)鴻夏(コウカ)は、反応がいちいち初々しくて、自分から(レン)にどうこうしようという発想がない。

そのため時々 (レン)の方から軽く仕掛ける程度で、二人の仲は結婚から一ヶ月経った今でも清廉(せいれん)潔白(けっぱく)なものだった。

今も(レン)に口唇を奪われた鴻夏(コウカ)が、真っ赤になりながら(レン)に向かって何かを怒鳴っている。

『こりゃあ本当の妃になるまでの道のりは、かなり長そうだねぇ。まぁでも、(あるじ)の方も楽しそうだからいいか…』

今まで見た事がないほど、自然に笑っている(レン)を見ながら、暁鴉(ギョウア)が呆れたように溜め息をつくと、その横で嘉魄(カハク)も穏やかに微笑む。

二人の影に暖かく見守られながら、普通の恋人同士のように仲良く寄り添う皇帝夫妻を、満天の星が優しく包んでいた。




翌朝、何かが動く気配に目覚めた鴻夏(コウカ)は、自分の隣に誰かの体温を感じ、ひどく驚いた。

慌てて半身を起こして振り返ると、見覚えのある長い亜麻色(あまいろ)の髪が目に入る。

「…ああ、起こしてしまいましたか?」

そういう優しい声が聞こえ、振り仰ぐと寝起きと思われる雰囲気のある男が目に入った。

「れ、(レン)…⁉︎」

「おはようございます、鴻夏(コウカ)

ニッコリと(あで)やかに微笑むのは、鴻夏(コウカ)の夫であり、この風嘉(フウカ)の皇帝である璉瀏(レンリュウ)であった。

元々妙に色気のある男だが、寝台の上で気怠(けだる)げに髪を搔き上げる姿は、思わず目のやり場に困るほど壮絶に色っぽい。

あまりの事に呆然として固まる鴻夏(コウカ)に対し、(レン)はするりと鴻夏(コウカ)に近付くと、抵抗がないのをいい事に実に自然に口付けた。

「ちょっ…ちょっと(レン)っ⁉︎」

「…朝の挨拶ですよ。寝起き姿があまりにも可愛いかったので、つい(いただ)いちゃいました」

そう言ってしれっと答えると、(レン)寝台(しんだい)から立ち上がり、置かれていた上掛(うわか)けを羽織(はお)る。

そして近くの卓に置かれていた水差しから、二つの杯に水を注ぐと、それを持って鴻夏(コウカ)の元へと戻ってきた。

「あ…ありがとう…」

差し出された片方の杯を、両手で受け取りながら礼を言うと、『どういたしまして』と答えながら、(レン)鴻夏(コウカ)のすぐ(そば)に腰を下ろす。


じんわりと相手の体温を感じながら、鴻夏(コウカ)が受け取った杯に口を付けると、それを見ながら(レン)も残したもう一つの杯に口を付けた。

しかし表面上は穏やかに見えるが、鴻夏(コウカ)の頭の中は大混乱である。

『わ…私、何で(レン)と一緒の寝台(しんだい)で寝てんの⁉︎昨夜は(レン)と星を見に行って…それから、それからどうしたんだっけ⁉︎』

一生懸命思い出そうとするが、動揺しているせいか、まったく経緯(けいい)が思い出せない。

するとその考えを読んだかのように、(レン)がさらりとその答えを教えてくれた。

「…昨夜は疲れていたのか、鴻夏(コウカ)は星を見ているうちに眠ってしまったんですよ。だから連れて帰ってきて、私もそのまま寝ました。寝台(しんだい)がこの通り一つしか用意されていませんでしたので、勝手に一緒に寝させてもらったんですけど、いけませんでしたか?」

「べ、別にそれはいいんだけど、その…ごめんなさい…。私、寝ちゃったのね…?」

心底申し訳なさそうにする鴻夏(コウカ)に、(レン)は穏やかに首を横に振ると、逆に鴻夏(コウカ)気遣(きづか)うようにこう答えた。

「いえ…私の方こそ、慣れない旅で疲れている鴻夏(コウカ)を連れ回してすみません。もう少し考えるべきでしたね」

思いがけずそう謝られ、今度は鴻夏(コウカ)が慌てて否定する。


「ち、違うわ!私、(レン)に誘って貰えて嬉しかったし、星もすごく綺麗だったし…!その…すごく楽しかったから…、また一緒にお出掛けして欲しいのだけれど…」

真っ赤になりながらも、素直に気持ちを伝えてくる鴻夏(コウカ)に、自然と(レン)に笑みが浮かぶ。

すうっと(レン)の手が伸ばされ、鴻夏(コウカ)の頭を優しく撫でながら髪を一房(ひとふさ)取ると、(レン)は流れるように自然にそれに指を(から)めて口付けた。

「れ…(レン)…っ!」

鴻夏(コウカ)が焦ったように小さく叫ぶと、チラリと(レン)が悩ましげな視線を向ける。

その(みどり)の瞳にドキリとすると、明らかに何かのスイッチが入った(レン)が、鴻夏(コウカ)に向かって(つや)っぽくこう語った。

「…あんまり可愛い事ばかり言うと、調子に乗って(いただ)いちゃいますよ…?これでも結構、我慢してるんですからね」

自分の何が彼のスイッチを入れたのかはわからなかったが、その雰囲気に気圧(けお)され、鴻夏(コウカ)がひどく不安げな顔を見せる。

するとそれを見た途端、(レン)は静かに鴻夏(コウカ)の髪から手を外し、一人 寝台(しんだい)から立ち上がった。

「れ、(レン)…?」

「…冗談ですよ。貴女が嫌がるような事はしません。ただ貴女の方もその気になったら、きっと手加減はしてあげられないと思うので、そのおつもりで…」


ニッコリと微笑みながらそう宣言すると、(レン)は手にしていた杯を卓の上に置き、そのまま天幕の外へと出て行った。

その後ろ姿を見届けながら、鴻夏(コウカ)の顔が一気に真っ赤になる。

「な…っ、え…?わ、私がその気になったらって…ええっ⁉︎」

これ以上ないほど動揺しながら、鴻夏(コウカ)寝台(しんだい)の上で一人焦る。

さすがの鴻夏(コウカ)もその意味するところを理解し、恥ずかしくて仕様がなかったが、困った事に(レン)に対する不快感はまったくなかった。

ただ鴻夏(コウカ)の心臓だけが、壊れそうなほど早く脈打っていて、息をするのさえ苦しい。

「も、もう…どうしてあの人はこうなの⁉︎私を殺す気…?」

真っ赤な顔でそうボヤきながらも、でも心のどこかでそうなる事を望んでいる自分も居て、鴻夏(コウカ)は複雑な思いで顔を伏せた。

こうして南方領への旅の二日目は、朝から波乱含みで始まったのである。




陽も登りきった頃、(レン)を始めとした南方領への視察団は、オアシスを後にし旅立った。

定例視察という事もあり、特に急ぐ旅でもないのだが、とりあえず陽が沈む前にある程度の距離を進んでおかないと、今夜の野営場所の心配が出てくる。

目標としては今日中に砂漠地帯を越え、草原地帯にまで入っておきたいところだった。

鴻夏(コウカ)にとっては、人生で初めての草原地帯への旅になる。

また自分の夫である(レン)が、まだ少年と呼べる年齢から長く過ごしたという場所に、鴻夏(コウカ)も早く行ってみたかった。

一面に広がる草原とは一体どんな光景だろうとワクワクしながら、鴻夏(コウカ)は隣で馬を進める暁鴉(ギョウア)に声をかける。

「ねぇ、暁鴉(ギョウア)は南方領に行った事あるの?」

「ああ、まぁ仕事で何度か…。あたしはこの容姿なんで、潜入捜査はもっぱら月鷲(ゲッシュウ)でさ。その関係で拠点(きょてん)にしてた時期もあるよ」

さして面白くもなさそうに暁鴉(ギョウア)が答えると、その答えに鴻夏(コウカ)が嬉しそうに()いつく。

「そうなの…!ねぇ、南方領の砦は草原地帯の中にあるって聞いたけど本当?どんな感じなのかしら?」

「何かえらく楽しみにしてるみたいだけど、単なる国境の砦だからね?別に豪華でも何でもないよ。ごく普通の石造りの城さ。ただ草原の中に作られた、国境線を示す石の外壁の傍にポツンと建ってるから、まぁ目立つっちゃ目立つけどね」


あっさりとそう答える暁鴉(ギョウア)に、鴻夏(コウカ)が目を輝かせてさらに問いかける。

「まぁ…!それ授業で習ったわ!(レン)月鷲(ゲッシュウ)との和睦(わぼく)の条件として作ったという外壁ね?」

「そうそう、まぁ圧巻(あっかん)ではあるよ。他に何の建造物もない所に、草原を縦断するように延々と石壁が続いているからね」

そう暁鴉(ギョウア)が答えると、鴻夏(コウカ)が心底楽しそうに、輝くような笑顔を見せる。

「素敵…!歴史の授業で習った外壁の実物が見られるのね!しかもそれを作らせたのが(レン)たなんて、本当に誇らしいわ」

やや興奮気味にそう語る鴻夏(コウカ)に、暁鴉(ギョウア)がふいにニヤリと笑ってこう(ささや)く。

「あー、そういう事ね。つまり鴻夏(コウカ)様は、実際に(あるじ)の功績が見られるのが楽しみなんだ?なるほど、なるほど…。まぁ確かに鴻夏(コウカ)様の旦那はすごいよ。『風嘉(フウカ)白龍(はくりゅう)』の名は伊達(だて)じゃない」

「そ、それもあるけど、別にそれだけってわけじゃ…。あ、あと『白龍(はくりゅう)』って叙事詩(じょじし)の中だけでの呼び名じゃ…?」

思いもかけなかった突っ込みに動揺しつつも、鴻夏(コウカ)がそう尋ねると、暁鴉(ギョウア)が冷静な態度でこう答える。


「いや…南方領での(あるじ)のあだ名は、『白龍(はくりゅう)』だよ。最初は戦場で(あるじ)を見かけた敵側から、そう呼ばれるようになって、それがいつの間にかこっち側でも広まっていって、ついには全員から『白龍(はくりゅう)』と呼ばれるようになった。だから今から行く南方領の砦の連中は、(あるじ)の事を『白龍(はくりゅう)』と呼ぶはずだよ」

「そ…うなのね。『白龍(はくりゅう)』って、てっきり叙事詩(じょじし)での創作上の呼び名かと…。まさか本当のあだ名だとは思わなかったわ」

そう言いながら、鴻夏(コウカ)はあの叙事詩(じょじし)が先帝によって『禁歌(きんか)』とされた本当の意味がわかったような気がした。

(タイ)が指摘したように、『龍』とは皇帝を表す言葉なのに、当時まだ皇弟(おうてい)に過ぎなかった(レン)へと使われていたとしたら、それは先帝ではなく(レン)を皇帝として(あが)めている意味になる。

また当時、圧倒的な軍才を誇っていた(レン)ならば、すぐさま『反逆の意志あり』と取られてもおかしくはないはずだった。

おそらく(レン)が周囲にその才知(さいち)を認められていく過程で、徐々に先帝との間に溝が出来、それがどんどん深まっていったのだろう。

自分にはない圧倒的な才を見せつける異母弟(おとうと)に、嫉妬(しっと)苛立(いらだ)ちが募ると共に、いつか皇帝の座から追いやられるかもしれないとの不安から、先帝は狂っていったのかもしれない。

そう思うといくらか同情の余地がないわけでもないが、それらを考慮したとしても、先帝のした行為は許されるものではなかった。


『皇帝とは進むべき方向を定めるだけの存在。それ以上でもそれ以下でもない…。けれどその決断には、自らの命を()けて責任を負わなくてはならない』

そう(レン)は言った。おそらくその考えは正しくて、世の(ことわり)としてもそれが真理なのだろう。

けれどこの世の中、一体どれだけの君主がその事を知り、正しくあろうと努力しているというのだろうか?

少なくとも風嘉(フウカ)の先帝は、そうあり続ける事が出来ず、最終的に国を荒らし自滅した。

本人の自滅は自業自得であるが、それに巻き込まれた国と国民は(たま)ったものではない。

そしてその後始末を、必死で行なっているのが、(レン)と彼の側近達だ。

彼等は併合(へいごう)一歩手前まで迫っていた、他国の侵略を一気に退け、荒れ果てた国土を一から再建し、風嘉(フウカ)にかつての繁栄を取り戻した。

今や風嘉(フウカ)は四大皇国一の軍事国家と目され、璉瀏(レンリュウ)帝は当代随一の武帝として、各国からその存在を恐れられている。

そんな華々しい経歴を持つ(レン)だが、当人自身は至って普通のつもりなのか、普段は帯刀(たいとう)もせず、フラフラとあちこちを出歩いている。

一度いくら嘉魄(カハク)が付いているとはいえ、無防備(むぼうび)()ぎるのではないか?と(たしな)めた事があったが、『剣は得意じゃないので…』と困ったように微笑んだだけで、まったく言う事を聞いてくれなかった。


実は鴻夏(コウカ)が剣を習い始めたのもそれが理由で、夫である(レン)(そば)(まも)れるよう、誰よりも強くなりたいと思っている。

『そう言えば私、一度も(レン)が剣を振るっている所を見た事がないわ…』

ふとその事に気付き、鴻夏(コウカ)は首を(ひね)る。

確かに本人も『得意じゃない』とは言っていたが、それでも若い頃からずっと戦場に出ていたのだから、決して使えないはずはない。

なのに彼の側近達や彼の影である嘉魄(カハク)に至るまで、誰もが(レン)帯刀(たいとう)しない事を、(とが)めようともしないのだ。

『これって、普通におかしいわよね…?(レン)は大事な皇帝なのに、何で誰も(レン)帯刀(たいとう)しない事を(とが)めようとしないのかしら?』

そう思った鴻夏(コウカ)の疑問は、思いもよらない形で解決される事になる。

旅程二日目。陽も傾き始め、そろそろ今夜の野営予定地まであと少しの距離になった頃、それは突然起こったのだ。




ザァッと複数の黒い影が、突如右側の岩山から現れ、視察団を側面から襲う。

途端に目の前で血生臭い戦闘が始まった。

「盗賊だぁ!」

「固まれ、固まれ!背後を取られるな!」

使節団の警護兵から、警告の声が飛ぶ。

それを耳にし、鴻夏(コウカ)は一人用の輿(こし)の中で、ビクリと肩を震わせた。

そんな鴻夏(コウカ)の耳に、暁鴉(ギョウア)の鋭い声が飛ぶ。

鴻夏(コウカ)様!輿(こし)から出ないでおくれよ?」

「ぎ…暁鴉(ギョウア)

抜剣(ばっけん)し、鴻夏(コウカ)の乗る輿(こし)を数人の警護兵と共に警護しながらも、暁鴉(ギョウア)は余裕のある表情でこう答える。

「大丈夫、すぐに片付くよ。馬鹿な奴等さ。()りに()って『風嘉(フウカ)白龍(はくりゅう)』の一行を襲うなんてね…」

そう暁鴉(ギョウア)が言い終わるか否か、突然盗賊団の中心から断末魔の悲鳴が上がる。

驚いてその方向に目をやると、見覚えのある長い亜麻色(あまいろ)の髪が目に入った。

それを見て、思わず鴻夏(コウカ)は叫んでしまう。

「れ、(レン)っ⁉︎ちょっ…暁鴉(ギョウア)(レン)が敵に囲まれて…っ!」

「…大丈夫。よく見なよ、鴻夏(コウカ)様?うちの(あるじ)はあの程度の奴等に()られやしないよ」

そう暁鴉(ギョウア)に言われ、もう一度敵の方へと目をやると、(レン)の周りを取り囲んでいたはずの盗賊達が、一瞬ですべて地に伏していた。

そして残された盗賊の中から悲鳴が上がる。


「ひぃ…っ!こ、こいつ『白龍(はくりゅう)』だ!な、何でこんなところに…っ!」

「何っ⁉︎『白龍(はくりゅう)』っ⁉︎」

ザサァッと潮が引くかのように、(レン)の周りの盗賊が遠巻きに離れる。

その中心で、一人血塗られた剣を手にしながら、(レン)が立ち尽くしていた。

そしてゆらりと陽炎(かげろう)のように、(レン)の周囲に目に見えない何かが立ち昇る。

「…おや、私をご存知でしたか。でもどうせなら、襲う前に気付いて欲しかったですね」

ニコリといっそ優しいくらいに微笑みながら、(レン)がチラリと周囲に視線を泳がせる。

すでにその足下には、十数名にも及ぶ盗賊達の死体が転がっており、彼が本物の『白龍(はくりゅう)』だという事は疑う余地もなかった。

そして(レン)がスッと一歩前へと出るのと同時に、ジリッと盗賊達が後ろへと下がる。

すでに両者の間で雌雄(しゆう)は決しており、盗賊達は遠巻きに対峙する事しか出来なかった。

それに対して(レン)が、容赦なく告げる。

「どうします?大人しく捕まるか、私に斬られるか、二つに一つです。あぁ、ちなみに逃げようとしても無駄ですからね?私の間合いから逃れられたとしても、私の影はとても優秀でね…。絶対に貴方達を逃しませんよ」


脅しではない真実を告げながら、(レン)が精神的にも盗賊等を追い詰める。

するとカランカランと鈍い音を立てて、次々と盗賊達の手から剣が滑り落ちた。

そして両手を上げ、すでに戦意を喪失している事を告げる盗賊達に、一斉に風嘉(フウカ)の警護兵が飛びかかり抵抗出来ないよう縛り上げる。

それを視界の端で確認しながら、(レン)はようやく手にしていた剣をその場に投げ捨てた。

その光景を呆然と見守る鴻夏(コウカ)に、暁鴉(ギョウア)が得意げにこう告げる。

「ほら…ね?ここじゃ、もう(あるじ)()り合おうなんて奴は居ないんだよ。絶対に()られるってのがわかってるからね」

その声をボンヤリと聞きながら、鴻夏(コウカ)はポツリとこう呟く。

「…暁鴉(ギョウア)(レン)は『剣が得意じゃない』って…」

「あぁ…確かに得意じゃないかもね。基本剣を持つと、(あるじ)は殺しちまうから」

「それって…つまり…」

「『上手く手加減出来ない』って意味だと思うけど?別に(あるじ)も無駄に相手を殺したいわけじゃないし…。ただ剣を使うと生け捕りにして終わらせるって事が出来ないから、『得意じゃない』って言ったんじゃないかな?」

あっさりとそう言われ、鴻夏(コウカ)は軽く目眩(めまい)を感じながら、その場に崩れ落ちる。

そして動揺しつつも、敢えてもう一度確認するかのように、暁鴉(ギョウア)にこう尋ねた。


「じゃあ普段、(レン)帯刀(たいとう)しないのって…」

「剣だと確実に殺しちまうからだよ。別に剣じゃなくても、(あるじ)は戦えるしね。うちの主は潜入も生業(なりわい)としてたから、うちらと同じく一通りの暗器(あんき)を使いこなすよ?だから一見(いっけん)丸腰(まるごし)に見えても、結構色々隠し持ってるはず…」

そう言われ、鴻夏(コウカ)はガクッと肩を落とした。

そして力無くこう呟く。

「…そういう意味なの…。剣を使えないはずはないとは思ってたけど、まさか『手加減出来ない』って意味だとは思わなかったわ…」

口にしたのはそれだけだったが、心の中ではそれじゃあ今から剣を覚えても、(レン)の域まで達するのは相当長い道のりじゃないかと毒づいてしまう。

そしてどこまでも自分の想像の上をいく夫に、鴻夏(コウカ)は盛大に溜め息をついたのだった。

続く

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