ー蒼狼と銀鷲ー
その日 風嘉の皇城である『白瑤城』に、東方領より伯 須嬰が戻ってきていた。
まだ後任も決まっていないため、正式帰還ではないものの、南方領の視察前にどうしても須嬰を中央に戻しておきたいとの璉の意向により、急遽呼び戻された形となる。
一ヶ月半ぶりでの皇都帰還であったが、相変わらず須嬰は武人らしく威風堂々とした佇まいで、見る者を圧倒する迫力を放っていた。
その彼が自ら膝を折り、謁見の間で玉座に座る璉に対し臣下の礼を取る姿は、ただそれだけで間接的に璉の皇帝としての権威を周囲に知らしめている。
そして誰もが聞き惚れるほど朗々と響く声で、須嬰が璉に対し、帰還の口上を述べた。
「陛下の命に従い、伯 須嬰、ただ今 皇都に帰参致しました」
「長旅ご苦労でしたね、須嬰。東方領に変わりはありませんか?」
「はい、陛下が花胤国より鴻夏姫を娶られた事により、行き来する商隊の数が以前よりも増えているようですが、東方領の兵士達が要所要所で睨みを利かせておりますので、表面上は何事もなく…」
「そうですか、それは重畳…」
そう答えると、璉はスッと無言で後方に立つ黎鵞に視線をやる。
するとその璉の意思を汲んだ黎鵞が、素早く人払いを行い、その場には皇帝である璉と宰相 崋 黎鵞、内政官 湟 牽蓮、そして将軍 伯 須嬰の四名だけになった。
それを確認した途端、スイッチが切れたかのように璉が玉座で盛大に溜め息をつく。
「…毎回の事ながら、ホント面倒ですよね。別にありきたりの報告を受けるだけなんだから、こんな仰々しい事をしなくても…」
「璉、これも皇帝である貴方の務めの一つですよ。こうやって定期的に貴方の権威を周囲に見せつける事で、良からぬ輩の反逆の意思を未然に挫いているんです。先帝時代に何かしら甘い汁を吸った事がある者は、まだたくさん残っておりますから…」
そう言って、黎鵞が淡々と嗜める。
大乱後、璉が皇位に就いた際に不正を行っていた官僚、貴族、騎士、神官等の大半は始末されたが、明らかな不正の証拠が掴めなかった者、軽度の不正しか認められなかった者については、『恩赦』という形でそのまま継続しその任にあたってもらっている。
それと言うのもすべての官僚を一度に一掃してしまうと、さすがに人手不足や経験不足により国政自体が回らなくなってしまうため、実は苦渋の決断ではあったのだが、そういった輩には定期的に脅しをかけ続けないと、またいつ同じ事を繰り返すかわからない。
実際せっかく見逃してやったのに、一度覚えた甘い汁の味が忘れられず、公的立場を利用しこっそり賄賂を受け取ったり、国庫から横領したりする者は跡を絶たず、最終的に後から粛清されたという者も少なくはなかった。
そのため馬鹿馬鹿しくはあるのだが、定期的に『璉瀏帝に逆らってはならない』と思い込ませる必要があるのである。
「ま、要するに私は、彼等にとって目に見える歯止めと言うわけですか…」
つまらなさそうに呟く璉に、更にもっとつまらなさそうな顔をした須嬰がこう答える。
「それを言うなら私は、そんな貴方の引き立て役ですよ、璉?」
「あぁ…まぁそうですよね。まったく面倒な事です。なまじ家柄が良いだけで、使えない奴等が多過ぎるものだから、いつまで経ってもこの茶番を辞められない…」
そう言いながら璉は玉座から立ち上がり、数段下で控える須嬰に向かって歩み寄る。
そしてゆっくりと彼の前に膝をつくと、するりと須嬰に手を伸ばしながらこう言った。
「…いっそ、貴方が皇帝になったらどうです、須嬰?誰よりも仁義厚き『蒼狼の大将軍』になら、皆も喜んで従うでしょう」
妙に艶のある目でそう言いながら、璉は須嬰の顎に手をかけ、楽しげに彼を見つめる。
それを呆れたように見返しながら、須嬰は彼らしく生真面目にこう答えた。
「…冗談でも怒りますよ、璉?私は武人で、闘う以外の能力はありません。貴方のように民衆を導き、先を見据えて各国と駆け引きをし合うような芸当は出来ません」
「…そうかな?私は君なら上手く立ち回れると思うんだけどね。まぁ…謙虚なのが君の良いところでもあるのだけれど、過小評価は良くないね。本当に君も黎鵞も欲がない事だ」
フフッと意味深に笑うと、璉はそのままスッと立ち上がる。
そしてすぐさま為政者の顔に変わると、後ろに控える黎鵞に視線を送りつつこう告げた。
「さて、今回私がどうして急に君を呼び戻したのか…勘のいい君ならすでに察しがついてる事とは思うけど、改めて黎鵞から詳細説明をしてもらおうか」
「…受け承りましょう」
そう答えながら、須嬰は改めて自らの厄介な主君に目をやった。
授業の合間の休憩中、後宮の庭を散策していた鴻夏は、そこで思いがけない人物との再会を果たしていた。
ふと誰かの視線を感じ、何気なく振り返った鴻夏は、そこに見覚えのある黒髪の武人が跪いているのを見つけ、ひどく驚く。
「須嬰!まぁ、いつこちらに戻られたの⁉︎」
須嬰の姿を見つけた途端、鴻夏は輝くような笑顔を見せ、嬉しげに駆け寄って来る。
男性とは知っているが、どう見ても美しい姫にしか見えない鴻夏に素直に帰還を喜ばれ、さすがに須嬰も悪い気はしない。
そして彼らしくきちんと礼節は守りながらも、暖かい眼差しを返した須嬰は、彼にしては珍しくひどく穏やかな笑顔でこう答えた。
「はい、つい先程。鴻夏様にはご機嫌うるわしく…何よりでございます」
「それはもちろん貴方がお戻りになったからだわ、須嬰。…お変わりはない?」
「はい、お陰様で…。鴻夏様は以前にも増して、お美しくなられましたね。璉と睦まじく過ごされているようで、何よりです」
ニッコリ笑ってそう答えると、途端に鴻夏が目に見えて真っ赤になる。
その初々しい反応に、自然と笑みが零れるのを感じながら、須嬰はまるで我が事のように二人の仲を喜んでいた。
ここを訪れる前に、黎鵞や牽蓮からもかなりの睦まじさだとは聞いていたが、この反応を見る限り、確かに二人は予想以上にうまくやっているような気がする。
いつもどこかに消えてしまいそうな、危うい雰囲気を醸し出す璉を常に心配していたが、先程久しぶりにあった璉は、上手く言えないが、どこかが微妙に変わっていた。
よく守るべき家族を持つ事で男は強くなると言うが、璉が鴻夏という妻を娶った事でそうなったのなら、それは喜ばしい変化である。
そして璉にそういう変化をもたらしてくれた鴻夏を、須嬰は純粋に有難く思っていた。
だがそんな須嬰の気持ちを知る由もない鴻夏は、一人わたわたと慌てている。
久しぶりに会った須嬰に、璉との仲を『睦まじい』と言われ、とても気恥ずかしかった。
正直まだ知らない事だらけの相手なのだが、あの璉が自分の事を少しでも想ってくれているのなら、それはとても嬉しい事である。
そしてそんな鴻夏の耳に、落ち着いた須嬰の言葉が響く。
「先程久しぶりに璉にも会いましたが、長い付き合いの中で、初めて心から安心出来たような気が致します。いつも璉は自ら死を望むような…どこか危うい所があって、正直 鴻夏様を娶ってもそれは変わらないのではないかと危惧しておりました…。しかし今日会った璉は、どこかが以前とは違っておりました。おそらく鴻夏様のお陰です」
純粋に嬉しそうに謝辞を述べる須嬰に、鴻夏はひどく戸惑う。
黎鵞に自分にしか璉を救えないと言われた時もそうだったが、鴻夏にしてみたら別段何も変わった事をした覚えはなく、それを自分のお陰と言われてもまるでピンと来ない。
それもあって思わず鴻夏は、その心情のまま言葉を口にしていた。
「あの…私は何もしてないんだけど…」
事実を告げつつ、鴻夏が困ったように顔を曇らせると、須嬰はそれに対し穏やかな表情のまま、はっきりと首を横に振る。
そして再度繰り返すように、鴻夏に対してこう答えた。
「おそらく…璉自身も気づいてないような、僅かな変化です。狙ってどうにかなるようなものではなく、知らずに貴女から良い影響を受けた結果でしょう。…鴻夏様、どうぞこれからも璉の事を導いてやって下さい。彼には貴女のような方が必要なのです」
今度は風嘉一の武人にそう断言され、鴻夏は再び何も言えずに立ち尽くしたのだった。
そしてその日の夜、久しぶりに須嬰が皇都に戻ってきた事もあり、ささやかながら個室での宴が催されていた。
出席者は、今夜の宴の主賓である将軍 伯 須嬰、そしてこの『白瑤城』の主人である皇帝 緫 璉瀏、宰相 崋 黎鵞、内政官 湟 牽蓮、皇太子 緫 泰瀏、そして皇后 斎 鴻夏である。
他にも泰の専属侍女を務める燠妃、璉の影を務める嘉魄、黎鵞の影 總糜、鴻夏の影 暁鴉なども同席していたが、彼等は宴の参加者というより護衛であり、有事に備えて少し離れた場所で控えていた。
そして璉が穏やかに宴の開催を宣言をする。
「それじゃ、須嬰の帰還を祝って…乾杯」
「乾杯!」
いくつかの声がそう唱和し、それを合図に和やかに宴が始まる。
実際顔触れこそ錚々たるものだが、元々が気心の知れた身内同士という事もあり、最初から実に賑やかに会話が始まる。
まずはニコニコと愛想良く、牽蓮が須嬰に向かってこう話しかけた。
「今回はかなり短い期間でのお戻りでしたね、須嬰様。樓爛様とも先日、橋の件でお会いしたところなので、何だかお二人とも中央勤めに戻られたような気になりますよ」
「…まぁ確かにこんな短い期間で帰参したのは、東方領に飛ばされてから初かもな。いつもなら戻ったら最後、最低でも一年は行きっぱなしだからな」
そう須嬰が答えると、その横で黎鵞が穏やかな表情でこう呟く。
「先帝の時代は、もっと長い間行きっぱなしでしたね。私も貴方も樓爛も、璉と連絡を取り合えないよう、それぞれの領から出る事は禁止されていましたし…」
「…え、そうなの⁉︎」
思わずその言葉に喰い付いた鴻夏に、黎鵞が困ったように苦笑する。
そして須嬰がやんわりとこう答えた。
「ええ、まぁ…。先帝が璉の武力を削ぐために、私達側近を全員バラバラの場所へと飛ばしたんです。私は東方領、この黎鵞は北方領、樓爛は西方領へと飛ばされまして、大乱が終わるまでの八年近く、一度も中央へは戻れませんでした」
淡々と語られる内容に、先日 燠妃が歌ってくれた叙事詩の内容が重なる。
あの歌詞のままに、実際に彼等も東西南北に散らされていたのかと思うと、ひどく痛ましい気持ちで一杯になった。
しかしそれを吹っ切るかのように、明るく牽蓮がこう告げる。
「でもそれがきっかけで、樓爛様は西方領でご結婚なさったんすよね?もし西方領に飛ばされなかったら、樓爛様と奥様との出会いもなかったわけですし、いや、これも立派に運命的な出会いってやつですよねぇ…」
そうしみじみと語った牽蓮の言葉に、驚くべき単語が混ざっている事に気付いた鴻夏は、思わず感情のままにこう叫ぶ。
「ええっ⁉︎樓爛って結婚してたの⁉︎」
そう尋ねると、その場に居た全員が至極あっさりと同意する。
「あれ、言ってませんでしたっけ?樓爛には奥方だけでなく、今年八歳になる娘と四歳になる息子も居ますよ」
「む、娘…?息子も…?」
呆然としながらそう呟くと、璉がふと気付いたかのようにこう尋ねてくる。
「そうですか、じゃあもしかして牽蓮と燠妃の事も、何も話してませんでしたかね?」
「…牽蓮と燠妃…?」
キョトンとして首を傾げると、その場に居た全員が顔を見合わせ苦笑する。
まったく繋がりが無さそうな二人が、一体何だというのかと思ったら、突然 燠妃が控えめながらもはっきりとした口調でこう答えた。
「あの…鴻夏様。お恥ずかしながら、牽蓮は私の夫です…」
「はぁぁっ⁉︎お、夫っ⁉︎」
まさかの告白に思わず鴻夏が叫ぶと、すぐさま自慢気に牽蓮がこう答える。
「そうなんです、燠妃は僕の可愛い奥さんなんですよ!結婚して今年で四年になりますが、今でも僕は世界一の幸せ者だと思ってます!こんな可愛くて賢い嫁、世界中探してもどこにも居ないと思いませんっ⁉︎」
そう言って牽蓮が、鴻夏に向かって惚気始めると、いきなり燠妃にスパーンと殴られる。
頭を抱えて倒れ込む牽蓮を呆然と見つめながら、鴻夏はただただ固まっていた。
何しろ普段は穏やかでお淑やかな印象しかない、見た目も性格も上品な燠妃が、まさかこんな行動に出る事があるとは予想外である。
しかも固まる鴻夏を他所に、燠妃はニッコリと笑うと、いつもの口調でこう答えた。
「…申し訳ありません、鴻夏様。牽蓮はちょっと大袈裟なんです。確か頭は良いはずなんですけど、どうも私の事となると頭のネジがどこかに飛んでしまうようで…」
「は…はぁ…」
何とかそう答えると、いきなり復活してきた牽蓮が燠妃に向かってこう叫ぶ。
「ちょっ…ちょっと何で殴るの、燠妃?僕は事実を語ろうとしただけで…」
そこまで言ったところで、牽蓮はキッと燠妃に睨まれて蒼白になる。
「…牽蓮。いいから少し黙ってて?」
「…はい…」
凍りつくような燠妃の笑顔に、迫力負けした牽蓮が黙り込むと、それを見兼ねた暁鴉がようやく口を挟んできた。
「燠妃。さすがに可哀想だから、その辺で勘弁してやりなよ?このヘタレがあんたにベタ惚れなのは、ここに居る皆が知ってる事なんだから」
「でも大姐様、鴻夏様に対してまで惚気られるのは困りますわ。無礼ですし、何よりわざわざお聞かせするような内容でもごさいませんのよ?」
「あー…まぁ、確かにこいつの惚気には、かなり欲目が入ってるけどね。でもその分どれだけあんたに本気かは、よく分かるよ?まぁあんたもそれがあるから、結局こいつと結婚したんだろうけど…」
そう暁鴉が言うと、燠妃が少し頰を染めて黙り込む。
それを見て、鴻夏はふいに納得した。
『ああ、なんだ。結局、燠妃も牽蓮の事が好きなんだ…』
意外な組み合わせではあったが、そう言われて見ると、しっかり者の燠妃とどこか抜けている牽蓮は結構合っているのかもしれない。
そこまで考えたところで、ふと鴻夏はある事に気が付いた。
「え…、さっき『大姐様』って言った?もしかして、燠妃と暁鴉って姉妹なの⁉︎」
そう尋ねると、暁鴉があっさりと頷く。
「ああ…見た目が違うんで、ホントの姉妹ではないかもしれないけどね」
「え、それってどういう…?」
いまいち暁鴉の言わんとする事を、掴み損ねた鴻夏がそう尋ねると、暁鴉が軽い口調でこう付け加える。
「あたしもよくわかんないんだよ。あたしと燠妃、あともう一人、櫂珠ってのが間に居るんだけど、内戦で滅んだ村で三人一緒に保護されたんだ。あたしも当時はまだ小さかったから、記憶があやふやでね。大体五歳ぐらいのあたしが、赤ん坊の燠妃を抱えて三歳ぐらいの櫂珠の手を引いて、焼け跡を彷徨っていたらしいんだよ。それをたまたま嘉魄が見つけて、保護して女忍候補としてここまで連れてきてくれたってわけさ」
淡々と何でもない事のように語られる内容に、鴻夏はかけるべき言葉を失う。
花胤でも戦争に巻き込まれたり、流行病や盗賊などの襲撃によって、村一つが全滅する事があるとは聞いているが、実際にその生き残りだと言う人に会った事はない。
そのため今ひとつ実感がないまま、知識としてのみ知っていたが、こうして身近な存在の暁鴉達が絶滅した村の生き残りだと言われると、急に現実味を帯びてくる。
そしてそんな彼女達に、何と声をかけるべきなのかと迷っていると、それを察した暁鴉が敢えて明るくこう言い放った。
「気にしないでいいよ、鴻夏様。ここじゃ良くある話だし、あたしも今の人生、結構気に入っているからさ」
「そうですよ。かくいう僕も湟家に養子に入る前は、暁鴉達と同じようにどこかから拾われてきた忍見習いの一人でしたし。残念ながら僕にはあまり忍としての才能はなくて、代わりに勉学が出来るからと、官僚の道に進まされたんですけどね」
重ねて牽蓮も、何でもない事のように自らの過去を口にする。
その何気無い告白に鴻夏は更に驚いたのだが、その場に居る全員がそれが当たり前のように、動揺もなく聞き流していた。
こんな時に思うのは、自分は花胤の皇女として生まれたというだけで、かなり恵まれた環境で育っていたのだという事。
それに気付くと同時に鴻夏は皆に申し訳ない気持ちで一杯になり、そのまま素直に頭を下げると、小さな声で謝罪の言葉を口にした。
「…やっぱりどう考えても、暁鴉達の気持ちをわかっていない、不用意な質問だったと思うわ。ごめんなさい…」
そう言って鴻夏が謝ると、その場にふわりと暖かい空気が流れる。
それを感じながら、璉は無言で自らの妻に対し、実に複雑な思いを滲ませた。
鴻夏のこういう素直すぎる反応は、彼女の育ちの良さを感じさせると共に、時々ひどく眩しく、近付きがたく感じる。
あまりにも一点の曇りもない綺麗な心根に、自分との違いを感じ、どうしても引け目を感じてしまうのだ。
見た目も心も綺麗な…綺麗すぎる鴻夏。
完全に汚れきっている自分の側に置く事で、誰よりも綺麗な彼女まで穢れてしまわないだろうか、いつか軽蔑されて見捨てられてしまうのではないだろうかと不安になる。
そしてそれと共に、こんな短期間にここまで彼女に囚われてしまっている自分にも、少なからず驚いていた。
ずっと誰にも何にも心動かされる事はないと思っていたのに、彼女はいとも容易く自分の中に入り込んでくる。
そしてまるで最初からそうであったかのように、自然と相手に寄り添い、暖かく光の差す方向へと導いていくのだ。
それは物心ついた時から、何の希望も持てない暗闇の中を歩き続けてきた自分にとって、あまりにも強烈で眩しすぎる光。
長年自らの消滅のみを望んできた自分にとって、それはあまり良くない変化だった。
『まさか今になって、こんな事で悩む事になろうとは、想定外もいいところですね…』
自嘲気味にそう思いつつ、それでも鴻夏を手離せそうにない自分に呆れながら、璉は自らの妻に憧憬の眼差しを向ける。
それを気付かれないよう密やかに伺いながら、彼の側近である須嬰と黎鵞は、お互い無言で視線を交わしつつ頷きあったのだった。
翌朝、いつものように暁鴉と食堂代わりの大広間に足を踏み入れた鴻夏は、一つの卓に大きな人だかりが出来ている事に気がついた。
そっと影から覗くと、そこに座っていたのは昨日帰還したばかりの須嬰で、騎士達を中心に彼に憧れているたくさんの者達が、一言でも言葉を交わそうと列を成していた。
それを見て、鴻夏が思わずこう呟く。
「あら…まぁ。やっぱり須嬰もかなりの人気者なのね」
「まぁね。主と共にあの大乱を鎮めた皆は、ここでは全員恩人であり英雄さ。特に『蒼狼の大将軍』と言われる須嬰様は、元々武人にとっては憧れの存在だしね」
「…そうね。それに須嬰は人柄も見た目も良いから、独身の女性にとってもぜひお近づきになりたい優良物件でしょうね。確か私を迎えに花胤まで来てくれた時も、皇宮の女官達に大人気だったわ」
特に他意なくそう答えると、途端にぴくりと暁鴉が僅かながら反応する。
その珍しい反応に、鴻夏がおや?と不思議そうに暁鴉を見返すと、暁鴉はそれを振り切るかのようにこう言った。
「さぁ、鴻夏様。ここは混み合ってて座れなさそうだから、他の場所にしようか」
「え、ええ…。でも…」
それで良いのかと問おうとした時、ふいにワッと今度は別の場所が盛り上がる。
振り返ると鴻夏の夫であり、この『白瑤城』の主人である璉が、黎鵞達と共に広間に入ってきたところだった。
毎回の事ながら、誰よりも華やかな登場にボンヤリと見惚れていると、その視線に気付いた璉がふいに鴻夏を見つめる。
途端に跳ね上がる心臓に、鴻夏が動揺していると、その間に璉は人混みを縫うように卓の間を通り抜け、鴻夏の前までやって来た。
「おはようございます、鴻夏」
ふわりと穏やかに微笑みながら、璉が鴻夏に挨拶をする。
それにしどろもどろで答えながら、鴻夏が一人慌てていると、璉は鴻夏から少し視線を外し続けてこう口にした。
「おはよう、須嬰。相変わらず人気者だね」
「おはようございます、璉。そういう貴方の方が一番人気だと思いますが?」
そう皮肉りながら、須嬰も爽やかに微笑むと、それに応えるように璉も笑う。
相変わらず仲の良い二人に感心していると、璉が実に自然に須嬰にこう尋ねた。
「…まだ食事中?それなら私達も同席させてもらってもいいかな?」
「どうぞ。むしろその方が私も助かります。一人だと囲まれてしまって、なかなか食事が終わらない…」
溜め息をつきながら須嬰がそう答えると、璉が笑いながら須嬰の隣に腰を下ろす。
それと共に黎鵞や牽蓮、總糜も一緒に席に着き、それを眺めていた鴻夏も璉に誘われるままに暁鴉と席に着いた。
いつの間にか須嬰を取り囲んでいた人波は、錚々たる顔触れに気圧されたのか、卓の周りから居なくなり、むしろ彼等に遠慮するかのように遠巻きに眺めている。
それを横目に眺めながら、須嬰はやっと人心地がついたかのようにこう呟いた。
「はぁ…やっと居なくなりました。こんな事になるなら、最初から貴方達を待って食事を摂るべきでした」
「おやおや、『蒼狼の大将軍』殿は、随分と人見知りのようですね」
くすくすと笑いながら璉がそう皮肉ると、げんなりとしたように須嬰がこう答える。
「茶化さないでください。私は貴方達と違って、闘う事しか能のない武人です。それなのに勝手にあれこれ期待されても、それに応える事は出来ませんよ」
「…東方領の絶対者ともあろう者が、何を言っているのやら…。貴方は老若男女を問わず、誰からも人格者として尊敬されていますよ。それに貴方が本当に無能な男なら、私がとっくの昔に引導を渡しています。そうなると必然的に、こんなに長く東方領を治める事もなかったでしょうね」
さらりと黎鵞が彼らしく、軽く言葉に毒を交えながら、素直に須嬰を褒めちぎる。
長年まるで璉の両翼のように、彼の智と武を司る側近として支え続けてきた彼等は、まるで一枚の硬貨の表裏のように、正反対のようでありながらも根底がとてもよく似ていた。
その魂の片割れと言ってもいい、誰よりも近しい存在に、今まで褒められた覚えもない須嬰は、胡散臭げな視線を黎鵞に向ける。
「お前が俺を褒めるなんて珍しい…。いつも考えなしだの脳筋だのと言ってる癖に、今日は槍でも降る日か?」
「…私だってたまには褒める事もあります。まぁ他の武人よりは使えると言うだけの話ですがね。それに私から言わせれば、樓爛にしてもあの貪欲なまでの商売魂には頭が下がりますが、人としてどうかと問われると、甚だ疑問な相手です」
バッサリとここには居ない、もう一人の側近の事も切り捨てると、黎鵞はその容姿通りに優雅な仕草で、食事を運んできてくれた給仕に軽く会釈をする。
それを憮然として眺めながら、須嬰は軽く溜め息をついた。
「…お前、もう少し言葉にも気をつけた方がいいぞ?毒ばっかり吐いてるから、その顔のくせに敵が多いんだ」
「私の顔は関係ないでしょう。一皮剥いて骨になれば、人間は皆同じです」
あっさりとそう言うと、黎鵞は丁寧に手を合わせ、食事を始める。
そこで初めて、その会話を聞いているだけだった鴻夏が、口を挟んできた。
「黎鵞はもしかして自分の顔が嫌いなの?」
唐突な質問に、黎鵞が少し目を見張る。
そして少し考えた後、ポツリとこう答えた。
「…好きとか嫌いとか、特に考えた事もありませんでしたね。顔の造作なんて、大した問題ではないと思いますし…。ちゃんと機能を果たしていれば、何でもいいと思います」
「え、そんな綺麗な顔してるのに⁉︎それに誰でも綺麗な方が好きでしょう?」
「そうなんですか?まぁ確かに見た目が良い方が好感度は上がるような気がしますが、私は特に気にした事ありませんね」
超絶美形だと、逆に容姿には興味がなくなるのかと思ったが、その考えを読んだかのように總糜がこう言った。
「…あのさ、鴻夏様は多分『黎鵞くらいの美形になると、容姿にも興味なくなるのね』的に取ったと思うけど、それ…違うから。黎鵞の場合は容姿どころか、単に他人にまったく興味がないだけ」
「え…?」
「だからぁ、興味ないから容姿もどうでもいいの。学術的に、骨と皮と筋肉の集合体としか見てないんだって」
溜め息をつきつつ、きっぱりと總糜がそう言うと、周りも無言でそれに賛同する。
それを受けて黎鵞が、大真面目に反論した。
「…まったく、人の事を学者馬鹿のように…。總糜は私の事を何だと思ってるんですか?」
「俺?俺にとっては唯一無二の最愛の人で、命を賭けて護るべき、ただ一人のご主人様」
臆面もなくそう言われ、さすがの黎鵞も少し頰を染めて黙り込む。
その美しすぎる容姿ゆえに『銀鷲の策士』や『氷の宰相』と呼ばれる黎鵞は、あまりその表情を変えない事もあり、どちらかというと人間離れした印象を受ける。
その黎鵞がおそらく初めて見せるであろう人間らしい表情に、驚いて總糜の方に目をやると、彼もまた見た事もないほど穏やかで真摯な表情を浮かべ、黎鵞の事を見つめていた。
その二人の様子から、鴻夏は彼等の絆が並々ならぬほど強いものだと強く感じる。
特に總糜の誰よりも愛しい者を見つめる瞳が、何よりも雄弁にその事を物語っていた。
そして鴻夏はふわりと微笑むと、黎鵞に向かってこう語りかける。
「黎鵞にとっても總糜は特別な存在なのね」
「え、ホントに?俺って結構、黎鵞に愛されてる?」
「ええ、少なくともその他大勢とは違うって事は、私にもわかるわ」
そう鴻夏が答えると、心底嬉しそうに總糜が笑い、黎鵞が少し赤い顔で反論する。
「…鴻夏様、別に總糜だけが特別というわけでは…」
「もちろん、璉や須嬰、牽蓮や樓爛の事も大事に思ってくれてるのは知っているわ。あと意外と子供達に優しい事もね」
ニッコリ笑ってそう答えると、黎鵞が困ったように黙り込む。
鴻夏のように率先して子供達と遊ぶ事はないが、璉を始めこの後宮に関わる人達は、後宮で暮らす子供達にとても優しい。
もちろん悪い事をしていれば叱る事もあるが、子供らしく元気に遊んでいる分には、例え走り回って騒いでいようが、突然部屋に乱入して来ようが、基本怒らない。
それは一見冷たそうに見える黎鵞も同じで、その事を経験上知っている子供達は、黎鵞の事も大好きであった。
中には本気で、黎鵞に対して微かな恋心を抱いている者も居るかもしれないが、この美しすぎる宰相殿は、そういった人の感情には疎いようで、代わりに總糜が周りの人々を牽制して歩いている。
それもあって總糜が黎鵞にベタ惚れな事は、とても有名な事実なのだが、当の黎鵞本人がそれをどう思っているかは、二人一緒に居る姿を見ていても、まったくわからなかった。
だが今回確信したが、おそらく黎鵞も總糜の事は特別だと思っているようである。
まぁ考えてみれば、總糜の育ての親でもある黎鵞が、彼の事を何とも思っていないわけはないのが普通であった。
それに無機質とも取れる見た目と違い、かなり激しい性格の黎鵞は、気に入らない相手の事は、視野に入れるという事すらしない。
あまりにも美しすぎるため、男女問わず迫られる事も多いようだが、本人自身に浮いた噂はなく、その私生活は謎に包まれていた。
常に側に居る總糜なら、多分何か知っているのだろうが、その点に関して總糜も何も語らず、謎は謎のままである。
そこまで考えたところで、困り果てた黎鵞を見兼ねた璉が、やんわりと鴻夏を窘めた。
「…鴻夏、もうそのくらいにしてあげてください。黎鵞は照れ屋なので、皆にこんな風に騒がれると、どうしていいのかわからなくなってしまうんですよ」
優しい口調ではあったが、それ以上の追及は許さないといった態度であった。
それを感じ、鴻夏は素直に謝罪する。
「あ、ごめんなさい。そういうつもりはなかったのだけれど…困らせてしまってたのね、黎鵞」
「あ、いえ…」
少しホッとした表情で黎鵞が答えると、それを見ながら璉がわざと話題を変える。
「鴻夏。昨日 須嬰にも話していたのですが、私は近々恒例の南方領の視察に出向こうかと思っています」
さらりと璉がそう話すと、途端にその場に軽い緊張の波が走る。
それを受けて、鴻夏も少し緊張しながら璉に向かってこう返した。
「あ、璉が即位前に治めていたっていう…。どのくらいの期間、お出掛けになるの?」
「現地での滞在期間も含めて、一週間から十日間ほどかと思いますが…」
「そう…。お仕事ですものね、仕方ないわ」
そう言いつつも、正直 璉と離れるのは寂しくて仕様がなかったが、彼が皇帝である以上、こういった事はこれからも多々あるだろう。
必死で慣れなければと、自らを戒めようとしていた鴻夏は、そこで思いも寄らない提案がされるのを耳にした。
「それでせっかくの機会なので、良かったら鴻夏も一緒に行きませんか?」
「え、ええっ⁉︎いいの…?」
思いもしなかった言葉に、思わず鴻夏がそう叫ぶと、璉が穏やかに頷く。
もちろんついて行きたい気持ちはあったが、自分の一存で了承してしまっていいものだろうかと周囲を見回すと、その意を汲んだ須嬰や黎鵞がにこやかに頷き、鴻夏の想いを後押ししてくれた。
それを確認し、鴻夏が強く宣言する。
「…行きたい!私も連れて行ってくれる?」
「では現地にもそのように伝えましょう」
ニッコリと笑って璉がそう答え、こうして思いがけず鴻夏の初めての視察旅行が決定したのであった。
続く