ー璉瀏帝の側近達ー
鴻夏が風嘉の後宮に入って一ヶ月。
さすがにこれだけ経つと、後宮に居る者達の顔と名前が結構一致するようになってくる。
もちろん忍達のように、常に入れ替わりで各国に赴いているような者達の中には、未だに出会った事がない者も居るのだが、常時 後宮内に居るような女官や侍女、騎士達の事は大方わかるようになってきていた。
それと共に、彼等の子供や親などの家族関係の方も何となく覚えてくる。
だがそういった事はわかっても、この国の官僚達の事となると、正直顔も名前もさっぱりわからない。
鴻夏がわかるのは、璉の側近でほぼ毎日のように後宮で寝泊まりしている、宰相 崋 黎鵞や内政官 湟 牽蓮ぐらいであった。
もちろん他にも将軍 伯 須嬰や財務長官 邰 樓爛なども知っているが、彼等は結婚式の後、それぞれが本来居るべき東方領と西方領へと戻ってしまい、中央には残っていなかった。
正直 会ったばかりの樓爛はともかく、須嬰については結構お世話になったという自覚があるので、東方領に戻ってしまった事をとても残念に思っていたのだが、その日の夜、夕食の席での話題でふいに璉がこう言ったのだ。
「…やはりそろそろ須嬰には、中央に戻ってもらおうかと思うんですよね…」
「須嬰を中央に…でございますか?」
確認するかのように黎鵞がそう尋ねると、璉は淡々とこう続ける。
「東方領は花胤との国境の要所ですが、私が鴻夏を娶った事で、しばらくは安泰だと思うんですよ。同じく南方領も月鷲に鴎悧帝が立ってくれたお陰で、今のところ友好関係が築けています。また西方領は元々が海に面した場所ですので、あまり他国の影響がありません。むしろ今 一番きな臭いのが…」
「…北方領。鳥漣との国境ですね」
冷静にそう答える黎鵞に璉が無言で頷く。
そして穏やかにこう付け加えた。
「ここの所、鳥漣からの不法侵入が頻繁化しています。表向きは盗賊などを装っていますが、裏で国が関与している可能性が高い…。確たる証拠がないので、敢えてこちらから仕掛ける気はありませんが、このまま放置もしておけないでしょう」
そう言って璉が言葉を区切ると、続けて黎鵞が考え込みながらこう呟く。
「それに…近々あちらの方から仕掛けてくる、という可能性もあり得ますね…。そうなると確かに色々な事態に備えて、須嬰には中央に居てもらった方が良いかもしれません」
無事に黎鵞の賛同も得られたところで、今度は別の問題で璉が溜め息をつく。
「…しかしそうなると、問題は誰に東方領を任せるか…なんですよねぇ…」
「確かに…。東方領もあれでなかなか難しい場所ですし、そもそも須嬰の代理を派遣したところで、受け入れてもらえるかどうか…」
そう言って黎鵞も深い溜め息をつく。
そして牽蓮がトドメとなる一言を呟いた。
「…まぁ、誰が行っても大変ですよね。ついに西方領以外は、すべて無法地帯ですか…」
その意味深過ぎる牽蓮の台詞に、ついに我慢がしきれなくなった鴻夏が、手を挙げて質問をする。
「…あのぅ…よくわからないのだけれど、西方領以外が無法地帯って…?」
そう聞かれた璉と黎鵞が、思わず顔を見合わせ困ったように苦笑する。
そして璉がおもむろに、その口を開いた。
「…実は北方領と南方領は、随分前から長官が不在なんですよ。今まで何度も新しい長官を派遣しましたが、なかなかあちら側に受け入れて貰えず、結局そのまま追い返され続けているんですよね…」
「え、じゃあ今、北方領と南方領ってどうなってるの⁉︎」
そう鴻夏が喰いつくと、璉が苦笑しつつこう答える。
「…まぁ一応北方領の方は、つい最近 泰が長官の座に就く事で、何とか代理の長官を受け入れてもらいました。そうは言っても泰はまだ幼いので、基本名義上だけの長官になりますが…。ただ南方領の方はまだ折り合いがつかなくて、未だに代理の長官すら居ない状態なんです…」
「え、それって…大丈夫なの?もし南方領で何かあったら、一体誰が判断をするの?」
思わず素朴な疑問を口にした鴻夏だったが、それに対し、牽蓮が丁寧に回答をする。
「…小事に関しては、駐屯している南方軍の上層部の方で判断する事になりますね。ただ大事となると、やはり中央に知らせてそこから判断を仰ぐ事になると思います」
「中央の…誰に判断してもらうの?」
「長官不在の代理ですから、その上となると私か黎鵞が判断する事になりますね」
あっさりそう答えた璉に対し、鴻夏が思わず目を丸くする。
「えっ⁉︎いきなりそこまで上に飛ぶの⁉︎」
そう喰いついた鴻夏に対し、今度は黎鵞が説明をする。
「飛びますね…。というか、東西南北の長官は、文官の最上位である宰相と武官の最上位である将軍の次に重要な職なんです。何しろそれぞれの領には駐屯兵が居るので、長官は個人的に動かせる大軍を持つ事になります。また基本領内で起こった事は、すべて長官の采配で処理されるので、それなりの政治力も持つ事になります。だから中央に残っている大臣達より、実質的に権威があるんですよ」
淡々と説明され続ける内容に、なるほどとひたすら感心しながら聞いていた鴻夏だったが、その時ふと新たな疑問に気付き、ポツリとこう呟く。
「あれ?じゃあ北方領と南方領の最後の長官って、誰なの…?」
その何気ない呟きに、突然 璉と黎鵞が気まずそうな顔をする。
一瞬聞いてはいけない内容だったのかと思ったが、その答えは実に意外なものだった。
「…北方領の最後の長官は、ここに居る黎鵞です。でも彼にはどうしても、宰相になってもらわなければならなかったので、無理を言って中央に戻ってもらいました。でも北方領の者達は、未だに黎鵞の事を崇拝していて、黎鵞以外の長官は認めないと断固拒否しているんです」
そう言われた途端、なるほど…と鴻夏はあっさりと納得する。
確かに一度こんな人間離れした美形の長官を迎えてしまったら、目が肥えてしまって、到底並の者では満足出来なくなるだろう。
しかも黎鵞は美しいだけでなく、この風嘉一の知恵者でもある。
おそらく北方領の者達にとっては、これ以上ないほど自慢の長官だったに違いない。
それを横取りされ、他の者を寄越されたところで納得できないのは当たり前の事だった。
だから長年に渡って北方領は長官不在の状態が続き、最終的には皇太子である泰が長官に就かざるを得なかったのであろう。
しかしそうなると、南方領の元長官とは一体どんな人物だったのか…?
璉の側近中の側近である、黎鵞、須嬰、樓爛と肩を並べても遜色がないほどの人物なんて、まったく想像もつかなかった。
そこで鴻夏は重ねてこう尋ねてみる。
「…それじゃ南方領の最後の長官は?」
そう尋ねた途端に、更にバツが悪そうに璉が思わず黙り込む。
それに対し不思議そうな顔をしていると、代わりに黎鵞が遠回しに教えてくれた。
「南方領の最後の長官は、今 鴻夏様の目の前にいらっしゃいますよ」
「目の前…?え、もしかして璉っ⁉︎」
思わず鴻夏がそう叫ぶと、璉が観念したかのように小声でこう答える。
「…まぁそうなります…。でも長く務めたというだけで、特に何も…」
「何をおっしゃっているのやら…。昔から南方領は荒っぽい連中が多い上に、貴方以外の言う事は聞かない事で有名じゃないですか。先帝の時代だって、それが原因で最後は独立国家化してましたしね」
そう黎鵞に言われ、璉が困ったように黙り込むと、相変わらず空気を読まない牽蓮が、余計な事を口にする。
「え、でも北方領だって、似たような状況ですよね?あの手この手で次々と新長官をいびり倒して、最終的に『黎鵞様より劣る者など認めない』って追い返して…。お陰で再起不能になる官僚続出で、今じゃ誰も就きたがらない職の一つですよ」
そう言われ、今度は黎鵞も黙り込む。
チラッと話を聞いただけでも、これはどちらも筋金入りの親衛隊状態だなと鴻夏は思ったが、とりあえず口にしたのは、自分なりにまとめた内容のみであった。
「要するに前任者の璉と黎鵞を超えるような人物が居ないから、北方領と南方領はずっと長官が不在なのね?」
「…まぁそういう事になりますかね…」
かなり気まずそうに璉がそう答えたところで、ふと鴻夏は重大な事に気付く。
「あれ…?でもさっき北方領の今の長官は、泰だって言ったわよね?泰は北方領の人達に認められたの⁉︎」
「まぁ一応は…。泰は先帝の遺児で、現皇太子でもあります。そのため身分的には文句の付けようがありません。また彼自身が優秀だというのも風嘉では有名な話ですので、その将来性を買われてというところもあると思います。でも一番の勝因はあの容姿ですね…」
そう言って璉が苦笑する。
その意図するところがわからず、キョトンとしていると、璉が鴻夏のために補足説明をしてくれた。
「…泰は髪と瞳の色こそ違えど、『鳥漣の金晶姫』と呼ばれた先の皇后、紫翠妃の容姿を色濃く受け継いでいます。まだ幼いため気付きにくいかもしれませんが、将来的にはこの黎鵞にも匹敵する容姿になる可能性が高いと思いませんか…?」
「あ…っ、そういう事…!」
そう言われ、ようやく事の子細が理解出来た鴻夏が、小さく叫ぶ。
確かに黙って座っていると、泰は人形のように美しかった先の皇后そっくりの美少年だ。
美しさの種類は違えど、確かに黎鵞に匹敵するだけの容姿になる可能性を持っている。
けれど鴻夏は、更にもう一つの気になる点について口にした。
「でも…泰はいずれ皇帝になるんでしょう?そうなると、また北方領の長官が不在になっちゃうんじゃ…?」
そう言われ、璉が苦笑しつつもこう答える。
「…そうなんです。だから北方領の問題も、当座の暫定策が取れたというだけで、根本的な解決はまだなんですよ」
…これはなかなか頭の痛い問題だなと、政治に疎い鴻夏でもそう思った。
そして夕飯の後、お互い風呂を済ませて自室に戻った璉と鴻夏は、再び鴻夏の部屋でゆったりとお茶をしながら、語り合っていた。
実は璉の自室と鴻夏の自室は、扉一枚で繋がっているため、最近はこうして寝る前に二人っきりで過ごす時間が増えている。
最初こそこのまま璉に頂かれてしまうのではないかと、無駄に緊張していた鴻夏だったが、訪ねては来るものの特に何もされない日々が続くにつれ、鴻夏の方もだんだんと警戒をしなくなっていった。
それというのも、最近になって気付いたのだが、この璉という男はやたらと経験豊富な割に、実はあまり性欲がない。
もちろん仕事上、相手に望まれれば誰の相手でもするとは聞いているが、自分の方から何かを仕掛けるという事はないようだった。
だからこうして毎晩二人で居ても、意外な事に鴻夏はまったく何もされていなかった。
手を出されたのはあの月見をした夜だけで、その後は毎晩普通にお茶をして、会話をしたりゲームをしたりしているだけなのである。
正直有り難くはあるのだが、逆に自分があまりにも子供過ぎて、魅力不足なのかもしれないとも思わないでもなかった。
そしてその事をわかっているのかいないのか、相変わらず読めない雰囲気のまま、璉が鴻夏にゆったりと語りかける。
「そろそろ年に一度の南方領への視察の時期なんですよね…」
「南方領って、確か璉が最後に長官をしていたっていう…?」
つい先程 聞いたばかりの話を思い出し、鴻夏がそう尋ねると璉が穏やかに頷く。
「そう…少々難しい土地柄のため、毎年私が直接視察に出向いているのですが、今年は鳥漣側に不穏な動きがあるので、実は行くのを迷っているんですよね…。私が留守にする事で、黎鵞だけでは手に余る事態が起こる可能性があるので、出来ればその前に中央に須嬰を呼び戻しておきたいんですよ」
淡々とそう語りながら、璉が少し考え込む。
もう寝るだけだからか、いつもは軽く一つにまとめている髪も自然に下ろしたままで、夜着の上に軽く上着を羽織っただけの姿の璉は、何故か妙に色っぽい。
ここのところ毎晩見ている姿とは言え、こればっかりはどうにも慣れず、何となく目のやり場に困りながら、鴻夏は視線をあらぬ方へと彷徨わせつつ、密かに溜め息をついた。
するとそれに気付いた璉が、ふいに鴻夏の頰に手を伸ばし、こう尋ねてくる。
「…どうしました、鴻夏?」
急にお互いの体温を感じられるほど近くに璉が近付き、一瞬で鴻夏の息が止まる。
かろうじて声こそ出さなかったものの、鴻夏は心の中で混乱しながら叫んでいた。
『ちょっとちょっとー⁉︎近い、近いってば!な、何でこんな時に限って、急に触ってくるのよ〜⁉︎ただでさえ妙に色っぽくて、こっちは目のやり場に困ってるってのに、こ…こんな近くに寄って来られたら、避けようがないじゃないっ!』
無言で赤くなったり青くなったりしながら、鴻夏が無意識に後退ると、璉が鴻夏の左腕を捉え、強引に自らの方へと引き寄せる。
予想外の出来事に、そのまま思いっきり倒れ込んだ鴻夏の身体を軽々と抱き止めると、璉は鴻夏の額にそっと自らの手を重ねた。
「特に熱はなさそうですけど、先程から妙に赤くなったり青くなったりしてますよね…。大丈夫ですか…?」
そう言いながら璉に間近から覗き込まれ、鴻夏の顔がゆでダコのように真っ赤になる。
吸い込まれそうなくらい綺麗な翠の瞳に、自らの姿が映っているのを感じながら、鴻夏は思わず思いっきり叫んでいた。
「だ、大丈夫なわけないでしょー⁉︎こ…これだから天然タラシ男は…っ!こっちは男慣れしてないってのに、次から次へと仕掛けて来ないでくれるっ⁉︎心臓がもたないわっ!」
動揺のあまり本音だだ漏れで叫んだ鴻夏に対し、璉がキョトンとした顔をする。
そして少し考えた後、璉は鴻夏の顔色を伺いつつ、こう尋ねてきた。
「えっと…私、何かしました?多分まだ手は出してないと思うんですけど…」
心底わかってない璉に対し、プチンと鴻夏の理性の糸が切れる。
そしてその勢いのまま、鴻夏は璉の襟元を締め上げつつ声を荒げていた。
「手を出さなきゃいいってもんじゃないでしょー⁉︎さっきから、いちいち心臓に悪い事ばっかり…っ!こ、こっちはその度に心臓破裂しそうなくらい動揺してるんだからね⁉︎その辺わかってるのっ⁉︎」
ほぼ説明になっていない、意味不明の事を叫びつつ、鴻夏が逆ギレ状態で摑みかかる。
するとそれに少し驚きつつも、璉はとりあえず冷静にこう返した。
「…あ、はい。すみません…?」
「違〜うっ!そうじゃなく…て…?」
それ以上は喋れなかった。
一瞬自分に何が起こっているのか、鴻夏はまったく理解が出来なかった。
目の前には、これ以上近付けないほどの至近距離で璉の顔があり、彼の下ろしっぱなしの髪がまるで帷帳のように、鴻夏の周囲を包んでいる。
背中から腰にまで回された璉の左腕が、しっかりと鴻夏の身体を支え、右手が軽く顎を支えていた。
そこまで理解したところで、ゆっくりと璉が鴻夏から離れる。
「…ダメですよ、こんな夜遅くに騒いだら。この後宮には小さい子も居るんですから、もう少し静かにね…?」
何だかすごく常識的な事を言う璉に、鴻夏が自らの口元を押さえつつ声もなく固まる。
『ちょっと待って?今…この人、私に何をした?ものすご〜く普通に、軽いノリで口を塞いでくれなかった…?』
そう思った途端、カーッと顔に血が上る。
そして今更ながらに、あの月夜以来の三回目の口付けをされたのだと理解し、鴻夏はひどく動揺した。
しかし相手の方はというと、相変わらず何でもない事のように平然としていて、おそらく鴻夏がようやく静かになったな程度にしか思ってないに違いない。
そう思うと何だか無性に腹が立ってきて、鴻夏は一人真っ赤な顔で憤慨した。
『ちょっと待ってよ、どういう事?もしかしてこの人、単に私がうるさかったからって理由だけで口付けてない⁉︎え、そんなノリでしちゃっていい事なの⁉︎』
チラリと相手を見上げると、目があった途端に璉は軽く微笑んでくれる。
その悪気のない笑顔を見て、鴻夏は一人密かに確信した。
『…間違いないわ、この人。ホントにそれだけの理由で私に口付けてる!そしてこの人にとってあれは挨拶程度のもので、多分深い意味なんてないんだわ…』
どこまでも厄介な夫に、鴻夏は怒り半分、諦め半分で深い深い溜め息をついたのだった。
翌朝、昨夜の怒りをまだ引きずっていた鴻夏は、朝一番に自らの『影』である暁鴉の自室を訪ねると、そのまま聞いてくれと言わんばかりに昨夜のあらましを語っていた。
実は暁鴉の部屋も鴻夏の自室のすぐ隣にあり、いざという時のために、璉の自室と同じように扉一枚で繋がっている。
さすがに朝一番から何を怒って現れたのかと驚いた暁鴉だったが、話を聞くにつれ、すぐに昨夜の状況を正確に理解した。
そして少々困った顔で、こう呟く。
「あー…まぁ大体状況はわかった。そんで鴻夏様が何に対して怒ってるかのもよくわかったんだけど…相手が主なだけに、それは仕方ない事なんじゃないかとあたしは思うよ…」
璉の性格を熟知しているだけに、暁鴉は冷たいくらいにあっさりとそう答える。
そしてポツリと聞き逃しそうなほど小さい声で、こう付け加えた。
「うちの主はさ…どっちかっていうと、あたしら側の人間だから、そういう当たり前の事に疎いのは仕方ないと思うよ」
「…璉が暁鴉達と同じって…?それってどういう意味?」
その呟きを聞き逃さなかった鴻夏がそう尋ねると、暁鴉は困った顔でこう答える。
「そのまんまの意味さ。主がまだ話してない事を、あたしが勝手に言うわけにはいかないからこれ以上は話せないけど…でも主に悪気がなかった事だけは、わかってやってくれないかな…?」
どこか陰を帯びたその言葉に、鴻夏は毒気を抜かれたようにこう呟く。
「それは…わかってるわ。だからこそ腹がたつんじゃない…」
その素直な言葉に暁鴉は微笑むと、クシャクシャと鴻夏の頭を撫でながらこう答えた。
「…ホントにあんたは良い子だね。どうかその真っ直ぐな心で、主を癒やしてやっておくれよ?あの人には…あんたみたいなのが必要なんだ」
そう言った暁鴉の様子がひどく哀しげで、言われた鴻夏の方はその意味がよくわからず、けれどそれ以上は何も聞けなかった。
おそらく璉や皆にはまだまだ自分の知らない何かがあって、それが原因で時々哀しい顔を見せるのだろう。
だからこんな自分が彼等にとって癒やしだというのならば、自分はこのまま変わらずに居るべきなのだろうと鴻夏は思った。
そしてそんな鴻夏の耳に、気持ちを切り替えたように明るい暁鴉の声が響く。
「さぁ、とりあえず鴻夏様はちゃんと着替えて来なよ。そろそろ朝飯に行かないと、食いっぱぐれちゃうよ?」
「あ、そうね…。ねぇ、暁鴉待っててくれる?一緒に朝食に行きましょう」
そう鴻夏が誘うと、暁鴉が笑顔で軽く頷く。
それを確認すると、鴻夏も笑顔で慌てて着替えに戻って行った。
手早く着替えを済ませ、暁鴉と二人食堂代わりの大広間に入ると、中にはすでにたくさんの人々が集まって居て、まるで朝の市場のように活気に満ち溢れていた。
そして鴻夏が入って来たのに気付くと、途端にあちこちからたくさんの声がかかる。
「おはようございます、鴻夏様」
「おはようございます、先に頂いてますよ」
笑顔で次々と挨拶され、鴻夏も嬉しそうに笑顔を見せながら皆に挨拶を返す。
その様子を離れた場所から見つめながら、總糜が楽しそうに隣に座る男に声を掛けた。
「ほ〜っ、結構な人気者じゃん。モテる嫁さん持って心配にならない、主?」
そう朝から意地悪く話を振られた璉は、特に気にした風もなく、笑顔でこう躱す。
「そうですねぇ。まぁ私は總糜ほど嫉妬深くはないので、そこまで気にはなりませんね」
「…主、なんか性格悪いっすよ?」
「おや、そうですか?でも事実ですよね」
ニコッと悪びれもせず璉がそう答えると、突然ピシャリと横から黎鵞が窘める。
「…總糜、口の聞き方に気をつけなさい。璉もいちいち相手をしないように。貴方達はもう少し、主従関係について考えるべきです」
そう黎鵞が締め括ると、璉も總糜も慣れた様子でこう答える。
「まぁまぁ別にいいじゃないですか。私は特に気にしてませんし…」
「そうそう、今更っしょ?」
そう緩く返すと、ギロッと睨みつけられる。
なまじ人間離れした容姿なだけに、黎鵞に睨まれると妙に迫力があるのだが、そこは慣れた二人の事、平然としながらこう返す。
「あらら…ご立腹…」
「まぁまぁ黎鵞、そう怒らなくても…」
「…貴方達が怒らせてるんですっ!」
そう黎鵞が強く言い放ったところで、ひょこっと鴻夏が顔を出した。
「おはよう、皆。…なんか朝から珍しく黎鵞が怒ってる…?」
そう鴻夏が声をかけると、焦って黎鵞が席を立ちながら、慌てて詫びの言葉を述べる。
「鴻夏様…っ!これは失礼を…」
「お、ナイスタイミング〜♪」
總糜が軽いノリでそう答えると、すかさずベシッと横の黎鵞に殴られた。
それを横目に見ながら、璉が爽やかな笑顔で声をかけてくる。
「おはようございます、鴻夏。気持ちの良い朝ですね。体調はいかがですか?」
「…おはようございます、璉。べ、別に悪くはないわよ?それより私と暁鴉も同席させていただいてもいいかしら?」
そう尋ねると、『どうぞ』と彼等は快く了承してくれる。
それを確認し席に着くと、ふと鴻夏は珍しく牽蓮がこの場に居ない事に気がついた。
「あら…?珍しく牽蓮が居ないのね?」
「ええ、昨日彼に視察の仕事を頼みまして、今朝は早くから城外に出ています。多分夕方までには戻ってくると思うので、夕食の時には会えますよ」
そう璉が答えると、ちょうどそれを見計らったように、次々と鴻夏と暁鴉の前に朝食の品が並べられる。
給仕当番の女官に、にこやかにお礼を述べると、鴻夏は丁寧に手を合わせ、その後に幸せそうに食事を始めた。
それを穏やかに見つめながら、ふいに璉が黎鵞に話しかける。
「さて今日は牽蓮が居ないので、複雑な案件の処理は無理ですね…。何か緊急を要するようなものはありましたか?」
「いえ…牽蓮抜きでも、無理に進めなければならない案件はなかったと思います。それも踏まえて、本日の視察の日程を組ませていただきましたので、今日はもっぱら雑事の処理が中心ですね」
そう黎鵞が答えたところで、それを聞き留めた鴻夏がポツリとこう呟く。
「…牽蓮ってそんなに優秀なの?」
その問いに、その場に居た者全員が思わず苦笑し、その後に璉が代表してこう答える。
「牽蓮はああいう性格なんで、誤解されがちですが、実は数学・物理学の天才学者です。ここに居る黎鵞も、もちろん人並み外れて優秀ですが、それでも牽蓮には敵いません。確か花胤と風嘉の皇立学院の最年少首席卒業の記録は、牽蓮が持っていたと思いますよ」
「え…っ、嘘⁉︎黎鵞より上なのっ⁉︎」
あまりにも意外すぎる答えに、思わず鴻夏が喰いつくと、黎鵞がにこやかに頷きながら、こう説明してくれる。
「はい。例えば新しく橋を架けるとします。その場合、まず橋を作る予算をどこから捻出するのか、資材・人手をどこからどう調達すると一番効率がいいのか、またその作りたい場所の地形・環境などから、どの程度の規模のどんな機能を持った橋を設計すべきかなど、決めるべき事はたくさんあります」
そこで一旦言葉を区切った黎鵞は、鴻夏を真っ直ぐに見つめると、続けてこう言った。
「そのため実際の工事を始める前に、普通は専門知識を持った大勢の官僚が、何ヶ月もかけて調査・計画を行うものなのですが、これを牽蓮は一人で数時間でやってのけます」
突然さらりと、とんでもない事を言ってのけた黎鵞に、鴻夏は凍りつく。
そして更にそれを補足するように、璉がこう付け足した。
「まぁ数時間かかると言っても、その大半は彼の頭の中の内容を正式に文書化するための時間です。答え自体は一瞬で出てますね」
「え…っと、それって普通の人には出来ない…わよね?」
あまりにも信じられない内容に、思わず間抜けな質問を返してしまった鴻夏だったが、それに対し璉が丁寧に回答する。
「出来ませんね…。だから天才なんですよ」
「…性格はどうしようもないヘタレなんですがね…。才能自体は本物です。だから今日みたいに牽蓮が居ない日は、業務が滞って普段の半分も処理出来ないんですよ」
溜め息混じりに黎鵞もそう答え、鴻夏はこの日初めて、一番普通っぽく感じていた牽蓮が、実はとんでもない化け物だった事に気が付いたのだった。
その頃 璉の勅命を受けた牽蓮は、西方領との境にあたる川の橋の上で、財務長官 兼 西方領の長官である邰 樓爛と対峙していた。
今回の彼の視察の目的は、この橋が経年劣化により架け替えが必要になったため、川のどの場所にどの程度の規模の橋を架けるかを決めるためであった。
そしてこの橋は、皇都と西方領とを結ぶ重要な行路の要であるため、当然の事ながら西方領の長官を務める樓爛も、自らここまで出張ってきたというわけである。
そして今、二人は橋を架け直す場所とその規模について、真っ向から対立していた。
「だ〜か〜ら〜っ!いくら樓爛様の頼みでも、無理なものは無理です。その案は採用出来ませんっ!」
「でも西方領の利益を維持するには、必要な事なんだよね〜。こっちも損はしたくないわけだからさぁ、その辺を君のお得意の計算力で何とか出来ないの、牽蓮君…?」
相変わらずお金が絡む事になると、頑として譲らない樓爛に牽蓮が業を煮やす。
ギリギリまで今の橋を使いつつ、新しい橋を架け直すとなると、基本同じ場所に架けるというのは無理がある話なのだが、街道整備の仕直しなど西方領側に余計な経費がかかるからと、樓爛は今と同じ場所に今より更に大きい橋を架け直して欲しいと我儘を言うのだ。
工期や予算、人足達の手間などを考えると、面倒な事この上ないのだが、いつまでも平行線では埒があかない。
仕方なく牽蓮は自らの頭の中で、お互いの主張の折衷案を計算し直す事にした。
もちろんこれは、数学・物理学の天才である牽蓮ならではの芸当である。
牽蓮は暫し無言で考え込んでいたが、ふいに橋の上で大きめの白紙を広げると、ペンでサラサラと器用に絵を描き始めた。
それを横から無言で見つめる樓爛の前で、牽蓮はあっという間に一枚の設計図を描き上げると、それをズイッと樓爛に突き付ける。
「…予定より大幅に予算が増えますけど、こういった橋ではいかがです?これなら今ある橋を活かしつつ、同じ場所に更に大きな橋を架け直す事が出来ます」
そう言って牽蓮が見せたのは、今ある橋の横にまず一本の新しい橋を架け、それが出来た後に、今度は古い橋の場所にもう一本の新しい橋を架け直し、最終的に二本の橋を合体させ、今の場所に倍の大きさの大きな橋を架け直す計画書だった。
それを見て、樓爛が目に輝かせてこう叫ぶ。
「そうそう、こういうの!こういう感じのが欲しかったんだよね〜。さ〜すが牽蓮君!これがいいよ、うん!」
それをチラリと眺めつつ、牽蓮もしっかりと釘を差す。
「でも樓爛様、この工法だと当然の事ながら工期も倍かかるので、その分 建築費もかなり上がるんですよね…。ご存知の通りうちもかなり財政は厳しいので、余計にかかった分は橋に通行料を設けて回収させて頂きたいんですけど、よろしいですよね…?」
そう言われ、さすがの樓爛もそこは仕方なく妥協する。
「あー…、まぁ仕方ないね。でもちゃんと橋の建築費を回収し終わったら、通行料も撤廃してよ?」
「そこはお任せください。大丈夫、利用者の皆さんに負担がかかり過ぎない程度の額にして、十年ほどで回収できるようにしますよ」
ニッコリ笑いながら牽蓮がそれを保証すると、渋々 樓爛の方も了承し、ようやく二人は合意に達する。
「…ではこれで樓爛様から、正式に建設の許可も頂きましたので、来月にも着工出来るよう手配に入らせて頂きます」
「うん、頼むね〜。この橋がなくなると西方領の皆が困るし、それに何とな〜くだけど北方領がきな臭い気がするんだよねぇ…。まぁ私が気付くくらいなんだから、璉ならとっくに気付いてなんか考えてるとは思うけどさ?いざという時のために、こういう事は早めに対処しとかないとね…」
ふいに樓爛が、蛇ような目でさらりと抜け目ない事を言ってのける。
さすがは璉の側近と言うべきか、この男も大概ただ者ではないようだった。
それに対し牽蓮が感心したようにこう呟く。
「ホント樓爛様って、そういうとこ妙に鋭いですよね?璉がただの商人にしとくのが惜しいって、わざわざ声かけるわけだ…」
そう言われた樓爛が、実に喰えない様子でこう切り返す。
「…これでも元は、西方一の武装商人だったんだからね?商売も戦争も、どっちも情報と読みが肝心さ。だって勝機を逃したら、相手に喰われるだけだからね」
フフッと不敵に笑うと、樓爛は『それじゃあよろしくね』とだけ言い残し、ヒラヒラと後ろ手に手を振りつつ、のんびりと西方領へと戻って行った。
その後ろ姿を見送った後、牽蓮も踵を返し、中央の皇都へと帰還を始める。
普段はどちらもそう見えないが、やはり璉の側近を勤めるだけあって、どちらもただ者ではない男達であった。
その夜、無事に樓爛との交渉を済ませた牽蓮は、予定通り皇都に戻ってきていた。
そして仕方なく新しく描き直す事になった橋の設計図と、それによって増えた建築費の回収方法について璉と黎鵞に報告すると、璉は特に怒るでもなくこう答える。
「…まぁ樓爛の事だから、多分ゴネるだろうなとは思ってました。それで増えた建築費の回収は、本当に橋の通行料だけで何とか出来そうなんですか?」
そう璉が確認すると、牽蓮がそれに対しあっさりとこう答える。
「ああ、その点は問題ありません。樓爛様から通行料を取っていいとの確約を貰いましたからね。きっちりしっかり回収させていただく事にします」
ニッコリと妙に人の悪そうな笑みを浮かべる牽蓮に、璉か何かを感じ取る。
そして重ねてこう尋ねてみた。
「…何かからくりがある感じですね?」
「ええ、まぁ。樓爛様は多分、橋の通行料は新しい橋が出来てからだと思ってると思いますが、橋の通行料をいつから取るかについては、僕の判断次第ですからね…。今からきっちりと取らせていただく事にします」
牽蓮が澄ました顔でそう答えると、璉と黎鵞は無言で顔を見合わせ思わず苦笑する。
「…やはり牽蓮に行っていただいて正解でしたね。助かりました」
そう璉が告げると、牽蓮はいつも通り『どういたしまして』とにこやかに答える。
ついこの雰囲気に騙されてしまいがちだが、やはり牽蓮も璉の側近。
どうやらあの百戦錬磨の商人も、牽蓮には一杯喰わされてしまったようだと璉と黎鵞は思ったのだった。
続く