ー紅凰の目覚めー
璉に緊急連絡が届く一時間ほど前、南方領の砦では予想外の事態が巻き起こっていた。
視察団が留守の間に、闇取引を決行しようと砦を抜け出した暁刃達を、何も知らない宝砂が無邪気に追いかけていったのだ。
その上 それを見かけた鴻夏と暁鴉が、宝砂を連れ戻そうと慌ててその後を追いかけ、そのまま芋づる式に砦の外へと出てしまった。
そして更に間の悪い事に、暁刃達と取引するため、砦の近くまで来ていた闇商人らが、あろうことか鴻夏に目をつけてしまったのだ。
鴻夏の類稀な美しさに惹かれた闇商人らは、相手の素性も知らずに、すぐに鴻夏を捕らえて連れ去る事を決断した。
そして鴻夏が宝砂に追い付く頃には、すっかり周りを取り囲まれてしまったのである。
もちろん鴻夏には優秀な『影』である暁鴉が付いているが、いくら暁鴉が優秀でも、鴻夏と宝砂の二人を庇いながら、二十人以上もの敵を一人で相手するのはさすがに分が悪い。
一応砦を出る前に、密かに璉と嘉魄に向けて知らせは飛ばしていたが、今すぐ駆けつけてくれるほど近くに居るとも思わなかった。
『…とにかく時間稼ぎをするしかないね』
そう決断すると、暁鴉は鴻夏にだけ聞こえる声でこう囁く。
「鴻夏様…。さすがに人数が多いから、この場は一旦逃げるよ?煙幕を張ったら、突破するからちゃんと付いてきておくれ」
「…わかったわ」
短くそう答えると、鴻夏は腕にしっかりと宝砂を抱え直し、そして彼女を安心させるかのようにこう囁く。
「…宝砂、今からあのおじさん達と隠れんぼをするからね。だからビックリしても、絶対に声を出しちゃダメよ?」
「うん?わかったわ」
無邪気にそう答えると、宝砂はその小さな手でしっかりと自らの口を押さえた。
それを見て、鴻夏が優しく微笑みかける。
「良い子ね、宝砂。そのまま私に捕まっているのよ?…暁鴉、いつでもいいわよ」
そう鴻夏が答えると、それを聞いて暁鴉が短くこう答える。
「…行くよ」
その呟きと共に、暁鴉が目の前の地面に向かい、隠し持っていた黒い球を叩き付ける。
その途端ドンッという鈍い衝撃と共に、辺り一面が白い煙で覆われた。
「行くよ!」
グイッと肩を引かれ、鴻夏は暁鴉に促されるまま、その場から走り出す。
腕の中には鴻夏の言いつけを守って、口を押さえたまま耐える小さな宝砂が縋っていた。
その小さな体をしっかりと抱き締めながら、鴻夏は強い決意で目の前を見据える。
『絶対にこの子を守らなければ…!』
その鴻夏の決意を叶えようと、暁鴉が動揺する敵の一人を容赦なく始末する。
それによってポッカリと開いた敵の包囲網を擦り抜け、鴻夏、宝砂、暁鴉の三人は、そのまま一気にその場を抜け出した。
ところがすぐにその事に気付いた敵が、大きな声でこう叫ぶ。
「おい、抜けられたぞ!女達が逃げる!」
「囲め、囲め!」
「東だ、東側を塞げ!砦に戻らせるな!」
煙の中から男達のそんな怒号が聞こえ、暁鴉が鋭く舌打ちをする。
「…仕方ないね、他へ逃げるよ」
「え、ええ…」
どんどん戻るべき砦から離され、鴻夏も不安がないわけではなかったが、それでも大人しく捕まるわけにはいかない。
暁鴉の指示に従い走りながら、鴻夏は心の中で必死で璉に助けを求めていた。
『…怖い!助けて、璉、璉…っ!』
言い様のない不安に押し潰されそうになりながら、それでも鴻夏は必死に走り続ける。
腕の中の小さな命を守る事、それだけが鴻夏の気持ちをこの場に繋ぎ止めていた。
そしてそんな鴻夏を庇いながら、暁鴉は次々と目の前に現れる敵を切り捨てていく。
普段であれば、手加減して動けない程度の怪我で留めるところだが、さすがの暁鴉も今はそんな情けをかけている余裕はない。
殺れる時に確実に倒し、着実に敵の数を減らさなければ、逃げ続ける事も危うかった。
『早く、相手を引き離さなければ…』
そうは思うが、腕に宝砂を抱えドレスで走る鴻夏に、これ以上の速度は望めない。
この場に馬でもいれば別だが、お互い徒歩のこの状況では、明らかに男達の追跡を振り切る事は難しかった。
『…さすがに厳しいか…』
そう判断すると、暁鴉はあっさり隠れる事を放棄し、相手の戦力を削ぐ方に専念する。
こうなっては少しでも長く時間を稼ぎ、応援が駆けつけてくれるのを待つしかない。
だがいかに暁鴉が優れた女忍であっても、体力的にはどうしても男性に劣る。
だから本来ならばこのような持久戦は避けるべきであったが、今はもう他に方法がない。
自分一人でどこまで粘れるかを計りながら、暁鴉はひたすら護りに徹した。
『…早く、来てくれよ。主、嘉魄!』
今どこに居るかのかももわからない二人相手に、暁鴉は心の中でそう呼びかける。
そして暁鴉が何人目かの敵を切り捨て、再度剣を構え直した時、ふいにその場に予想もしていなかった若い男の声が響いた。
「おい…っ?どういう事だ!なんでお前達が砦の者達を襲ってる⁉︎」
そう驚きの声を上げたのは、取引現場に現れない闇商人らを探しに来た暁刃達だった。
彼等は鴻夏達を見とめると、慌ててその場に駆け寄ってきた。そしてその姿を見て、闇商人らは舌打ち混じりに不快な顔を見せる。
だが暁刃達はそのまま闇商人らと鴻夏達の間に割って入ると、強気な口調でこう返した。
「説明しろ!なぜお前達が砦の者達を襲ってる?砦の者には、絶対に手を出さないという約束だったろう⁉︎」
「…そうは言ってもねぇ…。どう見ても見慣れないお嬢さん達だったんで、てっきり通りすがりの旅人かと…」
そう言って闇商人らは誤魔化そうとしたが、そんな言い訳が通じるはずもない。
すぐさま暁刃が、容赦なく正論を唱えた。
「この辺りに居るという事は、例え見慣れない者でも間違いなく砦の関係者だ。そのくらいは小さな子供にだってわかる!それに旅人なら旅装くらいはしているだろう。彼女達のどこを見て、旅装しているように見える⁉︎」
チッとどこからか、舌打ちの音が聞こえる。
どこまでも生真面目な若者らが鬱陶しいとばかりに、闇商人らは無言で顔を見合わせた。
そして彼等は忌々しげに暁刃らを睨みつけながら、一旦引くような素振りを見せる。
まだ完全に助かったわけではなかったが、それでも闇商人達が怯んだ事で、鴻夏は少しだけ安堵の溜め息をついた。
『とりあえず…助かった…の…?』
そう鴻夏は思ったが、目線の先に居る暁鴉はまったく緊張を解いていなかった。
それを見て、鴻夏もまだ安心は出来ないのだと悟り、改めて気を引き締める。
確かにその場に現れた暁刃達は、自分達を護ろうとしてくれていたが、闇商人らが素直に言う事を聞いてくれるとは限らない。
そう思っていたら突然その場に、聞き慣れない中年の男の声が響き渡った。
「何をしておる⁉︎早う女達を捕らえぬか!」
「…で…殿下、しかし…」
困ったようにそう呟いた闇商人らの一人が、容赦なく鞭で打ち据えられる。
突然の出来事に鴻夏達が唖然としていると、その中年の男はそれが当然だと言わんばかりに、輿の上で踏ん反り返ってこう叫んだ。
「我に口答えをするでない!我の要望を叶える事こそが、其方達の役割であろう!」
そうヒステリックに叫ぶ男は、浅黒い肌に短く刈りそろえられた黒髪、まるで饅頭のように丸い顔の中に線のように細い目とずんぐりした鼻、分厚い口唇が特徴的な四十代後半と思しき恰幅の良い男だった。
頭に巻いた白い布には、大人の親指の先ほどもある大きな紅玉と白い大きな羽根が飾られており、ふくふくとした両手の指には、全て大きな宝石の嵌った指輪が輝いている。
また太い首には、これまた三連にもなる豪奢な金の首飾りがかけられており、これがまた無駄にキラキラと輝いていた。
そして全身をやたらと飾り立てているその男は、分厚い脂肪に覆われた身体を大きく揺すりながら、高飛車な態度でこう宣う。
「早う捕らえよ。真の皇帝たる我を、無駄に待たせるでない」
「…皇帝⁉︎」
思わず暁刃達の口から、異口同音に同じ単語が溢れ落ちる。
一瞬、この男の頭がおかしいのかと思った。
この男は一体何を言っているのだろう?
この辺りで皇帝と言えば、風嘉帝たる緫 璉瀏か月鷲帝である濤 鴎悧かのどちらかである。
どちらも軍・官僚・国民すべての圧倒的な支持を得て、皇位に就いた四大皇国の中でも、一、二位を争うほど有名な武帝であった。
その各国から一目置かれる二人の皇帝を差し置いて、自らを『真の皇帝』と称するこの男は一体何者だというのだ?と全員が心の中で首を傾げたところで、ふいにその場に別の男の声が響いた。
「…お前達。女達に限らず全員を捕らえよ!この者達に殿下のご身分を知られた。このまま返すわけにはいかん」
そう言って前に進み出て来た男の顔を見て、今度は暁刃達が声もなくその場で凍り付く。
そして暁鴉も予想を遥かに超える事態の深刻さに、思わず強く奥歯を噛み締めた。
その中でただ一人、あまり事態が飲み込めていない鴻夏の耳に、腕の中の宝砂の無邪気な声が響いてくる。
「あ、光嚴様だぁ」
「…お…伯父上…?」
「光嚴殿⁉︎」
次々と周りから上がる不審の声に、さすがの鴻夏もぼんやりと事態を把握する。
そしてそれを確認するように、鴻夏は暁鴉に対しそっとこう囁いた。
「暁鴉…あの方は…」
「…うん、砦の金庫番を務めている光嚴殿。夜刃将軍の実の兄上にして、そこにいる暁刃殿の伯父上さ」
「夜刃将軍の…⁉︎」
そう言ってもう一度、馬上の男を振り仰いだ鴻夏は、最悪の事態を想像して蒼ざめた。
月鷲側の闇商人らと砦の金庫番、そして自らを『真の皇帝』と称する身分の高そうな男。
明らかに最悪としか思えない組み合わせに、考えたくない嫌な予想が頭を過ぎる。
『反乱…?でも一体どちらの国の…⁉︎』
そう鴻夏が思ったところで、暁刃が叫んだ。
「伯父上!これは一体どういう事です⁉︎なぜ貴方がこんな連中と一緒に居るんだ⁉︎まさか今までの取引は…っ!砦の皆のためだという事すら、すべて嘘だったのかっ⁉︎」
信じたくないとばかりに、絞り出すように叫ぶ暁刃に、光嚴は冷ややかな視線を向ける。
そしてニタリと笑うと、愚かな若者達を嘲るようにこう語った。
「…暁刃よ、愚かな我が甥よ。これも砦を守るためなのだ。ここは風嘉の領土の中でも、一際貧しい場所。あの『白龍』が作った壁のせいで、我らの大事な草原は分断され、壁のこちら側には僅かな土地しかない。だが砦が月鷲の物となれば、我らはもっと広い草原を手に入れられる。そうなれば砦の暮らしも、もっと豊かになるのだぞ?」
そう嘯く光嚴に、怒り悲しむような暁刃の声が飛ぶ。
「馬鹿な…っ!砦を月鷲に売ったのか⁉︎」
「…売ったとは人聞きの悪い…。より良い環境を選んだまでの事…」
悪びれもせずそう答える光嚴に、思わず暁刃が掴みかかろうとする。だがすぐさま間に邪魔が入り、暁刃はその場で歯噛みをした。
まさか信じていた相手に騙され、敵国の手先にされていたとは…情けないにも程がある。
そして暁刃はひどく疲れた様子で深い溜め息をつくと、チラリと後方に控える鴻夏へと目をやり、ポツリとこう呟いた。
「…申し訳ありません、お妃様」
「暁刃殿…?」
「伯父に騙され、どうやら知らぬ間に敵である月鷲の片棒を担がされていたようだ。だが事情はどうあれ、俺達の事は自業自得。どうなっても仕方ないが貴女がたは違う」
そう言うと暁刃はそこで言葉を区切り、腰につけていた剣をスラリと抜剣する。
それに習って他の仲間も抜剣するのを感じながら、暁刃は続けてこう語った。
「必ず貴女の御身をお護りする!今回の事はすべて俺達が一存でした事。だからどうか…砦の者達を咎める事はしないで欲しい…」
そう言うと、暁刃は無言で剣を構え直した。
今となっては璉瀏帝の妃である、鴻夏の身を護る事でしか、国への忠誠心を示せない。
明らかに不利な状況下ではあるが、それでも何とかして鴻夏を護ろうとする彼等の耳に、静かに光嚴の揶揄する声が響く。
「愚かな…暁刃。この段階になっても、まだ風嘉に拘るか」
「伯父上、俺は貴方とは違う。俺が護りたかったのは砦であり、ひいては風嘉だ。決して月鷲に寝返る事ではない!」
はっきりそう言い切ると、暁刃はキッと光嚴を見据えた。おそらく彼は伯父と刺し違える覚悟なのだろうが、まだ年若い彼等をこんな所で無駄死にをさせるわけにはいかない。
そう思った鴻夏は一瞬即発の空気の中、風嘉の皇后として一つの決意をする。
そしてその覚悟の下に、鴻夏は自らの『影』である暁鴉に小声で話しかけた。
「暁鴉…。抵抗を止めましょう」
「…鴻夏様⁉︎」
「皆の命を危険に晒すわけにはいかないわ。私は全員、無事に生きて帰りたいの。だから今は敢えて捕まりましょう」
淡々と告げる鴻夏に、暁鴉が愕然とする。
相手が明らかに鴻夏狙いとわかっているのに、そんな奴等に捕まろうものなら、鴻夏がどんな目にあうかわからない。
特にあの『殿下』と呼ばれている小太りの男などは、先程から下心丸出しで鴻夏に舐めるような視線を送ってきている。
捕らえられたが最後、すぐにでも鴻夏に手を出して来るのは間違いなかった。
「…ダメだよ、鴻夏様!そんな事をしたら、あんたの身に危険が及ぶ…!」
「覚悟の上よ。ここで抵抗したら確実に誰かが怪我をするわ。 下手をしたら命を落としてしまうかもしれない…。それだけはダメよ。ここに居るのは皆大事な風嘉の民、璉が日々命がけで護っている大切な人達なの。私は名ばかりの皇后だけれども、それでも私も風嘉の人々を護りたい。璉が大切にしているものを、私も一緒に護りたいの」
そう告げると、鴻夏は強い意志を感じさせる瞳で暁鴉を見つめた。
美しい金の瞳がキラキラと輝き、強く華やかで美しい、まるで朱金の焔のようなオーラが鴻夏から立ち昇っているように見える。
それを眩しそうに見つめながら、暁鴉は心の中でこう呟いた。
『あぁ…あんたはやっぱり主が選んだ人だ。まるで焔のように強く気高く美しく、そして誰よりも優しい…』
そう思いながら、暁鴉は軽く目を伏せる。
そしてすぐに意を決したように、静かに鴻夏を見つめると、はっきりとこう答えた。
「…わかったよ。ただし少しでも、あんたに危険が及ぶと判断したら、あたしはすぐさま反撃に転じるからね?」
「…!ありがとう、暁鴉」
ニコッと嬉しそうに微笑むと、鴻夏はすぐにその笑顔をおさめ、スッと一歩前へと出た。
その途端、その気配を感じて暁刃達が焦る。
「お妃様…⁉︎」
「お下がり下さい、暁刃殿」
「え⁉︎」
「今ここで抵抗すれば、皆の身に危険が及びます。私は風嘉の皇后として、貴方がたの身の安全を護る義務があります」
はっきりそう告げると、鴻夏はその場に居る誰よりも毅然とした態度でこう命じた。
「投降しましょう。剣をおさめてください」
「し…しかし、それでは貴女の御身に危険が…っ!それにそんな事になれば、我々は二度と『白龍』に合わせる顔がありません!」
蒼白な顔で訴える暁刃に、鴻夏が静かな声でこう諭す。
「私は大丈夫です。陛下が日々お護りなっているこの国は、陛下の妃である私も護るべきもの…。貴方がたは私が護ります」
「お妃様…」
力強くそう宣言すると、鴻夏は静かに暁刃を見据えた。暁刃達とそう変わらない年齢であるはずなのに、鴻夏の姿勢はすでに人の上に立つ者としてのそれである。
思わず圧倒され固まる暁刃を尻目に、鴻夏の脳裏には結婚前に璉に言われた言葉が蘇った。
『風嘉の皇后になるという事は、ここに居るすべての民の幸せを護る責任を負うという事です。逆にそれが出来ない者に、人の上に立つ資格はございません』
自らが風嘉帝である事を伏せたまま、璉は静かに鴻夏にそう説いた。
今にして思えば、あの時 鴻夏に風嘉の民を護ろうとする気持ちがないようなら、璉は鴻夏とは結婚しないつもりだったのだと思う。
しかしそれに対し、鴻夏はこう答えたのだ。
『私にどこまでの事が出来るのかはわかりません。でももしそれでも風嘉帝が私との結婚を望んでいただけるのなら、私はこの国の為に一生を捧げようと思います』と。
だからこそ璉は、鴻夏を自らの妃として迎える事を決めたのだ。そして今、鴻夏は自らが選んだ道を着実に守ろうとしている。
そしてその揺るぎない決意が、朱金の焔のようなオーラとなって、鴻夏を輝かせていた。
一般的に皇帝を『龍』で表すように、皇后は『鳳凰』で表される事が多い。
そして今の鴻夏の姿はまさに、地上に降り立った鳳凰の如く、華麗で凛としていた。
その魂をも揺さぶるような美しい姿に、暁鴉も暁刃達も声も無く見惚れてしまう。
つい鴻夏に仕えられる事が誇らしく、その場に跪きたくなるような衝動に駆られた。
そしてその心のままに、暁刃達は自然と鴻夏に対して跪き、深くその頭を下げる。
その後 彼等を代表して、暁刃の口から一つの言葉が溢れ落ちた。
「お妃様…。まさに鳳凰のように強く華麗な我らが皇后よ。御身に仕えられる事は至上の喜び。我らは貴女様の指示に従いましょう」
その言葉通りに、暁刃達は自ら剣をおさめると、鴻夏に対し再び深く頭を垂れた。
この強く美しい人の命令に従う事こそが、正しい事なのだと思っているようだった。
しかしそれを見て、月鷲独特の金の瞳を持つ小太りの男は、両手の全ての指に嵌めた指輪をギラつかせながら激昂する。
「…おのれ、下賤の者めが!我こそが『真の皇帝』であるのに、何故我ではなくその娘に頭を下げる⁉︎我を崇めよ!」
「…殿下。まずは奴等を捕らえて、早くここから移動すべきかと。ここは砦からあまり離れておりませぬ。このままでは、いつ砦の駐屯兵に気付かれるかもわかりませぬぞ」
そう光嚴が厳しい表情で進言すると、小太りの男はチッと鋭く舌打ちをし、面倒臭そうに手を振った。するとそれを合図にバラバラと、闇商人らが鴻夏達を取り囲み、次々と武器を取り上げ縛り上げる。
しかしさすがに鴻夏と宝砂だけは、縛るのが躊躇われたのか、鴻夏はそのまま宝砂を抱いたまま付いてくるよう促された。
こうして鴻夏達は無傷のまま、闇商人兼盗賊達と『殿下』と呼ばれる月鷲の要人、そして砦の裏切り者の光嚴に捕らわれたのである。
しかしその場に居た誰もが気付かなかったが、その様子を離れた場所から窺っている者達が居た。彼等は闇商人らに気付かれないよう細心の注意を払いながら、この後どこに移動するのかを密かに見届けようとしている。
そしてその中の一人が、ひどく面倒臭そうにこう呟いた。
「あ〜あ、やっちゃったねぇ。寄りにも寄って、鴻夏様に手を出すなんて命知らずな…。こりゃあ璉が怒り狂うね」
そうボヤいたのは、亜麻色の短い髪に青い瞳の小太りの男。呑気な口調とは裏腹に、その瞳は蛇のように冷淡で、闇商人らを隙なく見張りながら事の成り行きを見守っている。
言うまでもなくそれは、現 風嘉帝 璉瀏の側近である邰 樓爛であった。そんな彼に向かって、部下の一人がオロオロと声をかける。
「あ…あの、樓爛様…」
「ん〜、何?」
「その…よろしいので…?このままだとお妃様が奴等に連れ去られてしまいますが…」
そう恐る恐る進言すると、樓爛はそれすらも面倒臭いとばかりにこう答える。
「だぁって仕方ないじゃない?助けようにも結構な距離あるから間に合わないし、それに私が璉から受けた命令は、闇取引ルートの解明と殲滅だからさ?奴等を泳がせて、本拠地まで案内してもらわないと困るんだよねぇ」
「…!そ、それではお妃様を囮に…っ⁉︎」
何でもない事のように答える樓爛に、思わず部下が驚くと、その言い方にカチンときたのか、少し不機嫌そうな顔で樓爛が答える。
「…あのねぇ、人聞きの悪い事言わないでくれる?あいつらが勝手に、鴻夏様にまで手を出したの。私はたまたまそれを遠くから見掛けただけ…違う?」
ニヤリと人の悪い笑みを見せながら、樓爛が得意げにそう語る。もちろん今の事態は樓爛が狙って作ったものではないが、すでに起こってしまっているものは仕方ない。
あとはいかにこの事態を利用し、そこから最大限の効果を引き出すかである。
その為には例え主人の身内であろうと利用するのが、この邰 樓爛という男であった。
しかし樓爛はふいに考え込むと、誰に言うでもなくポツリとこう独りごちる。
「まぁ…でも一応 璉には報告しておくかな?でないと後が怖いからねぇ」
そう言うと樓爛は手早く報告の手紙を書き、後ろに控える黒髪の男へと話しかける。
「燈牙。悪いんだけどさ、ちょっとこの事態を報告しに、璉のところまで行ってきてくれるかなぁ?」
ピラピラと報告の手紙を振りながらそう頼むと、長めの前髪で顔半分を隠した男は、鬱蒼とした視線を樓爛に送りながらこう告げる。
「…承知」
そう短く答えると、燈牙と呼ばれた男は樓爛の手から手紙を引ったくり、一瞬でその場から姿を消した。
驚いて先ほど文句を口にした部下が、慌てて周囲を確認するが、燈牙の姿はすでにない。
「ろ…樓爛様、先ほどの彼はどこに…⁉︎」
「あぁ、君は会うの初めて?彼はねぇ、私の『影』なの。ちょっと愛想悪いのが玉に傷なんだけど、仕事は出来る子だから心配は要らないよ」
和やかにそう答えると、樓爛はすぐその表情を改め、無言でジッと前を見据えた。
その視線の先には闇商人らに引っ立てられ、どこかに連れ去られようとしている鴻夏達の姿がある。
「…さぁて、奴等の巣はどこかな?ちゃんと案内してもらわないと、困るんだよねぇ」
冷たくそう言い放つ樓爛は、普段のふざけた雰囲気など微塵も感じさせないほど、冷酷な表情を浮かべていた。そしてその表情を見た途端、彼の部下達は声もなく凍り付く。
その和やかな口調と表情に騙されがちだが、元々 樓爛は西方領の海を拠点として活動する海上商人の一人であった。
そしてその当時の海上商人らは、時と場合によっては海賊行為も辞さないような荒っぽい連中の集まりで、その中でも樓爛は西方一の権勢を誇る武装商人だったのである。
彼の渾名である『白鯨』はその当時に付けられたもので、巷では彼に睨まれたが最後、塵一つ手に入らないと言われていた。
そしてそんな男が実に楽しげに、獲物を見つけた蛇のような目でこう語る。
「フフッ…。盗賊紛いの闇商人達と海賊紛いの武装商人、果たしてより強いのはどちらかな…?」
そう言って自らを揶揄するように呟いた樓爛の耳に、やけに自信有り気な答えが響く。
「そりゃあ、うちらが上に決まってますぜ、お頭。あんたが居て負けるはずはない」
そう言いながら現れたのは、樓爛が武装商人の頃から仕えている西方領の部下達だった。
今でこそ西方領を治める樓爛の側近として、彼等も風嘉の西方軍に属しているが、元々は商人兼海賊であった男達である。
日に焼け、あちこちに古傷が目立つ強面の男達は、目の前に居る闇商人らよりよっぽど悪役が似合う容姿だった。そしてそのあまりの迫力にビビりまくる周囲を他所に、樓爛は深い溜め息をつきながら文句を垂れる。
「…あのねぇ、いい加減そのお頭って呼び方をやめてくれない?そう呼ばれると、まるで私の方が悪役みたいじゃない」
「似たようなもんだろ?あんたが普通だなんて、ここに居る誰も思っちゃいないぜ?」
ニヤニヤしながらそう返してくる部下達に、樓爛は文句を言いたげな視線を投げる。
けれどそれ以上は口に出しては言わず、樓爛は彼等に向かって別の内容を指示した。
「そんな事より、奴等に鴻夏様を人質に取られた。万が一にでも御身に傷が付く事がないよう、お前達も心して当たれよ?」
「おう、任してくれ!」
そう口々に答える部下達を尻目に、樓爛は再び遥か前方を見据える。
「さぁ…楽しい狩りの始まりだ。久し振りに血が騒ぐねぇ」
そう呟いた樓爛の目に映るのは、闇商人兼盗賊の集団と月鷲の要人と思われる小太りの男、そして裏切り者の砦の金庫番 光嚴。
この日 風嘉の南方領の草原で、西方領の海の支配者たる『白鯨』が、久し振りにその真の姿を現そうとしていた。
陽が大きく傾き始めた頃、闇商人らに捕らわれた鴻夏達は、遥か昔に廃村になったと思われる小さな村まで連れて来られていた。
彼等に捕らえられてから、徒歩で三十分ほども歩かされただろうか?
思ったより砦からそう遠くは離れていない場所で、彼等は待たせていた仲間達と合流し、その数はすでに百人を超えていた。
一体いつからこの場所を根城にしているのか、他にもこういった場所があるのはわからないが、これだけの人数が何の問題もなく駐屯出来ているとなると、どうやら昨日今日の話ではないらしい。
またここだけでも、かなりの人数が月鷲側から風嘉へと流れてきているらしく、そういった状況がわかってくるにつれ、自然と鴻夏達の表情は暗くなっていった。
「…思ったより数が多いね…」
眉を顰めつつ暁鴉が厳しい表情でそう呟く。
鴻夏の命令で敵と殺り合う前に投降した為、怪我人こそ出なかったが、数的に更に不利になったのは否めなかった。やはり敵わないまでも最後まで抵抗すべきだったかと後悔したが、鴻夏は静かに首を振ってこう答える。
「皆に怪我がないのが一番よ。大丈夫、砦の方でも私達が居ない事に気付いて、探してくれているはずよ。とにかく助けが来るまで、時間を稼ぎましょう」
そう鴻夏は慰めたが、すでに暁刃達の不安は大きく膨らんでいたらしい。すぐに控えめながらも、觜絡がこう反論してきた。
「しかし鴻夏様…。砦の者が助けに来たとしても、焼け石に水ではありませんか?まさか砦の者達もこんな大人数の敵が駐屯しているなんて、思ってもいないでしょう…?」
皆を代表するかのように觜絡がそう告げると、途端に場の空気が鉛のように重くなる。
しかし鴻夏は敢えて自信有り気に微笑むと、きっぱりとこう言い切った。
「…大丈夫よ。今この南方領には無敗の武帝である『白龍』が居るわ。璉がきっと助けに来てくれる…。それまで皆で頑張るのよ」
そう鴻夏が告げると、暁鴉もその言葉を後押しするかのように力強くこう語る。
「そうさ、ここはうちの主の本拠地。『風嘉の白龍』が支配する草原だよ?大丈夫、うちの主は決して仲間を見捨てない。すぐに助けが来るさ」
そう言ってはみたものの、暁刃達の不安はまったく解消されなかったようだ。
すぐに疑わしげな視線を向けながら、暁刃が鴻夏に気を使いつつもはっきりとこう返す。
「…お妃様には申し訳ないが、俺はあまり『白龍』の事を信用していない。数多の武勲にしても、たまたま運が良かっただけではないかと思ってる。だから今この状況で、彼に過剰に期待するのは無しでお願いしたい」
そう暁刃が告げると、同じ気持ちだとばかりに他の若者達も大きく頷く。
それを見て、鴻夏は深い溜め息をついた。
確かに璉の事をよく知らない暁刃達にしてみれば、普段優しく穏やかな雰囲気を纏う彼に、疑問を持つのは無理からぬ事であった。
実際に鴻夏自身も、初めて出会った時は彼が璉瀏帝本人だと気付かなかったほどである。
まさか纏う雰囲気一つで、ああも豹変出来るものなのかと驚いたものだが、今はそれが裏目となってしまい信憑性がなくなっている。
おそらくその目で見るまで、暁刃達は決して璉の実力を信用しないだろう。
そうなると大人しく彼等をここに留め置き、ひたすら救出されるのを待つのは、意外と困難な事かもしれないと密かに鴻夏は思った。
『…多分大人しく助けを待つのが、最善の策なんだろうけれど…きっと彼等は納得しないんでしょうね…』
自嘲気味にそう思った時、ふいに鉄格子の外から声が掛かった。
「おい、そこの女達!出ろ、殿下がお前達をお呼びだ」
ハッと視線を向けると、明らかに鴻夏達を見ながら門番と思しき男が手招きをしている。
その途端、牢の中に緊張の波が走った。
そしてすぐさま抵抗しようとする暁刃達を抑え、暁鴉が白々しくこう聞き返す。
「…女って、あたしらだけ?それともこの子もかい?」
「いや、子供はいい。お前とそこの黒髪の女だけ付いて来い」
ぶっきらぼうにそう返すと、門番の男は少し苛立ったように再度手招きをした。
思わず顔を見合わせ、鴻夏は目線で暁鴉に指示を仰ぐ。すると暁鴉が無言で頷いたので、鴻夏は意を決して立ち上がった。
「お妃様…いけませんっ!」
慌てて暁刃が止めようとするが、鴻夏は意志の強い目でそれを制する。そして暁刃を安心させるかのように微笑むとこう答えた。
「大丈夫です。一人ではありませんし、どの道交渉は避けられませんもの。…私が貴方がたを護ります。貴方がたはここで待っていてください」
「お妃様…っ、しかし…!」
慌てて止めようとした暁刃達を目線で制し、鴻夏は力強く命令する。
「無駄死には許しません。私達は全員生きて帰るのです!そのためにも貴方がたは、大人しくここで待っていなさい」
「お…お妃様…」
もはやそれに答えようともせず、鴻夏は真っ直ぐ前を見据えた。そして暁鴉のみを伴い、唯一の出入り口である鉄格子の前に立つ。
ギギィ…と鉄が軋む音がして、鉄格子の扉がゆっくりと開いた。
「…早く出ろ。殿下がお待ちだ」
再度男に促され、鴻夏は静かに扉を潜る。
続いて暁鴉も無言で潜り抜け、二人が大人しく牢の外に出ると、再び扉がガシャンと大きな音を立てて閉じられた。
そして扉の外では、すでに抜剣した十名ほどの男達が、扉を取り囲むように待機していて、すぐさま鴻夏達に切っ先を向けてくる。
「付いて来い」
短く男達にそう命令され、鴻夏は暁鴉と共に歩き出した。その背中に向かって、暁刃達の悲痛な叫びが牢に木霊する。
「お…お妃様…!」
ガシャンと背後で、鉄格子に何かがぶつかる音が響く。おそらく暁刃達が、鉄格子に取り縋っているのだろうと思ったが、敢えて鴻夏は振り向かずにそのまま歩き続けた。
「お妃様…っ、お妃様…ぁ!」
哀しげな声に背を向けながら、鴻夏は僅かに震える手を強く握り締める。
それを見て、そっと暁鴉が声を掛けてきた。
「…大丈夫だよ、鴻夏様。あんたは必ずあたしが護る」
「ええ、暁鴉…でも約束して?無茶は絶対にしないで。貴女も私と共に無事に帰るのよ」
後ろに立つ暁鴉に視線をやりながら、鴻夏は静かにそう答えた。まるで自分の命に代えても護ろうと決めていた、暁鴉の気持ちを読んだかのような台詞にハッとして鴻夏を見返すと、キラキラとした金の瞳が暁鴉を射抜く。
「…わかったわね?貴女が私の『影』になった時点で、貴女の命も私のもの。勝手に捨てるなんて許さないわ」
「…鴻夏様…」
ゆらりと再び鴻夏の周りに、朱金の焔のようなオーラが立ち昇った。
まるで伝説の鳳凰が翼を広げたかのような錯覚に陥り、暁鴉は思わず鴻夏を見返す。
後の世に『風嘉の紅凰』としてその名を残す鴻夏が、今ゆっくりと本来の姿に目覚めようとしていた。
続く




