ー風嘉の後宮事情ー
どこまでも続く青空と白い石畳に白壁で統一された美しい街。
その中を更に網目のように水路が走り、黒塗りの小舟が静かに行き交う。
広場には色とりどりの天幕が立ち並び、あちこちに設けられた噴水には、溢れんばかりに湛えられた水が虹の弧を描いている。
ここは水の都の名で知られる、風嘉の皇都『白瑤』。
その都の中心にある皇城『白瑤城』の際奥に、鴻夏の暮らす後宮がある。
現皇帝は、未曾有の大乱を鎮めた『風嘉の英雄』璉瀏帝。
人気、実力共に歴代随一とも言われる皇帝であったが、正直かなりの変わり者であるのは間違いなかった。
何しろ後継問題が楽だからという理由だけで、本来の性別が男である鴻夏に対し、契約結婚を持ちかけ、本当に正妃に据えてしまうような男である。
だからそんな男の後宮が当然普通であるわけもなく、璉瀏帝の後宮は常識を遥かに超えている場所だと、鴻夏は結婚一日目からしみじみと実感したのであった。
「鴻夏様ぁ!遊ぼうよぉ!」
そう言った声と共に、突然自室の天井から幾人かの子供が降ってくる。
そして部屋の扉の方からも、更にわらわらと何人かの子供が現れ、鴻夏はあっという間にたくさんの子供達に囲まれてしまった。
それに対し鴻夏は慣れた様子で、普通の街娘のようにこう怒鳴る。
「ちょっと貴方達!ちゃんと扉を叩いて、私が返事をしてから入って来なさいって言ったでしょ!」
「えーでもぉ…待ってられなかったんだもの。ねぇ、それより遊ぼうよ〜!」
足元に幾人かの子供が縋りつき、無邪気に鴻夏におねだりをする。
それを見て、しょうがないなぁと言わんばかりに鴻夏はこう返事をした。
「…わかったわよ。でも少しだけよ?私もこう見えて忙しいんだからね」
「やったぁ!じゃあ、行こ行こ」
ぐいぐいと両手を引かれ、鴻夏は子供達と共にそのまま後宮の廊下に出る。
するとそこには、忙しそうに働く女官達と警護をする後宮付きの騎士らが居て、鴻夏達に気が付くと和やかにその様子を見守っていた。
「あらまぁ…すみません、鴻夏様。うちの子達がまた無理に誘いましたか…」
幾人かの女官達が、申し訳なさそうに通り過ぎる鴻夏にそう尋ねる。
それに対し鴻夏はニッコリ明るく笑うと、素直にこう返答した。
「あ、ええ…でも気にしないで?私も結構楽しんでいるから」
「そーだよぉ。鴻夏様は俺らと友達なんだからいいんだよ!」
『そうだ、そうだ』と更に幾人かの子供達が賛同する。
明らかに自分も同レベルと思われてるよなぁとは思ったが、実際に子供達と遊ぶのはそう嫌いではなかったので、鴻夏は一つ溜め息をついただけで、すぐに気持ちを切り替えた。
「今日は何して遊ぶの?」
そう鴻夏が聞くと、子供達が口を揃えてこう答える。
「隠れんぼ!範囲はこの後宮の中 全部ね」
「あ、でもねぇ、屋根の上とか塀の上はダメだって。危ないからってさっき叱られた」
そう無邪気に普通でない事を答える子供達に、鴻夏は盛大に溜め息をつく。
そして腰を屈め子供達と視線を合わせると、右手の人差し指をスッと立てて、諭すようにこう告げた。
「当たり前でしょ。皆が皆、忍の修行をしているわけじゃないんだからね?ここには騎士の子も居るんだから、ちゃんと普通の人でも探せる場所に隠れて頂戴。私もとてもじゃないけど、そんなとこは探せないわ」
そう注意すると、『はぁ〜い』と子供達が素直に返事をする。
それを確認し、鴻夏はよし!とばかりにこう告げた。
「じゃあ鬼を決めましょうか」
そう言った鴻夏に対し、子供達が陰でニヤリと悪魔の笑みを浮かべる。
鴻夏がハメられたと気付いたのは、自分が鬼に選ばれた後だった。
「もー…どこまで行ったのよぉ?」
泣きそうになりながら、鴻夏がぼやく。
『範囲はこの後宮の中 全部』と子供達に言われた時点で、すぐその事に気付くべきだったと鴻夏は思う。
正直どこの皇城も後宮は広い。
後宮だけで、千人以上の寵妃とその世話をする人間が暮らす事もあるのだ。
庭まで含めると、その範囲は恐ろしく広い。
だからその中からたった十数名の子供達を見つける事は、実はかなり至難の業だった。
実際先程から三十分以上こうして探しているが、人っ子一人見つからない。
どうしたものかと鴻夏が途方に暮れ始めていると、突然後ろからのんびりとした声が聞こえてきた。
「おやおや、苦戦しているみたいですね」
「璉っ⁉︎あ、ここってもしかして璉の執務室の近く?」
キョロキョロと慌てて周りを確認すると、璉こと璉瀏帝が鴻夏を見下ろしながら、穏やかにこう答える。
「…そうですよ。子供達の相手ですか?」
「そうなのよ…。隠れんぼに誘われて、さっきからずっと子供達を探してるんだけど、全然見つからなくて…。まさかこんな所まで来ちゃってたとは思わなかったわ」
ハァッと鴻夏が盛大に溜め息をつくと、璉がくすくすと笑いながらこう告げる。
「随分と懐かれましたねぇ…。あの子達もあれでなかなか気難しいはずなんですが、鴻夏の事はかなり気に入ってるみたいですね」
「そうなの?私には最初からあんな感じだったわよ?だって初めて会った時だって、いきなり天井から降ってきたのと、扉から突入してきたのとに揉みくちゃにされたわよ?」
そう鴻夏がボヤくと、璉が穏やかに微笑みながらこう答える。
「…それは貴女だったからでしょうね。あの子達は気に入らない相手だったら、姿も現しませんよ?あれでも半分は忍の端くれ、残り半分は騎士見習いですからね」
そう言うと璉は疲れ切ってヘタリ込む鴻夏の手を取り、そのまま自らの執務室へと誘う。
中には宰相の崋 黎鵞と内政官の湟 牽蓮が居たが、鴻夏を連れた璉が入ってくると、すぐさま二人に向かって丁寧に一礼をした。
「これはこれは鴻夏様…。こんな所までお出ましとはお珍しいですね」
そう言って、巷ではその人間離れした美しさから『氷の宰相』とまで呼ばれる黎鵞が、気さくに声をかけてくる。
相変わらず妖精のように美しいその容姿に、ついつい見惚れてしまいながら、鴻夏は少し気まずそうにこう答えた。
「お仕事の邪魔をしちゃってごめんなさい、黎鵞…。子供達と隠れんぼをしていたのだけれど、全然見つからなくて…。気がついたらこんな所まで来ちゃってたわ」
「別に構いませんよ。ちょうど休憩を取ろうかと思っていたところですし…。牽蓮!鴻夏様にお茶でもお出ししてください」
そう黎鵞が告げると、牽蓮は書類を書く手を止め、はいはいと溜め息混じりに席を立ち、お茶を淹れる為に隣室へ移動しようとする。
それを見かけた鴻夏は、その背中に向かって慌ててこう声をかけた。
「あの…っ、牽蓮?無理しなくてもいいのよ。私が勝手に押しかけちゃったんだから」
「…ああ、別に構いませんよ。それより適当にその辺に掛けていてください。今お茶を淹れますんで…」
慣れた様子でそう言うと、牽蓮はそのまま隣室へと姿を消す。
それを困ったように眺めていると、璉が鴻夏に対し穏やかに声を掛けてきた。
「とりあえず掛けたらどうです、鴻夏?」
「で…でも、私まだ子供達と隠れんぼの最中で…。しかも誰も見つけれてないんだけど…」
オロオロとそう答える鴻夏に対し、璉は余裕の表情でこう告げる。
「…大丈夫。特に何もしなくても、すぐ見つかりますよ」
「え…?」
「とりあえず貴女は、ここに座ってお茶でも飲んでいればいいんです。そうしたら子供達の方から勝手にやってきますよ」
意味深にそう告げると、璉は戸惑う鴻夏をそのまま椅子に座らせる。
そして意味が分からず、不安そうに璉を見つめる鴻夏に、同じように黎鵞もこう答えた。
「大丈夫ですよ、鴻夏様。私も璉と同じ考えです。…時には敢えて引いてみるのも、手ですよ」
フフッと珍しく悪戯っぽい笑みを見せると、黎鵞も優雅に鴻夏の正面の席に座る。
するとそこに牽蓮が、タイミングよくお茶を持って現れ、丁寧にそれを卓に並べた。
「それでは暫し休憩って事で。あ、お茶受けに何かお菓子でも頂いてきましょうか?」
愛想良く牽蓮がそう言うと、璉がニッコリ笑ってこう答える。
「そうですね…。多分もうすぐたくさんのお客様がいらっしゃると思うので、侍女に知らせて多めに運んでいただいてください」
「…え、お客様?それじゃ私がここに居たらお邪魔なんじゃ…」
そう言いながら鴻夏が焦って席を立とうとすると、スッと璉が卓の上の鴻夏の手を抑え、こう告げた。
「…いえ、貴女はここに居てください。大丈夫、格式ばった方々ではありませんよ」
「で…でも…」
オロオロとする鴻夏に対し、璉はニッコリと微笑むと、それっきり何も言わず鴻夏にそのまま席に着くよう無言で促した。
さすがに現皇帝にそう足止めされては、鴻夏も席を外す事は出来ず、仕方なくもう一度椅子に座り直す。
けれどいつ来客があるかもわからない状況では、どうしても落ち着く事は出来ず、鴻夏はそわそわと何度も出入り口付近に目をやり、その様子を伺ってしまっていた。
しかし璉の言っていたお客様達は、ちょうどお菓子が届いた頃に、突然思いもしない形で登場したのである。
「あ〜っ!鴻夏様だけずっる〜い!」
そういう元気な声がすると、部屋の天井と入り口から一斉に子供達が現れる。
突然の事にびっくりして固る鴻夏を尻目に、璉と黎鵞はそれを予測していたかのように、まったく動じる事なくこう告げた。
「…来ましたね。ちゃんと君達の分もありますよ。まずは手を洗っていらっしゃい」
と優しく璉が言うと、続けて黎鵞がピシャリと子供達を叱った。
「こらっ!陛下の部屋に、許しも得ず勝手に入るとは何事です!主人に対してどう振る舞うべきか、ちゃんと習っているでしょう」
「…はぁ〜い、黎鵞様ごめんなさ〜い…」
ショボンとしながら子供達が謝ると、黎鵞は溜め息をつきつつも、続けてこう呟く。
「わかればいいんです。次からはちゃんとするんですよ?…それより、せっかくの陛下ご厚意です。早く手を洗っていらっしゃい」
そう言われた途端、パァッと子供達が輝くような笑顔を見せる。
そして先を争うように、全員がバタバタと手を洗いに走っていった。
それを呆然と見つめながら、鴻夏がポツリとこう呟く。
「…嘘…ホントにお茶飲んでるだけで、全員が来ちゃった…。何で皆がここに来るってわかったの?」
そう璉に尋ねると、彼はニッコリと微笑みながら、事も無げにこう答えた。
「簡単ですよ。貴女がここに居たからです」
「え?」
「…子供達は貴女が大好きなんですよ。だから少しでも長く一緒に遊んで欲しくて、わざと姿を隠して貴女の後ろを付いて歩いてたんです。だから貴女がどれだけ探しても、一人も見つからなかったんですよ」
「えっ、私を付けて歩いてたの⁉︎」
驚いて鴻夏がそう尋ねると、璉は微笑みながら頷き、こう付け加える。
「だから言ったでしょう?見た目は子供でも半分は忍の端くれ、残り半分は騎士見習いですからね。そのくらい朝飯前ですよ」
そう言われ、改めてこの後宮に居るのはただの子供達じゃなかったと、鴻夏は思ったのだった。
そしてその夜、いつものように夕食を摂るため暁鴉を連れて後宮の大広間に入った鴻夏は、すでにその場に集まっていたたくさんの人々に、次々と声を掛けられる。
「あ、鴻夏様だ!」
「鴻夏様、お先に頂いてます」
「鴻夏様〜、今日のシチュー美味しいよ!」
ワイワイ、ガヤガヤとまるで下街の食堂のような喧騒の中、鴻夏もにこやかに返答をしながら各卓の間を通り過ぎる。
今この場で食事をしているのは、この後宮に住み込みで勤める女官や侍女達、あと交代で食事を摂りにきた忍や後宮付きの騎士達、そしてそれら後宮勤めの者達の家族であった。
これも璉が皇帝になってからだそうだが、どうせ無駄に部屋が余っているのだからと、彼は大胆にも皇帝の私的空間であり、男子禁制であるべき後宮を完全開放した。
そして後宮勤めをする者のうち、家族と一緒に住み込みを希望する者のための宿舎 兼 忍達の生活拠点、更には一部官僚および当直の騎士達ための休憩所として使い始めたのだ。
かくして鴻夏が後宮に入った時には、確かに妃は一人も居なかったが、何故か子供から老人に至るまで、百人以上の同居人が居るという大変な状態になっていた。
おまけに財政難から人手を絞った関係上、まるで兵舎のようにそこに住む者達の間で食事や掃除、洗濯などの当番が回っている。
もちろん専属の宮廷料理人も居るが、その補佐や給仕を行う者はすべてここに暮らす者達で、献立も皇帝である璉以下、全員が同じ物を同じ卓で同じように頂く形になっていた。
そのため大胆な事に、皇帝である璉に毒見役は存在しない。
もし毒を盛られたのなら、それはそれで仕方ないと言って、璉自身が廃止したと聞いた。
もちろん毒見役が居なくても、この後宮に仕える者の中に、彼に毒を盛ろうとする者は一人も居ない。
何故ならこの後宮勤めの者達の大半が、先の大乱で働き盛りの夫や妻を亡くし、幼い子供や介護を必要とする老人を一人で抱えて、明日の暮らしにも困っていたからだ。
璉は皇帝の座に就くや否や、大胆にも若く美しい女官達に暇を出し、また生活に心配がない騎士達をすべて後宮務めの任から外した。
そしてその代わりとして、家族を亡くして生活に困っている者達を、優先的に後宮に雇い入れたのだ。
またそれと同時に、璉は後宮内に託児所や介護施設、診療所や学問所なども設け、後宮で働く者達が自分の家族を預けて安心して働けるよう、職場環境の整備も行なった。
その結果、日々の生活すらままならなくなっていた彼等は、家族を預けながら安心して働ける職場と住み心地の良い住居とを、二つ同時に手に入れる事が出来たのだ。
そのため彼等は璉に多大な感謝こそすれ、恨むような動機など何一つない。
また先帝の時代まで使い捨て同然の扱いを受け、生活拠点すらなかった忍達についても、璉は自分の大事な部下達だからと、この後宮の一員として暖かく迎え入れた。
それによって今まで自国にすら居場所がなかった彼等は、生まれて初めて『家』と呼べる帰るべき場所を手に入れたのだ。
そのためこの後宮には、現役の忍を含め現在修行中の忍見習いの子供達など、実にたくさんの忍達が普通に生活をしている。
また忍達が常時 後宮内に滞在するようになってから、璉は思い切って後宮警護の任に就く騎士の数を大幅に減らした。
そうやって抜け目なく経費の削減を行う事で、その分を後宮内の学問所の講師代や診療所の薬代などの必要経費に回している。
かくしてかつて皇帝の気を引くために、たくさんの寵姫達がその美しさと優雅さを競い合っていた場所は、たくさんの薹の立った主婦女官と少数の騎士、そして忍とが共同で働きながら生活する、まるで一つの村か合宿所のような場所へと変貌してしまったのだ。
だからここでは、騎士や女官の子供達と忍の子供達とが、遊び仲間として普通に後宮の庭で遊んでいる。
その結果、今日のような『屋根や塀の上に隠れるのは禁止』などという通常では有り得ない規制の隠れんぼが成立したりするのだ。
そしてこの常識では有り得ない環境に、最初こそ驚いていた鴻夏も、二日もすればあまり気にならなくなり、璉に嫁いでもうすぐ一ヶ月が経とうとしている今は、もはやこれが通常になってしまった。
ここまでくると、逆に静かで優雅な場所ではかえって落ち着けないような気もしてくる。
そして賑やかで常に笑顔が溢れるこの場所を、何だかんだで鴻夏も気に入っていた。
だから異国から一人で嫁いできて、誰も知り合いが居なかったにも関わらず、鴻夏はあまり寂しいとか辛いとか思った事がない。
鴻夏の夫である璉は、朝から晩まで政務に追われ、毎日後宮に戻ってくるのは深夜という状況だったが、それでもこの特殊な環境のおかげか、大変だなと思うくらいで大して気にもならなかった。
それにここは兵舎のように食事が出来る時間が決まっているため、どんなに忙しくても璉も必ずこの場所に食事を摂りにやって来る。
だから鴻夏はここで待ってさえいれば、必ず日に三度は璉に会える状況だった。
そしてそれは他の者達にしても同じで、他国の皇帝と違い、璉はこの後宮で働く者達にとっては、かなり近しい存在である。
だから風嘉に来るまで、何故 璉が『影』である嘉魄や總糜らと親しげに卓を共にするのかがとても不思議であったが、ここではそれは当たり前の事で、例え忍であろうとも気の合う者同士が気軽に同じ席に着き、自由に語り合いながら食事を共にするのが常だった。
それは泰こと泰瀏皇子も同じで、そのお陰からか普通は孤立してしまいそうな生まれなのに、意外と皆に好かれ大事にされている。
今も嘉魄、燠妃らと共に、先に席に着いていた泰は、広間に入ってきた鴻夏を見付けると、満面の笑みで手を挙げた。
それに対し、鴻夏もにこやかに手を振り返しながら、ゆっくりとその卓へと歩み寄る。
「私と暁鴉も同席していいかしら?」
卓に着くなり鴻夏がそう尋ねると、『もちろん』とこの素直で可愛い皇子は、快く了承してくれる。
璉と同じ色の髪と瞳を持つこの皇子は、妖精のように美しかった先の皇后の血を色濃く受け継いでおり、黙って座っていれば少年というより可愛らしい少女にしか見えなかった。
また幼くして、両親を国民に惨殺されるという哀しい過去を持ちながらも、彼は実に明るく健気に生きている。
もちろんそれは一人残された彼を手元に引き取り、愛情深く育てている璉自身に依るところも大きいが、彼自身が持って生まれた気質と魅力に依るものもとても大きかった。
確かまだ十歳だと聞いているが、さすがは璉の甥というべきか…その優秀さはすでに目を見張るものがあるとの事で、彼なら必ず立派に璉の後を継いでくれるだろうと、すでに皇城内ではまことしやかにそう囁かれていた。
しかしそうは言っても、そこはまだ十歳の少年である。
今 彼は大好きな鴻夏と食事が出来るのが嬉しくて堪らず、ニコニコと満面の笑みを浮かべながら、今日あった出来事を事細かに鴻夏に報告してくれていた。
そうしていると本当に普通の少年のようで、鴻夏は弟の凛鵜皇子と過ごしていた時のように、心が穏やかになっていくのを感じる。
つい食事そっちのけで泰と楽しく話し込んでいると、ふいに鴻夏の背後が大きくざわつくのを感じた。
何事だろうと振り返ろうとする鴻夏の目に、先程 鴻夏を見つけた時より、更に輝くような笑顔で、正面に座る泰が席から立ち上がる。
そして彼の口から、聞き慣れた男の名が漏れるのを鴻夏の耳はしっかりと捉えていた。
「璉…っ!」
泰が嬉しそうにそう叫ぶと、それと同じくしてワッと周囲が盛り上がる。
「陛下、黎鵞様!お待ちしておりましたよ」
「遅いよ、主〜!食事時間が終わっちゃうじゃんかよ?」
「陛下、お先に頂かせてもらいました。それでは今より警護の任に戻ります!」
などと次々とたくさんの人々から声がかけられ、人だかりの中を相変わらずにこやかに鴻夏の夫である璉こと璉瀏帝と『氷の宰相』の異名を取る崋 黎鵞が現れる。
更にその後ろからは、内政官の湟 牽蓮と黎鵞の専属の『影』である總糜も現れ、大広間内は一気に盛り上がった。
その姿をドキドキして眺めながら、鴻夏は璉から目が離せない。
今日は昼間にも執務室で会ったばかりだというのに、鴻夏は璉に会う度に自らの心臓が早鐘を打つのを止められなかった。
そしてそんな鴻夏の耳に、隣に座る暁鴉の呟きが聞こえてくる。
「あ〜…やっぱり主の登場かぁ。相変わらず人気者だねぇ、鴻夏様の旦那は。まぁ皆、主の事が大好きだから仕方ないけどね」
そう暁鴉に言われ、鴻夏も素直にこう呟く。
「…本当に人気者よねぇ…。今でも何で私があの人と結婚出来たのかと不思議に思うわ」
「あれ、珍しく弱気発言だね。でもあたしらから見たら、主が鴻夏様を選んだってのは、結構納得なんだけどね…?」
ニヤリとそう言って意味深に笑う暁鴉に、鴻夏が思わず喰いついてくる。
「…え、何?それどういう事??」
「そっかぁ。意外とこういうのは、本人達の方が気付かないもんなのか」
「ちょっと暁鴉?何なの、教えてよ?」
そう言って鴻夏が答えを迫るが、暁鴉はニヤニヤ笑うだけで何も教えてくれない。
そしてただ一言、『ま、鴻夏様はそのまんまがいいって事さ』とだけ言って、それっきりだんまりを決め込まれてしまった。
それに対し、何とか口を割らせようと更に何かを言いかけた鴻夏は、突然背後からふわりと誰かに抱きしめられドキリとする。
そしてそんな鴻夏の目の前に、サラリと見覚えのある亜麻色の髪が降りてきて、続いて聞き覚えのある優しい声が耳に響いた。
「何だか楽しそうですねぇ…。何の話をしてるんです?」
「れ…璉っ⁉︎」
「はい、こんばんは鴻夏。もう夕食は済ませてしまいましたか?」
ニッコリと笑顔でそう答えるのは、鴻夏の夫である璉だった。
暁鴉に気を取られている間に、いつの間にか鴻夏の背後にまで来ていたらしい。
突然の璉の登場に、真っ赤になって焦りまくる鴻夏だったが、璉の方はというと相変わらず特に気にした風もなく、そのまま鴻夏の左手を取りその甲に挨拶がてら軽く口付ける。
するとすかさず璉の背後から、聞き覚えのある声での突っ込みが入った。
「お〜、熱っついねぇ。主はホント嫁さんの事が好きだよなぁ」
「いえいえ、總糜には負けますよ?總糜だったら黎鵞に対して、この程度の挨拶じゃ済まないでしょう」
すかさず冷やかしてきた總糜に対し、璉は笑顔のまま余裕で躱すと、真っ赤になって固まる鴻夏からするりと離れた。
そして側に駆け寄ってきた泰の頭を撫でながら、にこやかに何かを話し始める。
それをどこか夢見心地で眺めながら、鴻夏は璉が自分から離れてしまった事を少し残念に思っていた。
確かに璉に触られると、毎回心臓が壊れそうなほどドキドキしてしまうが、別にその行為自体が嫌なわけではない。
むしろもっと触られたいというか、もう少しくっついていたいというか…上手く言えないがもっと璉の側に居たいと思ってしまう。
璉の独特の相手を包み込むような雰囲気が心地良くて、つい甘えたくなってしまうのだ。
そう思いながらも、一応これでも自分は男なので、女々しい事は重々わかっている。
だが生まれた時から女として育てられてきたせいか、どうにも精神的には乙女思考が強いようで、先程のような事をされると、ついときめいてしまうのを止められない。
『これというのも、あの人が天然タラシなのがいけないのよ…!こっちの気も知らないで、流れるように自然に触ってきて、そのくせ妙にあっさり引いてくれちゃったり…。こっちはその度に死にそうな目に遭ってるってのに何なの、あの人?なんであんなに手慣れてるのよ。一体どれだけ経験豊富なのよ⁉︎』
思わず本音と動揺が入り混じる中、それが顔に出ていたのか、小声で暁鴉と總糜が声をかけてくる。
「あー…鴻夏様?一応言っとくけど、主のあれはわざとじゃないからね…?」
「そうそう、主の場合は無意識でやってるだけなんで、計算とか一切ないっすからね?」
「…知ってるわよ!もう、ホント何であの人って、ああなのよ?天然にしてもタチが悪過ぎると思わないっ⁉︎」
そう鴻夏がボヤくと、それは確かに否定出来ないとばかりに暁鴉と總糜が黙り込む。
そして更に文句を続けようとした鴻夏に対し、珍しく黎鵞がこう口を挟んだ。
「…鴻夏様、それが璉という男の魅力の一つですよ。彼にとってはあくまでも無自覚の行為ですので、我々も止めようがございません。もはや諦めて、慣れていただくしか手はございませんね」
「ちょっ…黎鵞?風嘉一の知恵者の貴方から、そういう助言ってアリなの⁉︎」
そう鴻夏が突っ込むと、しれっとした表情で黎鵞が答える。
「…私の事を過大評価下さるのは有難い事ですが、いかに私でも璉は操作しきれません。だからこそ彼は大物なのですよ」
納得出来たような、出来なかったような微妙な気持ちになりながら、鴻夏は深い深い溜め息をついたのだった。
そしてその夜、珍しく仕事がひと段落ついたからと、璉は夕食の後、そのまま鴻夏と共に後宮内の自室に戻ってきていた。
結婚して以来、不在の間に停滞しまくっていた公務の後始末に追われ、璉は早朝から深夜まで後宮に居ない事が多く、鴻夏はほぼ毎日食事の時ぐらいしかまともに会えない日々が続いていた。
その為いつもだったら、夕食の後に一時間ほど泰と過ごし、あとは風呂に浸かってのんびりした後、眠くなるまで自室の寝台で本などを読んで過ごしていたのだが、いざこうして同じ空間に璉が居ると、もはやどうしていいのかわからず、無駄に緊張して長椅子に座っている。
一方 璉の方はというと、そうして緊張しまくっている鴻夏を横目で見つつ、くすりと密かに笑うと、わざと鴻夏の様子に気付かない振りをしてこう声をかけた。
「…そう言えば、今日は確か満月でしたね。まだ眠くないようなら、少し後宮の庭でも歩いてきますか?」
「え…っ、いいの?璉、疲れてるんじゃ…」
「別に散歩ぐらい大した事ありませんよ」
そう言って穏やかに笑うと、璉が鴻夏に向かって手を差し伸べる。
その手におずおずと鴻夏が自らの手を重ねると、璉は鴻夏の手を引き、そのまま先に立って部屋の外へと歩き出した。
そしてそんな璉の後姿を見ながら、鴻夏は誘われるままに、夜の後宮の庭へと進み出る。
青白い月明りの中、璉の長い亜麻色の髪が白く闇から浮かび上がり、キラキラと輝きながら夜風に靡いていた。
その幻想的な光景に、うっとりと見惚れながら歩いていると、いつの間にか鴻夏達は庭に設けられた小さな東屋まで到着する。
そこでようやく立ち止まった璉は、優しく鴻夏の肩を抱き寄せ、ゆっくりと目の前に広がる光景を鴻夏の前に披露した。
「…!綺麗…」
思わず鴻夏の口から感嘆の声が漏れる。
夜の闇の中、池の中に青白い月と満天の星空が映り込み、まるで宝石を散りばめたかのようにキラキラと輝きながら揺らめいていた。
隣にはこの闇の中でも、白く輝くように浮かび上がる璉の姿。
昼間とはまったく違った幻想的な光景に、鴻夏が思わず言葉を失うと、璉が穏やかな瞳で鴻夏に語りかけた。
「…なかなかに美しい光景でしょう?昼間とはまた違った趣があって、私はこれはこれで見応えがあると思います」
「え…ええ、私もそう思うわ。本当に綺麗…」
ボンヤリとしながらそう答えると、璉がふわりと優しく微笑む。
そして流れるように自然に鴻夏に顔を近付けると、あっという間にその口唇を奪った。
あまりにも鮮やか過ぎて、鴻夏が何の反応も出来ずにいると、そっと口唇を離した後に璉が悪戯っぽくこう囁く。
「…あんまり油断しないで下さいね。無抵抗だとこのまま調子に乗って、更に先に進めますよ…?」
そう言われた瞬間ハッと我に返った鴻夏は、慌ててその場から大きく後退った。
そして思わず右手で口元を押さえながら、真っ赤になって睨みつけると、璉はそれを楽しそうに眺めつつ、東屋の椅子に腰を下ろす。
「…ほら、もう何もしませんから、鴻夏もこっちに来ませんか?」
「あ、貴方ね…。か…勝手に手を出しておいて、今更そんな事言われても、信用できるわけないじゃない…っ!」
そう鴻夏に言われ、璉はくすくすと笑いながら実に楽しげにこう答える。
「あれ?自分の奥さんに手を出すのは、ダメなんですか?夫婦なんだから、何の問題もないと思いますけど…」
「そ…れはそうなんだけど、でも…その…」
何と言って反論すべきか悩んでいると、その隙に鴻夏は空いていた左腕を璉に取られ、強くその身体を引き寄せられる。
突然の事にバランスを大きく崩した鴻夏は、簡単に璉の腕の中に取り込まれ、そしてそのまま膝の上に乗せられてしまった。
「ちょ…っ、ちょっと璉⁉︎言ってる側から、何を…」
「まぁまぁ…たまには奥さんとのデートを楽しんでもいいじゃないですか。一応新婚なんだし、このくらいはいいでしょう…?」
そう言って鴻夏の身体を抱き締めながら、璉は何事もなかったかのように月を眺める。
全身で璉の温もりを感じながら、鴻夏は真っ赤になって俯いた。
先程から心臓が爆発しそうな勢いで脈打っていて、呑気に月を見ている余裕などない。
『何なの、この人…っ!何なのよ〜っ⁉︎一体何考えてんのよ?確かに契約結婚はしたけど、こういう事込みって意味だったの⁉︎』
そう思いながら鴻夏が一人混乱しまくっていると、突然闇の中から声が掛かった。
「主、嘉魄が捕らえました」
ビクッと鴻夏が焦って振り返ると、そこにはいつの間にか、自らの『影』を務める暁鴉が跪いていた。
それに対し、璉が涼やかな表情で答える。
「…ご苦労様、暁鴉。嘉魄にも後でお礼を言っておいて下さい。これでもう鼠は居ませんか?」
「はい。お寛ぎのところ、無粋な真似をして申し訳ありません」
そう暁鴉が謝ると、璉は静かに微笑みながらこう告げた。
「いいんですよ。君達にも怪我がなくて何よりです。ただ…ここまで入り込む手練が、増えてきているのが気になりますね…。今回はどこの者です?」
「…まだ確認はしておりませんが、おそらくは鳥漣の手の者かと…」
そう暁鴉が答えると、スゥッと一瞬にして自分を抱き締める男の雰囲気が、別人のものへと変化する。
それを肌で感じ、鴻夏がゾクリと身を震わせると、璉はひどく冷たい声でこう呟いた。
「鳥漣…ね。あの男、まだ『人形』集めを続けていると見える…。私の預かり知らぬところでやる分には構わないが、私の領域にまで手を出してくるとしたら話は別です。これからも続くようなら、一度痛い目に遭っていただく必要があるかもしれませんね…」
そう言った後 軽く目を閉じた璉は、すぐにまたいつもの璉へと戻るとニッコリと笑う。
「…すみません、鴻夏。庭に出てすぐ、鼠が入り込んでいる事に気付いたものですから、嘉魄と暁鴉に退治してもらってました。彼等の仕事が終わるまで、世間一般的な仲良し夫婦を演じてみてたんですけど、もしかして口付けも初めてでした?」
あっけらかんとそう聞かれ、鴻夏は思わずこう叫ぶ。
「は…っ?え、演技ぃっ⁉︎」
「はい。鴻夏は世間的には女性で、私の妃ですよね?しかもこんな美人の奥さん貰って、まったく手を出さない旦那もおかしいかと思いまして、口付けくらいならいいかなぁと思ってたんですけど…ダメでした?」
いっそ清々ほどの璉の態度に、さすがに鴻夏がブチ切れる。
そして感情のままに鴻夏はこう叫んでいた。
「は…初めてだったに決まってるじゃない、馬鹿っ!ど、どうせ貴方と違って経験なんてないわよ!何よ、演技って!ドキドキしてた私が馬鹿みたいじゃない!」
そう言われ、璉は一瞬キョトンとする。
けれどすぐにクスリと笑うと、膝の上で暴れ捲る鴻夏を捉え、艶っぽくこう尋ねた。
「…ドキドキして下さってたんですか?貴女の目から見て、ちゃんと私が魅力的に映っているのなら、嬉しいんですけど…」
「し…知らないわよ!何よ、もう離してよ!もう演技する必要もないんで…しょ…?」
真っ赤になって拗ねまくる鴻夏が、璉を見上げた時だった。
視界にふいに璉の亜麻色の髪が流れ、口唇に優しく何かが触れる感触があった。
再び口付けられているのだと気付いた時、鴻夏は慌てて璉を押し退けようとしたが、あっさりその手を封じられ、しかも逃げられないよう顎を捉えられる。
身動きすら取れないよう、がっちりと抱き込まれた鴻夏の口内を、入り込んだ璉の舌が思うがままに蹂躙する。
しばらくの間、璉に好きなように貪り尽くされた鴻夏は、抵抗らしい抵抗も出来ないまま、ガクリと身体の力が抜けるのを感じた。
そして完全に鴻夏の抵抗がなくなったのを確認したのか、璉の口唇がようやく離れる。
荒い息を吐き、上気した顔でボンヤリと宙を眺めている鴻夏を見下ろしながら、璉が艶っぽくこう囁いた。
「…演技が嫌だと言われたので、少々本気の口付けをしてみたんですけど、いかがです?これから先の行為もお望みなら、このままお相手しますけど…?」
耳元で囁かれた心地良い台詞の意味を理解した途端、急激に鴻夏に理性が戻ってきた。
そしてその焦りと共に、鴻夏は璉から逃れようと慌ててもがく。
「け…っ、結構です、結構ですっ!もういっぱいいっぱいなんで、とにかく離して!」
そう言われて、璉がおやと言った顔をする。
そしてくすくす笑いながらも、璉はあっさりと鴻夏の望み通りに解放してくれた。
「…そうですか。じゃあ今日はここまでにしときますが、気が向いたらいつでも言って下さいね…?妻の欲求を満足させるのも、夫の務めでしょうからね」
爽やかにすごい事を言われ、思わず鴻夏が焦り捲る。
「な…、ないですっ!絶対にないっ!」
「そうですかねぇ?意外と良さそうだったんですけど…」
「き、気のせいだからっ!」
真っ赤な顔で否定しまくる鴻夏の頬に、ゆっくりと手を伸ばしながら、璉が艶っぽい視線を投げる。
「…じゃあそういう事にしておいてあげますよ。でも…私以外の相手に、こんな事させちゃダメですよ…?」
「…わ、私にこんな事する物好きは、貴方くらいなものよ?そ、それに私だって、誰でもいいわけじゃ…」
そこまで言って、鴻夏はハッと慌てて自らの口を押さえた。
そしておそるおそる璉に視線を戻すと、意地悪く璉がニッコリと笑う。
「ふぅん…?誰でもいいわけじゃないんですね。それはそれは光栄ですよ、鴻夏」
「あ…その…別に手を出されたいとか、そういう意味じゃなくて…その…」
この気持ちを何と表現すべきかわからず、一生懸命それに見合うような言葉を探していると、その答えを待たずに璉がこう締め括る。
「…でも嫌じゃないんですよね?わかりました。それじゃ徐々に進めていきましょうか」
「え、いやそうじゃなくて…!」
「夫として、可愛い妻の期待には答えてさしあげないとね。大丈夫、貴女が本気で嫌がれば、ちゃんとそこで止めてあげますよ」
ニッコリと有無を言わさずそう告げると、璉は『そろそろ戻りましょう』と席を立った。
その姿を見ながら、鴻夏は思う。
こんな百戦錬磨のプロに本気で迫られたりしたら、抵抗なんて絶対無理だと。
さっきのですら、すでに理性が飛んで途中から訳がわからなくなっていた。
あれで『少々本気』なら、全力で落としに来られたら、自分などひとたまりもない…。
『何でこんな厄介な人と結婚しちゃったの、私…。人生の選択、間違えたかも…』
そう思いつつも、璉に微笑まれて手を差し伸べられると、迷わずその手を取ってしまう。
すでに結果が見えているような気がしながら、鴻夏が複雑な思いでいると、それに気づいていないのか呑気に璉がこう聞いてきた。
「それじゃあ、戻りましょうか。あ、ついでにこの後、一緒にお風呂も入ります?」
「は…入りません…っ!」
真っ赤になって即答したものの、この天然タラシの夫にうっかりいただかれてしまうのは、そう遠くない日のような気がしていた。
続く